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悠遠の旅空に~半神のバックパッカー~  作者: ビール汁
フォルティス大陸東部――シュケル国
63/76

62話 顕現するは光の化身

 風が吹き、煌めく砂塵が舞っていた。

 燦然と輝く粒は、至極の宝石のよう。絶望の中に見る一筋の光にしては、あまりに力強かった。憂いなど、泡沫の如く消えていくものだと思わされる、人智を越えた荘厳な光だ。


 その光が宙で踊りながら、羽根のような軽さで降りてくる。

 肌に触れると、雪のように溶け、身体に浸透していった。

 失った筈の四肢の先から、じんわりとした熱が灯る。

 突如、天に召されるような浮遊感が訪れた。そして凍えた心と身体を抱き締められているような深い安堵感が、腹の底から芽吹いていった。萎れた草花に、彩りが与えられる生命の息吹きだ。


 ――もう、大丈夫だから。


 聞き覚えのない声が、頭の中で響いた。

 慈愛に満ちた柔らかな声色に、不思議と懐かしさを覚える。縹緲(ひょうびょう)とした、この世ならぬ和らぎに、沈んだ心が引き上げられていく。


 ――絶対に助かるから。


 生きる価値のない玩具ならば助かる必要はない。しかし塵芥と断定された存在価値が覆されるように、喪失した全てのモノが還ってくる気配があった。これまで歩んできた道の全てを、肯定されるかのように、心が満たされる。


(なんだろう……とても……暖かい)


 得も言われぬ多幸感が全身を包み、夢見心地のリックスブリックスは胸の内で呟く。

 先程までの状況を考えれば有り得なかった。四肢を切断され、耐え難い暴行を受けていた筈なのに、これはどういうことだ、とリックスブリックス自身の腕に目をやった。


(て……手がある)


 握り締めてみると、以前に増して活力が滾っていた。

 そのまま視線を身体に移すと、抱き上げられているかのような高さで、宙に浮かんでいることに戸惑う。浮遊感ではなく、本当に浮いていた。加えて淡く発光もしている。

 なにより驚いたのは、失った足まで元に戻っていることではなく、有るはずの傷痕が消えていたことだった。


(浮いて……いる? 足が……そ、それに古傷が……消えて……)


 剣と銃弾に貫かれた昔の傷。

 リリアンヌという名の少女を、無惨な死に追いやってしまった罪が、赦されたように癒えていた。

 朽ち果てる最期の日まで背負った咎だ。それが癒えたということは、最期を迎えたということ。つまり死んだのだとリックスブリックスは思い至る。


(そうか……。ようやく罰が消えたのか。だから苦しみからも解放されて、こんなにも心地良い気分なのか。それに――)


 ふと視線を横に向けると、盾の男と槍の男が切迫しているような様子で、リックスブリックスに向けて武器を振っていた。


(武器を持った人間が怖くない。なんでこんなに安心感があるんだろう。やっぱり死んでしまったからなのか。これ以上、痛みがないと分かっているから……)


 その攻撃が当たる様子は皆無だ。寸前で軌道が逸れているようにも見えるが、ただ距離感が掴めずに空振りしているようでもある。


「な、なんだよこれはっ!」


 盾の男が叫び、焦燥感を募らせている。


「なんで当たらないっ!? なんで手足がっ!?」


 槍で突き刺そうとする男も同様だった。


「……ああ、なんて美しいのか」


 杖の男は膝を突き、手を組んだまま、金色に染まった空を仰いでいる。だらしなく弛緩させた表情は、恍惚としているようにも見えた。


「おい、ディラン! どうしてゴブリンの手足が治った。お前、ゴブリンに慈悲を与えたんじゃないだろうなっ!? 二度と治らないようにやらなかったのか!? それに何だあの光はっ!」


「何故……ゴブリンなぞに光神の加護が……。そ、そんな……どうして……我々、人間の守り神では……」


 槍の男から呼び掛けられた杖の男は、紅潮させた顔を青くさせる。盾の男は「話にならない」と舌打ちして、ディランと呼ばれた杖の男を蹴り飛ばした。


「いや、光神が魔物に加護を与えるわけがない……そうだよね? こんなのは明るいだけの光だ。何者か強化魔術か、幻術の類の魔術をかけているんだよ。もしくは魔道具(マジックアイテム)で身を守っているだけ……効果が切れてしまえば、こっちのものだ」


 盾の男は自身に言い聞かせるように吐き捨てた。


(……言っている意味が分からない。魂になっているから、攻撃が当たらないだけなのに。……いや、それよりも、なんで人間の言葉が滑らかに聞こえるんだろう)


 杖の男の変貌もさることながら、先程より人間の言葉の理解が深まっていることも不思議だった。この世に生を受けてから、初めて覚えたゴブリンの言葉のように、人間の言葉を最初から知っていたような感覚がある。


(もしかして天上の園(ニナ)で、言葉に困らないように、大聖霊様が授けてくれたのか? それとも死ぬと言葉の壁はなくなるのか?)


 淡く発光しているリックスブリックスは、八元素の重なりが見せる煌めきに包まれている。古くから行われていたとされる、弔いの儀式で見られる光に近い。

 しかし、今まで見てきた八元素の光とは、比類のない輝きだ。それに先程まで舞っていた光の粒は、ヒトの身では再現することができない穏やかで温かな光である。


 まさに全てを司る大聖霊の光。

 遠い昔の人々は、この光を敬拝してたのだと、リックスブリックスは身をもって知った。


(……言い伝えは……嘘じゃなかったのか。本当に……あったんだ)


 絶望していたのにも拘わらず、当たり前のように聖霊の教えを、すんなり受け入れていた。身に染み付いた風習は、簡単に忘れられるものではないのだろうか。それにこの現象は他に説明のしようがない。


(そういえば、俺の身体はどこにいったんだ。この冒険者が燃やしたとは思えないし)


 きょろきょろと辺りを探しても、自分の死体が見当たらない。

 遺体は荼毘(だび)され、魂の後を追うように、煙を空高く上げるのが習わしだった。


(ようやく終われたんだ、俺の肉体はどうでもいいか。それに天上で皆と会えるんだ。……だとしたら、あの女の子は楽しく過ごしているかな。……もう一度会えるかな。まだ生まれ変わってないかな。……あの時は上手く発音できなかったけど、今ならちゃんとリリアンヌって呼んであげられるのにな)


 天を仰ぎ、想いを馳せる。

 助けられなかった少女は、その短い生涯を終えて、空の向うで安寧を享受しているに違いない。

 身を包む純然たる魔素(マナ)が、天上とは穏やかなのだと思わせてくれる。触れているだけで、心が解きほぐれていくのだ。最期まで人を殺めなかった者だけが至れる、境地だとも思えた。


 しかし――いくら待ち続けても、僅に浮かんだまま、天に召される気配は訪れなかった。それどころか次第に高度は下がり、リックスブリックスは地に足をつける。

 親に抱き上げられた状態から、下ろされるような心遣いのある感覚だった。土の感触も確かな現実感がある。尾を引くように淡い光も、すうっと消えていく。


「……おい、ジェイル。このゴブリンから光が消えたぞ。今なら攻撃も通るんじゃないか」


 槍の男がにやりと口角を吊り上げる。


「ほらね、魔物なんかに光神の加護は与えられないんだ」


 ジェイルと呼ばれた盾の男は、ほくそ笑みながら剣を振り上げた。


「俺はもう……死んだんだ。なのに、まだ満足してくれないのか。どれだけのゴブリンを殺せば、お前たちは気が済むんだ」


「く、このっ! いきなり流暢に喋りやがってッ! お前のどこが死んでいるんだ。ゴブリン風情が俺達を馬鹿にするなっ!」


 槍の男は激昂して、武器を振るう。

 しかしその槍はリックスブリックスに届かない。


「何故だっ! どうして当たらないっ! 誰か魔術をかけているのか!」


「こんなことはありえない……絶対にありえない。きっと誰が強力な物理障壁魔術をかけているんだ。……そ、そうだっ! 薄汚い闇人(ダークエルフ)と手を組んでいるのかもしれない。あの光る空だって奴らの仕業だ。もしもそうなら――」


 ジェイルは懐から、短銃を取り出した。

 リックスブリックスが撃たれたことのある銃に比べると、随分と小型化されてる、弾倉が回転するような構造だった。


「この銃に込められた弾丸は魔術障壁も物理障壁も貫通するからね。この意味が分かるかな? あはは……これはね、闇人(ダークエルフ)を撃ち破った人間の叡智が詰まった兵器ってことだよ」


「え……?」


 リックスブリックスは黙りこむ。

 無論、意味が分からなかったからだ。

 しかしその沈黙が、別の意味だと捉えられているのか、冒険者は不敵に笑う。


「あはは、怖くて声も出ないようだね。所詮は魔物の浅知恵だ、俺達人間に敵うはずがない。闇人(ダークエルフ)と組もうが、お前が玩具なのは変わりがないんだよ」


 ジェイルは引き金を引いた。

 直後には乾いた音が反響する。が、当然のように痛みはなく、弾丸はリックスブリックスの手前で霧散した。


「な、何故だっ!」


 憎らしげにジェイルは何度も引き金を引く。その度に回転式の弾倉が回った。

 それでも凶弾が届くことはない。

 硝煙が風に掻き消され、その場に残ったのは愕然とした表情を浮かべる冒険者だけ。言葉を忘れてしまったかのように立ち尽くしている。


「俺はもうすぐ天に召されるんだ。だから攻撃だって当たらない。……でも、その前に疫病をどうにかする。獣人の皆を助けないと。それに仲間だって……」


 いまだ地上にいるのは役割が残っているから。いや――心残りを大聖霊に見抜かれたのだ。

 そう考えればリックスブリックスは、心が落ち着かなかった。自分が天に召されないからではなく、大勢のヒトが死ぬのを見たくなかった。


「くくく、あははっ! ゴブリンが獣人を助けるだって!? お前がどんな力で守られていようが、フェアティアに蔓延るであろう疫病を癒せるはずがない。街をまるごと浄化する魔術でもなければ、防ぎようがないんだ! つまり不可能ってことだ。それにね、元から砲撃される予定だったんだ。それが疫病に切り替わっただけ。……ははは、ざまあみろ」


 怒りと嘲笑が入り混じった歪んだ表情は、悪足掻きでリックスブリックスを貶めようとしているからなのだろう。

 だとしても歩みを止める理由にはならない。たとえ全て助けられなくても――たった一人しか助けられなかったとしても、どこに迷う必要があるのだろうか。

 フェアティアなる街の位置は不明だ。しかし行かなければならないと、冒険者に背を向け走り出す。


 その瞬間、太陽が覆われたように、影が落ちた。

 遥か頭上から翼をはためかせる音が聞こえ、背後に何かが着地した音が、ずしりと鳴った。


「……なるほど、そういうことでしたか。あの停止した魔動船には、そのような役割もあったのですね。でも、無意味ですな。街は既に浄化……いえ予防されているので、ね」


「下衆が……度し難いな」


 振り向くと二人の背姿があった。

 突然現れたのは大柄の山羊の獣人と人間の少女だ。表情は窺えなくとも、その背中からは強い意志が感じられる。

 ただ、人間の少女はリックスブリックスに一瞥くれると、万感の思いを堪えるように肩を震わせる。しかし、すぐに凛とした表情に戻り、冒険者達を睨みつけた。


「私に……私達に任せてください。いいですね?」


「え……え……?」


 微かに見覚えのある顔だった。

 心臓が締め付けられるように苦しくなる。まさか、そんな筈はない。他人のそら似だろう。人間を外見だけで区別するのは、分かりにくいのだ。

 そう自分に言い聞かせても、あの少女のように見えてしまうのは何故なのか。呼吸が乱れ、唇が震えて、上手く言葉を紡げないのは、何故なのか。


「貴方がリックスブリックスさんですね。話には……というか、色々と見てしまったり、聞いたりしたので、初対面という感じがしませんが、はじめまして。俺はジョージと言います」


 さらに別の声が背後から聞こえた。

 着地音など聞こえなかった。本来の進行方向だった顔を戻すと、何時(いつ)の間にか微笑みを浮かべる黒髪の男がいる。


「――っ」


 言葉など発せようもなかった。

 外見は紛うことなき人間の男。しかしその慈愛に満ちた笑みは、ヒトの身では醸し出せるものではなかった。微かに漂う瑞々しい魔素(マナ)は、あの光の粒と同様のものだ。


「銃声がしましたが、怪我はありませんか? でも……もう大丈夫ですよ」


 慈しまれるようにリックスブリックスは手を握られる。

 それだけで全身を貫くような衝撃が走った。胸が熱くなり、心が歓喜している。

 先程、聞こえた幻聴と同じ声色だ。身を包んだ金色の光と、同じ力強さが伝わってくる。ならばこの人間の外見をした者こそが大聖霊様。大自然そのものが、人の身になって顕現した姿なのだと、直感が働く。


「あ、あの……俺はリックスブリックスで……あの、えっと」


 なにか喋らなければと口を動かすが、真っ白になった頭では何も出てこない。それでも大聖霊は、うんうんと静か頷き、聞き手に回っている。


「辛かったけど……ようやく苦しみから解放された。だから、俺は……その、天に召されますか?」


 ようやく口に出せたのは言質を取るような質問だった。いきなり超常の存在が現れて、リックスブリックスは混乱していた。

 そんなことを言われるとは思っていなかったのか、大聖霊も目を丸くしていた。しかし、すぐに穏和な笑みに戻る。


「それは……今は難しいですね」


「そ、そんな……どうして」


「だってリックスブリックスさんは生きていますから。ですから今は難しいですよ」


「お、俺は……生きてる?」


 思わず心臓に手を当てる。

 どくどくと、強い脈動が迸っていた。


「ええ、ちゃんと生きています。ですが……もしかしたら生きるのが辛かったかもしれません。死んだ方が良かったと、思っていたかもしれません。……それでも、もう少しだけ生きてみませんか? 辛いことばかりだったなら、きっとこれからは楽しいことが待っていますよ。それに――」


 大聖霊は照れるように頭を掻き、そして言葉を続けた。


「俺はリックスブリックスさんのような人が好きなんですよ。だから報われてほしいなって思うんです。でも、俺の我儘かもしれないですね……ごめんなさい」


「え、あ、いや……」


 悲しげに目を伏せる大聖霊に、リックスブリックスはまたしても混乱する。助けを求めるように視線を巡らせると、人間の少女と山羊の獣人は感極まったように、肩を震わせているのが見える。獣人からは間欠泉のような鼻息まで聞こえてきた。


 杖の男は唖然とした表情で、大聖霊を見つめていた。そして乞うように身体を丸めて、無言のまま祈っている。

 槍と盾の男は訝しむように大聖霊達を睨み、やがて納得したかのように、苛立たしげに口を開いた。


「おいおい、ノールズさんよ、さっきのはお前達の仕業だろう? まさか闇人(ダークエルフ)達と手を組んでいたとなは。それに魔物に障壁魔術をかけるとは……。はっ、異教徒共が」


「……」


 嘲笑う槍の男に、ノールズと呼ばれた少女は、口を開くこともなく、微動だにしない。


「へぇ、知らないうちに仲間を変えたんだね。その獣人はともかく、そこのジョージとか言う男は使い物になるの? ああ、もしかして、君の荷物持ちかな?」


 その言葉に歯軋りが聞こえた。

 ノールズは尚も動かないが、山羊の獣人は噴煙の予兆のように身体を震わせている。

 弱いゴブリンだからこそ窺える、果てしなく強い怒気だ。あの猫の獣人のように、すぐにでも飛び出しそうだった。


「おい、なんとか言えよノールズ」


「つくづく愚か者だな。私には下衆に語る口を持ち合わせていないが、ハリル殿ならどうするべきだと思う?」


 ため息は吐く少女は、冒険者を見向きもせずに、山羊の獣人に問い尋ねる。


「ふむ、拳で語ればよいのではないでしょうか」


「そうか……確かにそれが良いのかもしれないな」


 腰を落としたノールズは大地を蹴る。

 放たれた矢のように、一直線に飛び出し、槍の男の顔に拳を叩き込んだ。

 人間離れした一瞬の技だった。槍の男は吹き飛ばされ、大地に転がった。


「この程度では溜飲は下がらないな。やはり斬り捨てたいところだが……」


「お前……なんだその力は?」


 盾の男が口角泡を飛ばす。


「ほお、これがノールズさんの本当の力ですか。見事なものですな」


「いや、それほどでもないさ。本来の詠唱で首飾りを介し、強化魔術をかけていただけのこと。それにハリル殿の方が私より強いだろう」


 しかし盾の男など目に映っていないかのようなやり取りが、ノールズとハリルの間で行われてていた。

 盾の男の神経を逆撫でする行為だが、それを察するかのように大聖霊が割って入った。


「いや、まあ……俺はランク1の新人冒険者だから、彼らの評価も当然のものじゃないかな」


「え? ええ、確かにそうですが。あ、いえ……そうだが」


「それに新人だからこそ、身をもって学んでいきたいしね。あと……冒険者の暗黙の了解とかも、ね。……と、その前に聞きたいことがあるんですが」


 大聖霊に扮した人間――ジョージと名乗る光の化身は、ノールズ達の前に出て、ジェイルに尋ねる。


「貴方にとってゴブリンさんは魔物ですか?」


「ランク1の新人が何を言うかと思ったら……魔物以外に何があるんだよ。生きる価値がない、ただ討伐されるだけの害悪な存在だよ」


 盾の男は、それが事実であるかのように、堂々と答える。


「……ゴブリンさんを恨んでいるんですか? もしかしたら貴方には他人には打ち明けられないような、辛い思い出があるんじゃないですか。ゴブリンさんから、大切な人を傷つけられたりしたのでは? だから恨みを晴らすように虐げるんですよね?」


「……お前に何の関係があるんだ」


 ジェイルは窺うように答える。


「関係ないかもしれませんが、とても大切なことなので、教えてもらえたらな……と。そこまでゴブリンさん達を迫害するには、それ相応の理由があるのでは?」


 一瞬の沈黙が流れ、ジェイルは鼻を鳴らす。


「フンッ……俺の目の前で、妹がゴブリンに犯されたんだ。だから憎らしいし、滅ぼしてやりたいんだ。って言ったらどうするんだよ?」


 ジェイルは無表情で、淡々と語る。

 その姿に一同は口を噤んだ。リックスブリックスとて、理由が分かれば納得がいった。

 ゴブリン族の男が女を犯すとは思えない。しかし古い教えに背を向ける者がいないとは、絶対に言い切れない。

 だが、そんな沈黙を破るように、杖の男がジョージに縋る。


「そ、そんな過去は、ごごございませんよ。ジェイル……いえ、この男は趣味で、ゴブリンをいたぶっているのです。彼は三人兄弟の末っ子です。い、妹などおりません。へ、へへ、真実を語る私めに、どうか御慈悲を!」


 切羽詰まった表情でジョージに懺悔していた。

 この男だけが大聖霊の力を感じ取っているようだ。


「ディラン、お前っ!」


 激昂した盾の男は、杖の男を蹴り飛ばす。


「ちっ……ああ、そうだよ。特に理由なんてないし、ゴブリンを殺して何が悪いんだ。弱者の犠牲の上に強者が栄えるのは当然だろう。自然の摂理ってやつで、強者の特権だよ」


「……なんだ、そうなんですか。はあ……良かった。いえ、良くはないんですが、特に理由がなくて本当に……本当に良かった。復讐だったら、どうしようかと思ってましたから」


 ジョージは胸を撫で下ろすように深い吐息を漏らす。


「では、ここは先輩冒険者である貴方の意見を尊重しましょうか。……このゴブリンさんが魔物であると言うのなら、(・・・)がリックスブリックスさん達を貰っていきますね。……仕方がないですよね、魔物は誰のものでもないんですから」


 そう告げたジョージの声調が変わり、一人称まで変化していた。見えない氷壁で断絶されたかのような冷たさだった。


「それにこの世が弱肉強食だという主張も尊重しましょう。確かに自然の摂理と言えなくもないですからね。その枠に入って、摂理に従っているのなら、(・・・)には口出しできません」


「魔物を横取りするとは感心できないけど。……へぇ、尊重してくれるんだ。ま、自然の摂理だし、冒険者にとっての真理だからね」


「ええ、尊重しますよ。例えば草食獣が、肉食獣に襲われていても、可哀想だからという理由で、止めることはできないでしょう。肉食獣だって食わなければ、生きていけませんから。ですので――」


 ジョージはそこで言葉を区切り、熱を感じさせない冷たさで、諦観するように続ける。


「魔物だと主張する動物の群れから、無事に生還できるといいですね。……自然の摂理なら、手出しは無用でしょうし、口惜しいですが(・・・)には見守ることしかできないでしょう」


 そう告げた瞬間――森がざわざわと騒ぎだす。

 波打つように木々が揺れ、無数の猛獣達が顔を覗かせた。獲物を狙うかのように、体勢を低くして忍び寄っている。牙を剥き出しにして唸る姿は臨戦態勢だった。

 そして地鳴りのような足音が聞こえると、巨大な岩が近付いてくる。いや、岩ではなく、極大の体躯を誇る猪だった。その怪物じみた獣が、咆哮しながら突進していた。

 空を見上げれば複数の龍が舞っている。監視するかのように旋回していた。逃げ道はどこにもない。


「彼らには幾つかの容疑がありますし、疾駆蜥蜴(ラプトル)の乗り逃げという罪もあります。一日分の支払いしかせずに、帰って来なかったと、知人が嘆いていましたので……。しかし、文明の中で生きるのではなく、自然の摂理に従っているのなら、私もここで見守りましょう。査問にかけたいところですが、やむを得ないですな」


 ハリルは事の成り行きを見守るように、しげしげと冒険者を眺めていた。

 その間にも巨体の猪は突き進む。盾の男の前で急停止すると、食らいかからんと、鼻息を荒くしていた。


「ひ、ひぃっ! な、なんだこの、ば、化け物……。ノ、悪名高き魔物(ノートリアスモンスター)……か? これは、お、お前が操っているのか。お前は魔物使い……なのか」


 声を震わせるジェイルは尻餅をつき、大聖霊たるジョージに乞うように尋ねた。


「操っていませんし、この子達は愛らしい動物ですよ。……お願いすれば、落ち着いてくれるかもしれませんけどね」


「た、助けてくれ。そうお願いしてくれ……ください」


 ジェイルは猛獣に取り囲まれていた。幾重にも重なった唸り声だけで、冒険者の心を齧り取っていた。


「それは自然の摂理に背くのでは? それに貴方だって助けてくれと懇願するゴブリンに、耳を傾けなかったのではないでしょうか。それにこの子達も怒っているようですし、此所(ここ)に来るまでに動物達に何かしたのでは?」


 いくら強者と自称しても、たった三人で太刀打ちできる数ではないだろう。なにより冒険者の戦力はジェイルしかおらず、他の者は地に伏せている。


「い、生きたまま、食われるのは嫌だ。た、助けて……ください」


 懇願するジェイルからは、もはや強者の矜持が消えていた。意気消沈して、身体を恐怖で震わせている。心なしか股間が湿っているようにも見えた。


「助けるもなにも、判断するのは動物達ですよ。それが弱肉強食でしょう。貴方の掲げる強者の権利です……なんてね」


 ジョージが手を叩くと、張り詰めた空気が弛緩した。その直後、猛獣達は飼い主に甘えるように、身体をくねらせてジョージにまとわりつく。


「人間の味を覚えた動物の末路は分かりやすいですからね。それに貴方を食べたら、お腹も壊しそうです。……では、行きましょうか」


「ど、どこへ……ですか」


「シュケルの首都です。自然の摂理でないのなら、貴方がしたことは殺人……いや未遂ですか。それに他にも容疑があるようですし、その罪を国に問うてもらいましょうか。それに今の私達は邪魔者なんですよ、退散しましょう」


 リックスブリックスは意味ありげに微笑まれる。その意味を知るのは、大聖霊が去ってからだった。


 ノールズと呼ばれた少女だけが残っていた。その少女が振り向くと、堪えきれない涙を流しながら跪いた。


「ああ、リック……リックスブリックス様、私は……リリアンヌは貴方様にお礼が申し上げたかった。あの時は……ありがとうございました」


「リリアン……リリアンヌ……なのか? 本当に生きている……のか」


 喪った筈のモノが還ってくる。これは夢でないのかと思わずはいられなかった。しかし夢ではないと、はっきりと分かる。


「うう……リック……リック……」


 少女から抱き締められる。

 その瞳から流れた涙には、人の温もりがあった。

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