54話 集う魔物と少女の心境
代わり映えのない草原地帯は、やがて荒涼とした乾いた大地に姿を変え、棲息している生物にも変化を見せた。巨大猪の姿は少なくなり、野性の疾駆蜥蜴も見られるようになる。
少し離れた岩の上では猫科の大型生物が、辺りを注意深く見張っている姿があった。岩の下では隙間から子供が顔を覗かせている。
雷豹という魔物だ。
鞭のような太く長い髭には雷属性の力を帯び、触れると一瞬にして意識を失う恐れもあるが、警戒心の高さゆえに人の気配を感じ取ると逃げていく。攻撃を仕掛けなければ襲われる事は殆どない魔物だ。それだけを考えれば危険度の低い。
されど臆病で弱い魔物でという事ではない。一度牙を剥いた雷豹は獰猛で、無知な冒険者がその本質を見誤って、返り討ちあう事も少なくなかった。
子連れの母豹ともなれば気性が荒くなり、近付くもの全てに牙を剥く。低ランクの単独の冒険者が遭遇してしまえば、生きて帰る事は難しいだろう。
しかしその髭と毛皮は耐雷性に優れており、魔道具の素材として高値で取引されている。討伐の難しさを加味すれば、価格が下がる傾向は見られない。ゆえに金に目が眩んだ数々の冒険者が素材目当てに狙い、そして命を落としていった。
雷豹を狩りたければ、雷豹の素材から作られた装備が必要。という矛盾とも受け取れるような話が交わされていたのをリリィは覚えている。
だからこそ御者台で疾駆蜥蜴を操るリリィは、目の前に広がる光景に理解が追い付かなかった。
「はは、お髭が可愛いよね。なんていう動物だろう」
悪名高き魔物と思わしき異常な巨躯の猪に跨がるジョージは、子供に語りかけるような柔らかい声調で独りごちる。それだけではなく危険な雷豹に手を振っていた。
普通では考えられない行動だ。無知を通り越しているどころの騒ぎではない。下手に母豹を刺激すれば、その末路は死。危険を察知できないのは冒険者としては失格である。いや、人としても有り得ない。
そのはずなのに、何一つ危険はなかった。
呼び寄せられように近寄ってくる雷豹は、子連れのままジョージの下に向かい、甘えるような鳴き声をあげている。
猪から飛び降りたジョージは、雷豹を愛おしくて仕方がないといった様子で、抱き締めながら撫でていた。まだ幼い子豹を撫でても、母豹が牙を剥く事はなく、ジョージが髭に触れて失神する事もない。
現実離れの一言では片付かない光景に、でリリィは迷宮にでも迷いこんだ気分になった。
ジョージが何を成すのか見定めようと考えた矢先がこれだ。そもそも巨大な魔物に跨がって移動する事が有り得ない。昨夜の言葉は苦し紛れの冗談ではなかったのかと、リリィは唖然とするしかなかった。
(……彼の下へ魔物が集まってる?)
なにも寄ってくるのは雷豹だけではなかった。
ジョージが手を振るだけで、多種多様の生物が彼の下へ集い始めている。
捕食者と被捕食者。
本来ならその場で命の奪い合いが起こるのが当然の関係であり、生物としての違いとも言えるだろう。
しかし血が流れる気配は微塵もない。争う事もなく、傷つけあう事もなく、境界が取り払われ、一つになっている。
やがて魔物を含めたあらゆる生物は、ジョージを中心として群となった。
「……ああ、美しい」
微かな声でリリィは呟く。
思わず表情が緩む。どこか夢見心地で、その美しく崇高な光景に見惚れていた。
今ではあれほど畏れを感じた巨躯の猪にすら、可愛いと思えてしまう程に、幻想的な甘美の毒に侵されている。
「そうか……魔物も案外可愛いのかもしれないな」
通常の巨大猪と比較すると、規格外の巨躯を誇り、威風堂々と闊歩する姿は恐怖心を煽られる――はずだった。
鋭い牙には本能的に畏怖の念を抱き、戦わなくても計り知れない強さがひしひしと伝わってくる。町が襲われるなら全滅は免れないだろう。討伐に赴くのなら複数の高ランクのパーティーで、共闘しなければ勝ちは望めない。
おそらくただの鉄砲では歯が立たないだろう。帝国が開発した兵器ならばダメージも与えられるだろうが、要塞を目標とする攻城砲では、魔物に命中させられるとは思えない。それに悪名高き魔物とは、得てして知力も高く、人のように魔術も習得しているものだ。砲撃手が真っ先に狙われる恐れもあり、魔術防御壁を展開されたまま突進されてしまえば被害は甚大になる。加えてただの銃弾では役に立たず、魔術防御壁を突破する弾でも、分厚い肉の壁を前にすれば形無しだ、と。
そう分析していた全てが覆された。
長年連れ添った相棒のように、巨大な魔物に跨がる男を見ていると、リリィも同じように跨がりたくなる。
冒険者には魔物を使役する者もいると聞く。だがそれは従わせているからで、慕われている訳ではない。
彼のように自然体で魔物を愛でる者など見た事もなく、遠目に魔物を見つけると手を振るような人間は、幼き頃の自分を除いては他にいなかったと、リリィは過去の出会いが頭に過った。
幼き頃に出会った生物は人型の魔物に分類されていた。
脆弱だが残虐で、女子供が遭遇すれば、間違いなく酷い目に遭うという噂が、人間社会においての共通認識だった。
しかしながら噂話とは相違して攻撃性はなく、心穏やかな一時を過ごした経験もあった。別れ際に受け取った装飾品は今でも身に付けている。
それ故にリリィは魔物と称される全ての生物が危険であるとは思っていない。種類によっては人間種の良き隣人となれるのではないかと考えていた事もある。が、それは異端者の思考であり、実際に魔物から被害を受けた者の心情を察するなら口に出せるものではない。
危険の高い魔物は確実に存在しているのだ。被害を受けてからでは遅く、真っ先に魔物は倒さなければならない。
だが……本当にそれは正しい行為といえる事だったのか。彼のように魔物と通じあえるのなら、無駄に血を流す必要はなかったのではないか。
(体裁を気にすることなく魔物と心を通わせる、か。……少し羨ましいな)
リリィは胸の内で呟きながら、ジョージをじっと見つめた。
視線に気付いた彼は、氷すら溶かすような温かな微笑みで浮かべて手を振った。
見る者の心を癒すような穏和な表情だった。
リリィは思わず手を振り返す。
すると彼は表情を変えて、困ったように笑った。
そこでリリィは気付く。その微笑みは自分ではなく疾駆蜥蜴のアセナに向けられていた事に。
「いやっ! そのだなっ! わ、私も君の真似をして魔物に手を振っただけなんだ。あ、案外良いものだな!」
リリィは頬に灯る恥じらいの熱を誤魔化すように叫んだ。
「えっ、ああ! そうでしたか。それは失礼しました、あはは……」
「い、いや、勘違いさせてすまない、はは……」
両者から乾いた笑いがこぼれる。
気まずい空気が流れ、リリィは吐いた嘘に良心が苛まれた。
それでも氾濫する羞恥心は塞き止めようがなく、連鎖するように昨夜からの出来事で頭の中が埋め尽くされる。
(くっ、彼のせいにして私は何をやっているんだ。それに昨夜の私は、なぜ子供のような態度をとってしまったんだろうか。……調子が狂うな)
昨夜の彼は間違いなく保護者を思わせる振る舞いだった。
鼻をかむのに誰かの力を借りるのは、17になって間もないリリィの歳を考えればあり得ない。だが彼の穏やかさに感化されてしまったのか、思わず甘えてしまった。それこそ幼児退行してしまったかのように。
(それにあの料理はなんだったのだろうか)
彼の作る料理にしても何故か郷愁を感じさせた。
リリィのとっての家庭料理とは、家事使用人が作るもので、家族が拵えるものではない。それに彼の作る魚のソテーは味付けにしても故郷にはなかったものだ。そのはずなのに家族の手料理のような懐かしさが込み上げて言葉に詰まった。感想や食事の礼を述べるのも忘れて、放心したまま星空を眺めていた。気が付けば地面に横たわって眠りにつく始末である。
そして目覚めたのは客車の中。久々に熟睡した目覚めは爽快で、布団代わりに掛けられ布に、野営していた事すら忘れさせた。だがそれは冒険者としては恥ずべき失態でもある
(私は警戒を怠って朝まで眠ってしまった。しかも彼に気を遣われて客車に運ばれてしまっているとはな。……ん? いや、待て……私は彼に抱きかかえられたのか)
どのように運ばれたのか考えると、おのずと答えは出る。
男性が女性を横抱きにして、寝台まで連れて行くという話は聞いた事があった。まさにそれが自分自身に起こっていたのかと妄想すると、顔から炎系魔術が吹き出しているような錯覚まで起こる。
(いや、何を考えているんだ私は。それはない……それはないだろう。きっと師匠のように私を肩で担いで運んだに違いない)
力強く頭を左右に振り、妄想を打ち消し否定する。
僅かな時間しか共に過ごしていないが、女として見られていないのは知っている。そう見られたいとリリィも思ってはいないが、ジョージから感じる視線には邪なものが一切含まれていなかった。まるで妹を見守る兄の視線に近く、それが止まり木のような心地良さを覚えてしまっていた。
だからこそ保護者然としていたジョージの口調が元に戻った事には寂しさを感じてしまい、自分がまだまだ子供で未熟者である事を自覚せざるを得なかった。
(あぁ、もう……昨日から想定外のことばかりだ。それにあの建造物にしたって……)
溜め息を吐き出し、空を眺める。それでも頬の火照りが冷める気配を見せなかった。
一夜にして出現した謎の建造物を目の当たりにして心が躍ったのは確かだった。失態を取り返そうと思う反面、彼がどのような行動を起こすのか期待していた。共に建物内に入ろうと言われるのならば、今度こそ先輩冒険者としての良いところを見せようと考えてたが、それすらも肩透かしな結果で終わった。
(未知を前にしても興味を示さないとはな。だが彼の意見は尤もだ。依頼を優先すると言われてしまえば、私が意見できるはずもない。そもそも私は彼の本当の仲間ではない……のだからな)
目的は交友を深めて、ジョージを彼の国に連れていく。あるいは仲間に引き入れてこの国を去ると考えていた。
この地では何も成せなかった焦りから、ランク1の冒険者に危険の伴う依頼を請け負わせるフェアティアの冒険者組合の職長に、八つ当たりのような憤りを感じていた。しかしそれは言い逃れのできない筋違いの怒りだ。
ジョージは毒に耐性があるだけではなく、魔物を手懐けられるのだから危険はないのも同然である。
お膳立てではなく、彼だから完遂できると依頼だったのだろう。そう考えると自分は随分と空回りしていると、リリィは自省の念が込み上げる。
心のどこか能天気な新人冒険者だと侮っていた。
武器も持たず、身に纏っている服も、質素なものである。
魔物を倒してランクを上げようとする気概は感じられず、依頼すらも物見遊山に出掛けているような様子だ。緊張や恐怖とは無縁で、虚栄心や自己顕示欲から遠い存在。血を滾らせるような闘争心は欠片も感じられず、纏っている雰囲気は冒険者らしからぬ穏やかなもの。
しかしその理由を理解した。
ジョージには武器など必要ない。身を守る装備も必要ない。
その性格、あるいは資質こそが最大の武器なのだ。子飼いの動物のように魔物を手懐けられるのなら、そんな物は不要になる。
ひょっとすると獣に通じる性質を持つとされている獣人種であるが故に、彼を慕っているのかもしれれないともリリィは考えた。だからこそ火種が燻る獣人相手からも信頼を得ているのだろう。
どちらにしても彼に任された依頼の行方が気になって仕方がない。それはおそらく彼だから成し遂げられるもの。リリィは心の底で眠らせている疑問への答えが見つかるような予感を覚えていた。
「ノールズさん、そろそろ休憩にしましょうか」
「え……ああ、分かった」
ぼんやりと考えを巡らせていたリリィに朗らかな声が届いた。我に返ったリリィは僅かに返事が遅れてから了承する。
休憩に選んだ場所は何の変哲もない荒野。木陰で涼がとれるような巨木はなく、小川のせせらぎも聞こえてこない。客車を牽く疾駆蜥蜴を休ませるような場所ではなかった。それでも多くの魔物達は付き従うように、各々が大地に腰をおろした。
「はーいみんな、しっかり水分補給するんだよ」
ジョージが両手を広げたその時だった。
煌々した砂塵が彼の手の平から溢れ出たと思いきや、魔物達の鼻先に無数の澄みきった水が浮かび上がる。
「――っ!」
無詠唱による魔術の同時行使。
魔術の名すら唱えておらず、ひかり輝く小さな粒に絶句する。
ふわりと宙に浮いた水球は数十を越え、さも当然の事であるかのように、ジョージは魔物に水を飲ませている。その姿は貧しき者に施しを与える聖者のようだった。
「そ、それは何をしているんだ?」
咽喉から絞りでるような声でリリィは尋ねる。
「え、あれ? もしかして野生動物に水をあげるのも駄目だったんですか? ……まぁ、そうですよね。いくら可愛からって餌付けみたいなのは良くないでしょうし」
「か、可愛い? いや、それは今なら分かるが、そうではなくて……だな」
見当違いの返答にリリィは言葉を詰まらせた。
研鑽の積んだ結果を誇示するように魔術をひけらかす冒険者はたまにいる。そういった場合は優越感に浸るだけの行為でしかなく、大抵の者はしたり顔をしているが、ジョージからはそんな態度が一切感じられなかった。
(君にとって無詠唱だけでなく魔物に水を与える事も日常的なのか?)
どのような環境で暮らせば、そのような境地に至れるのか。
無詠唱の魔術だけでなく、魔物すら愛玩動物として扱うのが当然のような振る舞い方だった。
「ひ、一つ尋ねてもいいか」
「はい、なんでしょう」
きょとんとした顔でジョージは答えた。
「き、君は魔物と暮らした経験でもあるのか?」
胸の内に秘めた想いを吐き出し、リリィは唾を喉の奥に流し込む。
「魔物と言われても普通の動物との違いが分からないんですけど、大きな黒い狼と一緒に暮らしていた事ならあります。いやぁ、あの子は人懐っこくて甘えん坊で可愛かったですよ」
「大きな黒い狼……いや、まさか。そ、それはともかく、もしも特定の魔物に親愛の情を持った幼い少女がいたとしら君はどうする?」
「ん? 別にどうもしないですけど」
「そうか。……その、すまない、ありがとう」
その答えにリリィは自身の持つ異端な価値観が許されたような気がした。
いや、ジョージならそう言うのではないかと期待していたのが事実だ。
この男ならば思い出に残る者を無下にすることはないと確信する。
その魔物とリリィはもう二度と出会う事がないだろう。
それでも――ジョージとあの人型の魔物が出会ったのなら、分け隔てなく接するに違いない。水を与え、癒しを与えるのだろう。彼に集うこの魔物達のように。
「私もその水を飲んでもいいか?」
「ええ、水ならいくらでもどうぞ。あ、そうそう、後で魔物と動物の違いとか、悪名高き魔物の事を聞かせてもらえませんか」
「ああ、もちろんだとも。とはいっても君の役に立つか分からないがな」
彼に魔物と動物の境界はなく、全て等しく可愛い生物としか思っていない。それ故に違いが分からなかったのだろう。
ふっと笑みが溢れながら、リリィは自分に用意された水に手を伸ばし、掬い出す。
そして口に含み、硬直した。
(……え?)
その水は昨夜のリリィが寛いだ風呂の湯に似ていた。




