40話 悠久から吹く風は変わりゆく
夜色に染まる街は、穏やかな静けさがあった。
日中の蒸し暑さは鳴りを潜め、涼やかな風が酒場通りを吹き抜ける。酔い潰れた者が酒場の内外で横たわり、夜風に揺れる獣人達の毛並みが、街灯に照されていた。
そんな静かな夜でも明かりを灯している家屋もある。
海運組合の二階にある応接室だ。そこではウェンテとフランが肩を落としていた。
出窓からはフランが足を投げ出し、背を丸めながら夜更けの街に嘆息を吐き出していた。火を司る神獣であり、巨大な龍でもある彼女とは思えないような姿で気落ちしている。
「やっぱり私じゃ駄目なのかなぁ」
室内に向けて背中を反らし、むくれ顔のフランが言った。
「……仕方がないじゃない。私だって駄目なんだもの」
ソファーに脱力した身体を沈ませるウェンテは伏し目がちに答えた。
「やっぱり見た目かな?」
「おそらく……そうじゃないかしら?」
二人は言い終わり、同時に溜め息を吐いた。
二重奏のように重なり合い、室内に物悲しさが増す。
「……私もお父さんと一緒に寝たかったなぁ」
フランは夜の街に向けて、消え入るような声で呟いた。
「……私もよ」
ぼんやりと虚空を見つめるウェンテも小さく呟く。
酒場で泥酔した者達が、その場で寝始めた頃、酒場にある全ての酒類が尽き果て、宴もお開きとなった。流れ解散となり、飲み足りない者は場所を移し、そうでない者は各々に家路につく。
そんな時、ジョージが思い出したかのように、泊まる所に頭を悩ませていた。うっかりとしていたと言わんばかりの表情だった。
絶好の機会と捉えたウェンテは小さく拳を握り締め、ジョージに寝床を提案した。他でもない自宅だ。そこしかないと意気揚々と――そして満面の笑みを浮かべて、提案したのだ。
しかし困ったような笑顔を浮かべながら断られてしまった。
ウェンテは仕方がなく組合の仮眠室を紹介した。こういう事もあろうかと、念の為に掃除をしていたので何の問題はなかった。だが、問題があったのはその後だ。
ジョージは寝台の感触を確かめるように撫でた後「へぇ」と満足したように呟き、寝転がった。それに続いてウェンテとフランも同じ寝台に寝転がる。添い寝してもらいたかったのだ。
しかし、悲しそうな笑みを浮かべるジョージに「いくらなんでもそういうのはちょっと……」と言われてしまった。
その後ジョージは「寝床があった事を思い出したよ、ごめんね」と言いながら組合を去っていったのだ。目指したのは、おそらく大破した帆船だろう。
そして残された二人は失恋したかの如く、失意の底に落とされていたのである。
「テネブラがさ『私はおとーさんと、一緒に寝てた』って言ってたから、じゃあ私もって思ったんだけどさ、よく考えてみたら、私は身分を明かしていないし、お父さんとも呼んでいないから添い寝してもらえないよね……」
末妹の真似をするような口調で言った後に、フランはしょんぼりと眉を下げながら言った。
フランは十数日前に、男神である父を訪ねて、始まりの地に帰郷したのだ。残念ながら行き違いになったとの事だが、正気のテネブラと再会し、久しぶりの歓談に花を咲かせたの事だ。
「……そうね、私も欲求が募り過ぎていて、冷静ではなかったわ。初対面に近い女性に突然添い寝されたら戸惑れるかも知れないわね。……世の中にはそういう男性ばかりではないだろうけれど」
「あはは。ま、そうだろうね。……でも、こういう時は幼い姿のテネブラが羨ましいな。きっと身分を明かさなくても、子供なら甘えさせてもらえるよ」
フランは思い出すように鼻で空気を吸い、うっとりとしながら香りの残滓を楽しむ。
「ええ、成人の外見をした私達と違って、テネブラの外見は幼いものね。……それにあの子は、お父さんと呼んで甘えていたんでしょう? そうなら尚の事、添い寝だってしてくれるわ。……けれど……私達に……お父様と呼ぶ資格なんて……」
資格なんてない。
分かっていても、口に出してしまえば、現実として受けとめるしかなくなる。言葉を詰まらせ、小さく溜め息を漏らした。
出窓に腰を掛けているフランに目を向けると、彼女は頬を掻きながら、窓の外に放り出していた足を戻した。ウェンテの向かいに腰を下ろし、哀憐の含んだ瞳を向けてくる。
「……やっぱり今でも、お父さんって呼ぶべきじゃないと思う?」
「私達が不甲斐ないから、世界も歪んでしまったわ。だからきっと、お母様も帰ってこられないに違いないのよ。……それに事情はどうあれ私達は、テネブラを独りぼっちにさせて、辛い思いをさせてしまった。一番不安定なあの子を――」
遥か昔を思い出し、ウェンテは小さく息を吐く。涙目のテネブラから向けられた眼差しが、いつまでも胸に突き刺さっている。
「――もしも、もしもの話よ。……例えば一般的なヒトの家庭の話。仕事で遠方に赴いている父親の帰りを待たずに、まだ幼い末の妹を置いて出ていく姉がいたら、父親はどう思うかしら」
「それは……まぁその……ね」
「……きっと失望されるわ。私はそれが何より恐ろしい。……だから……今はお父様とお呼び出来ない。少なとも世界が元に還るまでは、ね。……身分を偽っているようで、不敬かも知れないけれど、お叱りは後で受ければいいと……思っているわ」
ウェンテは自らの肩を抱き締めて小さく震える。
この世界や八神獣を含めた全ての者達は、女神の寵愛を受けて創造された。
そして愛する女神が創った世界を知る為に、男神は降臨したという。
だからこそ男神の眼差しは、穏やかさに溢れている。ただの街灯ですら感慨深く見つめ、労るように撫でていた。神の愛を注ぎ、安寧の光を灯せば、見る者の心を解きほぐし、癒していった。まさに神の御業だ。
だが――末妹を置き捨てるような姉に、温かい眼差しが賜れるだろうか。きっと軽蔑され、失望の色が混じった眼差しになるだろう。それがウェンテには恐ろしかった。
「……そっか。ま、ウェンテがそう言うなら、私はその通りにするよ。私と違ってウェンテは世界の為に動き回っていたんだもん。……でもね、お父さんが降臨したのも、ウェンテが立ち回ってからこそ……なんだからね?」
「ふふ……その殆どが裏目に出てばかりだったけれど、ね」
ウェンテは自嘲気味に笑った。
何度も選択を間違えた苦い過去が頭を過る。
思い起こせばいつだって間違えていた。
頑なに信じた正しき道を進み、吹き起こる砂塵に道を見失った。掛け替えのないものが、風のように手の平からすり抜ける。
始まりの地を離れるべきではなかった。
当時は種族同士が距離を置く事こそが最善だと信じていた。それが恐ろしい災害を生む事になるとは、思いもよらなかったのだ。
悠久の遥か昔、女神を知覚出来なくなった獣人達に異変が起こりはじめた。
神の寵愛を感じられなくなった獣人は次第に凶暴化していった。まるで親から捨てられた獣のように、他者に対して闘争心を剥き出しにするようになったのだ。
血を流すような争いこそ生まれなかったが、いつ血が流れてもおかしくはなかった。
誰が優れた能力であるかと、言い争うようになり、不穏な空気が流れた。仲間意識も強くなり、いつしか体毛がある事が誇りとなった。他の種族との溝はますます深くなる。
そんな時、光の神獣メルが人間を率いてい島を離れていった。
肉体的に人間は一番弱く、始まりの地で争いが起これば、なす術もなく真っ先に被害を被るだろう。
仕方のない事だとウェンテも同調した。
獣人が他の種族に争いを仕掛ける事を危惧していたのだ。言い聞かせても、従う者ばかりではなかった。目の届かない所で争いが発生するとも限らない。それ故にウェンテも新天地を求めて島を後にした。せめて争うなら獣人種だけで――。そんな思いを胸に抱いて。
辿り着いたのは大きな半島だった。
太陽の花が咲き乱れ、甘味のある植物が一面に広がる、水にも恵まれた豊かな美しい大地だ。ウェンテはヘリアンテス半島と名付けた。
付け根には山脈が連なり、陸路で他の種族が迷い込むのも困難な地形でもある。獣を閉じ込める檻になり得る、陸の孤島だった。
ウェンテは信仰が残っている僅な者達と共に山脈に居を定め、女神から賜った弓の神器を奉った。苦渋の決断で神器の力を使い、獣人達が外に出られないよう結界を敷いた。
というのも、その頃の獣人は血に飢えた獣と化していたのだ。滾る闘争心を持て余し、誰がより優れているかを闘争によって発散していた。その結果、多くの血が流れ続けた。
もちろんウェンテは根気よく諭した。母の教えを説き、争うべきではないと何度も言い聞かせた。しかし、世代が変わるにつれて、いつしか聞く耳は持たれなかった。
誰もが女神を崇めなくなり、その存在すら信じなくなった。ついには女神だけでなく、神獣であるウェンテの事すら忘れ去られる始末だ。
獣人達は知覚出来るものだけを信じ、自らを打ち負かすような強者のみに従うようになっていた。一番の強者の証である獣人王の座を狙い、半島には収まる事のない内乱が続いた。地位の奪い合いにより、王の座も頻繁に変わっていく。
決して手を出す事のなかったウェンテの存在は、獣人達からすると弱者の戯言でしかなかったのだ。
それでも――ウェンテは言葉で言い聞かせようとした。
風の神獣であるウェンテは、ただの獣人とは次元の違う強さがある。力で支配し、従わせる事も可能だ。
しかし、それでは意味がない。力ずくで従わせるのは女神の教えに反している。暴力による支配は女神が最も忌み嫌う事だったのだ。
だが――女神のいなくなった世界では、理想は通じなくなっていた。もはや圧倒的な暴力でしか、獣人達を従わせる手立てがない。
痛みで分からせるしかないのか。
ウェンテはそう考えるも、その手段を選べなかった。選んでしまえば、創造主の想いを汚してしまう。胸の内に眠る温かな思い出が凍りつき壊死する。それは救い難い蛮行である。
焦燥していたウェンテにとっては、女神の教えだけが拠り所になっていた。
それ故にせめて他の種族には迷惑かけぬようにと、山脈に結界を敷いたのだ。
そんな折、獣人種からは半獣人という存在が現れはじめた。
身体の一部だけに獣人種の特徴があり、それ以外は人間の外見をしている赤子が、突然変異のように獣人種の夫婦から産まれたのだ。
獣人の特徴が半分も満たない半端者は、体毛を誇りにしていた獣人種にとっては忌みべき存在であった。忌み子の半獣人と蔑まれ、その地位は限りなく低かった。そんな子供を産み落とした母親も忌み嫌われ、疎外されてゆく。
それでも半獣人は増え続けた。
獣の四肢を持ち、人間の上体を持つ半端者も生まれはじめた。
しかし外見の違いなど些細な事だった。原因は分からなくとも女神によって創造された者達の子孫に変わりはない。守るべき者達だ。それこそが女神から託された役目。獣人の守護獣である自身の存在意義でもあった。
ウェンテは半獣人達を保護しつつ、女神の教えを説き聞かせ、傷付いた者達の心を癒す日々が続いた。
――だが、それも無意味となる。
半獣人の外見をしたウェンテの言葉に価値はなかった。
獣人からすると半端者の戯言。半獣人からすると半端者の泣き言。聞き入られる事は皆無だったのだ。
一度芽生えた憎悪は消える事はない。
長く燻っていた火種は激しく燃え盛り、獣人種は二つの勢力に分かれる事になる。
獣人と半獣人。
純粋な闘争心だった頃の面影はなく、憎しみをぶつけ合う間柄でしかなくなった。同じ種族であるはずが、明確な区別が生まれた。――そして傷付け合い、殺し合う。
渓谷のように深い対立の溝は埋まる事がなかった。
半島を二分する戦禍の暴風が吹き荒れ、美しい大地は朱に染まる。
種族が一つになっていた懐かしい日々は、夢幻と消え失せた。もう――心地よい風が吹く事はなかった。
選択を間違えた。
自身の心を壊してでも、母の教えを破ってでも、力で捩じ伏せるべきだった。
半獣人に似た姿と獣の姿。その二つを持っている自分こそが、強者として振る舞っていれば、こんな事にはならなかったのだ。恭順させていれば、いたずらに血が流れる事もなく、たとえ仮初めでも平和に暮らせていた筈だったと、摩耗したウェンテは自分を責めるようになった。
神の不在の世界では不変のものはない。
思い出にすがり、変わりゆく「今」に目を背けていたからこそ――この凄惨な「今」が作られてしまった。
ならば「今」を見つめ、道を正すしかない。
過ぎた時間は戻る事はない。それでもやるしかなかった。
――しかし、その決断よりも先に、黒き災厄が吹き荒れ、多くの命が散ってゆく。
突如現れた災厄は、黒き獣のテネブラだった。
見覚えのない鋭利な角で命を穿ち、死を撒き散らす災害と化していた末妹は、呼び掛けに応じる事はない。
自我を失ったその姿はまさに凶獣。荒れ狂う強大無比な暴力は、有無を言わせぬ調停者となり、剥き出しの殺意で獣人の闘争心を掻き消した。
憎悪に膨れ上がった体躯で、慟哭と狂気に満ちた赤い涙を流し、獣人種に終わりをもたらせる存在として、畏怖を刻みつけた。
その姿にウェンテはこれ以上ない絶望に蝕まれた。
八神獣の一つである光の神獣に何かがあり、世界の均衡が欠け、浄化の光が失われている。それはつまり、この世界の全ての負の力が、闇を司るテネブラに集まっているという事。
そして――その原因は絶え間なく争っていた獣人のせいであり、止める事が出来なかった自分に責任があると、ウェンテは嘆いた。
――ああ、私はなんて事を。
選択を間違えていなければ、テネブラを苦しませる事はなかった。それ以上に、始まりの地から出ていくべきではなかったのだ自分を責め立てる。
最初から何もかも間違っていた結果が、この惨状を引き起こした。自らの行為がテネブラを殺戮の獣にしてしまったのだと。
ならば、これ以上は妹の手を汚させる訳にはいかない。
ウェンテは獣の姿に変え、テネブラを止めに向かった。
だが――そんな情動は、我を忘れた末妹のただの一撃で、吹き飛ばされる。
ウェンテは何も成せないまま、無惨な姿で大地を舐めた。流れ出る血と共に力が零れ落ちる。言いようのない虚脱感に身体が支配され、ヒトの姿に戻っていった。
まるで歯が立たなかった。
属性の相性はあれど、神獣は全て同格だ。一撃で致命傷を負うわけがない。それでもこの有り様は、力を失われつつあったからなのか。
可能性として、守護するべき者達から忘れられ、忌まれるようになった事。そのせいで力を発揮出来なくなったのではないかという考えに至る。だが、それを検証する手立てもなく、テネブラを止める事はもはや叶わない。
間違え続けた選択は、既に分水嶺を越えていた。
もうあの頃には戻れない。
ウェンテは涙を流し、己の弱さを呪った。
希望は露と消え、世界は憎悪に塗り潰される。その先陣を切ってしまった哀れな自分に怒りを感じながら――このまま、世界は終わる。
その時、熱を帯びた風がウェンテの頬を撫でた。
霞む瞳で見上げると、紅き巨大な龍が威風堂々と羽ばたいていた。
それは――火を司る神獣。
それは――八神獣の次女。
それは――姉のフラン。
紅き巨大龍のフランはウェンテを一瞥し、一度小さく頷くと、上空から急降下するように、テネブラに飛び掛かる。
暴走した妹を止めるべく、ヒトの理を超越した戦いが勃発した。
戦いは熾烈を極め、大地は姿を変えてゆく。
衝撃で地が抉れ、草木が腐敗し、消し炭になる。気候までもが変容し、一帯からは湿度が失われた。
争う事を忌避するように創られた神獣に、禁忌を侵す以外の余地はなく、無情にも姉妹で血を流し合う。
それでも両者は引く事がなく、争いは激しさを増していった。底知れぬ力で暴れ狂うテネブラに、フランは次第に劣勢になり、ついには拮抗していた力が瓦解する。
だが、終わりは突然訪れた。
何の前触れもなく、テネブラは糸が切れたように、地に伏せて――そして眠りについた。
三日三晩続いた争いの結末は呆気ないものだった。
フランは傷付いた身体に鞭を打ち、テネブラを抱えて始まりの地に向かった。空の飛べないウェンテは呆然と見送る事しか出来ず、惨憺たる大地に悲嘆した。
戦場の跡に残されたものは、豊かに茂る草花ではなく、暗く荒涼とした大地。争いの余波を受けた獣人種だったモノは、判別不能で無造作に転がっている。
対立していた二つの勢力は、分け隔てなく全て等価値に大地に還り、一つとなった。
その光景は、生き残った獣人種の魂に、畏怖を刻みつけた。
同族で血を流し合う事は、黒き災害を呼び起こすという事。絶対なる死の暴風が吹き荒れてしまえば、獣人種など飲み込まれるのを待つだけの矮小な存在でしかなかった。
その日を境に永遠に続くかと思われた内乱は終止符をうった。同族による殺し合いは禁忌となり、獣人と半獣人という区別は、単なる呼称でしかなくなった。
人智を越えた恐怖を知覚した獣人達は、絶やす事なく次の世代へと語り継がれる。
親が幼い子供にお伽噺を聞かせ、やがて子が親になると、同様に聞かせていく。時代が変わろうとも、獣人種の伝承は途切れる事がなく、魂に刻まれた忌避感は消える事はなかった。
皮肉にもウェンテが忌避した暴力こそが、ヘリアンテス半島に平和をもたらしたのだった。
そして――獣人種は変わっていった。
持て余す闘争心は流血とは別の形で昇華させた。
それぞれが得意とする分野の研鑽を積み、好敵手と切磋琢磨して、競い合うようになったのだ。
群れを率いていた者は、どちらが豊かな村を作るかを、政で競い始めた。また、建築の腕に自信のある者達が、自慢の家屋を建てて競い合い、狩りに自信のある者が競い合い、農耕に自信のある者が競い合い、そして料理に自信がある者は、その腕を競い合った。
豊富な食材と香辛料を用いた料理は評判を呼び、いつしか人の集まる町へと発展した。その噂は半島中に広がり、更に腕や知識に自信がある者がその地に集まり競い合う。
その結果、小さな村から始まった地は、優れた者が集まる都市へと変貌を遂げ、国の土台となる首都になった。
そうして獣人達は力で強者を決める事ではなくなった。
魂に刻まれた傷痕があり、語り継がれる伝承があるからこそ、体毛は誇りではないと知ったのだ。当然の事ながら強いだけが誇りでもない。
己の得意とする分野で真っ向勝負に挑むから勝つからこそ、誇りを感じるようになった。
それ故に勝敗が分かれても後腐れはなく、あとに引くような怨恨もない。相手を陥れるような不正は、最も誇りを汚す行為とされる不文律となっていた。
――やはり私は間違っていた。
変わりゆく獣人を見守るウェンテは、胸中を締め付ける沈痛に自省する。
ヒトは安寧に生きるもの。すなわち競う事は罪深き事。
頑なに……そう盲信していた。
ただ懐かしき日々の思い出を胸に抱いて、獣人種の性質を理解しようともせずに、理想を押しつけていただけだった。
だが――ようやく学べた。
多くの血が流れ、時間も掛かり過ぎてしまったが、ようやく競う事は悪ではないと知る。
ウェンテが最初にやるべきだった事は、閉じ込めて道を塞ぐ事ではなく、獣人の上に立って道を示す事。滾る闘争心に方向性を与え、役割を与え、導いていく事である。
正しき道は、お隠れになった女神に固執する事ではなく、守護するべき獣人達と共に成長し、学ぶ事だったのだ。
いくら悔やんでも過去には戻れない。
やる事なす事が裏目に出てばかりだったが、これからは獣人達と新たな道を進む事は出来る。
テネブラの一撃により力を失ったウェンテは、上に立って道を示す事は出来なくなってしまった。
しかし、陰から支え、導いていく事は出来る。重要なのは獣人達と向き合い、性質を理解してゆく事なのだから。
程なくして、ウェンテは山脈の結界を解いた。
それでも半島から出る者は少なかった。
様々な分野で勝敗を競う生活は、獣人とって居心地の良いものだったのだ。その影響もあってか、半島は目まぐるしい発展を遂げた。やがてシュケルと呼ばれる国になり、何かにつけて好戦的に競い合う姿は、周囲の国から脅威の目で見られるようになる。
そんな頃、一人の若き商人が、山脈を越えてシュケルの地に足を踏み入れた。
青年は商人としての才覚は低かったが、それでも年相応に抱く野心があった。それは商人のとっての志であり、若さゆえの壮言大語に語る夢。珍しい逸品を手に入れ、財を成すという極めて単純な野望である。
ただし青年には行動に移す冒険心を兼ね添えていた。
獣人種のように優れた身体ではなかったが、その分だけ心は強かった。険しい山脈程度では、青年の胸の内に燃える商魂は、吹き消す事は出来なかった。
そして――ある半獣人の少女は青年と出会う。
犬耳と尻尾が物珍しかったのか、青年の眼差しは好奇心を帯びていた。澄んだ瞳には厭らしさがなく、ただ不思議そうに見つめられる。それから青年は快活な笑い、少女に道案内を頼んだ。
少女は道中で他愛のない世間話に花を咲かせていた。
たった一人で山脈を越えてきた人間種の青年は夢を語る。
その姿は少年のように微笑ましく、少女は好感を覚えていたようだった。初めて出会う人間でも、獣人種と中身はそれほど変わらないと感じていたのだろう。
青年は商人として真っ直ぐな勝負をしようとしていた。周囲から恐れられているシュケルに単身で挑む姿は、少女にとっても好ましかったようで、嬉々とした表情で少女は町まで案内した。
町に着くと、青年は砂糖と香辛料、そして茶葉に目を輝かせる。
それは少女からすると、どこにでもある至って普通の調味料と嗜好品。しかし青年にはそのように映らなかったのか、すぐさま商談という名の勝負を仕掛けた。
屈強な獣人種に怯む事もなく、真っ直ぐな眼差しで挑むも、結果は芳しくはないようだった。常日頃から競い合っているシュケルの商人はさぞ手強かった事だろう。それでも青年は卑屈になる事もなく快活に笑った。
その姿は他の獣人達にも好ましく思われた。青年を歓迎し、酒宴を開き、意気投合してゆく。
やがて青年が祖国に帰る日になり、少女は寂しく感じているようだった。
それでも、また来るからという言葉を信じ、少女は青年が来る日を待ちわびるようになる。
そして幾日も経ち、青年は再びシュケルの地を踏んだ。
照れ臭そうに笑う青年から、少女は首飾りを贈られた。少女もまた照れ臭そうに微笑んだ。
他には魔道具と呼ばれる不思議な商品を携えていた。そしてシュケルの商人に再び挑む。今度は商談に勝利を掴み取ったようだった。
魔道具という目新しい商品は、獣人の興味を強く惹いたのだろう。
そしてまた酒宴が始まり、獣人と一人の青年との縁は深まってゆく。
そうしてシュケルとの取引は、しばらく青年の独占状態が続いた。
他に山脈を越えてくる変わり者はいなかったのだろう。
青年は財を成したようだが、真っ直ぐな性格は変わる事はなかった。
やがて少女と青年は恋に落ち、結ばれた。
山脈を越えてきた青年は、種族の壁をも易々と越えたのだ。
シュケルと周囲の国に変革の風を吹かせ、本格的な交易をもたたらし、新たな風を生む存在となった。
ウェンテはこの青年を――そして子孫達が目の届く範囲にいる限り、陰から見守ろうと心に誓った。いつの日か、彼のように種族の壁を越え、新たな風を吹かせる存在となるだろう。そんな予感がしていたのだ。
――青年の名はリムザフェル・ファン・ヴィント。
知られざるシュケルの変革者。
シュケルの新しき風。
そして――長き時を経て、末孫は船乗りの道を歩む事になる。
◆
「おーい、ウェーンーテ? どうしたの、呆けちゃって」
「えっ? あぁ、ごめんなさい。少し昔を思い出してたの」
フランの間延びした声に、ウェンテは我に返る。
幾重にも間違え続けた後悔の日々に、胸の内に感傷が隙間風となって吹いていた。
「もう……ウェンテはすぐに思い詰めるんだから。悪い癖だよ?」
フランは口を尖らせながらも、優しい口調で言う。
「ええ、そうね。直したいのだけれど、こればっかりは中々……ね」
過ちを学ぶ事は出来たが、性格だけはそう簡単には変える事は出来なかった。時折、昔を思い出し、塞ぎ込みそうになる。
「ま、ウェンテが困ったら、あの時のように私が駆け付けるよ。なんてったって私は姉だからね。いひひ」
「うん、ありがとう。……でも、きっと大丈夫よ。それにお父様から力を授けてもらったもの。もう力は完全以上に取り戻したわ」
「そうだね……あれは凄かったなぁ。……急に空から温かな力が降ってくるんだもん。私は力を失ってなかったけど、それでも気持ちが良くて、心が満たされたなぁ」
「……ええ、そうよね」
二人は恍惚とした表情を浮かべた。
突然、神々しい力が降り注ぎ、懐かしい匂いに満たされていったのだ。
母である女神と同質の力だが、匂いは少し違っていた。それでも優しい匂いに、ウェンテはどうしようもなく歓喜した。これが父の匂いであると思い至る。そして自分がとった、ある行動が間違いではなかったと、胸を撫で下ろしたのだ。
「ウェンテは世界を知る為に、時々だけど旅に出たもんね。で、闇妖精達と出会って、彼女達を始まりの地に導いたお陰で、お父さんが降臨してくれた」
「離れてしまった闇妖精が元に戻れば、苦しむテネブラも少しは癒えると思ったのだけれど、流石にお父様を降臨する事なるとは思わなかったわ」
ウェンテは旅の途中で闇妖精達と偶然出会ったのだ。
決意の色を瞳に宿し、壊れそうな思い詰めた表情で、集団を率いていた少女。この子なら始まりの地に眠るテネブラに変化をもたらし、新しい風を吹かせてくれるのではないかと、一縷の望みにかけた。
「テネブラは闇妖精の子達と仲良くやってたよ。……特にアンジェリカって子は、ね。 アンジーって呼んで可愛がってたよ。……面白い子だったなぁ」
フランは思い出し笑いするように口元を綻ばせる。
「私が見たアンジェリカは面白いといえるような子ではなかったわ。責務を背負いこんでしまってる子に思えたもの」
「そう? 何の責務もない子供のように、テネブラの後をついて回ってたよ。……それにあの子はね、お父さんの事が大好き過ぎるんだって。いやぁ、私が呆気にとられちゃったもん」
「きっと心から救われたのよ。それにお父様を愛するのは当然の事。嫌いになれという方が困難極まりないわ」
「あはは、そうだね。……ところで話は変わるんだけどさ、ウェンテのお気に入りの彼は帰ってこなかったね。……うちの龍人種が迷惑掛けてなきゃいいんだけど」
結局ザフェルとルイーザは酒場に戻ってこなかった。
一目惚れ以上の熱烈な愛情を向けるルイーザの恋が実ったのかウェンテには分からなかったが、ザフェルの性格を考えると実ったとは言い難い。それでも帰ってこないのはルイーザが龍人種だからなのだろう。龍人種の女は、これだと決めた男と添い遂げようと、あの手この手で奔走する情熱的な性質があり、それで空回りする事も多いとの事だ。
しかし――だからこそ無鉄砲な彼を繋ぎとめられるのではないかとも考えていた。
ウェンテは耳を澄まし、遠い空の音を聞く。
「……今も空を散歩しているようね」
「へぇ……意外だな。あの子は迷惑そうにルイーザを見てたし、私はあの子から睨まれていたように思えたんだけど」
酒場での事だろう。ザフェルの瞳は僅かな怒りを帯びていた。
「あの子には姉さんがルイーザちゃんを叱ったように見えたのよ」
「あぁ、口移しの件かな? だって出会ったばかりの男の子にそれは不味いじゃん。しかも泥酔した勢いだよ? よく分からないけどそういうのは絶対に引かれるでしょ。恋だって実らないって!」
確かにルイーザがあそこまで豹変した事にはウェンテも驚きを禁じ得なかった。恋に目覚めた龍人種の女が情熱的になりすぎると、空回りする所以があの姿なのだろう。
「……それは、そうなんだけれど、姉さんもお父様に同じ事をしようとしたからよ」
「えぇ……私はそんなに酔ってなかったし恋じゃないからね? まぁ……ちょっとやりずきたかなって今は思ってるけど、どう甘えていいか分からなかったし、それに龍の姿の時は、ほっぺにチューされたし、ただの愛情表現だよ」
「えっ!? そうなの! ……羨ましい、私も獣の姿になろうかしら。……って、そうじゃなくてね、ザフェル君にとっては、上に立つ者は道を示す者の事なのよ。だからルイーザちゃんを叱っておきながら、姉さんが同じ事をしようとしたから不満を感じたのよ」
「真っ直ぐな男の子だねぇ。……恋敵も多そうだしルイーザの恋は実るかなぁ」
「私は大丈夫だと思うわ。それにね――」
「あはは、そうなんだ――」
二人の姉妹の間には気兼ねがなかった。
ただこの瞬間だけは、ただの少女になれる。
こうして二人の神獣の他愛ない雑談は、空の彼方が白みはじめるまで続いた。




