55話 ヒトとマモノに違いはなく
切っ掛けはコロが野生動物に手を振った事だった。
穣司がぶら下げている小さな籠に乗ったコロは、初めて見る動物に目を輝かせていた。無邪気に笑い、興奮気味に動物と穣司を交互に視線を向ける。
その姿に心が和み、穣司も一緒になって手を振るのは当然の結果だった。それ以外の選択の余地ない。
異世界の動物は人に慣れているのか、逃げる素振りを見せなかった。積極的に近付いてくる姿に穣司は悶えそうになり、甘えるような鳴き声をあげられてしまえば頬は緩む。つい様々な動物に手を振ってしまうと、動物大行進が始まっていた。
女神の泉の一件以来、元気が無かったリリィ・ノールズですら、多くの動物を目にして機嫌が上向きになりつつある事を穣司は感じ取っていた。
未知への探求にロマンを感じるのは痛いほど理解できる。だが、それは未知ではないと言うこともできず、問題を先送りにしたのが心苦しかった。
だが、動物の癒しの力とは計り知れないものである。気落ちしていた彼女を心を容易く解きほぐしたのだろう。そう結論付けて猫科の大型動物の顎を撫でる。喉を鳴らしながら頬を擦りけられ、穣司はつい頬が緩んだ。
(あぁ……可愛い……癒される。ノールズさんも楽しそうにしてたし、アニマルセラピーって訳じゃないけど、やっぱり動物の力って凄いな……って、あれ?)
当の本人に目をやると、彼女はぼんやりと呆けている。
(余韻に浸ってるのかな。それとも猪に乗ってみたくて妄想中とか?)
動物大行進の最中には、羨むような視線に穣司は気付いていた。触れ合いたい気持ちと恐怖心がせめぎあっているのだろう。
「ノールズさん、この猪に乗りたいんじゃないですか? 大人しい子なんで、きっと大丈夫ですよ」
『大きくて可愛い子なんですよ!』
言いながら巨大な猪に目をやると、猪は了承するようにゆっくりと頷く。しかし肝心のリリィ・ノールズは返事に一拍遅れた。
「……えっ? あ、いや、すまない……考え事をしていた」
「はは、分かりますよ、動物の事を考えてましたね? この大きな猪に乗ってみたいんじゃないですか?」
甘美な妄想の渦に囚われていたのだろうと穣司はにやりと笑う。
「そ、それもなくはないが、考えていたのは君の事だ」
「俺……ですか?」
『お父さんの事ですか?』
彼女の言葉に、穣司とコロは互いの顔を見合せながら首を傾げた。猪に乗りたいという願望だけではなく、何に乗ろうというのか。
「ああ、そうだ。魔物の件は一先ず置いておくとしても、君は無詠唱で魔術を発動させていた。それに水にしても活力が湧き起こるようで普通の味ではなかった。君はどこで魔術を習得したんだ?」
「詠唱って呪文ってやつですよね? それに水の味って言われましても……ねぇ」
『普通のお水ですよ?』
どのような攻撃ならぬ口撃がくるかと身構えていた穣司は僅かに安堵した。腕を組み、異世界での半年にも満たない思い出を振り返る。
(まともな考え事で良かった。でもアンジェリカ達も呪文は唱えてなかったし、オルハンだって同じだったような……。まぁ確かに俺も水の塊の数が多すぎたかなって思ったけど、それに対しての突っ込みはないから、これは一般的なんだろうし。でも水の味について言われてもなぁ……あ、そうか)
思案を巡らせていると、一閃の光が差し込んだ。
呪文はともかく、水の味には思い当たる事があった。ああ、そういう事かと穣司は思わず膝を打ちそうになる。が、得意気にそれを語るには、知識をひけらかすようで気が引けた。
「あの……ノールズさんの出身国の水ってどんなのですか?」
「普通の水だが?」
「いや、ほら……味とかですよ。硬水とか軟水とかってあるじゃないですか」
「ん? 水は水だろう」
「……そうでしたか」
やはりな、と穣司は確信を得る。
(国が違えば水の種類も違うもんなぁ。俺の創った水の成分は分からないけど、きっとノールズさんの国の水とは違うから違和感があるのかも。いや、もしかしたら水が不味い国の出身とか。……でも、旅をしてたら気付きそうなもんだけど、あまり気にしてなかったのかな)
生水はさておき飲料水でも身体に合わなければ体調だって崩す。穣司は彼女の感じていた違和の正体を垣間見た気がした。
「水には種類がありますし、味だって違うんですよ。身体に合わなければお腹の調子も悪くなったりしますからね。もしかしたら俺の水がノールズさんに合ってるのかもしれませんね。だから活力が湧くような錯覚をしたのかも」
あなたの国の水が不味いのでは――とは言えず、穣司は遠回しに説明する。
「うむ……そういうものなのか?」
彼女は腑に落ちないといった様子で考え込み、やがて真面目な顔で口を開いた。
「そうか。つまり私は君と身体の相性がいいという事か」
その言葉に穣司は凍りつく。時間さえ止まってしまいそうな気まずさが漂い、コロの前で何を言うのかと焦燥感も込み上げる。だが、彼女は何か思い出したように、はっとした表情になる。
「いや、まてよ……。私が言いたかったのは昨夜の――」
「あー! それよりも他の話をしましょう。魔物と動物の違いを聞きたいなって思ってましたから!」
穣司は手を叩き、彼女の言葉を強引に遮って話題を変える。
コロは『からだのあいしょー?』と呟いていた。これ以上はこの話題を続ける訳にいかない。教育にも悪い。
「……そうか、そうだな。不躾な質問をしてすまなかった。私は君の仲間ではないし、手の内は他人に明かすものではないからな。次は私が君の疑問に答えるべきだろう」
物憂げな表情を浮かべるリリィ・ノールズは頭を下げる。
「うぅ、まぁ……なんというか……」
居心地の悪さに穣司は言葉を濁した。
話を続けたくないのではない。彼女の放つ危険な言葉を避けたいだけだった。言葉は通じるのに噛み合わない。
(いや、手の内って言われても……何のこと?)
二人の間に静寂が流れる。
穣司は釈然としない気持ちを、頭を掻いて紛らわす。
リリィ・ノールズの態度はいまいち要領を得ない。動物に癒されたと思いきや、再び気落ちしているようだった。
どうしたものかなと穣司が解決の糸口を思案していると、パシッと乾いた音が響く。音の鳴る方に目をやると、彼女が自身の頬を叩いていた。
気持ちを入れ替えているつもりなのだろう。ぎこちない笑顔を浮かべる様子は、空元気なのが分かる。
「……そう言えば魔物と動物の違いと、悪名高き魔物だったな」
「俺はこの世界……じゃなくて、この辺りの知識に疎いので、その差が分からないんですよ。どちらも同じに見えますし、何が悪名高いのかも分からないので」
「……え?」
穣司の言葉にリリィ・ノールズは考え込む素振りを見せる。しかし彼女は既のところで、慌てて言葉を続けた。
「……あ、いや、そうだな。まずは魔物と動物の違いを説明しよう。とは言っても私は学者ではないから、細かな区別や成り立ちまでは分からない。それが前提なるが、いいだろうか」
「ええ、問題ないですよ」
リリィ・ノールズの言葉に穣司は小さく頷く。
「生物の邪悪なる心が分裂した結果が魔物だと考えられている。それ故に狂暴で、人に懐く事はない。体内には属性の力を宿した魔力の結晶があり、他者の魔力を食らって己の力を満たす為に人々を襲う。だからこそ討伐しなければならない存在……と」
「そうなんですか。でも、この子達は人懐っこいですけど……」
穣司は近寄ってくる二本の角を生やしたアナグマに似た生物を抱き上げた。撫でると目を細めて気持ち良さそうにしている。
「そう……だな。君が抱えている二角穴熊も本来は獰猛な魔物だ。だが何事にも例外はあるという事だろう。しかしそれを我々には判別するのは難しい。遭遇戦で躊躇していたら命を落とすからな」
「そうですね。野生の肉食獣に遭遇して躊躇してたら危ないですもんね……。もしかしたら人懐っこいかもしれないって、甘い考えは持てないでしょうし」
「あ、ああ……その通りだな。……そして悪名高き魔物とは端的に言えば異常個体だ。大抵の場合、通常の魔物より大きく、魔力も高い。人にも君のような贈物を持った存在がいるように、魔物にも同じように生まれつきの特殊能力を備えた存在がいるんだ。ソレはやがて人にとって災害となり、やがて悪名高き魔物と呼ばれるようになる。人に懐つく事など有り得ない……と思っていたが」
リリィ・ノールズは巨大な猪に目を向けて肩をすくめた。
「悪名高き魔物とやらにも例外はあるって事ですかね」
思ったより例外が多いのだなと穣司は顔を綻ばせる。
「そ、そうだな。それに人型の魔物だって人に害をもたらす者ばかりではない。その……小鬼にしても醜悪な魔物とは限らないからな……」
リリィ・ノールズは小鬼という単語を言い淀んだ。
「人型の魔物なんているんですね。ゴブリンは見た事がないので、どんな生物なのか知らないですけど」
「シュケルにはあまり生息してないらしいから、君が知らなくても無理はない。畑を荒らし、家畜のみならず女子供を好んで襲う魔物だとされているのが小鬼だ。狡猾だが脆弱だから討伐は容易。それが我々人間種の一般常識であり冒険者としての認識だ」
「へぇ、市民にとって厄介な生き物なんですね。でもゴブリンにも例外もあるって事ですね」
「ああ、そうだ。もしかしたら人を食わない人鬼や巨人だっているのかもしれないな。たが……ゴブリンに比べると奴らは手強い。躊躇しているようでは先手を打たれるだろう。くどいようだが襲われてからでは遅いからな」
俯いた彼女の拳は握り締められていた。討伐を悔いているようにも感じられる。
「そうですか……。きっと身を守る為なら仕方がない事なんでしょうね。ところでオーガやトロールって生物は人間を食べるんですか? トロールはそんな風には見えなかったですけど……」
「君は巨人を討伐した事があるのか?」
「いや、討伐じゃなくて、見た事があるって程度なんですけどね。でも、愛嬌のある顔でしたし、あれって妖精みたいなものなんじゃないですか?」
「あれが愛嬌のある顔? 妖精? ……君にはそう見えるのか」
リリィ・ノールズが眉を上げて驚愕していた。
穣司は思い違いをしていたかなと頭を悩ませる。
元の世界で旅をしていた時には、ある街に置かれているトロール像を見た事がある。頭髪はなく、大きな福耳で鼻は長い。愛嬌のある顔からは人を食らうような生物だとは思えなかった。知っている伝承は、日常生活で物が無くなった際に、トロールの悪戯だという言われている程度のものだった。
「君はつくづく不思議な男だな。あの巨人に妖精のような愛嬌を感じるとはな」
リリィ・ノールズは呆れるような笑みを浮かべる。
「あ、いや、もしかしたら俺の思ってるトロールとは違ってたのかも。それとも例外だったのかもしれないですね」
穣司は取り繕うように笑って誤魔化す。この世界のトロールと同じ生物だとは限らない。
「ふふ、例外というなら君もじゃないだろうか。魔物に懐かれるような人間はそうそういないだろうからな」
「あ、まぁ……そうなんでしょうけど、あはは……」
彼女の言う例外は、別の意味では合っている。しかし世界を越えてやってきたと言えるはずもない。
「だが良い例外だと思う。君なら最も恐ろしいと聞く闇人とも心を通わせられそうだな」
「はい? ダークエルフが恐ろしい?」
穣司は眉を顰める。
「ああ。私は遭遇した事はないが、恐ろしい人型の魔物だと聞いている。なんでも森妖精の邪悪なる心が分離して生まれた存在だとか。邪神を崇拝し、人を食らう闇人は残忍で野蛮な魔物だそうだ。だからこそ人間種とは決して相容れない存在と聞いた」
「はは、それはないですよ。あの子達が人を食らう? それは酷い流言ってもんです。だって肉や魚より野菜が好きなんですから」
事実に反したリリィ・ノールズの言葉に、穣司は思わず失笑する。噂話としても出来が悪すぎた。
「き、君は闇人に知り合いがいるのか?」
「ええ、短い間ですけど一般に暮らしてましたからね。でも魔物なんかじゃないですよ。褐色の肌で耳が尖っているのを除けば普通の人ですって。それに信仰している神様も邪神なんかじゃありませんよ」
穣司はこの世界を創造した女神ニナの事を思い出す。
全ての起こりは女神にある。
それが切っ掛けとなり、この世界にやってきた穣司にしても同じ事がいえた。
だが――邪神と思われている事には胸が痛む。それにダークエルフ達がどのような境遇にあったのか窺える。
(争いがあったみたいだし、人間側のプロパガンダってやつかな。ダークエルフは魔物だから殺しても平気だって罪悪感をなくしていたのかも。……それなら人型の魔物扱いされている他の種族も似たようものかな。ただの動物にしても厄介者だから害獣といより、魔物扱いしておこうって事なのかも)
どのような因縁があって戦争になったのか穣司には知る由もない。後世に伝わるのが真実とは限らず、ねじ曲げられる事もあるだろう。だが、ダークエルフを魔物扱いすると都合がいい国がある。という事を穣司は把握した。
しかし余所者である自分が解決すべき問題ではない。人間側の主張は聞いていないし、この世界の住人にしても、部外者に介入されたくはないだろう。この世界の事は、この世界の人に任せるしかないのだ。いかに優れた神のような能力を授かろうとも、我が物顔で踏み荒らしていいものではない。だからこそ自分にできる事は、せいぜい傷付いた人を癒す程度のものだと穣司は考える。
ただ――自分が知っている事柄はだけは、ありのまま語ろうと決意を胸に秘めた。人食いの魔物では、あまりに報われない。
「俺には人間とダークエルフの間に何があったのか分かりませんし、もしかしたら魔物扱いされるような理由もあったのかもしれません。だけど俺の知ってる子達は戦火から逃れてきた子です。人型の魔物なんかじゃありませんし、傷付いた子達でしかありませんよ。普通の人間と変わりがありません。皆と同じで傷付けば悲しみますし、涙だって流しますよ」
穣司はアンジェリカ達を思い出す。あの笑顔の裏には、やはり迫害があったのかと思うと心が疼く。と同時に煌々とした光の粒が漏れ出しそうになる。どうにか体内に押し戻すが、微々たる量の粒が漏れていた。
「あの時の……やはりこれは。あ……いや、その……申し訳なかった……です」
リリィ・ノールズは大きく目を見開き、そして涙目になりながら片膝をついて頭を深々と下げる。
「へっ? あ、いえ、気にしないでください。ノールズさんが悪いって訳じゃないんですから。あくまでそういった噂があるってだけでしょう」
突然の謝罪に穣司は狼狽する。
「そ、その通りなんですが……私は謝罪せずにはいられなかったのです。君……いや貴方には全ての者が同じに映るのですね」
「え、えっ? あー、うん、なんと言えばいいか……」
彼女の態度は大きく変わり、穣司は返す言葉がうまく見つからない。
(急にどうしたの子っ!)
彼女から何を求められているのか分からなかった。それでも教えを乞うような眼差しの彼女に、穣司も真剣に答えるしかない。
「えっと……失礼を承知で言いますけど『俺とそれ以外の人』という認識しかないですよ。ですから、どれだけ外見に違いがあって、どんな種族であろうと、全て同じです。尊重すべき『人』という括りで見てます。もちろん極悪人は除きますけどね」
穣司こそがこの世界には存在しなかった異物。
元の世界には伝承こそあれど、人魚や狼男のような存在は実在していない。だが、この世界では違っている。
だからこそ穣司は全ての住人を同じ「人」として見ていた。肌の色だけで区別はしない。動物や爬虫類、魚類らしさのある身体的特徴を持っていたとしても、言語や文化を築き上げているのなら、この世界の立派な住人だと認識していた。
自分以外の人こそが、この世界に住まう尊重すべき存在なのだと、そう区別して、心得ている。
――余所者の自分と、この世界の住人――
両者の間には大きな隔たりがある。しかしそれ故にこの世界に蔓延する思想には囚われない。余所者の穣司には、どれも同じ人という括りでしか見られないのだから。
「……全て同じ。……ああ……そこには善悪の差しかないというのですね」
片膝をついたままのリリィ・ノールズは感情を絞り出すように吐き出し、堪えきれずに涙を流した。その姿に穣司は困惑するしかない。
「もしも傷付いた者が魔物と呼ばれていても貴方は救うというのですか?」
「救うなんて大袈裟な……。ただ不当に傷付けられたのなら、種族問わずに癒してあげたいでしょうね。だって本当は魔物なんかじゃないんでしょうし」
彼女から聞いた話を推測するなら、人型の魔物だと呼称されているけのヒトでしかない。魔物ですら、ただの動物でしかないのだろう。
「それで貴方が周囲から疎まれたとしてもですか?」
リリィ・ノールズは縋るように穣司を見上げた。
「そんなのどうでもいい……とは簡単にいかないんでしょうけどね。……でも、傷付いた人がいて、癒せる力を持っている。それなら迷わず、傷を癒してあげたいですよね。それに泣いた顔より笑ってる顔の方が、見ている方も楽しくなれるじゃないですか」
穣司は屈んで彼女の肩に手を置いた。
目線を合わし、慰めるように笑いかける。
「ああ……そうだったのですね。やはり貴方は……」
リリィ・ノールズは言葉を最後まで紡ぐ事なく、泣きながら笑った。
牙猫もまた涙目になり、彼女を労るように寄り添っている。コロは目を細めて、その様子を眺めていた。いつもの快活さではなく、我が子を慈しむような雰囲気に、穣司は引っ掛かりを覚える。が、口に出す事はなない。それどころではなく、現状を把握するのに必死だった。
◆
しばらくして穣司は出発した。
憑き物が落ちたようにも感じられるリリィ・ノールズからは、いつもの口調が消えていた。今では嬉しそうに巨大な猪に跨がっている。
疾駆蜥蜴のアセナを操る穣司は、道なき道を順調に進んだ。目指す場所に変わりはない。
しかし途中からアセナだけではなく、巨大な猪の歩みも鈍る。他の動物達は怯えるように歩みを止めた。
「どうしたのかな?」
『どうしたんでしょうね?』
穣司は振り返りながら動物に目をやる。
「おそらく黒い大地が近付いているのではないでしょうか。他の地でも黒く染まった大地は魔物……いえ動物も近寄りませんから」
「そういえばアセナの店主さんが言ってましたね。ノールズさんは黒い大地を見た事があるんですか?」
「ええ、あります。心が委縮してしまうような恐ろしさを覚えました。ジョージ様なら大丈夫かと思いますが」
「あ、うん。ところでそのジョージ様ってのは止めてほしいなーって。俺はそんなに偉い者でもないし、呼び捨てで構いませんよ。一応パーティーを組んでいる仲間ですからね。何だったら俺もリリィと呼びますから」
『私はリリィちゃんて呼びますからコロちゃんって呼んでくださいね! あ、でも私が見えるようになってからでいいですよ!』
休憩時に「君」から「貴方」に変わり、現在では様付けで呼ばれるようになっている。ある種の狂犬だった彼女は、すっかり忠犬然とした態度に様変わりしていた。その心理は穣司の理解に追いつかない。むず痒く感じるだけだった。
「仲間……本当ですか!? でしたら二人だけの時はリリアンヌとお呼びください。私の本名はリリアンヌ・ド・モンフォールと申します。訳あってリリィ・ノールズという名前を師匠から授かりましたが、ジョージ様には本名で呼んでいただけたら、と」
彼女は瞳を輝かせながら言った。
「そ、そうなんだ。じゃあリリアンヌも俺の名前を気軽に呼んでね」
「承知しました、ジョージ様……いえジョージさん」
どうしてこうなったんだろうと、穣司は引きつった笑いを浮かべる。アンジェリカの時のような変貌を遂げているが、リリアンヌには何もしていない。何の琴線に触れたというのか。
(俺が半分だけ神のような存在になっているのはバレてないだろうし、彼女は信仰心が高そうな雰囲気もなかったのに、何で尊敬の眼差しを感じるんだろう。全ての人を同じ扱いにして不快に思われるかなって思ったけど、まったく逆の反応だし)
完全に理解の範疇を越えていた。
しかしアセナの重い足取りは、やがて崖へと行き当たる。
「あ、これは」
穣司は思わず言葉を漏らした。
眼下には広範囲に渡って大地が腐食するように黒く染まっている。より正確に色の表現をするのなら黒紫色。初めてこの世界に訪れた島で見た光景と同じだ。
ところどころクレーターのような窪みがあり、隕石でも落ちたかのような凄惨さが感じられる。
「そっか、黒い大地ってこれだったんだ」
『なんか悲しい感じがしますね』
「ジョージさんは、見た事があるのでしょうか」
「うん、一度だけある。なるほど、この事だったんだ。てっきり火山灰に埋もれた街があるのかと……」
穣司はしみじみと呟く。
動物さえ狂暴にさせてしまう、この世界特有の病気だろうと穣司は考えていたが、その正体は隕石から運ばれたものなのだろうと推測する。そしてこれが治癒の魔法で癒せる事も知ってる。
だが、あまりに広範囲。あの島をまるごと包んでも、お釣りがくるような広さがあった。それでも癒すのは可能だろう。そう確信する。
(隕石に含まれる謎の物質か菌で汚染されたかのかな。これも治せるだろうけど、流石に人前でやるのは常識外だろうし……。でもここから見る景色って、本当は絶景なんだろうな。どことなく大地溝帯っぽいしさ)
美しい景色を想像して心が躍った。
穣司は本来の姿を見たくなる。廃墟から感じられる美も理解できるが、美しい自然というものは、それだけで素晴らしい。
「目的地の森はこの崖を右に見ながら坂を下りるんだっけ」
穣司は確認するように呟き、アセナから降りて辺りを見回す。
崖沿いには道になるような比較的平坦な場所はなかった。地図通りに目的地に向かって左に進むと、せり上がった岩壁が遮蔽物になり、崖下の黒い大地は見えなくなる地形だ。
「はい、確かそうだったかと思います」
リリアンヌはゆっくりと頷いた。
「じゃあこの先を進むと、この黒い大地は見えなくなるね」
「そうだと思います」
『壁があって見えなくなりますね』
「とりあえず先に進もうか。猪とはお別れしてリリアンヌはこっちにきて」
リリアンヌが御者台に座ると穣司は先に進んだ。猪は名残惜しそうに穣司を見つめていたが、頬を撫でると大人しく引き下がり、元の住処へと戻ってゆく。
そのまま岩壁を右に見ながら進み、黒い大地が見えなくなったところで、穣司はわざとらしく言う。
「あ、ちょっとお腹が痛い。……ちょっと席を外してくるね」
『わ、それは大変ですね? 私はここで待ってます』
「はい、承知しました。私は何があっても振り返りませんので、大人しく待っております」
リリアンヌはやけに物別りの良い返答だった。
穣司は微かな違和感を覚えながら、腹部が窮地に陥っているかのような素振りを見せて、来た道を小走りで引き返す。
牙猫だけは遠慮なくついてくるが、まぁいいかと穣司は黒い大地を一望できる場所に戻った。
「さて、治してあげないとね」
手をかざして、ゆっくりと能力を込める。
派手にやればリリアンヌに知られてしまう。こればかりは一般的な力を超越しているし、目撃されてしまえば、今以上に居心地の悪さが待っているだろう。
ならば微風が波を打つような優しさなら知られる事はない。
穣司は蛇口をゆっくりと捻るように能力を行使する。乾いた大地に水が少しずつ浸透するかの如く、緩やかに癒しの風を吹かせる。
煌々とした粒子が崖下から、波紋を打つように広がった。
黒紫の大地は徐々に瑞々しい緑を取り戻してゆく。
命が芽吹き、黒いガスに似た瘴気は霧散する。
「よし、こんなもんかな」
瞬く間に全てを癒していないが、それでもゆっくりと確実に元の姿に戻りつつある。依頼を終えた帰り道には、大地も完治している事だろう。
その時はリリアンヌに黒い大地の変貌を目の当たりにする。だが知らない顔をすれば、気付かれないだろうと考えた。
「ミャア……ミャア……」
足下の鳴き声に目を向けると、牙猫が涙を流していた。
穣司が屈むと牙猫は、迷子の子供が親を見つけたかのように飛び付いた。そのまま穣司の胸に顔を埋めて甘えだす。
「はは、どうしたんだろう」
牙猫の頭を撫でながら穣司はリリアンヌ達の下へ戻る。
緩やかに美しさを取り戻しつつある大地を横目にして、いつかここで野営をしたいものだなと、悠長に思いを馳せた。




