47話 猫と少女と穏やかな時の中で
「おお、立派な牙が生えてるけど猫……でいいのかな?」
可愛らしい闖入者は猫のような動物だったが、イエネコにしては大柄といえる体格だった。しかし、太っている訳ではなく、しなやかな身体だ。凛とした美人顔の上顎から伸びている犬歯は鋭く、咬傷を負えば深手になる事が容易に想像できる。が、入る部屋を間違えたのか、落ち着きなく室内を見回している姿が微笑ましい。どこか不安そうにも見える表情からは獰猛さが感じられなかった。
加えて薄暗い室内のせいか、瞳孔が真ん丸く開かれている瞳が愛らしく、穣司は頬が緩むのを自覚した。
「勝手に入ってきちゃ駄目だよ。ほら、出ていかないと」
言葉が通じないと分かっていても、つい幼い子供を相手にするような態度になってしまう。それに初めて見る種類の猫科の動物だ。それだけで舞い上がりそうになっていた。
『んん? 猫ちゃん?』
コロは猫らしき動物を不思議そうに眺めていた。
「この子の種類を知ってるの?」
『どうなんでしょう。どこかで会いましたか?』
猫の鼻先まで飛んだコロは、吟味するようにじっと見つめながら首をひねった。
(もしかして記憶を失う前は、この猫と会ってたのかな)
猫の方も鼻先が気になるのか、様子を窺うように前方を見ている。しかし視線は絡み合っていない。時々、穣司の顔と自らの鼻先を交互に見ている。見えない筈のコロの気配を感じ取り、不思議に思っているのだろうと判断した。
ともあれ店主の許可なく動物を侵入させたままなのは拙い。それに掃除をしなければならないのだ。今は感情を押し殺し、撫でたい欲求を抑えるべきだと自分を戒める。
「さぁ、おいで」
片膝をついた穣司は媚びるような優しい声調で呼び掛ける。
警戒心を抱かせないようにゆったりとした動きで、猫を誘うように静かに微笑んだ。
近寄ってくれば、優しく抱き上げて、宿の外に連れ出す。思い描いた方法は実に簡単なものだ。
しかし猫からは警戒している気配が感じられなかった。それどころか、穣司のただの一言に反応して、一気に距離を詰めるように胸に飛び込んだ。
「おお、ちょっと……これはっ!」
反射的に猫を抱えた。すると喉をゴロゴロと鳴らし、甘えるように全身をこすりつけながら「ミャア」と鳴く。頬を舐められると、ざらざらとした感覚が妙に心地良い。
穣司は予想外の行動に驚いたが、すぐにだらしなく目尻を下げた。
「おふっ……これは随分と甘えん坊の美人さんだな。……って女の子なのかな」
抱き上げて股を眺めると、雄の特徴はなかった。
なるほど雌なのか。そんな事を思いつつ、ついでに猫の腹に顔を埋めたくなる衝動に駆られた。
(警戒していないし、ちょっとくらいなら、お腹に顔を埋めてもいいかな。……ちょっとだけだし)
穣司は唾を飲み込み、猫の腹に顔を近付ける。だが、既のところで思いとどまる。
視界の端では興味深そうな表情で、こちらを見つめているコロの姿が映り、実行に移す気持ちなど一瞬にして消え失せた。こんな姿は見せられないと自重する。
ふと、猫に視線を戻すと、期待に満ちたような表情だった。まるで顔を埋められるのを待っているかのような瞳だ。とはいえコロがいる手前、腹に顔を埋める事はできない。穣司は悩ましく思いながらも、抱え直して顎を撫でる。
『甘えん坊さんで可愛いですね!』
穣司の元へ戻ったコロは、真似をするように猫を撫でようとする。しかし、当然の事のようにその手は猫に触れる事なく、すり抜ける。
(あぁ……触りたいのかな)
先程の反応を考えれば記憶を失う以前は触れ合っていたとも考えられる。もしもそうなら触らせてあげたいが、記憶を呼び起こす事を恐れて、穣司は僅かに躊躇する。
良い記憶だけとは限らないのだ。それでも触りたいと思っているなら叶えてあげたい。
「あのさ、コロちゃん。……触ってみたい?」
穣司は遠慮がち尋ねた。
「どちらでもいいですよ!」
しかしコロは逡巡する事なく笑顔で即答した。
嘘偽りなく心の底から思っているような面持ちに肩透かしを食らう。どうやらこの猫と強い絆で結ばれていた訳ではないらしい。
「あ、そうなんだ……」
猫を撫でる手が止まり、コロの様子を眺める。
考えすぎだったのかなと、穣司は首を傾げそうになった。
すると猫は手招きするように、穣司の腕を前足で抱えた。もっと撫でてほしいと甘えるような姿に、再び頬が緩む。
ではご所望通りにと、穣司は全身をくまなく撫で回すと、猫はうっとりと目を細めていた。されるがままで嫌がる気配を一向に見せず、撫ですぎによる反撃行動も見られない。
「はは、こやつめ」
『こやつめー!』
コロと二人で猫を撫でていると時間さえ忘れていた。屋外に連れ出す事は頭の中から消えて、いつの間にか戒めは霧散している。
もう少しだけ戯れていたい。そんな欲求に完膚なきまでに敗北した穣司は、掃除を片手間に終わらせたくなった。
なにせ魔法を行使すれば一瞬で綺麗になるのだ。手早く済ませれば、その分だけ猫を愛でられる。
「綺麗になぁれ……っと」
間の抜けた口調で念じると、溢れ出した光の粒が物置に充満した。溶け込むように光が染み渡ると、物置は新築のような美しさを取り戻す。
『おー! これはお掃除の魔法ですか?』
「うん、お掃除の魔法だね。こうやって掃除する人もいるんだよ」
「ピカピカで綺麗なのって良いですよね!」
目を輝かせるコロに、穣司は「そうだね」と頷く。
借り物の力を自慢気にひけらかしたくはないが、コロが相手なら不思議と気にならなかった。それにアンジェリカ達も似たような事はしていたし、このくらいの事は異世界では普通の事だろうと穣司は思っている。特別珍しい事ではないのだ。
そうして穣司は綺麗になった物置で、人懐っこい猫と静謐なひとときを過ごした。
ささやかだが至福の時間である。
だがしかし、それも長くは続かない。
コンコンと扉を叩く音が物置内に響き、穣司は現実に引き戻された。
「お客さん、ちょっといいかい?」
その声に心臓が跳ね上がるような錯覚を起こした。
今更になって猫を屋外に出すべき事を思い出す。しかしながら隠すような事でもないかとも考えた。なにせ内密に招き入れた訳でもないのだからと、言い訳がましい考えが脳裏をかすめる。
「ど、どうぞ」
とはいえ何とも言い難い後ろめたさがある。
恩を仇で返した気分になった穣司は、口ごもりながら返答した。
「じゃあ入るからね」
言葉と同時に中に入った店主は、トレーを手にしたまま目が点になっていた。やがて状況を把握するように、物置内をじっくりと観察してから、ようやく口を開く。
「……もしかして魔術で掃除したのかい? 時々そんな人がいるけど、これはその時に比べると……おや、その動物は?」
店主は言葉の途中で、猫を視線に捉えた。
「いや、その……窓を開けたら入ってきちゃったみたいで……あはは。……外に出した方がいいですよね」
「物置の中なら気にはしないよ。それにその牙猫はこの街では幸運の象徴だからね。誰も邪険に扱ったりしないんだよ」
「牙猫……幸運の象徴?」
「困り事を抱えている時に、その牙猫と遭遇すると物事が上手く運ぶって言われているんだよ。……とは言っても人に懐くような動物じゃないから、懐いている姿は見るのは珍しいね」
「へぇ、縁起が良いんですね」
この街では福猫として大切にされているんだなと、撫でながら牙猫に視線を落とす。目が合うと、まるで微笑んでいるかのように、牙猫は目を細めた。
(可愛いなぁもう……。でも、こんなに人懐っこいのに、懐くような動物じゃないってのが信じられないな)
自分にだけ懐いてくれているのではないかと、穣司は自惚れそうになる。しかしそれは思い上がりというもので、実際にはそうではないのだろう。この世界におけるマタタビのようなものが、知らぬ間に服に付着したのではないかと考えると納得がいく――気がした。
「ああ、それよりお茶と焼き菓子を用意したから、ここに置いておくよ。狭いだろうけど、ゆっくりと寛いでおくれ」
朗らかな笑顔の店主は、物置内に置かれている踏み台ともいえる木製の台にトレーを置いた。
「ありがとうございます。これだけの広さがあれば足を伸ばして寝られるんで充分ですよ。それに広い寝台がなくても問題ないですし」
「そんなもんかい? 仕立ての良さそうな服を着てるのに質素なもんだね。ま、特に用件があった訳じゃないから、ゆっくりしておくれ」
店主はそう告げると、物置を後にした。
トレーに目をやるとティーカップと小さな焼き菓子が二人分載せられている。
赤褐色の紅茶水色の液体は、まさしく紅茶の香りである。薄いパイ生地を何層にも重ねて焼いたような菓子の上部には、粉砂糖が雪化粧のように薄く積もっていた。
紅茶の香りと甘い匂い。思わず唾を飲み込み、今朝から何も口にしていない事を思い出させる。
(そういや朝から何も食べてなかったな。……しかし、ここまで良い人だとは思わなかった。これはどこかで恩返しをしておかないと……)
厚意に甘えてばかりはいられないが、穣司自身の力では掃除や洗濯などの雑用程度の事でしか恩義を返せない。能力を使えば別だが、過剰過ぎる恩返しは逆に気を遣わせてしまう事も考えられる。その塩梅が難しく、穣司は頭を悩ませる。
(あ……肩揉みとかいいかも。さりげなく悪いところを治してみるとか)
ふと名案が浮かんだような気がした。
これなら能力を使っても、ごく自然に身体の不調を治せるだろう。端から見れば、ただのマッサージなのだから、気を遣わせる事も少ない筈だ。問題があるとするのなら店主が健康体の場合だ。もちろん健康に越した事はないが、その時は別の手段を考えようと、穣司は満足そうに頷いた。
一先ず問題解決の糸口を見出だした穣司が、再びトレーに視線を戻すと、目を耀かせたコロが焼き菓子を見つめている事に気付く。まるでケーキ屋のショーケースを熱心に眺める子供のようだった。会話に参加する事なく物静かだったのは、これが原因なのだろう。
「食べてみたい?」
『はい! 食べてみたいです!』
期待に満ちた表情で即答するコロに穣司は吹き出しそうになる。
どうやら焼き菓子は「どちらでもいいですよ」ではないらしい。
「では、これでどうかな――」
コロに向けて手をかざす。食べられるようにと願うと、煌々とした砂塵が少女に降り注いだ。
『はわっ! ……何だか暖かいです!』
僅かに驚きの表情を見せた後に、コロは全身で太陽の光を浴びるように手を広げた。気持ち良さそうに目を瞑る姿は、身体や心に不調をきたしているようには見えず、嫌な記憶を叩き起こした気配はなかった。
「これで食べられるようになったとは思うけど……ともかく、いただきますか」
『いただきます!』
食前の挨拶を告げるや否や、コロは焼き菓子にかぶりつくと、満開に咲く花のような笑みを浮かべた。言葉なき歓喜を表している姿は、どのような事を感じているのか容易に想像できる。
とても美味しいです――だろう。
見ている方が幸せな気分になれる食べっぷりに癒された。
穣司からすると小さな焼き菓子だが、コロの身体では食べきれないような大きさである。それでも小動物のように無我夢中で食べる姿は微笑ましい。
そんな姿を牙猫は不思議そうに眺めていた。おそらく牙猫の目には、何もしていないのに焼き菓子が減っていくように見えるのだろう。これが人なら心霊現象として驚く事に違いないと、穣司はくすりと笑った。
穏やかな気持ちで穣司は紅茶を口にする。砂糖は入れなくても、飲み込んだ後に、僅かな甘さが舌に残る。鼻から抜ける香りも心地良い。
「……落ち着くなぁ」
安穏とした気持ちが胸の内から溢れていた。牙猫を撫でるとより一層幸せな気分になり、小さな物置は小さな楽園になっていた。
ああ、そうか。これが福猫たる所以なのだなと、納得しながら牙猫と目が合うと、やはり微笑んでいるかのように、目を細めていた。
(冒険者組合に行くのは、もう少しだけゆっくりしてからにしよう)
平穏とした空気に当てられて、しばらくこのまま寛いでいたくなる。これも牙猫の御利益なのだろうと、穣司はふっと笑みを浮かべた。
◆
小さな身体のどこに収まったのか、焼き菓子を堪能したコロは、心から満たされたように笑った。身体に比べると信じられない量を完食したが、お腹がぽっこりと膨らむ事もなく、食べ過ぎて気分を悪くしている様子も見られない。甘い物は別腹と聞くが、コロの場合は別次元に繋がっているのかと穣司は密かに感動する。
しかし満腹になった影響なのか、コロは抗いきれそうにない睡魔に襲われていた。重そうに瞼を開けて、身体を揺らしている姿は、すぐにでも夢の世界に飛び立ちそうに見える。
穣司はローブを脱ぎ、畳んで床に置いた。敷き布団代わりにしてコロを寝かせると、眠たそうに目を擦りながらコロが呟く。
『一人で……お留守番しても……いいですか』
「一人で大丈夫なの?」
穣司は不安げに聞き返した。
「ふぁい……大丈夫です。いって……らっしゃい」
コロは目を瞑ったまま、口角を上げて小さく手を振った。その直後、安らかな寝息を立てはじめる。
「うーん。本当に一人にしていいのかな」
穣司は物置から出るのを考え直した。
小さな少女を一人で留守番させる事には不安を感じる。しかし他者の目には映らないし、触れられないのだから大丈夫だろうとも思えた。踏みつけられたりはしない筈だ。
だがコロが目を覚ました時に、傍らに誰もいないのは寂しく感じるのではないか。そう考えると穣司は身動きが取れなくなり、コロの傍らに腰を下ろした。
「……どうなのかな。本当に大丈夫だったりして……いや、でもなぁ」
コロは素直な子だ。言ってしまえば嘘を吐けない子であり、わりと欲求に忠実である。そんな少女が大丈夫と言っているのだから、おそらく一人にしても問題はないのだろう。
とはいえ鵜呑みにするのも憚れる。娘を持つ世の中の父親はどのようにしているのだろうと、穣司は変に思い悩んだ。
すると牙猫は「ミャア」と鳴き、手招きするように穣司の胸を撫でた。それから畳んだローブを周りをくるくると歩き回る。
何の意思表示だろうか。穣司はそんな疑問をぶつけたくなった。
「もしかして一緒にいてくれるの?」
牙猫に語り掛けながら、そんな事がある訳ないと苦笑する。
人の幼子を守る猫の話は聞いた事がある。それに動画サイトでは幼子を襲う野良犬に勇敢に立ち向かう飼い猫の様子を視聴した事もあった。
だがそれは共に暮らしている家族だからだろう。会って間もないし、姿すら見えないコロを守ろうとするとは考えられない。しかし――
「ミャア」
牙猫は任せろと言わんばかりに力強く頷いた。
その姿は言葉を理解しているようにも見える。
「えっ、本当に? ……あ、そうか!」
雷に貫かれたような閃きが全身を駆け巡る。
なぜ牙猫なる動物が、見計らったように、この物置に入ってきたのか。
その答えが天啓を得たように導き出された。
この牙猫は家族――つまりコロの匂いを辿って物置に侵入したのだ。けれどコロの姿が見られなかった。だから不安そうに室内を見回していたのだ。それでもコロの匂い、そして僅かに気配も感じられるのだから、不安も募った事だろう。
それに着ていたローブには、コロの匂いも付着している筈だ。それが理由で牙猫が懐いたように見えただけで、実際は家族の匂いに思いを馳せていただけなのだろう。
何らかの事情によりコロは忘れてしまっているが、牙猫は家族の事を覚えている。やはり強い絆で結ばれているのだ。人と動物の感動的な映像を間近で見ているように思えて、穣司は込み上げてくものを抑えるのに必死になった。
「そっか、家族だもんな。……いや、妹分ってところかな」
その言葉に牙猫は、ビクッと身体を震わせた。
やはり人の言葉を理解している。あの島にいた黒い狼も、人の言葉を理解していたのである。ならばこの牙猫も同様に賢いのだろうと納得できる。異世界の動物は恐ろしく知能の高い個体もいるのだ。
「触れさせあげたいけど、今は我慢してね。……でも、姿は見られるようにするから安心して」
牙猫がコロに触れて、どのような事態を引き起こすのか想像もできない。ちょっとした切っ掛けで、封じられたコロの記憶が氾濫するも考えられる。
しかし既にコロの瞳には牙猫の姿が映ってる。それでも変化は見られないのだから、牙猫からコロの姿が見えるようになったところで、事態が悪い方向へと向かう事はないだろう。きっと大丈夫だ。
穣司は牙猫に魔法をかける。
コロの姿が見えるますように。
そう念じると、煌めく光の粒が牙猫に降り注ぎ、浸透していった。
「……ミャアァ」
どこかうっとりとした表情になった牙猫は、直後にコロを見つめた。目を見開きながら、鼻先を近付けて、匂いを嗅ぐ。すると、はしゃぐように穣司に飛び付いた。きっと嬉しいのだろう。
「よしよし、じゃあ妹分を頼むよ」
そう告げると、牙猫はコロを包み込むように、身体を丸めた。小さな家族を守るような、優しげな表情である。
これなら安心だろう。そう思いながら、穣司は物置を後にした。




