51話 姿消す者、探す者
枝垂れた樹木が微風に揺られるように、背後から流れてくる風が、リリィの結った髪をそよがせた。自身の髪が耳を擽ると、こそばゆさを感じるより先に危機感が募る。
「ちっ、私達が風上にいる……か。アレがただの巨大猪なら問題なかったのだがな」
額を伝う冷や汗を感じながら、リリィは携えた剣に手を伸ばす。
なんの変哲もない魔物であれば、魔道具で身を固めなくとも、剣さえあれば討伐は容易だ。あまり得意ではない魔術ですら、増幅無しの火球を数発撃ち込むだけでも倒せる。つまり単なる巨大猪程度では障害にすら感じられない。
しかし悪名高き魔物なら話は別である。計り知れぬ強さを持つとされている魔物を討つのに単独では自殺行為。ましてや素人同然の同行者を守りきる事は難しい。
(このような魔物が闊歩している平原に、新人を単独で送り出そうとするとは一体どういう了見だ。……まさか贈物持ちの貴重な人間を体よく葬るつもりなのか。あの猫老婆の職長は何を考えている)
冒険者の名指し依頼は稀にある。
だがそれは信頼と実績のある高ランク者だからこその話だ。雑用じみた依頼で街を駆けずり回るのが似合うランク1の冒険者が請け負う仕事では決してない。ましてやジョージという男は右も左も分からぬ新人である。
(森の調査という曖昧な内容。そして破格な報酬。しかも依頼主の名は明かされていない。私にはこの国の連中がジョージを亡き者にしたいとしか思えん。獣人は聞く話より野蛮ではなかったが、思ったりより小賢しさがあるのだな)
フェアティアという港町。そして獣人種はリリィの想像していた野蛮さはなかった。其処らじゅうで血みどろの殴り合いをしているような治安の悪さはなく、死体がゴミのように転がっている事はない。
張りつめた空気が漂う事もあったが、それでも随分と平和で、活気づいている。
強盗の類いは見られなかった。一人に見せかけたリリィが、あえて裏路地を歩いてみても襲われる事はない。声を掛けられても「道を間違えたのかい?」と聞かれる程度のものだ。
噂に聞く悪評とは相違していた。
だが、これまでの人生において、似たような事は何度かある。噂話だけではなく、自分の目で真偽を確かめるべきなのだと、経験から学んでいた。
故に獣人種について考えを改めるべきではないかと、リリィは仲間に問うた事がある。
しかしそれが道を違える切っ掛けとなった。その時のリリィは幾許の後悔もなかったが、今となってみれば悔恨の念に苛まれる。
――おそらく仲間が正しかったのだろう。
新人冒険者を単独で行動させるのは普通では考えられないし、無謀な依頼は職員が勧めないだろう。才覚を発揮する前の成長段階にあるとはいえ、貴重な贈物持ちの男である。それとなく過保護になるのは理解できても、怪しげな森に一人で行かせるのは有り得ない。
むしろ依頼という名の下に合法的に葬ろうとしているとも考えられた。
とはいえ、その理由はリリィには検討がつかなかった。
有能になりそうな者に唾をつけて、抱え込むのなら納得もいくが、その身に危険のある事をさせるのは腑に落ちない。
ならば敵に回った時の驚異を考えて、今のうちに始末しておくという事かと、今回の依頼で不信感を抱いたリリィは結論付ける。
だからこそジョージという男を守る為に同行した。もちろん彼が持つ贈物が目当てで、絆を結んでおきたいという事もある。
しかしリリィは同じ冒険者として、ランク1の新人がみすみす殺されるの避けたかった。子供の使いのような依頼ですら、楽しそうに請け負う彼の姿を見ていると、微笑ましい気分になると共に、初心を思い出させてくれるのだ。
死なせはしない。そして共にこの国から離れよう。そうリリィは心に決めていた。
「君に何かあれば一大事だ。……悪いが引き返すぞ」
「え、ええ……。俺もそのつもりだったんで」
素直に従うジョージにリリィは感心する。歳下の女の言う事なんか聞けるかと、強がる者もたまにいるが、彼はそういった人間ではないようだ。きっと長生きするだろう。
「フッ、良い判断だ。アレは危険かもしれないからな」
「危険……なんですか? 悪名高い魔物って言われても、いまいち分からないんですけど」
ジョージは呑気な様子で首を傾げていた。
危機感が欠落してしまっているかのような気楽さがある。
「端的にいえば異常個体といったところだが……詳しい話は無事に帰れた時に説明しよう」
無知ゆえなのか、彼は恐怖を感じているようには見えず、俯きながら「危険とは思えないよね」と誰かに語り掛けるように、独りごちる。
その安穏とした様子に不安を覚えるが、それでも逃げる事を選ぶのだから、冒険者の勘は働いているのだろう。
前方を睨むと魔物との距離はまだあった。
悪名高き魔物らしき相手は、こちらに気付いているように見える。が、詰め寄ってくる気配は感じられない。
リリィは剣から手を離し、御守りを兼ねたペンダント握り締めた。
魔力が高まっていき、溢れんばかりに増幅される。
「聖なる風よ、我らを清め給われ。範囲化する嗅覚感知遮断」
リリィが範囲化した消臭魔術を唱えると、透き通るような薄緑の清風が吹いた。
知覚された今となっては悪あがきでしかない。それでも何もしないよりはマシだ。
「とにかく、今は戻ろう。もしもの時は君ひとりでも逃げてくれ。そして無事に帰られたのなら、救援を要請してくれると助かる。……だが、二人とも無事に逃げられたのなら――」
リリィは振り返り、ジョージに笑いかける。
「その時は私の住む国に一緒に帰らないか。それに君は見込みがあると思うし、私自らの手でしごけば、初心者の君もすぐにモノになるだろう。共に揉まれながら、更なる高みに目指すというのも悪くない」
そう告げるとリリィは来た道を引き返す。
客車から「ぶふっ」と噎せるような声の後に「うわぁ……」と聞こえたが、おそらく今になって、この危機的な状況に気付いたに違いない。
(我ながら都合が良いとは思うが、襲い掛かってくれるなよ。私一人ではジョージを守りきれないからな。……彼はいずれ誰かの助けになる男だ、死なせる訳にはいかない)
どこまで毒に耐性のあるのか不明だが、もしも疫病に耐性があるのなら、一切の危険を伴わずに疫病が蔓延する地の人間を助けられるはず。見捨てられる者はいなくなり、絶望のなかで死を待つ者はいなくなる。それに治癒術の素養のある彼が、最低限の強さを身も付ければ、命を落とす危険も低くなるだろう。
「君は警戒していてくれ。あの魔物が追い掛けてきたら、その時は手綱を頼むぞ」
決意を胸に秘め、手綱を握る手に力を込める。
ここで死ぬつもりはない。刺し違えるつもりもない。
蛮勇さと勇敢さを履き違えているつもりもなかった。
やるべき事は一つ。ただの時間稼ぎ。
中衛的な役割を担う事が多かったリリィは、攻撃も支援もこなせる自信があった。戦闘中に仲間が負傷した時は、治癒術を施して戦線復帰する間に、どの分野の代役でも務める事もできた。
万能とは言い難く、器用貧乏というべき能力だが、どのような事でもそつなくこなせる分だけ、単独での生存率は高い。
(……静かだな。追い掛けてくる気配がないのは良いが)
しばらくの間、来た道を引き返しても異変はなかった。
リリィの懸念は杞憂に終わったのか、背後からは何も聞こてない。
疾駆蜥蜴が大地を蹴る音と息づかい。そして客車の車輪が回る音だけが響き、まるで自分一人だけが取り残されたような錯覚を起こす。
結局のところ客車の彼から、危険を知らせる言葉は聞こえてこなかった。
やがて長閑な畑風景が瞳に映ると、リリィは安堵の吐息を漏らした。
「ここまで戻ってくれば安心だろう。何事もなくて良かったな」
初心者のうちから悪名高き魔物と思わしき存在に遭うとは災難だが、これも良い経験になるだろう。なにせ今回は何も失わなかったのだから。
そんな言葉を掛けようとリリィは後ろを振り返り――そして言葉を失った。
「な……」
いるはずの人間がいなかった。
彼に懐いていた牙猫もおらず、彼の背囊も消えている。あるのは疾駆蜥蜴の食料だけだった。
「……まさか、落ちたのか? いやしかし、そんな気配は感じられなかった」
込み上げる焦燥を唾と共に飲み込む。
おそらくあの魔物の仕業ではない。あれほど巨躯なら近付かれただけで、すぐに察知できるというもの。ならば一体なにが起こったというのか。
疾駆蜥蜴を停止させ、リリィは客車に乗り込む。
まずは状況を把握しなければならない。そう意気込むと最初に目に入ったのは一枚の紙切れだった。
「何だこの紙は」
拾い上げて、目を通す。
そして絶句する。
その紙切れにはこう書かれていた。
“一人でも大丈夫なので探さないでください。それに言葉遣いが気まずいです。申し訳ないですが、そのまま帰ったらアセナは返しておいてください”
「――っ! な、何を言っているんだこの男は。もっと女らしい言葉を使えという意味なのか。いや、それより何が気まずいんだ」
まるで意味が分からなかった。
いや、それよりも危機感のなさに、怒りさえ覚える。
あのような魔物に遭遇しておきながら、一人で大丈夫だと思える神経を疑った。
「アセナッ! ジョージの臭いを辿ってくれ」
手綱を握り直し、再び反転させる。
説教の一つでもしなければ気がすまないが、それも生きた相手でなければ意味がない。
しかし疾駆蜥蜴は首を横に振って鼻を鳴らした。走り出す気配はなく、残念なものを見るような目つきでリリィを一瞥する。
「なぜ走らないんだ。……いや、私が消臭魔術を使ったから、彼の匂いが消えたの……か。まさか、その隙を狙って?」
リリィは頭を抱えた。彼の行動原理が掴めない。
「まぁいい、ジョージは徒歩だ。すぐに追いつくさ」
流石にあの魔物に挑むという無茶はしないだろう。いくらなんでもそこまで馬鹿ではない。
それに彼の目指す場所は知っている。疾駆蜥蜴の足なら追いつけるとリリィは楽観視していた。
しかし――いくら進んでもジョージの姿は見えなかった。
悪名高き魔物と遭遇した辺りを過ぎても彼の姿は見当たらない。
道中に脇道はなく、見渡す限りの平原だが、人の気配は感じられない。通常の巨大猪が時折、見られる程度だ。
最悪の事態を考えたが、彼の血で地面が染まるという事もない。それどころか彼の痕跡がなかった。まるで消えてしまったようで薄気味悪い。
「まさか、生きたままあの魔物に咥えられて……いや、まさか」
そうでもなければ説明がつかない。だが巨大猪の特性を考えると人を食うとは思えない。しかし異常個体ともなれば、絶対にないと言い切れない。
リリィはあらゆる事態を推測するが、納得のいく答えは出せなかった。
楽観視はできない。
救援を求めるべく、一度戻るのが良いのか、あるいはこのまま彼を探すべきなのか、判断に迷った。
それでも時間は待ってくれず、夕闇は容赦なく大地を包んでいく。
「このまま進むしかない、か」
思えば休息を取っていない。
それは自身だけでなく疾駆蜥蜴もだ。この状態では捜索もままならない。
だが、もう少しだけ。
あと少しだけ進もうと、リリィは気力を奮い立たせる。
視線の先には小高い丘があった。コブのような岩もある。
そこに着く頃には空は闇に染まっているだろう。
幸いな事に雲はまばらに浮いているだけで、月明かりにも期待できそうだった。
「あの岩なら見渡せるか。無理を言って悪いが、あそこまで付き合ってもらうぞ。休息はそこでしよう」
語り掛けるとアセナは首だけ振り返って鼻を鳴らした。
リリィは肯定の反応と捉え、そのまま丘を目指す。
彼の安否は気掛かりだが、ようやく休息をとれると思うと、僅かに緊張も解れる。御者台に座り続けたリリィの尻も、そろそろ音を上げそうだった。怪我ではない為に、治癒術を施しても効果は薄い。
だが、たとえ暫しの間だとしても休めるのだ。そう思えば無理も通せる。
そして――そのまま進んだリリィは妙な違和感に眉を顰める。
普通では考えにくい香りが鼻腔をくすぐった。それはろくに食べていない者にとって、暴力的ともいえる食欲を刺激する匂いだ。
「これは……魚が焼ける香り。それに香辛料の匂いも混じっている」
なぜこのような場所で。
考えられるのは何者かが野営しているという事。
しかしながら近くに川は見当たらず、火の明かりも視界には映っていない。ならば丘に向こうに川が流れ、そこで野営しているのだろうか。
「このような場所に誰がいるんだ。……奴らではないといいが」
ジョージなら幸いだが、徒歩でここまで来られる筈がない。
手掛かりが得られるような人物がいれば良いが、この先は商人が向かうような場所もないだろう。考えられるのは他の冒険者くらいだが、フェアティア付近で見掛ける事はなかった。
最悪の展開は仲違いをした元仲間がいた場合だ。その時は剣を取る必要も出てくる。
「静かなる風よ、我より音を消し去り給われ。聴覚感知遮断」
御者台から降りたリリィは、疾駆蜥蜴に待機を命じて、密やかに魔術を唱えた。
消音魔術は思いの外、魔力は消費するが、範囲化させないなら魔道具に頼る必要はない。
超一流の魔術師なら聴覚感知遮断と同時に知覚感知遮断と嗅覚感知遮断を行使できると聞くが、そんな上等な真似は簡単にできるものでもないのだ。
もとよりリリィは知覚感知遮断を習得していなかった。姿を隠せるパウダーも持ってきていない。それでも防具の金属男を消せるのは有利だろうし、不意をつく事も可能になる。
(……何者がいるのか)
いつでも剣を抜けるように手を掛けたまま、慎重に丘を登っていくと、空に浮かぶ雲が月を隠した。
周囲から光源が失われ、リリィは薄闇の世界に溶け込んだ。
またとない好機だ。これなら不可視化しなくても闇夜に紛れられると、リリィは自身の優位性を感じていた。視界が悪いのは同条件だが、相手はこちらの存在に気付いてはいない。それに消音魔術が加われば、気配は完全に消えたも同然だ。
(よし、これならば……)
コブのような岩に身を隠し、丘の向こう側を覗き込む。
しかし岩に触れると、はっきりとした違和感が手から伝わってくる。
ゴワゴワとした肌触りだった。
紛うことなき獣の毛並みに、心臓が跳ね上がる。
巨岩と見間違えるような大きさを誇る生物は見た事がある。
ソレから逃げるように立ち去った記憶も新しい。
(――っ!)
大きく後ろに飛び退き、剣を抜く。
魚を焼いているであろう存在に気を取られていた。いや、傍らに、悪名高き魔物と思わしき生物がいる筈がないと思い込んでいた。それに獣特有の臭いすらしなかった。
(……くっ、なぜこんな場所にっ)
あまりの喫驚に息が荒くなる。
心構えもなく、間合いに入ってしまえば、恐慌するのは当然だった。
振り返る魔物の巨大な牙が、暗がりでもはっきりと見える。
人の身など簡単に切り裂かれるような恐ろしい牙。障壁魔術など通じないと本能で感じ取れる。
だが、生き残るには、戦わなければならない。
リリィは乱暴にペンダントを握り締め、魔力を迸らせる。
必要なのは挫けぬ心。折れない心。そして勇ましい心だ。
「聖なる光よ、我に勇猛たる心を与え給われ。勇敢なる心」
動悸は鳴り止み、闘争心が燃えたぎる。
足の一本でも切り飛ばせるなら御の字だ。瞳を焼けるなら、足止めにもなるだろう。そのまま疾駆蜥蜴に乗り込み、嗅覚感知を遮断すれば逃げられる。
大丈夫だ、私なら生き残る。そんな根拠のない自信が湧き上がり、魔物の一挙一動に注意を払う。
だが――魔物は興味なさそうリリィに視線を向けた後に、再び元の体勢に戻る。
寝ていただけなのか、あるいは歯牙にも掛けない弱者だと思われたのか。どちらにしても戦闘になる気配は感じられない。
(かかってこないの……か)
魔術を解除した瞬間に脱力感に襲われた。
震えるような長く深い吐息を吐き出すと、ようやくリリィは安堵を覚える。
鼓動は再び激しく動きはじめ、大粒の雨を浴びたような汗が滴り落ちる。喉は渇き、舌は痺れるようだった。己の限界を越えた精神強化の反動だ。
その時、視界の端に人影が映った。
見計らったように雲が晴れ、その者は月明かりに照される。
「なんか足音がしたけど……あれ、ノールズさん? なんでここに? 帰ったはずなんじゃ」
その者はジョージという男だった。
月明かりに浮かぶ彼の顔は、日常側にある表情。危機感とは無縁の穏やかなものだった。思わず「ただいま」と言いたくなるような暖かな雰囲気を漂わせているのに、妙な神々しさも兼ね備えている。
言い得ぬ感情に支配されたリリィは膝から崩れ落ちた。
「な……なんでじゃ、ないだろう。わたしが、どれだけ、しんぱいしたと、おもっている。きみはここで、なにしている……どうやって、ここまできた」
舌が痺れて上手く回らない。心無しか鼻の奧が痛み、鼻水が垂れそうになる。
「す、すみません、てっきり帰ったものかと……。えっと……今はここを野営地にしようとしてました。どうやってきたかと言われると、その子に乗って……」
彼の目線の先には寛いでいる巨躯の猪がいる。
「まものに、のって? そ、そんなこと、ありえない」
「いや、まぁ、それは……。あ、いや、そんな事より鼻水が……ほら鼻をちーんして」
「あ、ああ」
差し出された大きな布で鼻をかむ。
涙が流れたのは、限界を越えた事と、眼精疲労のせいだ。決して安堵から泣いたのではないと自分に言い聞かせる。
それでも「あー、うん。女の子を泣かせちゃいけないよね。それに思っていたより悪い子じゃないのかも」と独りごちる彼に、反論する気力は残っていなかった。
「心配させて、ごめんね。今度はちゃんと一緒に帰るから、ね?」
鼻をかむリリィに、ジョージは子供に言い聞かせるような態度で言った。
「いやだ。わたしは、かえらない」
リリィは子供扱いされたのが不服で、つい反発する。が、舌は回らないだけではなく、なぜか口調まで幼くなっていた。まるで冒険者を志す前の自分のように。
「えっ、いや、でも一人で帰るのが寂しかったんじゃ……」
「ち、ちがうっ!」
「そ、そうだよね、違うよね。ノールズさんは子供じゃないもんね」
「うん、そうだ。それにジョージは、わたしがみていないと、ふあんだ。だから、ぜったいに、ついていく」
「ああ……うん、分かった。今度こそ、よろしくね」
困ったように笑う彼に、リリィは満足げに笑った。
妙な安心感に包まれていた。いつまでもこうしていたい。そんな気持ちまで込み上げてくる。
けれど腹の音は空気を読まずに「ぐぅ」と自己主張した。リリィは気恥ずかしくなり、顔に熱が帯びるのを感じながら俯く。恥じらいを感じるなど久しぶりの事でもあった。
「あらら、お腹空いてたんだ。とりあえず夕食にする? それとも先にお風呂にする」
「ばかにしないで。こんなところに、おふろはない」
「馬鹿にはしてないよ。ほら、こっちきて」
差し出された手を握り、丘の頂上から見下ろすと、すぐ下には建造物があった。石壁に囲まれているが、屋根は見当たらない。湯気が立っているのは、露天の入浴施設なのだろうが、立地を考えれば理解が追いつかない。
「な、なんで、こんなところに?」
「いやぁ……。ま、細かいことは気にしないでさ、先に入りたいなら、ゆっくり浸かっておいで」
悪い夢でも見ているのだろうかと思うも、不思議な建物を見ると探索したくなるのは冒険者の性か。
リリィは吸い寄せられるように、その建造物へと向かった。




