44話 遠回りの帰り道
ウェンテを背中に担いで街に戻ると、太陽の位置もいくらか高い位置まで上っていた。燦々と降り注ぐ陽光が、丘から見下ろす街並みに、鮮やかな彩りをもたらせている。浅瀬の底まで映し出されている青い海に溶け込むように、階段状の赤茶けた屋根が港まで続いていた。
穏やかな風が吹いた。
家屋の合間に張られたロープに、干されている洗濯物が揺られている。
見下ろす街並みは美しく、人々の生活感が見事に調和していた。陸路で訪れた者が拝むであろう景色。海路からでは見られない街並み。穣司の表情はおのずと綻んでいた。
『わぁ……綺麗ですね』
「うん、いい街並みだね」
感嘆の吐息を洩らすコロに、穣司は小さく頷く。
「ふふ、ありがとうございます。獣人の皆で作り上げた街ですから」
背中のウェンテの声調は軽やかだった。表情は見えなくても、微笑んでいる事が分かる。
「では、お客様。これから下り坂に差し掛かりますので、しっかりと、お掴まりください……なんてね」
おどけるように穣司は言った。
『はーい』
「はい、では失礼します。……その、鍛練になると良いのですが」
尚も鍛練の体を通すウェンテに、穣司はくすりと笑う。
コロが頭にしがみつき、ウェンテから回された腕に、力が込められる。寄り掛かられると、首筋に彼女の息遣いを感じた。
穣司は真っ直ぐな主要道路を下りていく。目指すのは港前の広場にある海運組合。道程は太陽に導かれるように燦然としていた。
「乗り心地はどうかな?」
山で例えるなら八号目。その辺りまで坂道を下りた穣司は二人に尋ねた。
『眠くなって……きま……した』
遊び疲れた子供のように、コロは寝息を立てようとしている。
「とても良いです。その……いつまでも寄り掛かりたくなりますね」
「はは、そっか。もっと寄り掛かってくれてもいいし、なんだったら寝てもいいよ」
「ありがとうございます。でも……私は――いえ、なんでもございません」
何かを言いかけて、萎んでいくように言葉を飲み込んだ。心なしか声も沈み、回された腕の力も弱くなっている。
「……そっか。じゃあ、なんでもあった時はいつでもどうぞ」
どこまでウェンテに踏み込んでいいのか分からなかった。無理に聞き出す事は逆効果にだってなり得る。だからこそ、いつ寄り掛かってくれてもいいようにと言葉を残し、坂道を下る。
道中では相も変わらず市民達の好奇の目があった。背中に担いだ人物が、往路と復路で違う事に気付いたからなのだろう。しかしながら悪意は感じられなかった。嘲笑も冷笑もなく、あるといえば失笑だけ。おそらく突っ込みどころを感じたのだ。「おいおい、今度はウェンテの嬢ちゃんか」等と、テリア犬のような老人がお茶を吹き出した後で、ニヤリと笑う。
時には思春期真っ盛りと思わしき若者からの、羨望に近い眼差しも混じっていた。口を尖らせている若者もいる。
彼等からするとウェンテは憧れのお姉さんといった存在なのかもしれないなと、穣司は苦笑いを浮かべながら視線を前に戻す。
しかし背中の担がれた彼女は静かにしていた。思案しているのか、あれから口を開いていない。
(なにか思うところでもあるのかな)
声を掛ける事を躊躇い、胸の内で疑問を呟く。
背中に担ぐまでは、小躍りしそうな気配もあったが、今は黙りこんでいる。フランの言っていた通り、何かを戒め、自分を追い込んでしまっているのだろう。様々な感情がぶつかり合い、折り合いがついていないとも考えられる。
その気持ちは穣司に強い共感を覚えた。なんとかしてあげたい。そんな気持ちが胸の内に広がった。
しばらくそのまま歩いていると、ウェンテから回されている腕に、僅かに力が込められた。重大な事を尋ねられるのかと感じ、彼女が口を開くのを待ち受ける。
「あの……お聞きしたい事があったのですが、よろしいでしょうか」
背中から伝わってくる声が震えているような気がした。
「うん、俺に答えられる事ならどうぞ」
それ故に穣司は柔らかい声調で受け返す。
ウェンテが何に悩んでいるのか分からない。それでも自分に出来る事があるなら応えたいと、小さく頷く。
「ジョージ様は戦争について、どのようにお考えでしょうか」
「戦争……」
それでも予想外の質問を投げ掛けられると言葉に詰まる。
旅に出る前の穣司も、ふとした時に、戦争について考えた事もある。とはいえ深く考えた訳ではなく、何らかのきっかけで考えた程度だが、日々の生活に追われるうちに、知らぬ間に忘れ去っていた。戦火に巻き込まれ逃げ惑った経験もなければ、戦争に参加した事もないのだ。つまり対岸の火事。テレビの中の出来事。遠い世界の話といったように、他人事に感じていた。
なによりも一番の理由は、考えたところで仕方がないという事が大きかった。
ただ目が合っただけ、あるいは見た目が気に食わないからという、極めて単純な理由で他人を殴る人もいる。同じような考えで喧嘩を仕掛ける組織もあるだろう。下手をすれば単純な理由で国が戦争を吹っ掛ける事もあるかもしれない。
それでも世の中はそんな単純な理由ばかりではなく、様々な思惑なり、陰謀なり、宗教なり、利益なりが交錯して渦巻いている。それに手段は暴力に限った事ではない。経済だって戦争だ。
それを何の影響力もない一個人が考えたところで、どうにか出来るものでもない。か細い一本の木切れで大河の流れを変える事など不可能で、飲み込まれて無くなるだけだ。
たとえ国内に起こった悲劇に心を痛めても、日が経てば心の中で風化していた。争いによる心の傷は、当事者達にだけ永遠に残り続けると、本当の意味で気付けたのは、旅の最中だった。
「俺は……そうだね。戦争は好きじゃないから、平和な世界の方が好きだよ」
穣司は立ち止まり、小さく息を吐く。
「……やはり、同じように平穏を好むのですね。……では争いは軽蔑すべきなのでしょうか」
「やはり? うん……まぁ、理由のない暴力は軽蔑するけど……」
「で、では、その……理由があれば?」
「そうだね……内容にもよるけど、消極的な賛成って感じかな。でもね、この人達を見ているさ――」
穣司は周囲に目をやった。
路上でお茶会を開く犬の姿の老人が、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、慰めに合うように戯れている獣耳の若者達を手招きしていた。統一された意匠の服を着た子供達を見守るように、朗らかに笑う獣耳の老女が先導している。井戸端会議する母親の袖を引っ張っている子供が「お母さん、早く行こうよ」と急かしていた。その姿を微笑ましく見ている犬タウロスともいえる女性が買い物籠を抱えながら歩いている。
どれもありふれた光景だといえるだろう。それでも掛け替えのない宝物だ。
そんな大切なものを守る為に、国民が剣や銃を取るのなら、穣司が言えるべき言葉など無くなる。何より事情を知らない者がとやかく言うべき事でもなく、得意気になって平和を説ける筈もない。ただ、仕方のない事だと、自分に言い聞かせるしかないのだろう。
「やっぱりこういう街並みはいいなって心底思うよ。皆が笑っていて、穏やかに暮らしているからさ。……だからさ、大切な人達を守る為の戦いなら軽蔑はできないし、俺には否定や肯定もできるものじゃないと思う」
ましてや違う世界から来た人間がとやかく口を挟む問題ではないと、胸の内だけで言葉を続ける。そして善良な市民が巻き込まれて亡くなるのは嫌だなと感じた。本当に、嫌だなと。
「少し……安心しました」
小さな吐息を漏らすウェンテに、穣司はやるせない気持ちに苛まれる。
問題は家庭内だけではないのだろう。この口振りだと、シュケルは他国との戦争になりかねない問題も抱えているのだ。いや、既になっているのかもしれない。彼女は若くして気苦労の絶えない人生を歩んでいる。
(ああ、そうか……。副職長だもんな)
過度な歓迎を思い出す。
ハグはただの挨拶でしかない。しかしそれ以上に熱烈な雰囲気を漂わせていた歓迎に穣司は納得がいった。
(帰らぬ人を待ち続ける人生だったんだ。……それは辛いよな)
海運組合の副職長という立場を考えれば無理もない。船乗りの無事を願う立場であり、それこそ待ち続ける事しかできない立場なのかもしれない。おそらく大切な誰かを失った事もあるのだろう。その心労は計り知れず、ウェンテが自分を追い詰めてしまう理由が垣間見えた。
きっと彼女は優しい過ぎるのだ。
平和を望んでいても、争わなくてはならない事もある。見送る事しかできない立場に歯痒さを感じ、何か他に手段はないかと模索していた事だって考えられる。しかし他にできる事は何もなかったのだ。ただ船乗りに帰りを待つ事しかできなかった。だからこそ自分を戒めるように追い詰めてしまったのだ。
――命を賭としている仲間がいるのに自分には何もできない、と
(今まで辛かっただろうに……)
ウェンテの境遇を考えると、胸の痛みが生じた。
他人の命を駒としか思えないような性格なら、心を痛ませる事もなかっただろう。争いを軽蔑しながらも、それに関わる事で罪悪感すら覚えているかもしれない。――そして自己嫌悪に苛まれる。
「……色々と大変だったね」
穣司は物憂いさを溜め息で吐き出し、水平線の彼方をぼんやりと眺める。
「……いえ、私の役目ですので」
声を震わせたウェンテは、強がるように言う。
「それでも……大切な人の帰りを待つのって辛いと思うよ」
「……っ! ……はい。それは、辛かった、です」
「うん……辛いよね」
「……私は平和な世界を、愛してました。それでも、何度も……何度も選択を間違えて、今ですら、正しい選択を取れているのか、時々不安になるんです」
言葉を詰まらせるウェンテは、自責の念を吐き出すように呟く。
「うん……不安に思ったり後悔する事だってあるよね。俺だってそうだし、あの時こうしていれば……って思う事もある」
「ジョージ様もでしょうか」
「もちろん。きっと俺だけじゃなくて、世界中の人達も自分が選んだものが正しいのか不安に思っているよ。それはさ、きっと神様だって同じだと思うよ」
何が正解なんて誰にも分からない。自分が異世界に訪れた事も正しい事だと断言できないし、ガルヴァガという老人の選択だって正しいとは限らないのだと穣司は考える。どれだけ頭を悩ませても、選んでしまった後では、なるようにしかならない。
「そう……だったのですね。……あの、もしも私が間違えていたら、その……ジョージ様はどうされますか。蔑んだり……されますか」
「そんな事はしないし、できないよ。……だってさ、考えて、考えて……それでも悩み抜いた結果だよね。あえて悪意ある選択を取ったんじゃないなら何も言えない。それにさ、ウェンテのような人なら、正しい道を選べているんじゃないかな。……今は選択を間違えていたと思い込んでしまっているかもしれないけどね」
「その、あり……がとう……ございます。……うう」
零れ落ちた温かな涙が穣司の首元を濡らした。ウェンテは静かに礼を告げ、穣司に寄り掛かる。
彼女が何を選び、何を間違えていたのか、穣司には分からない。それでも平和を愛する心優しい彼女が、苦悩に苛まれながら選んだ道に、誰が文句をつけられるだろうか。
「今まで……よく、頑張ったね」
穣司には労いの言葉しか掛けられない。
ただ、それだけだ。そんな事しかできない。しかし――
その瞬間、煌々とした光粒が、穣司から膨れ上がった。
一瞬にして風船のように膨張したそれは、針を刺したかのように弾けた。そして紙吹雪のように、ゆっくりと降り注いだ光が、街を包み込み、溶け込んでいく。季節外れの雪でも見ているかのように、市民達が驚愕した表情で空を仰いでいた。
(あっ、ちょっ! やっばっ!)
思わず穣司は路地に飛込み、姿を隠す。
害はないと分かっている。この光は人を傷付けるものではない。それでも時折、制御不能になるのは不気味でもあり、人々を驚かせてしまうのは心苦しくもある。
「あ、あのさ、これは変な……現象に見えたかもしれないけど、街の皆を傷付けるものじゃないからね! だ、だから、その安心してほしいな……なんて、あはは……」
言いながら、語尾が萎れていく。渇いた笑いでは誤魔化しきれなかった。何の言い訳にもなっていないような気がした。
「ふふ、分かっておりますよ」
それでもウェンテは笑ってくれていた。
涙を流す事よりも、許容してくれる事を選んでくれている。
やはり心優しい女性なのだ。今ですら他者を思いやる選択をしてくれている。
「そ、その、ごめんね。……遠回りしながら組合に向かってもいいかな?」
「はい! もう少しだけ、寄り掛かっていたいので、遠回りしたいと思ってしました」
『んん……? 遠回りですか、ふにゃ……』
一度、起き上がったコロは再び頭の上で寝息を立てる。
そして穣司は焦燥と羞恥が混ざりあった感情で、街の様子を窺いながら、こっそりと裏路地を進んでいった。




