38話 凪ぐ心、夜空の上
フェアティアへ帰還してからは、嬉々とした気分は一転して、荒れ始める海のように心が白波を立てていた。
振り上げた拳には、様々な事情が絡みつき、行き場なく宙に浮く。感情は複雑な海流のように混ざり合い、晴れる気配のない濃霧の海に遭難していた。
船頭もいて、進むべき方向も分かっている。それでも視界不良の海は煩わしく、気持ちだけが先走る。
だが、曇天は裂け、陽の光が射し込んだ。
温かな光の粒が、ふわりと舞い降りる。
何度か浴びた事のある穏やかな光だった。
柔らかな声に振り向くと、慈愛に満ちた笑みがそこにはあった。
瞬く間に霧が晴れ、燻っていた苛立ちは、凪いでいく海に溶けていった。あの時のように安堵に包まれ、心は平穏に満たされる。
前回は羞恥を覚えて目を逸らした。
だが――今回は逸らさなかった。逸らす事を考える間もなく、目を奪われた。
その瞳に。その姿に。その温かさに。
神を肌で感じる。
ウェンテのあの言葉が胸に落ちた。
(……大いなる父。……神様……いや)
喉元まで出かかった言葉を心の内で呟く。
くすぐったい気持ちが込み上げてくる。ジョージが大いなる父、あるいは神であると、崇め奉れと言われると難しい。いや、気恥ずかしいというべきか。しかし兄のように慕う事は難しくない。
実際に年齢という概念があるのか不明であるが、彼の外見はザフェル自身と同世代か、少し上くらいのように見えた。それが強く影響しているのか、やはり父というよりは兄なのだ。
それにこの上ない全幅の信頼は寄せている。親しみを込めて兄貴となら呼べる気がした。
(大いなる兄貴……だな)
しっくりとくる。この方が良い。
もしもジョージが兄だとしたら、どんな感じなのだろうかと考えてしまった事もある。オルハンのように道を示し、群れを率いて先頭を走る手合いではない。それとは正反対に影から温かく見守られ、困難に打ち負けそうになると、優しく手を差し伸べられ、道を違えてしまえば、さりげなく正しい道へと導いてくれるような兄だろう。
今ですら既のところで救われている。自棄になりかけていた思考すら、ジョージがいるだけで落ち着きを取り戻せているのだ。それが妙に心地よい。
そんな彼だが、最初はただの優れた人間種だと思っていた。次は最高位の龍人種であると。そして最後には神様であった事を知る。それでも彼に忌避感を覚えた事は一度もない。たとえどのような種族であっても親愛と尊敬の念しか感じられなかったのだ。
だからこそ今になってはっきりと分かる。天上の存在を前にすれば、種族の事など忘れてしまう程に、どうでも良い事だったのだ、と。
(そうか……。神様の前じゃ種族の事なんか些細な事だったんだな)
種族の壁がなくなる。その意味がようやく掴めた。
簡単な事だった。兄の下には弟や妹しかいないのだ。兄貴分を慕う者同士に壁はない。それは神でも同様の事で、きっと始まりの世界では、誰もが女神ニナを慕っていたのだ。
そう考えが至り、ザフェルは口元が綻ぶ。
「えっと……大丈夫? まだ調子悪い?」
言葉を発しないままのザフェルを心配したのか、水の他にも煌々とした光を身に纏わせながらジョージが佇んでいた。何かあればすぐに力を行使しようとしているようにも感じられる。
「いや、大丈夫だ。……助かったぜ兄貴。色々とすっきりしたって感じだ」
ザフェルは胸の内で感じていた敬称で彼を呼んでしまう。しかし間違って兄貴と呼んでしまっても、羞恥心に苛まれる事はなかった。清々とした気分で、晴れ晴れとしている。
「あ、兄貴? 旦那ではなくて?」
「ははは、まぁ気にしないでくれ。もしも旦那が兄貴だとしたら、こんな感じなのかなって思っちまってたら……ついな」
「へ、へぇ、そうなんだ。まぁ、最近は呼び間違いが多いみたいだし、気にしないでくれと言うなら気にしないけどさ。……ところでルイーザ……だったかな。もう平気になった?」
ジョージはザフェルが抱き上げたままの少女に、労るような柔らかな声で問い掛ける。見守るような優しげな瞳はまさしく兄だ。
ザフェルが視線を胸元に落とすと、青白くさせていた顔を再び紅潮させたルイーザが「あ……あ……その……」と言葉にならない言葉を発していた。
「あぁ、いいよ、無理に喋らなくて。何て言えばいいのかな……ある程度の事情はウェンテやフランから話は聞いてるよ。色々と頑張り過ぎて空回りしちゃったのかな? ……飲み過ぎには感心しないけど、その……若い内はお酒で失敗する事もあるよ。えっと……一緒になりたい人が相手であってもね。……多分」
ジョージは励ますようにルイーザの肩に優しく触れた。
その姿があまりに神々しく、何よりも絵になっていた。瞳を潤ませたルイーザが息を呑むのが分かる。その僅かな動きで一筋の涙が零れ落ち、そして絞り出すように口を開いた。
「……あの、あのっ!」
「うん、何かな」
「わ、わ、わ私、なんとお礼を申し上げればいいのか……その。あ、ありがどうございました!」
「あー、いや、ごめんね。結局のところは間に合ってなかったし」
「い、いえ、そのような事は。……それで、その、ジョージ様から見て、ザフェル君は大丈夫……だと思いますか?」
「えっと……うーん、ザフェルなら大丈夫だと思うけど、あとは自然体でいるルイーザ次第なんじゃないかな。……でも、俺はこういう事には役に立てないから……」
「いえ、そんな事ないです!」
神々しさを感じながらも、何の脈絡もなく彼から自分の名前が出た事に、ザフェルは首を傾げた。
嘔吐物をかけられた事だろうか。それなら仕方のない事だ。慣れていない頃は自分の限界が分からずに飲み過ぎてしまう事はある。今回は酒場内で連鎖しなかっただけマシだ。
(兄貴……いや旦那のお陰で俺は大丈夫なんだけどな。もうルイーザが吐いた物の感触も臭いも残ってねぇし。ま、確かに絡み癖のある酔っ払いを相手にするよりは、自然体のルイーザの方がいいけどよ)
ザフェルもあの絡み方には対応に困っていた。
大人の振る舞いをしようとする子供から言い寄られているようにしか思えなかったのだ。それに違和感のありすぎる距離の縮め方でもある。
だが、そこで先程のジョージの言葉が頭を過る。
――頑張りすぎて空回りしちゃっていたのかな?
(そうか……そうだったのか)
おそらくルイーザは早く打ち解けようと無理をして飲んでいたのだ。
種族関係なく仲良くしていたとされる大昔のように、まずは龍人種と獣人種の距離が縮まるように頑張っていたのだろう。結果的には泥酔して距離感を誤り、挙げ句の果てには嘔吐までしてしまっていたが、その心情が今になって骨身に沁みる。
(……あんなに酔っていたのは俺のせいでもあんのか。組合での事を気にしてたのかも知れねぇな)
ならば話は早い。
ルイーザが近づいてくるなら、こちからも近づいていけばいい。なにしろジョージを慕う者同士なのだ。つまり兄妹だ。いや、姉弟か。どちらにしても変わりはないし、そこに種族の壁は見当たらない。
「なぁ、ルイーザ……お前の気持ちはよく分かった。だから……あんま無理すんな。次からは俺からお前に近づいていくからよ」
ザフェルは抱き上げているルイーザに笑いかけた。
「……え、本当に……?」
ルイーザは口元に押さえながら、再び涙を浮かべる。
願いが叶った。そう言わんばかりの表情だ。
「嘘なんかつくかよ。これから俺達は一緒になるんだろ? なら俺からも近づいてやるっての」
「うん……うん!」
ルイーザがしがみつき、温かい涙で胸元が濡れる。
きっと彼女は昔から全ての種族が一つになる事を夢見ていたのだろう。胸元に感じるものに、嫌な温かさはなかった。
ふと視線を戻すとジョージが足音も立てずに去っていく後ろ姿が目に映る。「あとは若い二人に任せますかな」と小さく呟いたのをザフェルの耳が拾った。
これからの龍人種と獣人種の事を託されたような気になり、緩やかに闘志が燃える。この世界の事すら任されたような気にもなる。
女神ニナの望んでいた世界に還る事を願っていたのだろう。
しかし力ずくで従わせ、信仰を植え付ける事はしなかった。おそらくこの世界の住人達が、自分で気付き、自分達の力で、在るべき世界に戻すべきだと考えているのだ。
だからこそジョージは女神ニナの事を気付かせる程度に名前を出していた。信仰が忘れ去られても怒りを露にする事もなく、影から見守るように、女神を思い出させようとしていたのだろう。真っ先に女神ニナを木彫り像や首飾りに象ったのはそういう事だ。
大いなる父。その意味は女神ニナの対なる男神。つまり夫婦の神の片割れだ。
その男神ジョージが何故この世界をずっと見守っていなかったのかは不明だ。きっと地上を生きる者には計り知れないような事が、天上の世界にあるのだろう。船乗りの男が仕事で別の国に行くように、男神もまた別の世界に行っていたに違いない。
そうしてザフェルはルイーザが落ち着くまで、雲の隙間から夜空に浮かぶ月をぼんやりと眺めていた。
今宵の月はいつもより美しく感じられた。それでも月の美しさは昔から変わずに、夜の世界に輝きをもたらしていたのだろう。美しく感じられるようになったのは心境の変化だ。
――在るべき世界に還る。
その為には戦いは避けられない。
もはや敵国は話し合いが通じる相手ではない。こちらが何をしなくても、裏で何らかの画策をして、牙を剥いてくるのだ。最終的には喉元を食いちぎらんと、攻め掛かってくる姿が容易に想像出来る。
ならば殴ってでも分からせるしかない。言葉による対話はそれからだ。どのみち報いを受けさせる事に変わりはない。
それにこれは兄弟喧嘩のようなもの。自分勝手で胡散臭い人間種に拳骨をくれてやるだけの事。
それでもすぐに変化は訪れないだろう。獣人種同士の戦いならともかく、異種間での戦いになると、どのような結果であれ遺恨を残す。すぐに一つになるのは困難だ。
しかし今の時代では難しくとも、次の世代に変わっていけば、意識も変わるかも知れない。あるいは――
(旦那が人間種の国に行ったら、あいつらも変わるのかも知れねぇな)
人間達が何を感じ、ジョージが何を見るのか、先の事は分からない。
だが確実に何かが変わる予感もある。
それが良い方へ向かうならいい。
しかしだ、もしも彼が悪辣な物を見て、この世界に失望するような事があれば、その時は――
(ま、今から考えても仕方がねぇか)
ふと下から視線を感じ、力の入りそうになった拳を緩める。
ルイーザに目を向けると、彼女から熱い眼差しがぶつかった。
「どうかしたか?」
「うん、あのね……。ザフェル君と、その……いつ一緒に寝る事になるのかな……って」
「一緒に……寝る?」
「うん……その……えへへ」
そう言ったルイーザは照れくさそうに組んだ指をもじもじさせていた。
その様子に疑問に感じながらも、ザフェルはすぐに思い至る。
(……大昔の奴らは種族関係なく雑魚寝でもしてたのか?)
ルイーザは種族が一つになる事に拘っている。仲の良い兄妹のように、寝食を共にしたいという気持ちが先走っているのだろう。しかし、そこに至る道は長い。まだ当分は先の話だ。
「ま、世の中には順序ってもんがあるからな。一緒に寝るのはもっと距離が縮まってからだろ」
「えっ! あっ、うん! そ、そうだよね! 私って……そういう経験ないから、よく分からなくて……」
「ま、そりゃ仕方ねぇよ。俺だって経験ねぇしな」
「本当に!? ……絶対に経験してると思ってた」
「はっ、俺を何だと思ってんだっての」
「えへへ……そっか、そうだったんだ。じゃ、じゃあ、ゆっくりと距離を縮めていこうね」
「うん? ……ああ、そうだな」
気が付けばルイーザの口調も変わっていた。初めて会った時に比べると砕けた口調になっている。これも彼女なりの距離の縮め方なのだ。
ならば、こちらからも縮めていくべきだろう。
今ならルイーザに抱えらる事に忌避はない。いずれ戦場を共に駆ける事にもなる。その先行体験として、夜空の散歩に出掛けるのも悪くない筈だ。
「なぁ、ルイーザ。……俺が抱えられちまう事になるが、ちっとばかし夜の空に出掛けないか。もちろん龍の姿になるのが、嫌じゃなければ……な」
「全然嫌じゃないよ! うん! 分かった!」
ルイーザは満面の笑みを浮かべて、ザフェルの腕から飛び降りる。服に手を掛け、おもむろに脱ぎ始めようとしたところで、ザフェルは慌てて制止する。
「待て待て待て、何で脱ごうとする!」
「え? だって脱がないと服が破けちゃうよ?」
「あ……悪い……そういや、そうだったな。……んじゃ俺らの乗ってた船に行くか。そこなら誰もいやしねぇし」
「うん! ……じゃあ、そこまで手を繋いでいい?」
「あ? まぁ、いいけどよ」
ザフェルはルイーザの手を握って壊れかけの船に向かう。
硬質そうな肌とは違い、手の平は柔らかい。種族は違っても少女の手だ。ぎゅっと握り締められると、信頼の証のように感じられる。
妹がいるならこういう感じなのかと、穏やかな気持ちが込み上げた。歳上の筈なのに、まるで子供を引率しているかのように思えてしまう。だからこそ、その手を汚さないようにと、ザフェルは密かに心に誓う。たとえ共に戦うとしても、直接手を汚すのは自分でいい。
船に着くとザフェルはゆっくりと手を放した。ルイーザは「あっ」と言葉を漏らし、名残惜しそうにザフェルの手を見つめていた。
彼女は一度目を瞑る。それから伏し目がちに、前髪を弄りはじめる。月明かりに照らされた表情は、赤く染まっているようにも見えた。
「じゃあ……私は脱ぐけど……その……見たい?」
ルイーザはぽつりと呟く。
裸を見せるつもりなのか。ザフェルは一瞬だけ考えを巡らせる。しかし別の意味である事に気付く。
「ん? あぁ……龍の姿になるところか? ま、どんな感じに変化するのか気になるけどよ、俺は後ろ向いてるわ」
「え……あっ、うん! も、もちろんそうだよ!」
やはりこれで正解だった。
いくらなんでも仲良くなる為に、裸体を晒す事はないだろう。もしかすると、この広い世界にはそういった文化もあるのかも知れないが、彼女はそんなつもりで聞いたのではない筈だ。
ザフェルは後ろを向き、変わり果てた船をぼんやりと眺めた。
この船は随分と長い間、寝食を共にした相棒だ。それも役目を終え、今では息を引き取る寸前のように、静かに浮いている。もう航海に出る事はない。
いつ沈んでもおかしくはなかった。だが、持ちこたえた。軋み音を立て、歯を食い縛りながら大海原を漂い、船乗りの命を繋げさせたのだ。そして神に救われ、ルイーザ達との出会いもあった。この船は護衛船以上の役目を果たしたのだ。
ザフェルは屈んで、甲板を撫でる。物体に労う気持ちが湧いてくるのは初めての事だった。
そうしていると背後から光が放たれ、微かな圧迫感が背中にのし掛かる。
振り向くと甲板のすぐ上で羽ばたく龍がいた。月光に照らされる深紫の鱗が煌めいている。
あの古代龍と比べると遥かに小さいが、それでも十分すぎる大きさがあり、人の形態の時とは違って凛々しさと頼もしさが強く感じられた。
「へぇ……こいつは……綺麗だな」
思わず感嘆の吐息が洩れる。
龍の美醜など分かるはずもない。そう思っていたが、龍の姿をしたルイーザは美しかった。
褒められて嬉しかったのか、照れくさそうに小さな鳴き声を上げて、指先を弄っている。その姿が微笑ましい。
今ならあの時のジョージの気持ちも分かる。押し潰されるような畏怖の感じられない龍は可愛い。なにより、中身はあのルイーザなのだ。畏れを感じる事は皆無だ。
「じゃあ夜の散歩に出かけるか」
その言葉にルイーザは小さく頷いた。
宝物を扱うような優しい手つきでザフェルは抱き抱えられる。
ばさりと羽ばたく翼の音が、静寂に包まれた夜の海に響いた。フェアティアの灯火が徐々に小さくなっていく。雲を抜けると、いつもよりはっきりと見える満天の星が目に映る。その美しさに圧倒され、息を呑み、呟きを洩らす。「あぁ……綺麗だ」と。




