37話 溜息の酒宴
フェアティアで最も古くからある酒場の名はタリフ。
この店が構えられてから、通りには酒場が増えていき、いつの間にか酒場通りになっていた。
看板には操舵輪と酒瓶が描かれている。海運組合創設の時代に、引退した船乗りの料理番が構えた店でもあり、ザフェル達の行きつけの店でもあった。
落ち着いた雰囲気の酒場ではなく、食事も楽しめる大衆的な酒場である。
暖色の明かりが灯された店内は、吹き抜けの構造になっている。ホールのように広い一階には小さな舞台があり、楽団の軽快な生演奏が客を楽しませる。四人掛けの丸テーブルがいくつも置かれ、一人用のカウンターテーブルも備え付けられている。仲間連れで訪れる客もいれば、賑やかな雰囲気で生演奏に耳を傾けながら酒を楽しむ一人客もいる店である。
豊富な酒に新鮮な魚介。フェアティア付近で収穫された肉や野菜。そして内地から運ばれてくる香辛料が組み合わされた料理は労働者の舌を唸らせる。
その為か客足は多く、店内から喧噪が聞こえてこない日はない。店が物静かになるのは太陽が昇っている間と週に一度の定休日だけだ。とはいえ目出度い時は、臨時に開店する事もある。そんな日は滅多にないが、その滅多にない日は、今日という日でもあった。
しかしながら臨時開店の場合は有り合わせの料理しか提供されない。酒はあっても食材がないのだ。特に夕方前の時間であれば、市場は閑散としている。食材店も店を閉める頃合いだ。
そういった時は、話を聞いて駆け付けた客が食材を提供して、店主が料理を作る事もある。料理そのものも持ち込み可能になるので、様々な市民達が色々な物を持ち込むのである。
もちろん店主は代金は取らない。従業員を休日出勤させる事は出来ないので、通常の料理を提供出来ないからという事もあるが、一番の理由は祝いの席だからである。こういった時は何でもありになるのがタリフの習わしだ。店主ですら酒を飲みながら接客する。
フェアティアの住人もそれを知ってるからこそ、好き勝手に食材や料理を持ち込んでくる。誰もがオルハン達の帰還に浮かれ、祝いたくて仕方がなかったのだ。
なにより古代龍に抱えられて帰ってきた事はフェアティア市民に衝撃をもたらした。そしてオルハンとザフェルの語る真実と、クラーケン撃退の話が加われば興奮は冷めやらない。
他所から流れてくる疑わしき噂が虚言でしかなかった事が、さざ波となり街に広がってゆく。フェアティアに漂っていた張り詰めた空気は瞬時に消失し、英雄の姿を一目見ようと酒場通りには市民が押し寄せていた。
だがしかし、タリフで宴を楽しむ船乗りや市民達の中で、ザフェルだけが困惑した表情でグラスを傾けている。
腹の底で燻っている怒りもある。組合で聞かされた途方もない話についていけない事も起因している。命の恩人が神様だったと聞いた時は困り果てたが、よくよく考えれば納得の出来る事柄がいくつもあった。
そしてなによりもザフェルが困り果てているのは龍人種のルイーザであった。
「ういっひっひっひ、ザフェルくーん、飲んでるかなぁ? あれぇ?お酒減ってないねぇ? じゃあおねぇさんが口移しでお酒を飲ませてあげようかなぁ? えへへ」
「い、いや、いいっての。つーかお前飲み過ぎだろ……」
この有り様である。
ルイーザは絡み酒の気があったのだ。
数え切れない程に杯を空け、いち早く泥酔状態になっているのに、一向に潰れる気配はない。
そして妙に密着してきて、やたらと年上の女性である事を強調してくるのだ。
事の発端は組合から出たザフェル達が、ルイーザを連れてタリフに向かった事だ。もちろんルイーザには人前に出ても問題ない服を着させている。
そしてサヤン達と店で合流すると、すぐに飲めや食えやの宴が始まったのだ。
タリフでは組合で聞かされた話をするつもりはなかった。今は小難しい話を抜きにして、酒を楽しむべきだろうと、ウェンテとオルハンが判断したのだ。それにはザフェルも同意する。
しかし仲間達にルイーザの事を紹介しなけらばならなかった。
ザフェルがどのように紹介するべきかと困っていると、ルイーザは「ザフェル君と一緒になる人です」と言い放ったのだ。
その言葉は見事に誤解を生み、ニヤついた仲間や市民達から、次々と質問攻めに合うルイーザは、上機嫌になって酒を飲み干していった。
ザフェルはザフェルでどういう事なのかと、駆け付けた女性達から質問攻めにあった。その女性達とは親しい訳でもないのに、何故か悲しげな表情をされて余計に困惑したのだ。
そして今に至る。ザフェルにとって溜め息の吐き止まない宴は初めてであった。
聞こえてくるはずの軽快な音楽も耳に入ってこない。
「あーん、ザフェルくんったら、恥ずかしがり屋さんだなぁ。私の事は名前で読んでほしいなぁ……くひひ」
膝に乗り密着してくるルイーザに指先で胸元を撫でられる。
「あぁ……もう。分かったからルイーザ、少し離れろっての……」
「ふへへ……。い、や、で、す!」
ザフェルは引き剥がそうとするが、抱きついてくるルイーザの力は想像以上に強い。力尽くでやれば、引き剥がせない事もないだろうが、そこまでするつもりもない。してしまえば店の雰囲気に水を差してしまうだろう。
(どうしてこうなった……。こんな状況を見られたら、副職長から何て言われるか分かったもんじゃねぇ)
想像すると寒気がした。
おそらく獲物を見つけたと言わんばかりに、ニヤリと口角をつり上げるだろう。話のネタにされ、からかわれるに違いない。
ザフェルが10代の頃にサヤンと共に娼館通りを歩いていただけで、翌日には意味ありげに微笑むウェンテに「大人になれた?」と言われた事もある。
実際に何もしていなかったが、どこで見られていたのかと考えると、言いようのない恐れを感じた。
――そのウェンテに今の姿を見られとしたら。
考えると溜め息しか出ない。しかしその瞬間は確実に訪れるだろう。なにせ恩人であり、神様を迎えに行っているのだ。そろそろタリフに着いてもおかしくない。
「あぁ、くそっ! こりゃ飲むしかねぇな」
ザフェルは自棄気味に一気にグラスを呷る。つられてルイーザも飲み干す。
「わぁ、ザフェルくん格好いいねぇ……うへへ。じゃあもう一杯いきましょうねぇ。……これも生涯の相棒である、おねぇちゃんの役目ですから、いひひ」
ルイーザはそう言って空いたグラスに酒を注いだ。尚も密着したままである。
「生涯の相棒って何だよ……。はぁ……もうどうにでもなれ」
ザフェルはすぐに飲み干した。同様にルイーザもだ。
今は何もかも忘れて酔い潰れたい気持ちになる。
出来れば仲間達とジョージだけで酒を飲み交わしたかった。たと
え神様であろうと航海を共にした恩人であり友人だ。救われた事に感謝もしているが、それを抜きにしても友好を深めたかったのだ。それに今さら態度を改めるほどザフェルは器用でもない。
もちろん駆け付けた市民やルイーザが邪魔という訳ではない。普通に酒を飲んで騒げるなら問題はなかった。だが、今のルイーザは荷が重いのだ。
たとえ年上だとしても外見は少女だ。そんなルイーザが密着していれば少女嗜好者と思われかねない。別に思いを寄せている女性がいる訳ではないが、多少は人の目も気になるし、やはりウェンテの反応を考えると胃が痛くなる。
(……旦那だけで来てくんねぇかな。でも場所を伝えてねぇから無理か)
酒精の匂わせる溜め息を吐き、ザフェルは店内に目をやった。
変に気を使われたせいで、ザフェルはルイーザと二人だけの席で飲んでいる。当然ながらオルハン達とは席が離れていた。
そのオルハン達は様々な人達に囲まれて話をせがまれている。普段寡黙なオルハンはこの時ばかりは、饒舌とはいかなくても口数が多そうに見えた。
そんなオルハンと目が合う。しかし意味ありげに含み笑いで一瞥されるだけだった。
(おいおい、俺は孤立無援かよ……)
ザフェルは溜め息を吐いた。
「駄目だよ、ザフェルくぅん。そんなに溜め息を吐くと幸せが逃げちゃうんだからねぇ? そんな悪い口は塞いじゃおうね、えへへ」
「おま、ちょっ!」
酒臭い息を吐きながら、ばさりと翼を広げて瞳を潤ませるルイーザが、顔を近付けてくる。
当然の事ながらザフェルは抵抗した。
しかしその広げられた翼が、人に見られないような行為をするためだと思われたのか、囃し立ててくる声も聞こえてくる。
そしてその中に一番聞きたくない声と、聞きたかった声が混じっていたが、聞き慣れない声もあった。
「あら、ザフェル君ったらお盛んね。出会ったばかりのルイーザちゃんと、もうそういう関係になっているなんて。……でも場所を選ばなきゃ駄目よ?」
「えっと……邪魔したかな? あ、でも遅れてごめんね。ちょっと色々あって、ね……」
「あのさ、ルイーザ・シルヴァ・アルメイダ。仲が良いのはいいけれど、人前でそれはやめさないよ。ちょっと……こっちに来な」
その言葉にルイーザの肩がびくりと震え背筋が伸びる。酒精で赤くしていた顔が青ざめ、唾を喉の奥に押し流す音が聞こえる。
「は、はい! すぐに向かいます!」
萎れるように翼が閉じ、膝からルイーザが降りる。
すると今しがた店内に入ってきた三人が目に映った。
ウェンテがジョージの右腕に絡み付き、その反対の腕は赤毛の少女が絡み付いている。身内贔屓を抜いても二人とも非常に整った顔だが、ジョージは困ったように笑みを浮かべていた。
(おいっ! ありのままじゃねえのかよ! そのままでいろって言ったアンタのどこが普段通りなんだ! ……つーか旦那を困らせてんじゃねぇよ)
心の内でザフェルは叫ぶ。
ジョージが神と知った上で、今まで通りに接する事が出来るのかと、考えていたの自分が馬鹿らしくなる。
何故抱きついてるのか分からないし、こんなウェンテも見た事がない。おそらく誰も見た事がないだろう。店内に目をやれば、全ての者が驚愕に目を見開き、呆けるようにウェンテを見つめている。
もう一人の赤毛の少女は見た事がない筈だが、金色の瞳をどこかで見た気がした。一度見たら忘れないような端麗さだが、どこか小生意気そうな顔つきでもある。
そんな赤毛の少女に向かって、肩を落としたルイーザが歩いてゆき、頭に手刀を食らう。それから耳打ちもされている。
おそらく叱責されたのだろう。すぐに涙目で押さえながらザフェルの下に戻って来くる。
だが内心ほっと一息ついた。これで絡み酒が少しでも改善されるのではないかという細やかな希望も抱けた。
「……ところでルイーザ、あの赤い髪の女は何者なんだ? 若そうに見えるが、お前のところの長か? にしても、どこかで会った事がある気がすんだけどだよ」
ザフェルは声を潜めながら尋ねる。
「ひゃい、あの御方が私達の主様で、神獣様のフラン様です。……会った事がある気がするのは、ザフェル君があの御方に抱えられて帰ってきたからだと思いますよ」
ルイーザは手刀を食らった頭部を押さえながら言った。
「――は? いや、待て待て、神獣っての単語も気になるが、まさかあの女が古代龍……なのか?」
龍の特徴がみられない完全な人の姿だ。ならばおそらく最高位の龍だという事になる。
「はい……。龍王国の女王様よりも偉くて、ウルカの地を太古から支配されていた、とっても怖い御方です……あっ!」
ルイーザの表情が凍りついたように見えた。まるで失態を侵したとも言わんばかりの表情だ。
「ど、どうした?」
「い、いい今の話は内緒でお願いします。ジョージ様はこの世界の事を知る為に降臨されたそうなんですが、フラン様……というか神獣様が人の姿になれる事だけは、絶対にジョージ様に知られていけないそうんです。知られると……とても恐ろしい事が起こりうる、と」
「……何が起こるっていうんだよ」
「フラン様曰く、もしも知られしまえば、世界に終わりをもたらす神獣様がお怒りになる……らしいです。……なのでザフェル君、気を付けてください!」
ルイーザは懇願するようにザフェルにしがみつく。
「……なんだよそりゃ。ますます訳分かんねぇよ。つーか、ルイーザの方こそ気付けろっての。さっそく俺に秘密を漏らしてんじゃねぇか……」
溜め息を吐きながらザフェルは頭を掻く。
ジョージに古代龍が人型の姿になれる事を知られると、なぜ世界に終わりをもたらす神獣が怒るのか。意味が分かりようもない。話が大きすぎる事もあり、思考放棄したくなる。
そしてそれほど重要な事を簡単に漏らしてしまったルイーザのこの先が思いやられもした。
「それは……その。ごめんなさい」
見るからに沈痛な面向きのルイーザは項垂れる。
瞳を潤ませていた。微かに震える手が、救いを求めるように伸びてくる。
打って変わりすぎる態度に少し違和感も覚えるが、その姿は怖い話に怯える子供にしか見えなかった。先程の泥酔した姿よりは、よっぽど外見と一致している。
ザフェルは更に溜め息を吐き、ついルイーザの手を握りしめる。
「ま、言っちまったもんは仕方がねぇだろ。俺には分からねぇ事ばかりで、いまいち飲み込めねぇが、誰にも言ったりしねぇよ。……ルイーザも次からは気を付けろよ」
「……うん、ザフェル君、ありがとう」
そう言ってルイーザは強く握り返してくる。
鱗に覆われているが小さな手だ。落ち込んで俯く姿は、やはり子供としか思えない。彼女はその後も一言も発する事無く、静かに顔を伏せている。
(しかし世の中分からねぇ事ばかりだな。あのフランとかいう女が、あの恐ろしい古代龍で、太古から生きている神獣……なのか。じゃあ旦那にはそれを知らずに撫で回していたのか。……まぁ、それなら知らない方がいいのかもな)
古代龍がジョージに懐いている理由は何となく理解出来た。甘えるように鳴いていたのは、おそらく飼い主との出会いに喜んでいたからなのだろう。
ただ、そうとは知らずに撫で回して、口付けまでしていた相手が、実は傍らにいる赤髪の少女だったと知れば、彼はどう思うのか。
そんな事を考えながらジョージに目をやると、蛇のように絡み付くフランが目に映った。
酒を口に含み、口移しで飲ませようとしているのを、苦笑いを浮かべたジョージが、避けようとしている。ウェンテはそれを止めようともしていない。
神という天上の存在であるはずなのに、妙な仲間意識と同情心も湧いてくる。が、部下を叱責しておきながら、主が同様の事をするフランにも、ザフェルは僅かな苛立ちを覚える。
「なにやってんだあいつら」
たとえ相手が恐ろしい龍だろうと納得がいかなかった。程よく体内を巡っている酒精のせいか、もはや神獣だろうと古代龍だろうと知った事ではない。酒の席で空気を壊すような事はしたくはなかったが、友人であり恩人であるジョージに迷惑をかけるなら、一言文句をつけなければ気が済まない。それに主であるフランが、理不尽にルイーザに叱る姿を思い出し、苛立ちは増した。それは上に立つ者がやる事ではない。
ザフェルは思い立ち、ルイーザから手を離した。
立ち上がり、フランを睨む。
歩き始めようとしたところで、首元を引っ張られるような抵抗を感じる。舌打ちしそうになるのを堪えながら振り返ると、俯いたままのルイーザがシャツを掴んでいた。
「……なんだよ、邪魔すんな」
ザフェルは滲み出る不機嫌さを隠そうともせずに言い放つ。
「……ダメ」
身体を震わせ、掠れた声でルイーザが乞うように言う。
「ダメなんかじゃねぇよ、いいから離してくれ」
「……私がもう、ダメ。……吐きそう、うっ――」
言いながら見上げるルイーザは、噴出寸前であるかのように頬を膨らませ、口元を押さえている。焦点の合ってない涙目を見開き、鼻からは液体が漏れ出している。
瞬時に苛立ちは消え失せ、焦燥が込み上げる。
ルイーザとは向き合ってる状態である。
このまま嘔吐物を浴びれば、おそらくつられてしまうだろう。
不味い。非常に不味い。
鼻の良い種族には耐え難いのだ。ここでぶち撒かれると店内は大惨事になる。もはや一刻の猶予もない。
「ちょっ! 外に連れ出すから、少しだけ耐えろ! いいな!?」
底から力を湧き起こす。
限界寸前まで魔力を滾らせ、全身を強化した。
しかし身体は悲鳴をあげる事はなかった。力がどこまでも溢れてくる。いつもより時間が緩やかに流れるように感じ、普段とは違う自身の身体に戸惑うが、そんな事に構ってもられない。
ルイーザを抱き抱え、店を飛び出す。
石畳を蹴り出すただの一歩が力強い。放たれた弾丸よりも疾く、人でごった返した酒場通りを抜ける。
今の身体なら一瞬で海で辿り着けると確信出来た。そこなら誰にも迷惑を掛けない。
ザフェルは進路を定め、海へと繋がる道を飛ぶように駆ける。
そして、数秒も経たないうちに港に着いた。だが――
苦し気に吐き出されるルイーザの声と共に、嫌な温もりが胸元に伝わってくる。
「……間に合わなかった」
ザフェルは空を仰ぐ。
すぐに呼吸を止めるが、手遅れだった。
この臭いは同じく鼻の良い半獣人にも厳禁なのだ。
腹から胸に込み上がる不快感に無心になって耐える。
(何も考えるな。……考えるともらっちまう)
酒を飲んでいなければ耐える事も出来たが、自棄気味に飲んだ事が仇となる。せり上がってくる物に耐え難い。限界だ。
しかし仰いだ空から煌々とした粒が降り注いだ。
いつか浴びた温かい光だった。安堵が波となって押し寄せてくる。
酔いも醒め、微かな臭いも消え去った。それだけでなく胸元に感じていた嫌に温かい液体の気配までも失せている。
「……大丈夫? 慌て飛び出したから何事かと思ったけど、その……間に合わなかったよう……だね。お水飲む?」
振り返ると水を宙に浮かべながら心配そうに、こちらを見ているジョージがいた。




