45話 信奉者の歓び
海運組合の職長であるハリルは、逸る気持ちを抑えきれないように、何度も深呼吸をしていた。そのうち吐き出した吐息が、応接室を充満してしまうのではないだろうかと、奇妙な事を考えてしまう程には、冷静ではない。
胸を押さえ、何度も呼吸する。それでも心臓はハリルの命令を無視するように狂気乱舞していた。
とめどない胸の高鳴りを感じたのは何十年ぶりだろうか。熱に浮かされたように、落ち着かないのは初めての事かもしれないと、ハリルは天を……もとい天井を仰ぐ。
待ちわびた分だけ焦がれてしまう。それは昨夜の酒宴に参加できなかった事だけが原因ではない。きっと生まれた時から待ち焦がれたいたのだと、今朝になってようやく気付かされたのだ。
昨夜のハリルは大役を仰せつかっていた。
それは男神という大いなる存在の組合証の作成である。
何故そのようなものが必要なのかと、仰せつかった時は疑問を覚えた。この世界は女神様がお創りになり、私達は神の庭に住まわせていただいているだけなのだと、幼少の頃に教わっていたのだ。ならばこの世界は女神ニナのもの。そして――最近まで知らされていなかったが、対なる男神ジョージのものなのだ。それ故に身分を証明する物など不要で、ただこの世界に在るだけで、その尊き存在を証明しているのではないかとハリルは考えていたのである。
しかし男神は地に生きる者達に溶け込んで旅をするのだという。持て囃される事を好まず、ただの人間種であるかのように振る舞いたいのではないかと聞かされていた。その為に組合証が必要なのだろう、と。
もちろん女神ニナが降臨しなくなった原因を、密やかに探る為だという事も分かっているが、別の意味も隠されているのだと気付いていた。
つまり視察だ。
我々が正しく生きているのか見定めるのだろう。神である事を隠すのは、人々のあるがままの姿を判断する為。その真意に気付けたのは、シュケルでは私だけだろうと、ハリルは自負している。もちろんウェンテという神獣を除けばであるが。
というのもハリルは半島の付け根にある山脈の出身であり、古より奉られている神器の管理していた一族の生まれである。女神の存在も、この国にもたらされた黒き災害の事も、自分で体験した事のように感じてしまうのは、幼少の頃からウェンテに教わっていたからだ。
それに加えて、ハリルは生まれつき魔力が高かった。それこそ神からの贈物だと思えるような、通常の獣人種よりも遥かに高い魔力を有していたのだ。その事もあり、神器に祈りを捧げ、神聖なる力の残滓に触れる機会は多かった。おかげで神を感じ取る力は、この国の獣人種では一番だろうとハリルは思っている。信仰を失いつつあった獣人種では尚の事だ。
だからこそハリルは即座に組合証の作成に取りかかった。通常なら数日を要するが、全力で取り組めば一日でほぼ完成するだろう。男神に為に働けるのなら、その程度の事は労力にも感じないと意気込んでいた。
それ故に他の者達が酒の席を楽しんでいる時には、他職長と話をすり合わせ、その後は一人黙々と作業をしていた。気が付けば日付も変わり、作業終了後に駆けつけた酒場の明かりは消えようとしていた。本日の営業は終了しましたという事である。この日は男神と直接お会いする機会が失われた。
ハリルはもどかしさを感じながらも自宅に帰った。涙で枕を濡らす事はなかったが、なかなか眠りは訪れずに悶々としていた。誕生日前夜の少年のように心が落ち着かなかったのだ。
そしてハリルはあまり眠れないまま朝を迎えた。
睡眠不足の体は重く感じ、頭もぼんやりとしている。昨夜は食事をしていなかったせいか、目覚めと共に腹の音が響く。
年齢を重ね、食欲はいくらか減衰しても腹は減る。この街に男神が降臨していると、歓喜の感情に身体が支配されていても、腹は減る。
当然の生理現象にハリルはふっと力が抜けた。まずは食事をしようと朝の街に出掛ける事にした。
港に着き、聞きなれた朝の喧騒に耳を傾けながら、潮風を肺に満たす。「ああ、今日もいい朝だと」呟いていると、船乗りの半獣人の男に声を掛けられた。
「おう、職長さん、丁度よかった。今からアンタの所に行こうかと思ってたんだ」
「おや、どうしましたか?」
「それがな、沖で変なもんが浮いててよ――」
要約すると、航路から外れた海域で、鉄製の何かが浮いているとの事だった。シュケルでよく見られる帆船ではなく、細長い楕円形の鉄製の船のようなものらしい。ざっと見る限りでは、人は乗っておらず、救助の必要があるのか不明との事だ。
なぜ船だと断言できずに「ようなもの」だと曖昧な表現をするのは、動力部が見当たらないとの事だった。船体らしきものは歪み、甲板の中心部周辺が朽ちていた。真新しさも感じられる鉄が、中心部だけ寿命が尽きたかのように錆びて腐食している。
「ふむ、訳が分かりませんね」
「ああ、オイラ達にも分からねえや。で、どうするよ」
「念の為に、手が空いた人達で調査に向かいましょう。報告ありがとうごさまいました」
「おう、オイラ達も後で合流するぜ。ここいらの海に変なもんが浮いてっと気味が悪いかんな」
「ええ、お願いします」
ハリルは去っていく船乗りの男の後ろ姿を眺めながら思案する。
おそらく例の国の新型船だろう。今まで誰にも知られずに、どのようにして進んできたのかと、危うさを感じながらも、不可解な現象に頭を悩ませる。
腐食。欠陥品。仲間割れ。海難事故。あるいは陽動か。様々な憶測が頭を過り、最悪の事態を懸念する。
(念の為に今日の出航は控えた方がいいかも知れませんね。使いを出して、情報を共有しなければ)
何らかの罠である危険性も考慮して、万全の態勢で調査に望むべきだろう。その為にも先ずは腹拵えだ。
「これは朝からしっかりと食べておかなければいけまんね」
自然と足が向かったのは、持ち帰り専門の飲食店。
日の出と共に開店して、昼過ぎには店を閉めるが、値段は安く、量も多い為に、肉体労働者がしきりに訪れる店でもある。味も良く、心まで満たしてくれる労働者のパンだ。
「おや、ハリルさん。昼ならともかく朝からウチにくるのは珍しいね。今日は忙しくなりそうなのかい?」
よく通る声で店主が笑顔を見せる。
「忙しくなる事も予想していますが、昨夜から食事をとっていないので、美味しいもの食べさせろと腹の中が主張してましてね。なので今日は朝からしっかり食べておこうかと」
「ほう、そいつは嬉しいもんだ。で、何にするんだい? 今日は活きのいい海老が入ってるよ」
「ふむ、いいですね。それをお願いしましょうか。味付けはいつもの香辛料のマヨネズで」
「あいよ!」
店主はすぐさま作業に取り掛かる。
新鮮な海老を捌いて切り刻むと、火を通し過ぎないように、さっと炒め、取り出した海老は香辛料を混ぜたマヨネズに絡めた。白黄色に覆われた海老は、葉野菜とトマトと共に、パンに包まれていく。
その動作は毎日の積み重ねもあってか、舞踏のような鮮やかさがある。無駄がなく、優雅さも感じられた。
「はい、いっちょあがり!」
ハリルは金を渡し、労働者のパンを受け取った。
彩りよし、匂いもよし、食べなくてもこれは美味しいと分かる。それでも食べないという選択はなく、ハリルはおもむろにかぶりつく。
(ああ、やはり美味しい)
目を瞑り、小さな幸せを噛み締めながら、大きく頷く。
海老の甘味とマヨネズのピリッとした辛味と酸味が一つになり、野菜達との相性も抜群だった。
(香辛料を混ぜたマヨネズはやはり良い。他国から伝わってた料理書に改良を加えただけの事はある)
飲み込むのが勿体なく感じるが、次の一口に移りたい欲求もある。妙に心が踊った。食事は美味しいが、それだけでは説明つかない多幸感に包まれる。
(何でしょうね、この気持ちは)
言いようのない心の揺らめきにハリルは瞼を開ける。
そして息を呑んだ。
穢れを感じさせない純白のローブを身に纏った男がそこにいた。
慈愛に満ちた眼差し。
世界を優しく包み込むような佇まい。
目が合うと、男は小さく頷きながら微笑んだ。
それだけでハリルの時間が止まり、周囲の喧騒が消えた。
――大いなる父。男神ジョージ様。
どくん、一際大きく心臓が跳ねた。
故郷を感じた。
故郷の思い出が溢れた。
雪解けの山麓に芽吹く植物を、そっと撫でる太陽の光。
春のような暖かい心地良さが、じんわりとハリルを包み込んでいく。
幼少の頃に感じていた神の残滓。
神々しくも、瑞々しい力が今、目の前にある。
(こ、これが男神様……。なんて……なんて!)
ああ、なんて素晴らしいのか。胸の内ですら言葉が出なかった。
まさ命の根源。周囲の魔素が喜んで踊っているようにも感じられる。
太古の世界では、争いがなかった。ああ、なるほど、確かにその通りだろう。ただの一瞬ですら満たされてしまったのだ。在るだけでいいとは、この事なのかとハリルは瞳を輝かせる。
それでも尚、神は力を抑えていると確信できた。今はまだ、杯から溢れ落ちる僅かな一滴を感じ取れたに過ぎないのだと、鼻息も荒くなる。
(ああ! 全てはこの日の為に!)
贈物を授かったの理由を知り、激しく感情を揺さぶられた。この感動を誰でもいいから共有したいと、ハリルは再び落ち着きを失った。
「い、今の御方を見ましたか? な、何か感じましたか」
ハリルは声を震わせながら店主に問う。
「ん? 誰かいたのかい」
手元から店の外に視線を向けた店主は、何の事だか見当もつかないと言いたげに首をひねる。
「そんなっ! いえ、そうですか。……それは残念です」
本当に残念だと気持ちが沈む。
これほどの力を感じ取れないとは、あまりに勿体無い。しかし同時に仕方がない事だとも理解できる。幼少の頃から神の残滓に触れる機会があり、贈物を授かったからこその高い感受性が、歓びを感じ取れたのだ。
こうしてはいられないと、ハリルは労働者のパンを食べ終え、夢見心地で職場に向かった。
今日は神が来訪される。ならば更に清めなければならないだろう。掃除したばかりだが、念の為という事もある。塵一つ残さないように、綺麗に磨きあげなければと、強い使命感に駆られて足を早めた。
海運組合に着くと、まずは掃除道具を取り出した。
そこでハリルは気付く。自分のやろうとしている事は過度な対応なのではないか。持て囃そうとしているのではないか、と。
「男神様を持て囃してはいけない。……むぅ、匙加減が難しい。……私はどうすればいいのですか」
ただの旅人相手の対応として考えれば、やりすぎという事になる。しかしながらオルハン・カラバシュの恩人でもある。どのように対応するのが正しいのか、熱に浮かされた頭では答えが出せなかった。そもそも組合証の即日発行も、持て囃した結果になるのではないか。いや、それは恩返しという事にしてあるから問題はない、と自問自答を繰り返す。
「尽くし、敬いたい気持ちが溢れているのに、それが禁じられるとは……。これはなんという試練なのですか」
ある意味では拷問に近い。特にハリルのように生まれながらにして、神の残滓に触れていた者からすると、過酷な試練でしかなかった。
その直後に出勤してきた職員に、今朝の懸念を伝えたハリルは、一人で応接室に向かった。呼吸を整え、精神を統一させる為である。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと深く吐き出した。それを何度も繰り返すと、次第に心にもゆとりができる。今朝の出来事が遠い過去のように思えた。
もう大丈夫――な筈だ。そう言い聞かせて、ハリルは窓を開けた。室内に漂う自らの吐息を、新鮮な空気と入れ替えたかったのだ。
だかしかし、神は更なる試練をハリルに与えた。
窓を開けた途端、煌めく神々しい光の粒が、ふわりと舞い降りた。
ただ、美しかった。
あまりの美しさに目が奪われ、呼吸すら忘れた。
うっとりと光を眺め、何に頭を悩ませていたのだろうと放心する。
重々しい荘厳さはなく、心の底から軽くなっていくような、穏やかな祝福の光。
これが神の御業なのだと、我に帰ったハリルは悶絶した。
「ああ! なんという試練! この素晴らしき力を感じ取れるのは贈物の恩恵! だが、しかし! だが、しかしぃぃ! ああぁぁ! あぁ……これは困難……極まりない……です」
両手を組み、ハリルは叫びながらも、言葉の最後には掻き消されるような声で不安げに呟いた。
心臓が高鳴り、盛大に踊っている。深呼吸をしても、落ち着きは取り戻せそうにない。
今朝の微笑み。今しがた降り注いだ光の粒。
子供から大人になるにつれて、心の奥底にしまいこんだ無邪気さが、解き放たれたようだった。実際に会ってしまえば、私はどうなってしまうのかと、ハリルは間欠泉のように鼻息を鳴らした。
それでも刻一刻と過ぎていき、やがて残酷とも幸福ともいえる時が訪れる。神の気配がゆっくりとハリルの下へと近付いた。
こんこんと、木製の扉を鳴らす音が室内響く。
「職長、いるのかしら」
軽やかなウェンテの声が扉越しに聞こえた。
「え、ええ。どうぞ、入って下さい」
ハリルは高揚感が口から飛び出すのを堪え、静かに言葉を返した。これから人生で最も困難な試練が始まる。そう言い聞かせて、最後の深呼吸をした。
◆
海運組合を後にした穣司は、歩きながら複雑な心境で手帳を眺めていた。革の匂いの残る装丁には心も踊り、やはり身分証明書は旅の必需品だと思わされた。旅人としての実感も湧き、今更になって腹巻きタイプの貴重品入れが欲しくなる。
けれど特徴的すぎる人物に会ったばかりだと、手放しで喜んでもいられない。剥がしきれなかったシールのように、心の隅には困惑が貼り付いたままだった。
お陰で感傷的な気分は吹き飛んでしまった。そういった意味では感謝するべきなのかもしれないなと、何ともいえない表情で、穣司は小さな溜め息を漏らした。
『なんか、凄い人でしたね!』
「あぁ……うん。ハリルさん……色々と凄かったね」
その特徴的すぎる人物とは職長のハリル・ソラックの事だ。
彼は今朝がた、バゲットサンドを頬張っていた山羊頭の獣人である。役職のせいか身嗜みも整っており、穏やかさも感じられた。しかし穏やかさを感じたのは一瞬だけで、穣司が応接室に入った途端に、勢いよく両手を広げて、天を仰いだのだ。
その姿は新鮮な田舎の空気を、全身で浴びているかのようだった。ただのハグの動作のはずなのに、妙にキレのある無駄に洗練された動きの、一つ一つに効果音が貼り付けられているような、スタイリッシュさもあった。
『お父さんが抱き締めた時はその……ふふふ、凄かったです』
「うん……いや、いい人だとは思うんだけどね」
両手を広げてハグを求められれば、応じるのが礼儀だが、その異様さに穣司は躊躇した。あらゆる意味で危ない人じゃないのかと、頭の中では警鐘を打ち鳴らしそうな準備もしてた。
が、手帳の事への恩もある。夜更かしで作業をしていたから、変なテンションなのだろうと、穣司は自分に言い聞かせた。そしてハリルを包み込むように抱き締めて、背中を軽く叩いた。間違いなく、ただの挨拶だ。
『なんか、ぷしゅーって、言ってましたね!』
「うん、そうだね。何か吹き出してたね」
ヤカンのように音を鳴らし、彼は意味の分からない事を口走っていた。その言葉は「これは……試練」である。何が試練なのか穣司には訳が分からなかったし、何を試されていたのか意図も掴めない。強いて言うなら、濃い人とハグをする時の試練なのだろうか。確かにある意味では試練だった。
『手つきも凄かったです!』
「……そうだね。余計な事を言うんじゃなかったかもって思ったり……」
ハリルから「触れてもよろしいのですか」と尋ねられたのだ。
既に触れているのに何を言っているのだろうと感じた穣司は当然の事のように「どうぞ」と返した。
その瞬間、ハリルが本性を現した。
やけに情熱的な手つきで背中を撫で回されながらも、彼は興奮を抑えるように何度も深呼吸をしていたのだ。時折、妙な吐息を洩らす姿は、明らかに挨拶の枠を超えていた。
その時の映像が脳裏に焼きつき、身体には尚も感触が残っている。
「……ま、とりあえず身分証明書は手に入れられたし、後は宿探しかな」
ともかく最初の問題は解決した。次は安宿を見つけたいところである。この街をしばらくの拠点にするにしても、まずはきちんとした寝床が必要だと穣司は気持ちを入れ替える。
『お父さん、あのお船じゃ駄目なんですか?』
コロは頭の上から覗きこむように穣司に尋ねた。
「船は……ね」
穣司は歩きながら顎に手を当てて考える。
宿が見つからなかった時の最後の手段だが、いつまで大破した船を利用するのは心許ない。そもそも船長であるオルハンに断りを入れていなかった為に、無断で何度も使うのは気が引けた。
「駄目っていうか、いつまでいられるか分からないからね。もしかしたら修理……するのかもしれないし。いや……直るのかな、あれ」
『うーん、分かりません!』
「ま、そういう訳で、あの船もどうなるか分からないから、やっぱり宿は必要かなって思うよ。ゲストハウスみたいな安宿があるといいんだけど……」
けれど穣司は安宿街の場所を知らなかった。組合で聞こうと思っていたが、予想外の珍事に聞く機会を失ったまま、愛想笑いを浮かべて逃げるように組合を出たのだ。今更、戻って聞く気にもなれず、当てずっぽうに街を歩く。場所を尋ねるのは道行く人でいいだろうと自分を諭した。
すると見覚えのある猫耳の少女が、弦楽器と思わしき物を抱えて歩いていた。おそらく昨夜の酒場で演奏していた楽団の一人だ。
「あの、すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが、この街で安宿が集まっているような地区ってどこかありますか?」
「安宿ですニャ? それなら酒場通りのずっと奥にありますニャ。でも安さ重視だから、あんまり綺麗じゃないし、きっとお勧めはできないニャ」
猫耳の少女の妙な語尾に、穣司は思わず首を傾げそうになる。
「ニャ? あ、いや、そうなんですか。でも、そういうのは慣れているんで大丈夫ですよ。ありがとうございました」
「いえいえ、だニャ。それじゃあ私は、美女二人をはべらせていた色男さんの健闘を祈るニャ。じゃあ、またニャ」
意味ありげな笑みを浮かべる猫耳の少女は一方的に別れを告げて去っていく。
「あ、ちょっと!」
『またニャー!』
穣司の困惑をよそに、コロは真似するような口調で身を乗り出して手を振った。
「ええ……誤解なんだけど。……行っちゃったニャー」
とんでもない勘違いに釈然としない気持ちが込み上げた穣司は、ふつふつと湧いてくる羞恥心を誤魔化すように語尾を真似た。
美女をはべらせる。第三者の目からするとは、そのように見えたのだろう。ひょっとすると酒場にいた全ての客から、そんな目で見られていたのかと思うと項垂れそうになる。
「あー、うう。よくはないけど……ま、いいか。とりあえず安宿街に行ってみよう」
『はーい! 行きましょう!』
コロの快活な声に心が和む。気を取り直した穣司は、猫耳の少女を追い掛けて弁明する事もなく、寄り道もせずに真っ直ぐ目的地を目指した。
昼間の閑散とした酒場を通り抜け、しばらく道なりに進んでいくと、呆気ない程に目的地に着いた穣司は顔を綻ばせる。
自己主張しあうように張り出した看板は、整然としているとはいえなかった。混雑している程ではないが人も多く、無造作に売られている雑貨が、道行く人を圧迫するように並べられている。小綺麗な格好をしている者ばかりではなく、僅かな怪しさも漂わせている地区だ。
道行く人の姿には、獣人の割合も少なかった。多種多様の人々には、無国籍さも感じられる。有り体にいえば、余所者の為の場所。安宿街にありがちな乱雑とした雰囲気に、郷愁感にも似た気持ちが胸の内に広がった。
「……いいね、この雰囲気。さて、懐事情に不安もあるし、相場も調べなきゃ」
懐かしさを覚えながら安宿街を眺めた矢先、一軒の宿の看板が目が留まる。他と比べて小さな看板だ。どこか控えめな印象があり、哀愁も漂っていた。
ここだ。久々の安宿には丁度良い。穣司はそう感じ、店内に足を踏み入れる。
「こんにちはー」
言いながら店内の様子を窺うと、薄暗いカウンターの向こう側で、狸の置物を思わせる獣人がいた。
艶のない毛並みは、老齢に差し掛かっているようにも見える。安らかな表情で寝息を立てる様子は、狸寝入りではない事が分かった。
客商売と思えないような態度だ。実にのんびりとしている姿には不快さも感じられず、逆に申し訳なくも思えた穣司は声を潜めて尋ねる。
「あの、すみません」
『起きていますか!?』
穣司とコロの二重奏に店主は「んん」と声を漏らした。
片眉を吊り上げながら瞼を開ける姿は、マスコット人形のような愛らしさもある。
「……ああ、お客様さんかい」
大あくびをしながら目を擦る店主は、意識が完全に覚醒していないのか、ぼんやりとしていた。
「一泊したいんですが、空きはありますか?」
「はいはい、一泊ね。空きは……そうだね」
店主は眠気眼で帳簿らしき物を開くと、はっとした表情になる。
「ああ、そうだった。……お客さん、すまないね。今日は船が欠航になったらしくてね、延泊するお客さんがいるから、空きはないんだよ。……もしかしたら、他の店も似たようなものかもしれないよ」
「え、そうなんですか。……そういう事もあるんですね」
『うー、残念ですね』
出鼻を挫かれた穣司は僅かに気分が沈む。
しかし同時に愉快な気分も湧いてくる。
思う通りにならないからこその旅なのだと、懐かしさも込み上げる。
「では、機会があった時はお願いしますね」
そう言い残して、店を後にした。
他にも安宿はある。一つくらいは部屋に空きがあるだろうと、楽観的に安宿街を眺めた。




