47.5話 風と無垢
物置に残された牙猫は、コロという少女を静かに見守った。
これが家族。新たに生み出された新しい妹なのかと思うと、なんとも温かな気持ちが込み上げる。頼まれた通り、守らなければと、小さな少女を包み込んだ。
はじめは匂いを辿っただけだった。
神獣の姿の方が可愛がってもらえる。そんな姉の言葉を聞いて心躍らせていたのだ。
しかし物置に入った瞬間に牙猫は困惑した。
なぜこのような埃っぽい小さな部屋で、神が過ごそうとしているのか。もっと相応しい部屋があるのではないか。そんな不安に苛まれる。
だが「さぁ、おいで」という甘い一声は強烈なもので、牙猫の感じていた不安は瞬く間に消失した。それよりも今この時を逃せば、甘えられる機会を逃すのではないか。そんな思いで胸に飛び込んだ。
この姿は便利なもので、諜報的な活動も容易だ。
街を歩くだけで、市民の声をさりげなく聞く事もでき、物事の早期解決を図る事も可能になる。まさに影から見守りたいと考えるには、うってつけだ。
それに暗躍しようとしている外国人の行動も筒抜けになる。もちろん全てを見通す事は難しいが、それでも随分と情報を集めやすい。
力を取り戻すまでは、野良猫から情報を聞く事もあった。過去にザフェルが娼婦街に訪れていた時は、野良猫を通して情報を得たのである。しかしながら野良猫を通した情報は正確ではない。それ故に、それとなく仄めかして相手の反応を窺っていたのだ。ちなみにザフェルは見事に引っ掛かっていた。
いつしかフェアティアの猫は、幸福の象徴として親しまれていた。
野良猫から情報を得て、解決策を見出だしていたからだろう。しかし自らが神獣としての姿――つまり牙猫と呼ばれている姿で行動するようになってからは、より精密に情報を得られるようになった。そのお陰か、幸福の象徴としての扱いは、牙猫の方が上になっている。力を取り戻してからの期間は僅かだが、目に見えるものを信じてしまう獣人種の特性なのだろう。
だが、今日だけは自らの定めた責務から解放されて、思う存分甘えたくなった。それはきっと自分の行動を非難されなかった安堵感もあるだろう。あの時、あの坂道で、温かな光の粒が降り注ぐ光景を、背中という特等席で目の当たりした事で、より強く甘えたいと感じた。堪えきれなくなったという表現が正しい。
――そうしてウェンテは獣の姿に変えて、甘えに向かったのだった。
物置らしき部屋では多幸感に包まれた時を過ごせた。
男神に見つめられるだけで、喜々とした感情が底から溢れ出る。自然と目を細めてしまうのは仕方がない事だろう。
神獣の姿では、ここまで撫でてもらえる。
そう感じたところで、ウェンテはある言葉を思い出す。
――獣の姿になれる事を絶対に知られてはいけない。
テネブラが言ったとされる言葉をフランから聞いたの時には首を傾げた。
なぜそのような事を言ったのか真意が分からない。ウェンテが知る限り、二つの形態を持つ生物は自分を含めた姉妹達だけだ。知られて不味いような事が思いつかない。
ただ単に人の姿より獣の姿の方が撫でてもらえると味を占めたのか。あるいは獣の姿の時に、何か粗相をしたのだろうかとウェンテは推し量る。
とはいえ、すぐに出せない事柄を考えても仕方がない。いつかテネブラが自分の口で伝えるらしいのだから、余計な詮索をする事ではないだろう。
それに今は貴重な時間を過ごしている。
甘える事も大切だが、他にも重要な事を学んだ。
――足を伸ばして寝られるなら、広い寝台は必要ない。
この男神の言葉は、教義ともいえるだろう。
つまり人が寝るのに豪華な寝台は必要ないのだ。
たとえ神という大いなる存在でも、飾らずに質素で心清らかに暮らそうとしている。
小さな物置ですら楽園のように過ごしている姿は、慎ましいという言葉では言い表せない。欲が薄く、他者から奪おうとする様子が無い等しい。
ウェンテが身をもって学んだ事はハリルにも伝えるべきだと強く感じた。同時にこの物置は後世に残るように保存すべきだとも考える。
そして更に重要な事もあった。
コロちゃんと呼称されている存在の事である。
どういう訳か、その存在の姿は店主の獣人にも見えていないようで、もちろんウェンテの瞳にも映っていない。が、僅かにその気配を感じ取れていた。
ところが男神の「コロちゃん」なる存在への接し方は、我が子へと向けられる慈愛に満ちたものだった。かつて母である女神から、同じように接されていたのだから間違いようがない。
おそらく神の力によって新たな子が創られたのだろう。
自分達と同じ存在であり、ウェンテからすると妹が増えた事になる。テネブラが末妹ではなくなったのだ。
しかし本当にそれでいいのだろうかとウェンテは考えてしまう。今はまだ自分が娘である事を伝えられないのだ。
だが「家族」「妹分」という言葉に感激で心と身体が震えた。
きっと男神は神獣の姿の自分に気付いていない。だからこそ意図した言葉ではない筈だとウェンテは理解している。おそらく「コロちゃん」なる存在の事も、家族や妹のように一緒にいられるかと問われただけだろう。
だとしても―だとしてもだ、その言葉は何よりも嬉しかった。
偶然だとしても姉として接しなさいと言われているようで嬉しかった。
そして男神の力によって「コロちゃん」なる存在を知覚した瞬間は息を呑んだ。
緩やかに伸びる白金色の髪。身に纏った衣装。
そして――安らかな表情で眠る小さな少女からは、女神ニナの面影が感じられた。
思わず匂いを嗅いだ。
しかし母の匂いではなく、属性を司る力も感じられない無垢な存在だ。
それでも歓喜に酔いしれるウェンテは無意識に飛びついたのだった。




