46話 安宿の店主
雑踏から弾かれるように、壁にもたれている穣司は、手の平のコロと向き合いながら佇んでいた。手当たり次第に他の宿を見てまわったが、どの店も船の欠航による影響で延泊客で溢れていた。空いている相部屋はなく、個室も埋まっている。
『空いてなかったですね!』
「はは、そうだね。俺は運が悪いのかも」
底抜けに明るいコロの声につられて穣司は笑った。
慰めてくれているのか、それとも何も考えていないだけなのか。どちらにしても穣司は心の奥底から、小気味良い愉快さを感じていた。
これはこれで話のネタになる。いつか旅人同士での苦労自慢大会が開幕すれば、今回の話を披露する事になるかもしれないなと考える程度には余裕もあった。大した苦労ではないが、ちょっとした笑い話だ。
それでも安宿街を歩き回ったお陰で相場を知る事もできた。
最安値は3ラルで、これは狸のような店主の相部屋で、ベッドシーツの交換無しの価格だ。シーツを交換するなら1ラル上乗せされる。他店の相部屋は5から10ラル程度である事を考えれば安いといえるだろう。そして個室ともなれば値段も倍以上になり、所持金が50ラルだけの穣司には、金銭的に泊まる事は難しい。どちらにしても部屋に空きがない為に泊まる事はないが。
『もしかして宿無しですか? やっぱりお船ですか』
屈託のない笑顔のまま、コロは首を傾げる。
「そこはどうにかするよ。……船は最後の手段だけど、他にも手はあるからね」
穣司は親指でコロの頬を撫でながら答えた。
そういえば元の世界でも似たような事があったなと、昔の事を思い出す。
まだ旅に不慣れだった頃の穣司は、インターネットで予約サイトを活用せずに、炎天の下で重いザックを背負いながら、汗まみれで安宿を探していたのだ。
言葉に不安を感じていた事もあり、観光案内所は利用しなかった。自らの足で安宿を探すのが旅人の姿なのだと、言い訳じみた事を自分に言い聞かせ、できるだけ治安の良さそうな表通りを重点的に探していたのだ。もちろん怪しげな客引きは無視した。裏通りに入るのはもっての他だと、その時の穣司は考えていた。
しかしながら自らの足で安宿を探すのは効率も悪く、時間もいたずらに過ぎていくだけだった。予約サイト利用者に比べると、あまりに不利。汗を垂らしながら宿探しをしている間にも、次々と空き部屋は埋まっていくのだから、どうにもならなかった。それでもどうにか寝床を確保した時には日も暮れていた。
その時に比べれば、今は他の客と同じ条件である。他言語を母国語のように話せるなら、知る人ぞ知るような隠れた安宿を聞き出す事も可能かもしれない。
「じゃあコロちゃん、最初の宿に行ってみようか」
穣司はコロの頭を指先で撫でながら言った。
『あれ? あそこはいっぱいだったと思いますよ!』
撫でられながら目を細めていたコロは、人差し指を口元に添えながら首を傾げた。
「それはそうなんだけど、何か良い情報を知っているかもしれないからね。だからもう一度だけ行ってみようかと思う」
『なるほどー! 分かりました!』
ふわりと飛んだコロが頭の上に乗ったのを確認してから穣司は歩き出す。
目指すは狸の置物を思わせる人柄の良さそうな店主の宿。ここで何も得られなければ諦めるしかないようにも思えた。
乱雑としている安宿街を通り、狸の獣人の宿へ再び着く。
中に入ると紅茶にも似た良い香りを漂わせながら、店主が茶を啜っているところだった。
目が合うと、お互いに苦笑する。
茶を喉の奥に流しこんだ店主は、余韻を楽しむように小さく息を吐き、それから眉を下げて憐れむように口を開いた。
「……お客さん、他も駄目だったのかい?」
『ダメでした!』
「ええ、裏通りも覗いてみたんですが、空きはなかったですね」
「やはりそうかね……。いやね、もしかしたら空いてる宿もあるかと思ったんだよ。でも、予想以上に出航予定の船が多かったんだね。……まだ悪い噂を信じている国外の人も多いのかねぇ」
店主は腕を組み、悔しげな表情を浮かべた。
「悪い噂? 沖で見つかった何だかよく分からない物体の事ですか?」
穣司は今朝、耳にした話を思い出す。
「ああ……その口振りじゃお客さんは知らないんだね。まぁ信憑性のない言い掛かりのようなもんだから気にしないでおくれ」
それ以上この話を続けたくなかったのか、店主はそこで言葉を止めた。
「え、ええ……。よく分からないですけど分かりました」
『分かりました!』
無理に問い質す気にもなれず、穣司は素直に店主に従った。なにより悪い噂よりも、寝床の件をどうにかしなければという気持ちの方が強い。
しかし室内には湿っぽくなりつつある空気が漂っていた。物事が上手く運ばないような、じっとりとした嫌な空気である。
「いやぁ、欠航なんてのは言い訳で、この街が居心地良すぎて延泊してるのかと思ってましたよ。俺は昨日この街にきたばかりですけど、居心地が良さそうなんで、しばらく拠点にしようかと思ってたんです」
穣司は陰鬱さが逃げ出すような明るい声で店主に笑いかけた。
「ほう! 例えばどんな風に居心地が良かったのかな?」
店主は身を乗り出しながら目を輝かせた。
「街や住人が生き生きとしてるって感じですね。街並みも綺麗ですし、人柄も良いですよ。あ、そうそう、俺はオルハンやザフェル達の世話になったんです。いやぁ、アレはいい出会いをしたなぁ」
「なんと! お客さんはカラバシュさんと知り合いかね? そうか、そうか……」
店主はうんうんと頷いた。
ご機嫌取りではなく、紛れもない事実である。それに大切な思い出だ。だが湿っぽい空気は随分と和らいだ。これなら相談もしやすくなると、穣司は胸を撫で下ろす。
「ところで国外から訪れた人には、あまり知られてないような宿ってないですかね?」
「うーむ、そうだねぇ……。さっき同業者にウチの空き状況を聞かれたんだよ。だからきっと何処も空いてないんだろうね。……カラバシュさんの知り合いなら力になりたいんだけど、すまないねぇ」
「あ、いえ、そう意味でオルハンやザフェルの名前を出したんじゃないんで、気にしないで下さい」
穣司は顎に手を当てながら思案する。
諦めて船で寝泊まりしてもいいが、ちょっとした旅人の意地もあった。それにオルハンやザフェルの事を知っている店主の宿なら泊まりたい気持ちも湧いてくる。
『どうするんですか?』
「そうだなぁ……」
無垢な笑顔を見せるコロに、ふと元の世界で使った事のある奥の手が脳裏に過った。
それはバスの故障で到着時間が大幅に遅れた時の事。どうにか夕暮れ時に予約していた安宿に着いたが、何故か予約が取れていなかったという思いがけない事態に遭ったのだ。その街では夜になると出歩かない方がいいと聞いていた穣司は、薄暗くなりつつある街の気配に怖じ気づいた。次の安宿を探すのが不安になり、試みた手段である。
(ちょっと試してみようかな)
少しだけ先輩風を吹かせたくなった。
どうしても安宿が見つからない時はこんな小技もあるんだよと、コロに見せたくなる。
「……あの、変な事をお願いするんですが、一晩でいいので、この部屋の片隅を借りれませんか?」
店主と対面している部屋の隅を指差した。ホテルのロビーともいえる入口に面した空間だが、広さは凡そ六畳程度しかない。
「えっ、ここかい?」
上擦った声の店主は目を丸くした。
「はい、ここです。今日の天気は分からないですけど、とりあえず雨風さえ凌げれば問題ないかなって思いまして。それに家屋の中ってだけで、なんとなく安心するんですよね」
いくら傷を負わない身体だとしても、好んで雨風を浴びながら夜明けを待ちたいとは思わない。それに大地の上に建てられている家屋の中は、それだけでリラックスできるのだ。
「いや、しかしね……。こんな狭い場所だし、寝具もないから落ち着いて寝られないんじゃないかな。そりゃ野宿よりはマシだろうけどね」
「案外平気なものですよ。もちろん無理にとは言いませんけど」
「それなら……いや、でもなぁ。ウチは安さを売りにしてるから、食事だって出せないし、共同台所もないんだよ。……お茶くらいなら出してあげられるけどね」
「もう全然問題ないです。それに宿泊費はちゃんと払いますし、夜明けと共に出ていくんで、迷惑は掛けないようにします」
「しかし、だね……。こんな宿の入口の間を貸すだけで金を取るなんて、逆に申し訳なくなっちまうよ」
言いながら店主は腕を組み、目を瞑って熟考した。
その様子に穣司は確かな手応えを感じていた。そんなのは駄目だと一蹴される訳でもなく、店主はしっかりと悩んでくれている。
「あっ、そうだ! ちょっと待っていてくれるかい。すぐに戻るから」
はっとした表情になった店主は、名案でも浮かんだのか手を叩いた。カウンターの奥に姿を消すと、何かが床に落ちたような物音と、咳き込むような声が聞こえた。それから数分もしないうちに、僅かに埃臭くなった店主が戻ってくる。
「物置にしていた小さな部屋ならあるんだけど、その部屋でどうだい? すぐに片付けられるし、人の出入りがない分、落ち着けられると思うんだがね」
艶のない体毛に埃が付着したままの店主は満足そうに頷いた。
おそらく物置で不要品を落としたはずみに、埃が舞ったのだろう。それでも店主は埃を落とすよりも先に、部屋がある事を伝えたかったのだ。
やはり良い人だ。それだけに埃まみれにしてしまった事に申し訳なくも感じた穣司は、掃除くらいは自分でしようと心に決める。
「すみません、手間を取らせてしまって……。では、せっかくなので、泊まらせて下さい。あ、でも、俺が無理して頼んだ事ですから、掃除くらいはやりますよ。と言うより、やらせて下さい」
「そんな事は気にしなくていいんだよ。それにほら、お客さん一人だろう? 心細い事もあったんじゃないかね? お茶の用意をしてあげるから、ゆっくりしておきなって」
『えへへ、実は私もいるんですよー! 見えないかもしれないですけど!』
コロは柔らかな笑みを浮かべる店主の目の前まで飛んだ。声を弾ませながら無邪気に両手を振り、自分の存在を主張している。その姿に穣司は言葉を詰まらせた。
「あ、いや……一人と言うか……」
「ん? どうしたんだい」
店主はきょとんとした表情で首を傾げた。
(この場合は宿泊代どうなるんだろう)
おそらく店主の目にはコロの姿が映っていない。男の客が一人だけいるという認識だろう。
けれど実際には二人客。たとえ他者に見えなくてもそれが事実である。小さな身体の少女を、大人一人分として数えるかどうかの是非は一先ず置いておくにしても、コロの姿が見えないのいい事に、このまま一人分の代金で宿泊するのはいかがなものかと穣司は考える。
それに店主は埃まみれになりながらも、部屋の用意を考えてくれる善良な獣人だ。騙すような真似はしたくないし、必要なら二人分の代金を払いたい。
そしてコロは記憶を閉ざしたくなるような過去を持ち、誰からも知覚されない小さな少女だ。一人客だと主張すれば、コロの存在を否定してしまうような気がした。
(ああ、どうしよう……。実は二人なんですって言ったら、どう思われるかな)
フランのように信じてもらえるとは限らない。下手をすれば頭のおかしい客と思われて、この話もご破談になる恐れだってある。
(でもなぁ……。一人って言ったらコロちゃんが傷付くよな……)
穣司はコロに目をやった。
すると視線に気付いたコロが無防備な笑顔で応える。全てを預けているような安心しきった表情だ。
(俺がどう思われても構わないけど、この子を裏切るような事はできないな)
コロからは「お父さん」と呼ばれているのだ。
まだ付き合いも浅く、血の繋がりは当然ない。それでも父と呼称されるなら、娘の存在を否定する親であってはならないだろう。それが自己陶酔であったとしても、自分だけは見えないフリをしてはならないと穣司は固く決意する。
深く息を吐き、店主に視線に視線を戻す。
どのように会話の流れを持っていくべきか、考えは纏まっていない。それでも言うべき事は決まっていた。
「実は……一人じゃないんです」
穣司は真剣な眼差しで事実を告げる。
「ん? 連れがいるのかい?」
店主は覗き込むような格好で穣司の後ろにある入り口に目を向けた。
そして誰もいない事を確認すると、腑に落ちない表情で穣司に視線を戻す。
「その……ですね。見えないかもしれませんが、ここに女の子がいるんですよ」
『はい、ここにいます!』
「女の子? ……お客さん、何を言っているんだい」
店主が眉を顰めるのを見た穣司はこれは駄目かなと感じた。
訝しむのも無理はない。誰だって同じ態度になるだろう。それでも穣司は駄目元で言葉を続けた。
「きっと俺にしか見えないんです。あ、でも幽霊とかじゃないんで安心してください」
「そうか……お客さんにしか見えないのか」
消え入るような声で呟いた店主は、力なく椅子にもたれる。ぼんやりと俯き、震えるような溜め息を吐いた。
やがて神妙な面持ちになり、穣司を見上げるような形で店主は口を開く。
「……その女の子はどんな子だい?」
「そうですね、愛らしい子ですよ」
『えへへ。ありがとうございます』
「……愛らしいか。じゃあその子はお客さんとって大切な存在なんだね?」
『大切だと思ってくれると嬉しいです!』
「え、ええ、大切な存在ですよ」
促されるように穣司が答えると、コロは踊るように飛び回っていた。が、店主はそれっきり沈黙した。額を押さえながら再び俯いている。それでも不思議と呆れられているようには見えなかった。
罵倒でもなく冷笑でもない。気味悪く思われている気配すら感じられないのだ。それどころか店主は儚げな雰囲気を漂わせていた。
その様子に穣司は困惑する。
想像していた展開とは異なっていた。この先、どのような言葉を投げ掛けられるのか分からない。それでも時間は経っていく。屋外の喧騒が遠くの事のように聞こえた。
そして――しばらく俯いていた店主はぽつりと語り始めた。
「私にはね、妻と娘がいたんだよ。……もう随分と昔の話だけどね」
「……はい」
過去形の語り口に、穣司は居住まいを正した。
「当時はね、妻や娘を失った事が信じられなかったんだよ。だからさ、つい面影を探してしまってね……」
「そう……ですか」
「ふと横を見れば妻と娘が笑っているように気がしていたよ。時々、夢なのか幻なのか、妻と娘の姿が見えた事もある。……お客さんも、その類いだろう?」
「えっ? いや、そういう訳じゃ……」
穣司は慌てて否定しようとする。
しかし店主は遮るように言葉を続けた。
「ああ、すまないね。お客さんの傍には大切な子がいるのは間違いない。それを夢や幻だと否定するつもりはなかったんだ。……ただ、私にはその気持ちが理解できるって事だよ」
「ですから、あの……」
「お客さん、それ以上の言葉は不要だよ。お客さんには愛らしい子が傍にいる。……それでいいね?」
「いや、だから……あ、はい」
強引に結論付ける店主に穣司は相槌を打つしかなかった。
おそらく妻か娘を失った男と思われたのだろう。勘違いを正せなかった事に心苦しく感じている穣司をよそに、コロは状況を飲み込めていないのか、首を傾げていた。
「じゃあ掃除をしてくるから、お客さんは待ってくれるかい」
聞き分けのない子供を諭すように、店主は優しげな笑みを浮かべた。
「いや、掃除は俺がしますから!」
こればかりは譲れないと、穣司は声高に主張する。
「……お客さん、掃除は店主の役目なんだがね」
「そうかもしれないですけど、無理を言って泊まらせてもらうのに、何もしない訳にはいかないですよ」
「そんなもんかねぇ」
「それに宿泊代だって二人分払います。……確か二人で6ラルですよね」
「……いや、二人で1ラルだよ。物置だから当然だろう?」
「いやいやいや、だとしても安すぎると思いますよ」
「そんな事はないよ。これがウチの値段だ。それ以上の金額は何があっても受け取らないからね。本当なら無料でもいいくらいなんだから」
「いや、でも……」
「今更になって、やっぱり泊まらないなんて言わないでおくれよ。私はお客さんを泊める気でいるんだからね。ともかく物置に案内するから、ついてきてくれるかい?」
「あ、はい」
『はーい』
またもや強引に押しきられた穣司は、自虐的な半笑いを浮かべた。得意気になってコロに良いところを見せようとした結果がこれだ。なんとも情けない。
そんな思いが胸の内に広がりながらも物置にはすぐに着いた。
扉が開くと、小さな窓から入り込む陽光に、漂っている埃が反射していた。広さは畳三枚分程度だが、あまり物が置かれていない為に、広く感じられる。
「必要な掃除道具が欲しくなったら言っておくれ」
店主はそう言い残して、元の場所へ戻った。
物置はただ寝るだけの場所と考えるなら充分な広さがある。足を伸ばせれば、どこだって寛げるのだ。それに埃は掃除をすればどうにでもなる。魔法を使えば一瞬で片付くだろう。それでも二人で一泊1ラルは安い気がした。おそらく気を遣われているのだろう。
(やっぱり安すぎるような……。チェックアウトする日には差額分を置いて出ようかな)
その為にも、まずは働かなければならない。
元より路銀を稼がなくては、旅を始められないのだ。人の行き交う場所では金が必要になる。
(後で冒険者組合に行ってみるべきか)
とはいえ、まずは掃除が先だ。目の前の事から片付けるべきだと気持ちを切り替える。
「えっと……とりあえず掃除するね」
『分かりました!』
穣司は窓に近付く。
魔法を行使するにしても、なんとなく窓は開けておきたいと思うのは、習慣だからなのだろう。
そんな事を考えながら横引きの窓を開ける。
するとその瞬間を狙いすましたかのように、何かが侵入した。
それは淡い緑の毛並みが美しい小型の動物。
サーベルタイガーのような牙を生やした猫だった。




