33話 二転三転
4月15日の16時頃に文章の一部を訂正しました。話の流れはあまり変わってません。
街から漂ってくる香辛料の匂いが潮風と混じり合い、ザフェルの鼻孔をくすぐった。
肺を満たすように深く呼吸をすれば、心静かに落ち着いてゆく。
祖国の匂いである。
海の上で死ねるなら本望だと思っていても、この匂いを嗅ぐと安堵してしまう。
苦難の果ての帰国だ。
仲間も失っている。遺体は無残な姿で海に沈んだ。
それでも帰ってこられた事に感謝したくなる。
ザフェルは無意識に首飾り(ネックレス)を握り締めた。
今まで信仰している神などいなかった。
願ったところで救われる事はなかったのだ。それ故に信心に目覚める事はなかった。信じられるのは幼き頃の自分を救ってくれた者だけであった。
しかし、今は目に見えぬものに感謝の気持ちを伝えたくなる。
ジョージという男の影響だろう。
身体の欠損でさえ一瞬で癒してしまう優れた力を持ちながら、それをひけらかす事もない人物だ。それに古代龍を従わせる程の存在でもある。おそらく今まで出会った者の中で一番強いだろう。それ程の男が信じている女神なら信じられる気がした。
そしてザフェルは後の始まるであろう、酒盛りについて考えを巡らせる。
命を散らした仲間の分まで盛り上がり、彼等の武勇伝を朝まで語り明かす。それがザフェルに出来る仲間への手向けである。
それにジョージには様々な名酒や名物料理を楽しんでもらえるだろう。
――しかし、そうはならなかった。
ザフェル達が入港すると、辺りは騒然としていた。
伝説の海魔と謂われるクラーケンと戦って商船を逃がしたのだ。商人達から話も伝わっている筈である。
その自分達が帰ってきたからこそ、市民が湧いているのだと思っていた。それに加えて、お伽噺に聞くような古代龍に抱えられていたのだ。驚いている事だろう。
だが想像は現実からかけ離れていた。
もちろん古代龍に畏怖していた事もあるが、ザフェルが市民から最初に掛けられた言葉は「俺は信じてるからな」である。
ザフェルは何の事だか分からない。
オルハンも同様である。お互いに目を合わせて首を傾げた。
「何の事だ」と尋ねると、市民達はフェアティアに出回っている噂を話し始めた。
曰く、オルハン達が別の護衛船と共謀して積み荷を奪い、商船を沈めたらしい。その上で護衛船を裏切り、沈めたのだとの事だった。
当然の事ながら、そのどれもが嘘である。聞いているだけで頭に血が昇るような法螺話で、事実にはかすりもしていなかった。
ザフェルが簡単に経緯を話すと、市民からの誤解はすぐに解けた。それに船の惨状を見れば一目瞭然である。海戦ではなく海魔と戦って受けた損傷だからだ。力任せに凪ぎ払われ、船の上は綺麗さっぱり削ぎ落とされている。乾いているが、クラーケンの体液の後も残っているのだ。
しかし何故そのような出任せが流れ、一部の者がそれ信じていたのか分からない。
商人達は他国で助けられ、そこで吹聴していたそうだ。別の護衛船の者は救助された後に、自白してから処されたらしい。
その上で海運組合や商人組合にはソブタル王国所属の職員が、賠償問題だの外交問題だのと、抗議をしてらしいのだ。
しかし証拠をシュケルの民で見た者はいない。襲撃されたとされる商人達から直接聞いた訳ではないし、処された船乗りの首を見た訳でもない。
あくまで人から人へと流れる噂話しか過ぎず、王国所属の者も確固たる証拠を提示してもいない。それなのに組合で抗議しているのだから性質が悪い。
ふとザフェルはダークエルフの事を思い出す。
あの時も人間種から聞いていた話と、ジョージから聞かされた話では、受ける印象が正反対だった。それと同じように自分達がいないところで、悪い噂話が流されていたのだろうか。そう考えるとザフェルはダークエルフ達に妙な親近感が湧いた。
何はともあれ無事に帰ってこられたのだ。
その場に居合わせた、行きつけの酒場の店主にも、うちで好きなだけ飲めよと言われた。
水を差されて、酒盛りの気分も幾らか削がれてしまったが、それでも酒の席での話題は尽きないだろう。帰ってこられた事への喜びの感情もある。推定龍人種である事を伏せておくにしても、ジョージという男の話を皆に語り聞かせたかった。
オルハンが店主の声に頷くと、顔見知りの者達もはしゃぎながら賛同した。彼等はクラーケンとの戦いを教えてくれと、目を輝かせていた。
そうした市民とのやり取りをしていると、海運組合の職長ハリル・ソラックと副職長のウェンテがやってきて、詳しい事情を聞かせてほしいと言われる。
ザフェルとオルハンは他の船乗り達をその場に残して、仕方がなく海運組合に向かった。
そこでザフェル達は今までの経緯を話した。
クラーケンを撃退した事から始まり、ジョージという男に救われ、こうして帰ってこられた事を説明した。
何よりも熱く語ったのは、ジョージという男の事だった。
ウェンテはその話も嬉しそうに聞きながら、妙に熱い視線を首飾りに向けていた。
ザフェルは不思議に感じたが、恩人であり優れた者が作った首飾りだからなのだろうと納得する。獣人種は優れた者を敬う傾向があるのだ。
そして職長と副職長が知っている事を聞かされたザフェル達は、反航した時に脅えた表情でこちらを見ていたウィリアムズとセイラーの理由を理解した。
奴らも何らかの策略に加担していたのだと思うと、腹の底から煮えたぎるように熱くなる。
どんな手を使ったのか分からないが、クラーケンに襲われる事を見越していたのだろう。オルハンがそれを撃退しようとする事を利用したのだ。
事実、船も船乗りも半壊した。死んだ仲間もいる。あのまま漂流していたら全員死んでいただろう。奇跡的にジョージに救われなかったら、奴らの筋書き通りになっていたのだ。
許せる筈がなかった。
薄汚い策略で仲間を失ったかと思うと拳に力が入る。
「へぇ……そりゃつまり、シュケルに……いや俺等に喧嘩売ってるって事だな」
応接間の壁にもたれながら、腕組みをしているザフェルは不機嫌に呟く。眉を顰め、ぎらつかせた瞳には闘争心が宿っている。
「……そうだな。……ああ、そういう事だったのか。仲間が死んだのは、奴らの仕業か。……必ず、報いを、受けさせて……やる」
ソファーに座るオルハンは、抑えきれぬ憤怒を一語一句に込めながら、歯茎を剥き出しにした。
瞳は充血で真っ赤に染まっている。静かに握り締めている拳は小刻みに震え、怒りが漏れ出していた。
オルハンからは爆発寸前の激しい怒りが窺える。
そんな姿を見たのは20年ぶりだった。
初めて彼と出会った時に見た以来の事でもある。
ザフェルの朧気な記憶の最奥にある、若き頃のオルハンの姿が重なって見えた。
それはザフェルが5歳の頃の話だ。
ある商船が座礁したとの事で、緊急時の手漕ぎボートに乗った商人達が、ザフェルが暮らしていた小さな港町に、助けを求めてやってきた事があった。当然村人達は疑う事なく迎え入れ、船乗り達の世話を何日もした。
その温かい対応に感動した商人は、座礁した船から商品が奪われないようにと持ち込んでいた商品を、感謝の品として村人に贈ったのだ。滋養に良く、料理にも合う香草であると告げて。
しかしそれは遅効性で、強い中毒性のある薬草だった。
村人全員がそれを食し、自覚症状が現れ始めた頃には、手遅れになっていた。薬草に蝕まれて戦闘力を失っている。
その隙に薬漬けとなったザフェルを含めた子供達と、比較的若い女が連れ去られた。
元から座礁などしていなかった偽りの商人――奴隷商達に。
幸か不幸かザフェルは当時の事を殆んど覚えていない。
薬の影響によって、記憶の大半が失われていたのだ。拐われた事すら覚えていないし、船で行われた悲劇も記憶にない。故に女性達がどのような目に遭わされていたのか分からない。
霞みがかった記憶の中で最初に思い出せるのは、積み荷と共に自分を含めた子供達が海に捨てられ、溺れていた時の事だった。
空と海、目まぐるしく世界が反転した。去ってゆく船も視界の端に映る。
ザフェルは幼いながらも死を覚悟した。
身体には力が入らなかった。泳ぐこともままならない。ここで沈んでいくのだと嫌でも理解出来た。
しかし、沈みゆく身体は、力強い腕に抱えられる。
その腕の持ち主は片眼から血を流している見知らぬ獣人の男だった。
ザフェルは意識朦朧としながらも「どうして助けてくれたの?」と聞く。
その獣人から返ってくる言葉は「船乗りの掟だからだ」だった。
助ける事が当然とでも言わんばかりの、ぶっきらぼうな言い方だった。子供を安心させるような声質ではなかったし、笑顔を振りまく訳でもない。
しかし男の纏っている雰囲気からは、大船に乗せられたかのような安心感を覚えた。自分は助かったんだと希望の火が灯る。
その男の頼もしさがあまりに眩しかった。
いつか自分もこの男のようになりたいと、憧憬の眼差しを向けなが、ザフェルは笑みを浮かべた。
そして安堵から意識が失いそうになり、目を閉じる間際に視界の端では、海の彼方を睨みながら憤怒を燃やす男の姿が映っていた。
その後、ザフェルが目を覚ました街はフェアティアだった。
事の顛末を聞いても、詳細を誰も教えてくれる事はなかった。
ただ、街ではオルハンの勇名が馳せていた。
奴隷商を見つけ出し、奴隷で潤っている街ごと潰した。そして怒りに震えるシュケルの民達が、次々に乗り込んでゆき、そのまま小国を潰したという。
ならば、次は自分の番。
鉄砲玉のように先陣を切って、必ず相手に報いを受けさせてやるとザフェルは心に誓う。
「私は争いを未然に防ぐつもりでいました。正直なところ、今でも争いになるのは避けたいと思っています。しかし、ですね……カラバシュさんの仲間が誇りある殉職ではなく、薄汚い策略で亡くなった事には腹立たしく感じています。……ですから、必ず報いを受けさせましょう」
オルハンの対面に座る副職長のウェンテは冷淡な笑みを浮かべて言った。
その傍ら座る職長のハリックは静かに頷き、ウェンテの後に言葉を続ける。
「ですが、今ではないという事は理解して下さい。カラバシュさんの船は動かせる状態ではない。……いや、この際、船はどうとでもなりましょう。これはもう戦争への第一歩を踏み込んでいるのですから。……しかし、敵を討てばそこで終わりという訳にもいかないのです。どうやら彼等には飼い主がいるようなので……」
「その飼い主はどの国だよ。そいつらごと潰せばいいじゃねぇか」
間髪入れずザフェルが吐き捨てるように言う。
「確実な証拠はありませんがエラティオ大陸を支配しているルクソリス帝国でしょう。いえ、確実な証拠があったとしても、今は帝国と戦争を起こすのは難しいですね」
「フォルティス大陸より西の大陸か。遠すぎる……という事だな」
オルハンは歯軋りする。
「ええ、そういう事です。それにソブタル以外にも根回しをしているので、手の回っている沿岸国からの補給は難しくなる。殆んど補給無しではソブタル王国にすら勝つのが危ういでしょう」
「ちっ、面倒くせぇ。俺らが気に食わねぇなら、正面から掛かってこいってんだよ。いつでも相手になってやるよ」
ザフェルは指を鳴らしながら好戦的に口角をつり上げる。
この際、正面切って陸路からソブタル王国に乗り込んでやろうかという気になっていた。エラティオ大陸は無理だが、ソブタル王国とは陸続きだ。遠い国だが行けなくはない。無理やり口を割らせてしまえばいい。
「相手はザフェル君みたいな人が怖いから、裏でこそこそと薄汚い真似をしてるのよ? 白兵戦だけなら私達には勝てないと分かっているの」
教え子に優しく諭すような態度で、ウェンテが割り込むように言う。
「……それじゃ敵は海戦なら俺等に勝てる気なのかよ」
ばつが悪そうにザフェルは言い返した。
幼い頃に助けられた後はウェンテの世話になっていた。母のようであり、姉のような存在である。
子供扱いされたような言い方に意気も削がれる。
「今までの海戦ならシュケルの方が強いでしょうね。でも、帝国には鉄の装甲で覆われた魔動力船なるものが実用化され始めているらしいの。その船は風に頼らないし、砲撃だって鉄の装甲の前では不利になるわね。近付いてから乗り込んで白兵戦……なんて事も難しいでしょうね」
「じゃあ副職長はどうするつもりなんだよ」
「あら……副職長だなんて堅苦しい呼び方ね。昔のようにウェンテお姉ちゃんって言ってくれてもいいよの?」
ウェンテは悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「む、昔は昔だろ。……話を逸らすなよ」
ザフェルは頭を掻きながら溜め息を吐いた。
お姉ちゃんなんて呼び方をする歳でもないし、ウェンテもお姉ちゃんという歳でもない――筈だ。しかし長命種でもないのに見た目は昔から変わっていない。
「ふふ、残念ね。昔みたいに慕ってくれてもいいのに。……じゃあザフェル君に問題よ。近付けない船に近付こうとするにはどうしたらいいかしら? あ、ちなみに相手は常に海を監視している前提だから、闇夜に紛れて小舟でこっそりと乗り込むなんて事は無理よ」
「んなもん、詰んでるじゃねぇか。無理すりゃ海面だって走れるけど長くは持たねぇし」
「本当に手段はないと思う?」
「……んだよ、俺に空でも飛べって言うのか?」
答えが分からないザフェルは悔し紛れに言った。
飛ぶ事など出来るはずがない。もしも飛べるなら遭難はしていないのだ。
しかし今の言葉が正解とでも言わんばかりに、ウェンテは何も言わずに破顔した。
「いや、俺は飛べねぇし、オルハンだって飛べねぇっての」
「じゃあどうやってザフェル君は帰ってこれたのかしら?」
「そりゃあ、龍が――って、いやいやいや、副職長はあの古代龍に俺を抱えてもらえって言うのかよ! あんたは見てないから言えるんだ。あんなおっかない龍を従わせられるのは旦那だけだっての!」
「ふふふ、でも、龍種は他にもいるのよ? というか、もう話はついているの」
「――は?」
ザフェルには意味が分からず固まった。
話がついている?何が言いたいのか分からないし、どうしてこんな話の流れになったのかも分からない。
助け船を求めるようにザフェルは職長のハリルに視線を送る。
「……副職長殿も人が悪いですよ。今にも飛び出していきそうなザフェル君を落ち着かせる為とはいえ、これでは混乱してしまいます」
ハリルは困ったように眉を下げながら言う。
「あら、私は久しぶりにザフェル君に会えて嬉しいだけよ。 ザフェル君が鉄砲玉みたいに飛び出して、陸路でソブタル王国までいきそうだからとか、決してそんなんじゃないのよ?」
ウェンテは頬に手を添えながら、わざとらしく困ったような表情を作る。
「あ、いや……」
ザフェルは否定する事も出来ず、口を噤むしかなかった。
心のうちを見抜かれていたようで気恥ずかしくなる。どうも昔から手の平で転がされている気がしてならない。
迸る闘争心は鳴りを潜め、羞恥による居心地の悪さを、溜め息を吐いて誤魔化す。
「あぁ、すまない。俺も熱くなり過ぎていたようだ。……詳しい説明をしてもらえるだろうか」
オルハンはこめかみを押さえながら、渦巻く憤怒を深い吐息にして漏らした。
室内に漂っていた緊迫した雰囲気も幾らか和らぐ。
その様子に安堵したのかウェンテは居住まいを正して語り始めた。
「では……ウルカ国家連合ってご存知ですか?」
「ああ……名前だけは。……確か、フォルティス大陸中央にあるヴァリエス大山脈を越えた北西部一帯の国々の事のだろう」
「険しすぎて陸路や海路じゃ行けないって聞いた事があんな」
いくつも重なり合うような連峰が、空を穿つかのように聳え立ち、突風が吹き荒れる高山帯は、万年雪に閉ざされる死の領域だと聞いた事がある。
沿岸にはいくつも隆起した岩礁があり、船は近付く事も出来ない。仮に近付けたとしても、断崖絶壁が行く手を阻み、上陸する事は困難であると。
しかしどこから広まった話なのか不明だ。実際に訪れた事のある者の話なのか、ザフェルには判断出来なかった。
「ええ、その通りです。……そして、ウルカ国家連合の主要国であるヴェルドミナ龍王国がシュケルと同盟を結ぶ事になったのです」
「……龍王国? まさか、その国は龍人種の国なのか?」
「は? お伽噺じゃあるまいし……そんな国あんのかよ」
「ええ、龍人種の国ですし、ちゃんと現実に存在している国ですよ。実は……およそ100日前くらいに同盟を組まないかと打診がありました。昨日は龍王国女王が自らメルケズに来訪して、シュケル国長と会談をしたんです。……その結果、同盟は結ばれました」
ウェンテは何かを懐かしむように微笑みを浮かべた。
そして一拍置いてから言葉を続ける。
「どのような条約か詳細は省きますが、その内容に先程の事が繋がります。……現在のシュケルで開発中の護衛船は、小型の飛龍が発着出来る構造になる予定です。これなら龍に抱えられて、広範囲に偵察も出来ますし、海戦ともなれば敵船に爆発物を投下するだけで、優位に戦えるでしょう。船乗りを抱えて敵船に投下してもらえば、白兵戦に持ち込む事だって出来ますよ」
ウェンテは言い終わると、出窓に向かって歩き出し、窓を開けて二回を手叩いた。
「では、入ってきてちょうだい」
その言葉に反応するかのように、白い物体が部屋に滑るように入ってくる。
全身を覆い隠すような布を纏っているが、龍を思わせるような大きな翼が布からはみ出していた。
表情は窺えない。体格も分からないが、身体らしき部位は、立派な翼に比べて比較的小さかった。




