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悠遠の旅空に~半神のバックパッカー~  作者: ビール汁
フォルティス大陸東部――シュケル国
54/76

53話 創造されし神の水園

 夜空は東から曙色に染まり、やがて彼方から姿を現した太陽が朝を告げた。来光が大地を彩らせ、微風(そよかぜ)に揺れる草原が波を打つと、芳しい大地の香りが、鉛筆を走らせる穣司に届いた。


「よし、こんなもんかな」


 納得のいった表情で頷き、書き記した文章に目を通す。

 それは自分だけの旅日記。異なる世界での思い出を綴り、偽りのない心情を吐露をする、唯一の手段である。


 “ザフェル達が首都に向かっている間、俺はフェアティアで冒険者の肩書きを得ていた。とはいっても未踏の地へ向かうような冒険はなく、やってる事は日雇い労働だった。それでも海外で働いた事のない俺からすると、日本人のいない場所での労働は新鮮に感じられて楽しかった。

 だけど森の調査という不思議な依頼の最中には、リリィ・ノールズという少女が半ば強引に便乗された。犯罪者と思わしき一味の仲間でプロの女性のような露出の高い格好をしている。

 なし崩し的に便乗されてしまったけど、悪事の片棒を担ぎたくないし、痴漢冤罪や美人局の類いの被害に遭いたくない俺は、道中で書き置きを残したままこっそりと離脱した。

 しかしノールズさんは突然いなくなった俺を心配したらしく、必死になって捜索してくれていたらしい。夜になって再会した時の彼女は涙目で、いつもの口調と違って子供っぽさもあった。普段は大人ぶっているけど、きっとあれが素なんだろう。

 彼女やその仲間達を疑って目で見てしまったけど間違っていたようだ。申し訳ない事をした。”


 熟読した穣司は革表紙のノートを満足げに閉じた。

 食料と共に支度金で買った代物で、組合(ギルド)証と同様に植物性の紙である。元の世界の紙と比べれば、品質は落ちるが旅日記にするには申し分ない。

 鉛筆は丸い筒状の木の先端に、黒鉛の芯を挟んだホルダーを装着するタイプを購入した。現代のものと構造が似ている四角形の鉛筆も売られていたが、どうせなら使った経験のない物が欲しくなったのだ。


 購入した当日には、初めてこの世界に訪れた日から、今に至るまでの出来事を思い返しながら日本語で書き記した。アンジェリカ達と大きな黒い狼、ザフェル達や巨大な龍。そしてコロと牙猫との出会いだ。

 紙の節約を考えて小さな文字で簡潔に書いたつもりでも、既に5ページ分は埋め尽くされている。思っていたより書きたい事が多かったのは、素晴らしい出会いがあったからと言えるだろう。

 誰にも読ませるつもりはない自分専用の日記帳だからこそ、せめて思い出くらいは能力(ちから)に関係のない母国語で書きたいと穣司は考えた。それに日本語ならば何を書いても、他者には解読不能だろう。盗み見されても困らず、紛失や盗難に遭っても胸中を知られる事はない。この世界における最高水準の暗号だ。


「ノートを破るべきじゃなかったかな。他に書けるものがなかったとはいえ勿体ない事しちゃったな」


 書き置き為に破った最後のページを思い出し、今更になって糸を引くような未練を覚える。

 早とちりした自分のせいだと思えば納得するしかないが、紙は何の役にも立たず、無駄になってしまった。


 ふとコロに目を向けると、包み込むように丸くなっている牙猫と一緒になって眠っていた。一人と一匹は安らかな寝顔だ。

 そしてリリィ・ノールズが眠っている客車には動きが見られない。起きている気配が感じられないのは、昨夜から熟睡したままなのだろう。


「コロちゃんと猫はまだ寝ているか。ノールズさんも起きる気配がないな。……夕食の後からあまり喋らなくなったけど、やっぱり魚が嫌いだったのかな」


 入浴後には上機嫌に見えた彼女だが、夕食の鯖のような魚を見た途端に眉間に皺を寄せていた。

 魚が嫌いなのだろうかと不安を覚えた穣司が尋ねると、彼女はそれを否定する。しかしながら怪訝そうに冷凍された魚と見つめる様子は、嫌い料理を目の前にした子供と同じような反応だった。無言の抗議のような眼差すら向けられる。


 それでも一度吐いた唾は飲めない性格なのか、穣司の作った

 簡単な魚料理を彼女は口に運んだ。香辛料を振り掛けてソテーしただけの簡単な料理でしかないが、彼女は一口食べると瞼を大きく見開いただけで、味については何も語らなかった。

 やはり無理をして食べていたのだろう。食べ終わると考え込むように夜空を眺めながら無言のままだった。

 そして穣司が片付けをしている最中には、いつのまにか地面に横たわり、寝息を立てていた。まるで不貞寝である。

 そのまま放っておくのは気が引けた穣司は、能力(ちから)で彼女を浮かせて客車に運んだのだった。


「俺は味も匂いも鯖っぽく好きなんだけどなぁ。……そういえば結局、悪名高き魔物(ノートリアスモンスター)の事を聞けなかったなぁ。異常個体がどうとかって言っていたけど、ただ大きくなりすぎただけなのかな」


 象よりも巨大な猪に目をやると、陽光を全身に浴びながら背伸びをしていた。

 近づいて撫でると、目を細めて身を預けてくる。

 警戒心がなく、人に慣れている様子は、野性本能が失われているようにも感じられた。飼われていた事があるのか、はたまた餌付けされているのかと穣司は推測してしまう程だった。

 昨日にしても、地響きを立てながら歩く巨大猪は、穣司を視認すると近寄ってくるだけで、攻撃してくる気配はまるでない。

 匂いを嗅がれると、背中に乗れと言わんばかりに、体を屈める様子は、しつけられているとしか思えなかった。


「魔物というくらいだから狂暴だと思っていたけど、全然そんな事はないし……ただの動物と何が違うんだろう」


 蓋を開けてみれば愛嬌のある動物でしかなかった。

 どのように分類されているのか不明なのは、この世界の知識が不足しているからで、おそらく相応の経緯があったのだろうと穣司は考察を中断する。


「ま、いずれ分かる事か。……ともかく、今は風呂の片付けをしておこうかな」


 夜空を眺めがら風呂に入りたい。

 そんな思いつきで作った入浴施設だった。

 目隠しの為に四方を岩壁で囲った簡素なもので見栄えは良くない。幼稚園などに設置されているプールを、目隠しフェンス代わりに、岩壁に備え付けたようなもの。

 風情は欠片もない造りであるが、わざわざ違法建築に凝った設計は必要ないだろうと穣司は考えたのだ。誰の許可を取っていないし、すぐに元通りにするつもりだった。


「それにしても……くく。まさか家畜の水飲み場と言われるとは思わなかったな。でも、確かにそんなふうにも見えるか」


 リリィ・ノールズの忌憚のない感想に、思い出し笑いが込み上げる。

 聞いた時には少しばかり動揺もしたが、改めて創り出した入浴施設を見ると、不格好さが感じられた。おそらく建築家の目に映れば、溜め息を吐きながら無言で首を横に振られるだろう。


『おはようございます! 私にはお風呂に見えましたよ!』


「ミャア」


 頭に僅かな重みを感じ、目線を上に向けると、コロの姿があった。足下には牙猫がしがみつくように前足を絡めている。


「うん、おはよう、起きたんだね。でも、簡単に作っただけだから、水飲み場に見える人がいても仕方がないよ」


『うーん、そうなんですか。じゃあ簡単じゃないお風呂ってどんなのですか?』


「そうだねぇ……」


 水飲み場とは思われず、息を呑むような風呂は何かと考えを巡らせる。

 すぐに思いつくのは純和風。しかしこの国の家屋を見れば建築様式に大きな違いがある。おそらく調和がとれないだろう。

 誰かにお披露目する訳ではないが、それでは納得がいかないと頭を悩ませる。


(ここで温泉旅館っぽいのは合わないだろしなぁ。でも俺にはセンスもない訳で……。うーん、世界遺産にありそうな遺跡っぽいのにしてみようかな)


 ぱっと思いついたのは自らが訪れた文化遺産。二千年の時を経ても現代人を魅了する古代遺跡ならば、おそらく美的にも優れているだろう。それを朽ちていない状態で作ればいいのだ、と穣司は安易に考えた。なにより自分が満足できる簡単(・・・)ではない風呂を作ればいい。

 所詮は模倣でしかないが、優れた発想力がない事を穣司は自覚している。どれだけ凄い能力(ちから)を授かろうと中身は凡人でしかないのだから。


「じゃあ、ちょっとだけ簡単じゃないお風呂を作ってみようか」


『はい、楽しみです!』


「はは、あんまり期待しないでね。あ、でも、ノールズさんが起きる前には元に戻しちゃうから」


『あの女の子にはお父さんが作った事を教えてあげないんですか?』


「知らせたり見せたりすると、きっと驚かせてしまうからね。それに余計な気を遣わせてしまうかもしれないし」


 簡素な入浴施設なら魔法で作ったとしても驚かれないだろう。このような平原に風呂を作るのは、常識から外れている気もするが、魔法で作った石で何か作るという事おいては、この世界の常識の範囲内に収まっている筈だと穣司は考える。

 しかし簡単ではない風呂――つまり大規模な浴場作りは常識から外れてしまうに違いない。

 それに悪気はなかったとはいえ、作成者を目の前にして家畜の水飲み場発言をしたのだ。心配性で思いやりのある彼女の事を考えれば、知られてしまうと更に心を煩わせてしまうのが目に見えている。


(ノールズさんは一先ず置いといて……っと。……頭の中にはイメージがあるけど、ただの石製だとありきたりだしなぁ。……よし、あの島の建物みたいな変わった材質にしてみよう。あれって多分、女神ニナが創ったから、この世界にも合うだろうし)


 しかしどのような物質で構成されているのか不明。だが穣司は手触りを思い出しながら想像力を働かせると、問題なく創造できると確信した。


「今回のは風呂は大きめでいってみよう。完成まで目を瞑っていてね」


『はい!』


「ミャア」


 コロと牙猫は示し合わせたように返事をして両手や前足で目を覆った。その動作がなんとも愛らしく、穣司は頬を緩ませながら作成に取り掛かる。


 まずは広めの円形の外壁を創造した。その内側はドーリア式の円形列柱廊を創り、そこから内部は広く底の浅い浴槽にする。

 これだけなら一見するとプールにも見えるだろう。そこで中央は一段高くした島を創造した。小さな神殿を設け、列柱廊に橋を延ばす。するとプールのような浴槽は、小神殿を囲う堀に外観を変化させた。これが外湯になる。


 小神殿には内湯を創り、女神ニナの像を設置する。穣司なりの敬意だ。ついでに牙猫の像も寄り添わせて可愛らしさを演出する。

 両手から浴槽にお湯を注ぎ込むような姿勢の女神は、柔らかに微笑んでいる。その手が源泉となり、内湯から水路を通って外湯である、堀に流れ落ちる仕組みだ。


 しかしそのままでは屋根のある小神殿内が薄暗く、見る者に不気味を与えてしまうだろう。そこで内部に暖色の光源を備えて、穏やかな雰囲気の空間を実現する。

 だが外装の色合いが物足りない。青空と白い建造物は地中海らしさも感じられて悪くはないが緑も欲しくなる。


「緑がないからちょっと寂しいかな? 花か木を植えたいところだけど……あっ、種ならあるか」


 背囊(ザック)に入った存在に思い至った穣司は荷物を取りに戻る。

 甘味を好むコロの為に買った干した果物と、自分の為に買った向日葵に似た種が入っている。その果物はオレンジに似ていて、種が取り除かれていない物も混じっていた。

 向日葵に似た種はフェアティアでは、子供のおやつや酒のつまみとして愛されている。日本では小動物の餌という印象が強いが、海外では食べられている地域もあったので、穣司には忌避感はない。むしろ現地人と一緒になって食べていたくらいである。


「これで緑も感じられるといいけど。おやつに買ったものけど、発芽してくれるかな」


 小神殿の回りに花の種を撒き、等間隔に果物の種を植えて「穣れ」と念じる。

 すると早送り映像のように、にょきにょきと発芽して、あっという間に向日葵に似た花が小神殿取り囲んだ。果樹には瑞々しい果実が実り、仄かに漂う柑橘類の匂いが、心を落ち着かせる。


「よし、色合いは良い感じになったけど……。でもこれ風呂って感じはしないな。神殿とか水庭って感じがする。ま、いいか、創るの楽しかったし、これなら家畜の水飲み場には見えないだろう」


 夢中になって創り上げた入浴施設に満足する。

 仕上げは建造物の名称だ。多くの者に見せるつもりはなくとも、こだわりは重要だろう。最後の最後まで楽しむからこその自己満足である。


「これでよし……と」


 入り口に「女神の泉」と彫刻する。

 内部には「掛け湯推奨、飛込み厳禁」と注意書きを付け加えた。

 昨夜のリリィ・ノールズはおそらく飛び込んでいた。水飛沫を立てる音が聞こえたので間違いはないだろう。マナー違反だが、わざわざ注意するのも野暮だ。どのみち本人が目の当たりにする事はない。


「もう目を開けてもいいよ」


 穣司は目を瞑っていた一人と一匹に呼び掛ける。

 コロはゆっくりとした動作でゆっくりと瞼を開けると「わぁ」と感嘆の吐息を洩らし、中に入ると更に目を輝かせた。

 興奮しているのか牙猫も鼻息を荒くしている。


『これが簡単じゃないお風呂なんですね! 広くて立派なお風呂です! あ、あれはなんでしょう』


 無邪気にはしゃぐコロは、中央の小神殿に向かって飛び立った。牙猫は後を追い掛け、穣司もそれに続く。

 中に入ると穏やかな表情の女神像が、湯を注ぐ姿で歓迎してくれるだろう。湧きだし口はなく、あたかも女神が湯を創造しているような姿である。

 どのような反応を示すだろうか。きっといつものように笑顔を見せてくれる。そう思いながら内湯の間に入ると、嬉々とした声は聞こえずに、湯が注がれる音だけが反響していた。


(えっ……あれ?)


 そこには魅入るように女神像を眺めて涙を流す牙猫がいた。

 そこには呆けるように女神像を眺めて頬を濡らすコロがいた。


「ど、どうしたの!?」


 口を衝いて出た呼びかけは、一抹の後悔が混じっていた。

 何か嫌な事を思い出させた。そう考えるしかないような予期せぬ事態に、頭の中が痺れるような痛みが生じる。


『ふぇ? あれ? 私……泣いちゃってます?』


「あ、うん……。泣いてたから驚いたよ。それに猫もさ」


『女神様を見てたら、なんだか懐かいような気持ちになったような気がしました! 私にも分かりません、エヘヘ』


 取り繕うように牙猫が穣司の足にまとわりつき、茫然自失していたコロが我に返ると、憂いの全く感じられない表情で首を傾げた。コロ自身にも涙の理由が分かっていないようにも見える。


『ところで、お父さん。この女神様は誰ですか?』


「そういえば言ってなかったっけ。……えっとね、この世界を創った女神ニナって言うんだよ」


『つまり、皆のお母さんですか?』


「あ、うん。そうなるかな」


『お母さん……お母さん。素敵な響きです!』


 確かめるように反芻したコロは一転して破顔した。女神像に触れながら、いつもの愉しげで愛らしい表情に戻っている。

 意思疎通はできても言葉は通じない牙猫が、どのような心境で涙したのか不明だが、動物ならではの野生の勘が女神像から何かを感じ取ったのだろうと、穣司は無理矢理納得する。


(うーん、コロちゃんは母性に飢えてるのかな。どこなく女神様に似ているし、無意識に母親を感じたとか? ……もしも女神ニナをお母さんって呼ぶようになったらどうしよう。俺はお父さんって呼ばれているし、これじゃあ俺が旦那さんみたいだ、……いや、それはないか、流石に失礼というか不敬だな)


 コロの心情を推し測りながらも、馬鹿げた己の考えに穣司は呆れ笑いを漏らした。相手はこの世界では唯一神だとされている存在である。一介の旅人でしかない地球人との繋がりはなく、ただの呼称で連想されてしまっては、女神といえども残念な気持ちになるだろう。


(でも、なんだか消すのが勿体なく感じるな。風呂だけ消して、女神像は残しておくってのはマズイかな)


 元に戻すのは一瞬で終わる。楽しい一時ですら、終わりは呆気ないものだ。

 しかし女神像だけは、このままにしておきたい気も湧いてくる。あの島に像があった事を考えれば、偶像崇拝は禁じられてないだろう。まずはこの辺りを管理している役所などに、問い合わせてみるべきかもしれないな、と穣司は考え直した。たとえ拒否されたとしても撤去費用や日数も不要だ。すぐにでも元に戻せるのだから。


「女神像は残そうかなって思うけど、そろそろ風呂を消してもいいかな」


『ちょっとだけ残念ですけど分かりました!』


 名残惜しそうにコロと牙猫は湯面に指先で触れた。

 穣司はその姿に、つい甘やかしてしまいそうになる。

 コロは風呂が好きらしく、牙湯もまた入浴を好んでいた。浸かると目を瞑りながら、心地良さそうにしている猫の姿は人間臭さもある。動物好きにはたまらない光景だろう。

 だからこそ少しだけならいいのでは、と穣司は自分すらも甘やかしたくなった。いや、動物と小さな少女が戯れている姿を見たくなったのが本音だ。


「せっかく創ったんだから、少しだけ入ってみる?」


『えっ、いいんですか! やったー! お風呂の服に着替えてきます!』


 ぱっと花が咲くような笑顔を見せるコロは、いつもの湯浴み着取りに牙猫と一緒に外に出る。

 穣司も一旦外に出ようと、女神像に背を向ける。その瞬間に得も言われぬ違和感を背中に覚えた。じんわりとした暖かさと、視界の端で淡い光が余韻を残すように消えていくのを瞳が捉えた。


「ん? 何か光ったようかな……あれ、気のせいかな」


 再び振り返ると、そこには穣司が創りだした光源に照らされる女神像があるだけだった。他に変わった様子はなく、首を傾げながら穣司は外に出ると、自らの創造した施設の外観を眺めた。


 頬を撫でる風も心地良く、穏やかな一日の始まりを予感させる。あの子達が朝風呂を楽しんだら出発しようと小さく頷いた。

 だが……『あっ!』という驚きの声の後で、かしゃりと金属の擦れる音が穣司の耳に届いた。


「何だ……これは。女神の泉……と読むのか?」


 振り返ると訝しむような顔つきリリィ・ノールズが、穣司力作の女神の泉を睨みつけていた。


(あ……しまった。もう起きたんだ)


 証拠隠滅する前に目撃者が現れた。

 これがサスペンスものなら彼女は口封じされる運命だろう、と穣司は僅かな現実逃避をしながらも、どのように答えれば当たり障りないかと思考を巡らせる。


「なんなんでしょうね。朝起きたらこんなものが建っていたんですよ。……はは」


 しかし口から吐き出された言葉は、知らなぬ存ぜぬという見苦しいものだった。


「そうか、君にも分からないのか」


 リリィ・ノールズは材質を確かめるように撫でると、考えを巡らせているか無言になった。しばらくして何かを思いついたのか、得意気な笑みを浮かべながら、穣司に向けて言葉を続ける。


「ならばこのような建物を見て、君ならどうする?」


 瞳か輝き、口角は吊り上がっている。

 その姿はまるで廃墟を探索しようとする子供のようだった。明らかに中に入る事が前提の様子だ。


(あぁ、もう……。建物の中はお風呂だったって最初から言っておけば良かった)


 言葉の選択間違いに気付き、嘘の下手くそさに自嘲する。未知があれば知りたくなる。当然の事だ。

 だが中に入れば注意書きがある。遊び心で書いた文字だが、彼女からすると当て付けのように思われても仕方がない。

 焦りからこの場で文字だけを消すという行為を失念していた。どうにか彼女の意識を逸らそうと、穣司の意識までもが逸れていた。


「俺ならどうする……ですか。世の中には不思議な事もあるもんだなって思いながら、とりあえず朝食の準備ですかね」


「えっ? いや、不思議の一言で済むような現象ではないだろう」


 期待していた返答ではなかったのか、リリィ・ノールズは眉を下げる。


「いや、ほら、世の中は不思議な事ばかりですし、考えても仕方がありませんよ。それに俺の目的は森の調査ですから、ね?」


「む……確かにそうだが。でも冒険者なら解き明かしたいという気持ちにはなるだろう?」


「いえ、それは分かるんですけど……」


 確かに一夜にして建造物が出現したら困惑するだろう。昔の武士も同じような感情を抱いたかもしれない。

 しかしそこに解き明かすような謎はない。他者からすれば様々な思いを馳せる現象だとしても、創造した本人からすると、ただの入浴施設でしかないのだ。

 だが、それでは彼女も納得しないだろうし、上手い言い訳も持ち合わせていない。穣司にできるのはただ一つ。


「じゃあこうしましょう。依頼の帰り道に調査すると事で」


 問題の先送りだった

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