56話 解ける結び目
ある地域は恵まれた気候だった。凍死するほどの厳しさはなく、灼熱も日差しもない。住まう者達にとって、自然とは優しく包み込んでくれるもの。肥沃の大地は人々に恵みをもたらす有り難いものである。
知覚できない女神の存在は忘却の彼方に消え去り、自然崇拝を基盤とした聖霊信仰が深くなる。神獣が司る属性の力だけが一人歩きしていた。
聖霊信仰では森羅万象に、光、火、土、水、風、氷、雷、闇の聖なる力が宿ると考えられていた。とはいえ教祖や創始者はおらず、正典は存在しない。具体的も教えもない口頭伝承だが、自然や自然現象を敬う聖霊信仰では、どのような種族も自然の一部と考えられ、多種多様の者が共存していた。
しかし時の権力者の思惑が混じり、他勢力の侵攻まで加われば、聖霊信仰は別の宗教に飲み込まれた。
源流の教義に従う同化政策がとられ、教義に反した存在の種族は追い出され、徹底的に弾圧された。教義に属した者でも、従わなければ、悪しき心が分離した忌むべき存在として認定され、魔物の烙印を押された。
その地は人間と近縁種だけの国になり、やがて人間だけの国となる。聖霊信仰として後世に残ったのは、魔術の詠唱に文言の名残りがあるだけだった。
領主の娘に生まれたリリアンヌも、当然のように魔物を忌避するように教育を受けている。しかしながら敵は魔物だけとも限らない。領主の娘とは美しいだけの人形ではなく、子孫を残すだけの道具でもなかった。嫁いだ先で社交に注力するだけでなく、不在の夫の代わりとなって戦場に立つ事も想定している。
守るのは弱き民の全てで、高貴な家柄に生まれた者には性別に囚われない義務がある。
それ故に幼い頃から厳しい習い事に追われていた。読み書きや礼儀作法、刺繍はもちろんのこと、疾駆蜥蜴の操縦術だけではなく、魔術の稽古にも励んでいた。身体が大人に近付くと射撃術も習うようになる。貴婦人の嗜みだ。
モンフォール家には優秀な長兄がいた。優秀な次兄もいる。出涸らしであるかのようなリリアンヌには、特別な才能はなく、気弱な性格で魔術も苦手だった。親からの視線で期待されていないと、幼いながらも感じ取っていたが、だからといって愛されていないとは思っていなかった。疲労で眠りにつきそうになると、父に抱き上げられて寝台に運ばれていた。母からも愛情のある眼差しも感じている。
それを理解できていたからこそ、幼きリリアンヌは能う限りの努力をしていた。モンフォール家の名を汚さない女性となり、嫁いでいく事が全てだった。幼き日は政略結婚までの準備期間でしかなく、嫁ぎ先がなければ修道女になるしかない。それでも家の体裁は保たれる。
平民に比べると裕福な暮らしをしているが自由など皆無。だが苦痛はない。成人するまでそんな日々が続くと、七歳になったばかりのリリアンヌは思っていた。
しかし――ある朝のモンフォール家は、いつもの雰囲気ではなかった。
窓から差し込む光が薄暗くとも、起床後は光神メリュエールに祈りを捧げるのが、聖光教に属する者の習慣であり、その後に朝食になるのが何気ない日常だった。
たが、その日ばかりは両親や成人間近の長兄のみならず、次兄まで慌ただしい様子を見せ、リリアンヌは忙しく働いている使用人に着替えさせられていた。華美な装飾はなく、地味な格好だった。
「何かあったの?」
リリアンヌは使用人に尋ねるが、返答は「申し訳ございません」の一言だった。焦燥の色が浮かんだ使用人の表情からは、時間の猶予ないと察せられる。
形容し難い息苦しさを感じ、圧しかかる不安にリリアンヌは苛まれる。
心情を表すように窓の外には大雨が降り始めた。
なすがまま着替えると、向かった先はモンフォール家専用の厩舎。疾駆蜥蜴は客車に繋がれて出発の準備は整っていた。
両親と兄も厩舎にいる。が、一緒に出掛ける気配はない。身に纏っているのは純白の頭巾外套で、防水の雨具としても使える魔道具であり、防具装束としての価値もある。客車に乗って社交の場に赴く格好ではなかった。
「いいかい、リリアンヌ。町では疫病が流行っている。それまではこの地を離れていなさい。事態が収束したら、必ず迎えにいく」
有無を言わさぬ父の眼光に、リリアンヌは「はい」と頷く。
「リリアンヌ、貴女には少し大きいけれど、これを身に纏っていなさい。客車の中でも決して脱いではいけないわ。さぁ時間がないわ、早く行ってちょうだい」
渡された魔道具は家族と同じもの。リリアンヌが受け取ると、母は御者台に座った初老の使用人に命令を下す。
「リリアンヌ、お前は何も考えなくていいからな」
「護衛と合流する手筈になっているから安心していい」
二人の兄の声質はいつもより優しさが帯びていた。
今生の別れを予感してリリアンヌは涙目になる。幼くても不測の事態が発生しているのが目に見えて分かっていた。それでも親兄弟に縋りつかないのは、リリアンヌが受けた教育の賜物だった。恐怖が身体を蝕もうと、応えれるのは「はい」という返事。足手纏いにならぬという意思だ。
客車に乗り込んだリリアンヌは、頭巾外套を身に纏って身体を丸めた。傍らには幼い令嬢を守るように、普段の女中姿ではない軽装の女使用人が控えている。
疾駆蜥蜴が走り出すと、車輪は水飛沫を立てた。
全速力で駆けるせいか、懸架装置をもってしても振動は激しく、リリアンヌの身体は何度も浮いた。
陽光はなく、朝とは思えぬ暗さがある。森に差し掛かれば、薄暗さは増した。
屋根を打ちつける雨音が車内に響き、耳を裂くような雷鳴が轟く。
「ひっ」
リリアンヌから小さな悲鳴が漏れた。
「リリアンヌ様、もうしばらくご辛抱ください」
労るような声に顔を向けると、一瞬の稲光に照らされて、微笑んでいる女使用人が目に映った。
普段の凛とした表情ではなく、慰めるような表情だ。心細さからリリアンヌは戸惑いをぶつけたくなる。
「本当は疫病じゃないのよね?」
父の言葉通りなら逃げるように去る必要はなかった。
「いえ、疫病に間違いはありません。ただ……とても性質の悪い疫病まで流行っているようです。申し訳ございませんが、いま言えるのはこれだけです」
「……うん、分かった」
妙な言い回しが腑に落ちない。
それでもリリアンヌはそれ以上追及できず、身を屈めたまま客車に揺られる。
激しい雨が降り注ぎ、雷は止む気配がない。
時間の経過すら曖昧で、どれだけ進んだのか見当もつかなくなっていた、その時だった。
雷鳴に混じって微かに破裂音がした。直後にリリアンヌは押さえつけられる重みで、床に顔を強打する。
「うぅ、痛い」
首筋に雨が滴っていた。
雨漏りとは思えぬ、人肌のような温かさ。
のし掛かる重みから抜け出そうと指先に力を入れると、床に広がった雨が絡みついた。
リリアンヌは自身の手を凝視する。
手の平にまとわりついているのは鮮紅色の液体。滑りのある温かなものだった。
「え……なにこれ」
リリアンヌは身体を捩り、のし掛かる重みに目をやった。
そして――青褪める。
思考が追いつかなかった。
先程まで笑顔を見せていた女使用人が、抉れた頭部から温かな液体を流し続けている。虚空を見つめる瞳は生気がなく、まるで作り物のような不気味さがある。
理解したくなかった。いや、認めたくなかった。
「アメリア……なんで」
声を震わせて女使用人の名を呼ぶ。
返事はなかった。あるはずもない。
なぜ。どうして。そんな事ばかりが頭の中を駆け巡る。
人が死んだ。
それを理解できないほどリリアンヌは幼くない。が、死を受け止めるにはまだ幼ない。悲鳴をあげることすら忘れて、笑顔が永遠に失われたアメリアを呆然と見つめる。
そしてまた雷鳴が轟き、微かに破裂音が聞こえた。
直後、突き上げる浮遊感が襲いかかり、リリアンヌの視界が回る。混ぜ合わせられるように、車内の至る所に全身を打ち付け、転がり落ちる気配を察した。
「あ――」
幼い少女では、為す術もなかった。
訳が分からないままアメリアと同じ道を辿る。そう理解して、リリアンヌに映る世界は黒く染まった。
◆
眠りと覚醒の狭間に映る景色は薄闇だった。
心身にあるのは泥のような衰弱感。身体の感覚はなく、あるはずの痛みもない。漂意識は不明瞭で、いまだ夢の中にいるようだった。
静謐に溶け込むように、リリアンヌは虚空を眺める。
「ここ……どこ……」
辿々しく呟く。渇きで喉の奥が張り付いていた。
「わた……し、いき……てる?」
けれど首しか動かない。
目が慣れてくると薄闇にうっすら岩肌が見えるのが分かった。自身に視線を向ければ襤褸切れになった頭巾外套が瞳に映る。両足に異臭のする何が塗られていた。その上に太い枝が添えられて、蔓で巻き付けられている。しかし依然として感覚はなく、自分のものとは思えずに得も言われぬ気味の悪さが込み上げる。
「なに……これ……」
状況を把握することもできず、再び天井の岩肌を眺める。
微かに物音が聞こえ、リリアンヌは耳を傾けた。
音が近付いてくる。それだけではなく明かりも感じた。
きっと両親が助けにきてくれた。あるいは兄が。
ならばきっとアメリアも助かる。頭に酷い傷を負ったけれど、治癒魔術を施せばきっと間に合う。そんな儚い現実逃避さえ込み上げた。
しかし足音の正体は家族ではなく――人間種でもない。
それは異形の者。人型の魔物と呼ばれている化け者だった。
「ひっ……ごぶりんっ!?」
醜悪なる魔物。自国内における討伐対象だ。
小鬼や豚鬼の雄は、人間の女を好んで襲う為、一人で森に近付いてはいけないと周知されていた。年頃の乙女ならば花散らされて、おぞましい種を植え付けられる。不具の子が生まれるのは魔物の仕業であると耳にしたこともあった。
その意味はリリアンヌには分からない。しかし酷い目に合うという事だけは理解していた。
悪い子は真夜中に魔物が現れて食べられる、と幼い子供を脅した躾の常套句になっていた。小鬼も同様だ。
だからこそリリアンヌは自分が餌になるのだと悟った。
「いや……いやぁ……」
意識が完全に覚醒してしまった不運だった。
朦朧としていたのなら、これから起こるであろう事も分からないまま死ねた。
しかし戦慄が心を突き刺そうとも、動かない身体では逃げようもない。後退りさえできなかった。生きながらにして食べられるのだと最悪の事態が脳裏を掠める。
小鬼はニヤリと笑った。手にしている明かりで、下顎に生える牙が際立つ。
いとも容易く肉を引き裂きそうな牙だ。これからお前を食ってやると言われているようでリリアンヌは震えあがった。
一歩。また一歩とゆっくりとした足取りで距離が縮む。
その僅かな距離が、自身に残された時間。逃げることもできず、リリアンヌは目を閉じて身を強張らせる。
だが、死はいつまで経っても訪れない。
代わりに訪れたのは額に感じる温もりだった。
「……え?」
怖々と目を開けると、小鬼が目を細めて、リリアンヌの額に手を置いてた。
小鬼は口を開き、何かを呟いた後に、小さく頷く。
咄嗟の事に聞き取れなかった。聞き覚えのない言語でもある。
母国語でもない。勉学に励んだ外国語でもない。それでも声調で判断するならば、慈しみの感じられる柔らかな言葉だった。これから食おうとする餌に向かって、話す言葉ではないように思えた。
「わたしをたべないの?」
リリアンヌが尋ねると小鬼は考え込むような素振りを見せる。唸るような小さな声を上げ、何度か口を開いては噤む。
それを何度か繰り返すと、はっとした表情になり、小さく笑った――ように見えた。
「ワタシ……オマエナ? タベナイノ?……ハラヘッタ? ダナ?」
「え、あの……あれ?」
「チガウ? コトバ……チガウ? オマエ……ハラヘッタ、ナ?」
小鬼の口から出たのはリリアンヌの母国語。拙い片言だが、どうにか理解できた。しかし意思疎通は難しく、リリアンヌが空腹を訴えているように思われているようだった。
「ち、ちがいます。わたしを、たべないの、ですか?」
渇いた唇を無理に湿らせ、リリアンヌゆっくりと言う。身体が言う事を聞いてくれるのならば、動作を交えたいところでもあった。
「オマエ……タベラレル、ノゾム? ナンデ? オレ……イラナイ」
「おなか、すいていない、からですか?」
「スイタ? ……スイタ……ナイ。……イラナイ。……コレ、ノム、イイナ?」
言葉を探しながら喋る小鬼は困惑していた。
背負っている背囊を地面に下ろし、中から植物性らしき筒を取り出して、リリアンヌに向ける。
「これ、なんですか?」
「オマエ、ハラヘリ。デモ、タベル、ダメ。カラダ、ビックリ。マズ、クスリ。イイナ?」
「えっと、あれ? わたしは、おなか、すいていません。なんで、わたしに、おくすりを?」
「ムズカシ……ワカラナイ。コレ、ノム、ネル、ヤスム。イイナ?」
上体を起こされて、栓の抜かれた筒が強引に口元に近付く。柑橘類の爽やかな香りが、微かに鼻腔をくすぐった。
それでも得体の知れない液体を飲む気になれず、戸惑いと恐怖がせめぎ合う。これを飲むと美味しく食べられてしまうのか。だが小鬼はリリアンヌを要らないとも言う。
そして僅かな逡巡の後にゆっくりと口を開くと、少しずつ液体が流し込まれ、その味に目を見開く。
最初に訪れたのは、ほろ苦さ。それを帳消しにするような爽やかな甘味が口内に広がった。もっと飲みたくなる味だ。控え目に言っても美味だった。喉の渇きを加味すれば、リリアンヌは喉を鳴らしながら飲み干した。
飲み干して「ほぅ」と一息をつく。それ程までに身体が水分を欲していたのだ。
「あの、ありがとうございます」
リリアンヌは小鬼に上体を支えられたまま、小さく頭を下げる。
「コレ、ノンダ。ツギ、アシ、クスリ。オマエ、ウゴク、ダメ。イイナ?」
小鬼の話す言葉はいまいち要領を得なかったが、労りと気遣いが感じ取れる。リリアンヌは「はい」と身を任せると再び目を瞑る。
一先ず食べられる心配はなくなった。
その安堵感から再び訪れた眠気に身を委ねた。両足に何か塗られても感覚はなく、妙な心地良さがあった。
◆
それからどれくらい時が経ったのか、リリアンヌは鈍痛に叩き起こされた。
「うう、痛い。……痛いよぅ。お父様、お母様、助けて……助けて。お兄様、足が痛いよ。アメリアはどこにいるの」
全身を貫く痛みが駆け巡る。呼吸するだけで胸が痛み、割れるような頭痛に襲われる。唾を飲み込むだけで吐き気を催した。
しかし感覚のなかった両足が発する強烈な痛みに比べれば、如何ほどのものでもない。足が切り落とされたような痛みが走り続けている。
抗いようのない激痛に、脳裏を去来したのは家族の姿。そして使用人が見せた笑顔。
「誰か……誰か……」
痛みに呻くその声に、名も知らぬ小鬼が応えた。
「オレ、オソクナタ。コレ、ヌル。イタイ、ニゲル。イイナ?」
憐憫の眼差しの小鬼は肩で息をしていた。呼吸を整えることもせず、息を切らしたまま、粘度のある液体が足に塗られる。
程なくすると痛みが和らぎ、再び両足からは感覚が消失した。
謎の液体を口にすると胸の痛みが収まり、リリアンヌはようやく余裕を取り戻し、ほっと吐息を洩らした。
そこで小鬼が漂わせている血の匂いに気付いた。
「ゴブリンさん、ありがとう……ございます。あの……その傷は?」
「レイ、イラナイ。キズ、モンダイ、ナイ。オマエ、ネル、ヤスム、キズ、ナオル。イイナ?」
小鬼は全身の至るところに裂傷を負っていた。それを気にする事なくリリアンヌに頓着している。その理由が分からなかった。
女を襲うとされている魔物。その怪物が甲斐甲斐しくリリアンヌを看病していた。足に塗られてているのは痛み止め。あるいは麻痺薬か。
どちらにしても人間を食らう魔物のする事ではない。
「ゴブリンさん。なぜ助けてくださるのですか?」
リリアンヌは乞うように尋ねる。
「コドモ、タスケル、フツウ、イイナ?」
そう言い放った小鬼の表情は晴れやかだった。
◆
薄暗い暗闇では全てが曖昧模糊としていた。
自分は何処いるのか。何が起こったのか。家族は何をしているのか。アメリアは本当に死んでしまったのか。悪い夢を見ていただけではないのか。
いずれも答えは見つけられない。朝と夜の違いが分からずに、時間の経過は不明のままだった。
小鬼は時折姿を消すが、痛みが目を覚めそうになる頃には、決まってリリアンヌの傍らに控えていた。
薬を塗られて、そして液体を飲み干す。食欲が戻ってくると、果物や木の根にも似た植物を煎じたものを、飲まされるようになる。どろりとして独特の風味だが悪くはなかった。
それを何度も繰り返した頃には、自力で上体を起こせるようになるまで快復に向かっていた。胸の痛みはなく、いまだ歩けない両足でさえ、鈍痛が和らぎつつある。
全身から抜け落ちた魔力も回復しているが、自分へ治癒の魔術はかけない。かけるべき相手は他にいる。
「あっ、リックスブリックスさん、おかえりなさい」
リリアンヌは帰ってきた小鬼に小さく手を振った。
「タベモノ、トッテキタ。リリアン、オキテタナ。タベル、イイナ?」
「その前に怪我を治しますね……慈愛に満ちたる聖なる光よ、生命の息吹きとなりて、この者に癒しを与え給われ、下位治癒」
小鬼が戻ると裂傷を負っている事が多かった。理由は語らないが、危険を冒して食料や薬品を入手しているのだろうと考えれば、リリアンヌは自分を優先して治癒魔術を施す気にはならなかった。苦手な属性ゆえに一日に一回しか治癒魔術を使えないが、返せる恩は他にない。
「マジュツ、イラナイ。デモ、アリガトウ、リリアン」
「ふふ、恩を返さないとあってはモンフォール家の名折れですから」
看病される合間に何度も言葉を交わしていた。
今では片言の言葉も、依然より理由しやすくなっている。加えて名前を交換すれば、親愛の情が湧くのは自然の流れといえた。
小鬼の名はリックスブリックスと言った。彼にはリリアンヌと発言しにくいのか、リリアンと呼ばれている。当然の事ながら不快感はない。姿形が人間と違えど恩人である。魔物だと周知されていたのが嘘のようだった。
それから幾日が経ち、リリアンヌは自力で歩けるようになるまで快復していた。添え木は不要で、飛び跳ねても痛みはない。
家族はどうなったのか不明で、アメリアの安否を分からないが、それでも領内で起こった不測の事態も収束している頃だろうと考えていた。
久しぶりに感じる外の空気は新鮮で、瑞々しい緑の香りは生命力に溢れている。あの日に降り注いでいた雨や雷光はなく、両親がいつ迎えにきてもおかしくはない。ならば今こそ真の恩を返すべきである。
リックスブリックスは世間では小鬼なる魔物。しかし実態を明かせば理解を示してもらえるだろう。
小鬼は優しいヒトだった。人間を食らうような危険な生物ではなく、見知らぬ人間を子供を助けて、看病に明け暮れる無償の愛を兼ね合わせている。
恩義に報いらないのはモンフォールの恥。だからこそ領内に蔓延る誤解を解きたかった。一緒に暮らしていけると夢想していた。食客として招けるのではないかとさえ思えた。
「リックスブリックスさん、一緒にいきませんか? 当家なら貴方に危害を加えません。どうかお礼をさせてください」
「……イラナイ。ニンゲンノ、オトナ、アブナイ、コワイ。コドモ、コワクナイ、ソレダケ。イイナ?」
リックスブリックスは否定して俯いた。
「私はその……父が偉い人なんです。きっと大丈夫です」
悲しげにリリアンヌが食い下がるが、彼は口を噤んだままだった。
無言で背囊から装飾品を取り出し、リリアンヌに手渡す。
「カザリモノ、ヤル。ゲンキ、ダセ。イキテイレバ、マタアエル。オレ、タビビト。ソロソロ、イドウ。イイナ?」
「……そんな。よ、よくありません。看病していだいたのに、こんな綺麗な首飾りまで頂くなんて……」
「ケガ、ナオッタ。コドモ、シナナカッタ。オレ、マンゾク」
リックスブリックスは朗らかに笑みを浮かべた。
リリアンヌの足に目をやって、完治した事に心から喜んでいるようだった。
「でも……でも……ひっく。やだ……私、リックと暮らしたい。お父様なら分かってくれるのに……」
リリアンヌは涙が溢れた。
リックスブリックスのどこが魔物なのか。これほど他者を思いやれるヒトは、そうそういるものではない。きっと理解してもらえる。領内で人間と(ゴブリン)が共に暮らす姿が浮かんだ。少なくとも洞窟内では成立していた。
「リリアン、ツヨイコドモ、ナクナ。チカク、オトナノ、ニンゲン、イル。ダカラ、アンシン。ダカラ、オレ、サヨナラ。イイナ?」
リックスブリックスは聞き分けのない子供をあやすように優しく語る。リリアンヌの頭を撫で「マタナ」と告げて、その場を去った。
まだ幼く、世間を知らないリリアンヌには小鬼がどのように扱われているのか知らなかった。庇おうとする者の末路も知らず、離別の悲しみに頬を濡らしていた。




