5話 死にゆく少女
「あぁ、クソ。マジかよ……」
胃の中でせり上がろうとするものを堪えて、嘆くように呟く。
長く尖った耳の褐色肌の少女だった。
後ろ髪を襟足あたりで切り揃えた長さの銀色の髪は、血と泥にまみれていた。
おそらく年齢は10代後半。生きていたのなら、誰もが見とれてしまうような、整った顔だ。
焦点の合っていない赤い瞳からは涙が流れ、絶望に飲まれながら、死に逝ったようにも見えた。
腕や足はあらぬ方向へと曲がり、腹部以外の損傷も激しい。
身に纏っている黒を基調とした、長い丈のワンピースドレスは、身体と共に腹部から切り裂かれている。
そして――腰には短い鞘を携えていた。
おそらくこの少女が、あの短剣の持ち主なのだろう。
「転がっていたナイフの光って、俺の横を掠めた光の束に似てるな。まさか――」
そこで穣司は自分が思い違いをしていたのではないかと考える。
あの時は自分が攻撃されたものばかりだと思っていた。
しかし、そうではなく雲を突き抜けたあの光の束が、救難信号の一種だったとしたのなら。
「もしかして助けを求めていたのか……?」
もしそうだとしたら、自分はどれだけ間抜けなのだろうかと、穣司は歯噛みをする。
助けを求められている事にも気付かずに、呑気にゆっくりと降下したのだ。今の自分であれば、一瞬で降下して様子を窺う事も出来ていたのに、と。
それだけで穣司は、自分が彼女を見殺しにしてしまったかのように思えてしまった。
「クソっ」
この少女はどれだけ恐ろしい思いをしたのだろうか。
誰かに助けを求め、それも叶わなかった。恐怖に喘ぎ、全身に激しい損傷を負うまで痛めつけられ、涙を流しながら最期を迎えた。
――元の世界でも、同じように死んでいった、異国の少年少女達がいた。
自分よりも一回りは若い子達だった。その時の自分も何も出来なかった。ただ、少年少女達の変わり果てた姿に、ただ涙を流す事しか出来なかった。
人はいずれ死ぬ事は分かっている。それでも自分よりも若い子が、自分より先に死ぬ姿を、見るのだけは絶対に嫌だった。
「もう少し早く来ていれば、君を助けられたのかな」
忸怩たる思いで、力なく少女の下へと向かう。
助けてあげる事は出来なかった。
それでも絶望の涙ぐらいは拭ってあげたかった。
「……ごめんよ」
穣司は少女の頬を、優しく撫でるように、涙を拭ぐう。
まだ少女の身体には熱も残っていた。命を落として間もなかったのだろう。
その時、少女の身体がぴくりと動いた。
「い、生きてる!?」
身体の損傷を見ても、とても生きてる状態には見えなかった。もしかしたら、いま動いたのも、死ぬ間際の痙攣なのかも知れない。それでもかろうじて生きていた。
「みゃ、脈は!?」
穣司は慌てて、少女の首に指を当てる。
恐ろしくゆっくりで、弱々しいにも程があるが、それでも命の脈動は尽きていなかった。
「ある! 生きてる! でもどうすれば……」
それでも絶望的な状況は変わらない。
素人目で見ても助からないのは分かっている。
それに穣司は専門的な医学の知識など持ち合わせていない。仮に持っていたとしても、身体が千切れかけている少女を救う事など出来ないだろう。
――だが
あの老人はなんと言っていたか?
力を授かった時に何が可能になると言っていたか?
そこに思い至った時、穣司は無我夢中で叫んだ。
「生きろ!治れ治れ治れ!」
穣司は無意識に少女の手を握り締め、脇目も振らず、ただひたすら願いを込める。
名も知らぬ少女の無事を。声も知らぬ少女の回復を。
どうか死なないでくれと。どうか助けさせてくれと。
――すると淡く暖かい光が、少女に降り注ぐ。
透き通るような白く清らかな光だった。その光が少女に浸透していくと、瞬きする間もなく、少女の傷は癒えていた。
傷一つ残っておらず、地に散らばった肉片や、血溜まりすら跡形もなく消えていた。
「治った……んだよな?」
穣司はもう一度、少女の首に指を当てる。
先程とは違い、確かな鼓動が感じとれた。力強く、生きる脈動だ。
「良かった……本当に、良かった」
力が抜けたように、その場にへたり込み、穣司は万感胸にせまる思いで、言葉を漏らした。
今度は助けられた。命が失われていく瞬間を、また見なくて済んだ。
そして、この力を授かった事に感謝した。
穣司がそのまま見守っていると、ほどなくして眠りから覚めたように、少女が目を覚ました。
「……ウウ」
意識が眠りと覚醒の間を、行き来しているのか、起き上がっても、まだぼんやりとした表情だ。
「目が覚めた? 身体は大丈夫? 痛むところはない?」
穣司は矢継ぎ早になりそうなのを抑えて、優しく問いかける。
しかし少女は質問に答える事なく、口をパクパクと魚のように開き、目をぱちくりと何度も瞬きをする。
自らの腕や足、そして腹部に目をやり、唖然とした表情で穣司を見つめた。
「どうしたの? 痛むところあったの? それとも声が出せなかったりする?」
「ア……ア……」
少女は感極まるといった様子で、その大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、声を詰まらせる。
それでも溢れ続ける涙は、やがて頬から顎へと伝い、とめどなく零れ落ちた。
まるで迷子の子供が、親を見つけた瞬間に、安心して泣いてしまったかのようだった。ほっとしたのだろうか。
(可哀想に……。よっぽど怖い思いをしたんだろうな。まぁ無理もないか。あんなに酷い怪我を負っていた訳だし)
穣司は少女の正面に片膝を立てて座り、少女が落ち着くまで肩をぽんぽんと、リズミカルに優しく叩く。「大丈夫……大丈夫だよ」と、あやすように優しい声で。
もっと幼ければ抱き締めてあやす事も出来るが、流石に年頃のお嬢さんに、そのような事はできなかった。
「タスケ、クレタ。カンシャ。 ヒカリ、トドク?」
落ち着きを取り戻した少女は、言葉を選び、あるいは探すようして穣司に問い掛ける。
その問いに穣司はあれ?と首を傾げる。
穣司はガルヴァガから授かった言語知識のお陰で、日本語を喋るかのように、現地の言葉を発しているはずだ。
だから、少女も当然のように同じ現地の言語で、返してくるだろうと思っていた。
しかし少女が発する言葉は、片言のようだった。まるで来日した外国人に、拙い日本語で掛けられるような……そんなたどたどしさである。
(空も飛べて、大気圏でも平気な身体になって、瀕死の少女も治す事が出来た。それなのに何で言葉は中途半端に……?)
一瞬、思考の渦に飲まれそうになりながらも、一先ず先送りにする。
いま考えても仕方がないのだ。すぐに答えが出る訳でもないし、どうにか言葉は通じるのだから。
それより少女の問いに、早く答えるべきだろう穣司は思う。まるでおあずけ状態の犬のように、じっと見つめられていたから。
「あー、えっとね。俺が、君を、助けた。光も、空に、届いた。だから、降りて、こられた。でも、遅くなって、ごめんね」
少女が聞き取りやすいようにゆっくりと喋り、身ぶり手振りを交えながら、理解しやすそうな単語を使う。
穣司の言葉に耳を傾け、それを理解した少女は、再び大粒の涙を流した。
「アァ……。ワタシ*アンジェ***ソンザイ****イミ***アナタ***アイ***ツカエ**」
歓喜の声をあげ、嗚咽する。そして感情が吹き出したように、矢継ぎ早に呟いた。
そして聞き取れなくて困惑している穣司の前に跪き、熱を帯びた表情で、穣司の靴の爪先に口付けをした。
「へ?」
穣司には少女の行動の意味が分からなかった。
遅れはしたものの、どうにか瀕死の少女の命を救える事が出来た。安心して大泣きするのもわかるし、感謝される事もあるだろう。
だが、なぜ靴の爪先に口付けをするのだろうか。顔を赤らめているのも理解出来なかった。
(え……急にどうしたのこの子!? 顔を赤らめて足にってキスって、そういう気のある子!? いやいやいやいや、こちらの世界特有の文化かも知れないし、早とちりは良くないな!うん!)
反応に困った穣司は、良くないと思いつつも、苦笑いで誤魔化した。