30話 残り香を辿る人魚の少女
後書きにちょっとした地図を置いておきます。
始まりの地より南西にあるグラーキレス列島。
東西に細長い島であり、その姿を俯瞰するならば、体をくねらせる海蛇のような形である。
熱帯気候の北西部は、年間を通して暖かく、穏やかである。降水量も多く、島の内陸部には緑が繁っていた。
南の海には寒流が流れているが、北の海には暖流が流れ込み、鮮やかな美しい珊瑚礁が浅瀬に広がっている。一定の浅瀬を過ぎると、水深は断崖のように深くなり、濃い青色が海の底へと誘うようにどこまでも続いている。
島の地形と気候、異なる海流が混じり合う影響もあってか、周辺には多種多様な海洋生物が生息している。人と魚類の中間的な生物も暮らしていた。
北西部には入り組んだ水路のような海岸がある。そこには陸と海の境界に街が築き上げられ、陸上生物と海洋生物が共生していた。
街の名前は海園都市ロスマリヌ。
遠い昔、海を統べる者と呼ばれる存在が、幾つかの言葉を残して、悠久の眠りについた地である。
海を統べる者を敬愛していた魚人種は神殿を築き上げ、崇め奉った。後に魚人種は神殿を囲うように街を造り、海を統べる者の目覚めを待ちながら、神殿を守っていた。それがロスマリヌ天然水路の最奥部にある、エテルソンノ神殿である。
そして時は流れ、魚人種達は世代交代を繰り返し、いつしか海を統べる者を、海神様と崇めるようになる。
若年層の魚人種にとっては、海神は伝承に聞くだけの存在だった。本当に存在するかどうかも怪しい。年寄りが有り難がっているだけで、多くの若者は興味を示さない事が多かった。
古くから伝えられている魚人種の決まり事も、海神の残した言葉だからというより、年寄りの魚人種を怒らすと面倒だからというだけで従っていた。
何かあれば、近頃の若い者は――と、長い説教が続くからだ。
ある人魚の少女も例外ではなく、説教が嫌だから決まり事を守っているだけだった。
おっちょこちょいで気弱なところのある少女は、くどくど説教されるのが苦手だった。天性の間の悪さも相まって、少女だけが怒られてしまう事も多い。その度に身が縮こまる。
そんな少女だからこそ、昔からの決まり事を守っていた。
遭難者を助ける事も決まり事の一つだ。近くの陸地に連れていく事もあるが、緊急時にはロスマリヌに連れて帰る事もあった。そして何よりも大切な決まり事は、海神が残したとされる神器の力を借り、幾多の魚人種と力を合わせて、ある海域に大嵐を巻き起こす事だ。それは証を持たぬ不法者に、その海域を抜けさせない事であり、大海洋の真ん中にある聖域に近づけさせない事であった。
魚人種であっても聖域には、みだりに近づいてはいけないと定められている。不法者なら尚の事で、決まりを犯す者を助ける事は禁忌とされていた。
そしてある日――
極大の光が空から降り注いだ。陽光を反射する白砂のような煌々とした粒が神殿内に漂い、温かな力に包まれた海を統べる者は、ゆっくりと目を覚ました。
それが海を統べる者、またの名を海神様。
水の神獣アクエと呼ばれる存在の、幾万年ぶりの目覚めでもあった。
アクエからは桁違いの強大な力が感じられた。ただの魚人種では決して越えらない差があった。それでいて包まれるような優しさも感じられる。
それは穏やかなさざ波のように海に伝わっていき、アクエの目覚めを肌で感じ取った者は、老若男女問わず魂が揺さぶられ、本能から理解した。我らの長が目覚めたのだと。
そして目覚めたアクエは魚人種にこう告げた。
――神の力を持つ御方が海にお見えになったら、すぐに知らせなさいと。
それは魚人種達に新たな決まり事が増えた事を示していた。
聖域を守る海域と同等の決まり事。すなわち魚人種にとって最も重要な決まり事である。
そうして全ての魚人種は世界の海に散らばった。神の力を持つ御方を探す為、ひいてはロスマリヌに招待する為に。
そして人魚のある少女が、魚人種で初めて神の力を持つ御方と邂逅する事になったのだった――。
◆
エテルソンノ神殿に漂う静寂は熱を帯び始めていた。
神殿の最奥にある祭壇の間は半球形の広間である。中心の床には海に繋がる円系の大きな水路が設けられている。そこを取り囲むように、その場にいる全ての者が無言で整列して、祭壇の座るアクエに向かって、様々な格好で頭を足れていた。
その殆どがロスマリヌの重鎮達であり魚人種であるが、ハーフリングやドワーフ、人間種と言った陸を生きる生物もいる。陸を歩ける者は膝をつき、人魚のように陸を歩けない者は、水路から身を乗り出して、忠誠と敬愛を示している。
その誰もがアクエと共に、水路から頭を覗かせている人魚の少女の吉報に、静かに耳を傾けていた。
祭壇の間に灯る柔らかな暖色の光が円形の水路を照らし、人魚のアニエラのガチガチに緊張した面持ちを、浮かび上がらせている。
何せロスマリヌの重鎮達に囲まれながらの報告である。今となっては海神ではなく、水の神獣であるとアクエ本人の口から訂正の言葉が出ているが、それでも少し前までは海の神と崇められていたアクエに謁見しているのだ。少女は喋りながら、舌が乾いていき、滑舌も悪くなっていく。
それでもアニエラはしどろもどろにながらも、どうにか神の力を持つ御方との出会いの経緯を報告していた。
アニエラの役割は仲間と共に、死の海域を作り出す事だった。
およそ百日前には証を持った船が通った。その時は導くように潮流を操り、聖域まで連れていった。
しかし幾つか日が過ぎると、次は証無き者が海域を渡ろうとしていた。アニエラ達は不法者を感知して大嵐を巻き起こす。
だが、それは不思議な不法者だった。証を持っているようも感じられるが、持っていないようにも感じれらた。
海に沈んだかとおもえば証の力が感じられ、大嵐の力を弱めると、次の瞬間には証の力が消失した。
アニエラ達は首を傾げながらも、気のせいだろうと再び大嵐を起こす。
そうした日が三日続いた後に、ようやく不法者を海域の外に追いやる事が出来た。
しかし不法者をついに沈める事は出来なかった。どんな大嵐を受けても平然としていた。時折、狂喜に満ちた笑い声も聞こえてくる。あまりに不気味な存在だった。
気になったアニエラは様子を窺いに海面から顔を覗かせる。
そこには白い衣装を纏った人間種がいた。
板切れの上に立ち、棒術のように木を振り回している。
アニエラはどうしてそんなに元気でいられるのか不思議だった。あの海域を越えられる人間種がいる筈がない。しかも船ではなく板切れに乗っているだけという有り様である。
勇気を振り絞って、話し掛けると、とても古い言葉が返ってくる。それは年寄りしか知らないような古語であり、アニエラには片言でしか喋れなかった。
そして、その人間種に手を触れられて、アニエラは雷を落とされたような衝撃を受けた。
あまりに神々しい力が手から伝わってくる。アクエを遥か上回る途方もない力だった。得も言われぬ幸福感が体を駆け巡り、身体の芯からじわりと熱が灯る。身を任せたくなる衝撃に驚いたアニエラは、思わず手を引いた。
そして理解もした。
この人こそが、アクエが探し求めていた御方だと。
アニエラはすぐに報告にせねばと、その場を後にした。
「――という訳なんです」
アニエラの報告は、主観を交えていたせいもあってか、理路整然していないものだった。
それでもどうにか報告する事が出来たアニエラは、達成感に覚え、安堵の息を吐く。
広間にはアニエラの感情とは相違して、爆発寸前の熱が帯びている。
重鎮達がプルプルと震えながら拳を握り締めていた。決まり事を果たせ、感極まっているのだろうと、アニエラは感じていた。しかし――
「そ……そんな。なんて無礼を……。ああ、お父様、申し訳ありません」
アクエが力なく崩れ落ち両膝をついた。
美しい藍色の長い髪が床につくことも気にせず、輝きが失せた虚ろな瞳には涙が浮かんでいる。
アニエラは訳が分からなかった。
きょろきょろと周りに目をやると、明確な殺意が感じられる視線が突き刺さる。
「あ、あのあの! ど、どうしたのでしょうか? お、怒られますか? わ、私……?」
アニエラは不安げな表情で、近くに腰を掛けている重鎮の人魚に訪ねた。
「……貴女、自分が何をしたのか分かってないの?」
込み上げる怒りを堪えているような重鎮の人魚は、目を大きく開きながら青筋を立てて、静かに怒気を吐き出す。
「えっ? えっ? だ、だって、決まり事を守りましたよ?」
「はぁ……全く。なら、貴女に分かるように話してあげるわね。あなたはアクエ様がお慕いになっているお父様……つまり男神様を大嵐に遇わせたの。それなのに男神様はお怒りになる事もなく、水に流すかのように、貴女に握手なる挨拶を求めたのよ? ねえ、分かる? 貴女の無礼をお許し下さったの? それを貴女はどうしたのかしら?」
「え、えっと……びっくりして手を引きました。それに自分でも訳が分からない気分に……なってしまって……その」
「はぁ……これだから若い世代の人魚は……。私には差し出された手を払いのけたように聞こえたけれど? 」
「そ、そんなつもりでは! ただ、早く報告しなきゃと思って……」
「お黙りなさい! とにかく、貴女は大嵐に遇わせたあげく、手を振り払ったの。そして、何を告げる訳でもなく逃げ帰った。もちろん貴女にそんなつもりがなくても、ね。……確かにアクエ様はすぐに知らせなさいと言ったわ。でもね、それにも方法があるでしょうが。何故、貴女は男神様を放って一人で帰ってくるの? ちょっとは頭を回しなさい。……全く、一体、どうしてくれるのかしら……ねえ? アクエ様がお父様にお会いになる事を、どれだけ待ち望んでいたのか知らないのかしら」
「ご、ごごめんなさい」
「謝って済まされる問題じゃないのよ!」
「ひ、ひぃ……」
ヒステリックな声がアニエラの鼓膜を震わせる。
他の重鎮から宥める声は聞こえてこない。この場にいる重鎮全員が怒りに身を震わせていた。罵詈雑言を浴びせる事もやむ無しといった表情だった。
アニエラはその目が怖かった。恐怖で身を縮めながら涙を浮かべる。
怒られるのが苦手だからこそ、怒られないように頑張ってきた。それでも失敗してしまった。
あの時は決まり事を守る為に必死だったが、今になって自身の行為を思い返すと、確かに無礼な行為をしてしまっている。手を振り払ったと思われても仕方がない。それ故にアニエラは叱責を受けるしかないと覚悟する。
「やめなさい」
アクエの一言で広間は水を打ったように静まり返った。
広間いる者達は姿勢を正し、頭を垂れて耳を傾ける。
「誰にでも失敗はあるの。いつまでも責めてはいけないわ。それは私でも同じ事。……でも、少しだけ心が疲れたから、休むわね、ふふふ……ふふ……」
慈悲深く優しげな表情で告げたアクエは、すぐに感情の抜けた瞳に戻り、不気味な笑顔を浮かべながら隣の別室に向かった。
よろよろと歩く姿には生気が感じられない。部屋に入り、扉が閉まると、やがて啜り泣く声が聞こえてくる。
その泣き声に重鎮達は頭を抱えていた。
重鎮の人魚は、怒りに震えるような溜め息を小さく吐き、アニエラに冷たく言い放つ。
「すぐにでも男神様をお探しなさい。もちろん貴女一人の力では無理だろうから、使えるものは何でも使うのよ。魚人種以外の海洋生物でも、その辺の船乗りに聞いてもいいわ。そして男神様を見つけたら、貴女の全てを捧げてでも謝罪しなさい。そして今度は報告ではなく、ロスマリヌにご招待するのよ。それまで街には帰ってこられないと思いなさい。……いいかしら?」
「は、はい!」
声量を抑えながらも、重鎮の人魚から捲し立てられるように言われたアニエラは、すぐに水路に頭を沈めて、全力で泳ぎ始める。
心が焦燥感に蝕まれていた。とんでもない事をやらかしてしまったと自分を責め立てる。
そうしてアニエラから街から離れ泳ぎ続けた。
すると回遊魚の群れが泳いでいるのが目に映る。アニエラは言われた通り、使えるものは何でも使う事にした。
ある国でモダトーナと呼ばれている魚である。アニエラは神々しい力を感じたら知らせて下さいと頼み込んだ。
知能の低い魚には簡単な事しか出来ない。それ故にアニエラは追尾する群れと、報告を知らせる群れに分かれて下さいとも告げる。
それからもアニエラは泳ぎながら様々な海洋生物に頼み込んでゆく。やがて男神と邂逅を果たした海に着くと、やはりと言うべきかか、そこに男神の姿はどこにも見当たらなかった。
「あー、どうしようー!? 男神様、どこに行かれたんだろう。 やっぱり私に怒って海を去ったのかな……。もう海からはあの時に感じた物凄く力が感じられないよぉ。……本当にどうしよう、陸を上がられたら、私じゃ見つけられない。……そうなったら、お家に帰れないよ。ひーん」
泣きべそをかきながらアニエラは弱音を吐く。
海の上に浮かんでいるなら望みはある。船乗り達に聞く事だって出来るのだ。それに陸を上がられても水辺付近なら、まだどうにかなる。しかし川も流れていない大陸の奥地や砂漠に行かれると、人魚ではどうしようもなかった。
絶望感に苛まれながらも、アニエラは泳ぎ続けた。
時には海底まで潜りながら様々な海洋生物に頼み込んでいた。そうしていると巨大なイカが目に映る。海底で悲嘆に暮れているような姿だった。膝を抱えるように触腕を自身に絡めている。
その姿に共感を覚えたアニエラは、つい声を掛けてしまう。
「久しぶりだね、クラーケンちゃん。なにかあったの?」
アニエラは気遣うように優しく問い掛ける。
クラーケンの女の子は顔見知りだった。もう何十年も合っていなかったが。
「****************。*******************。****************」
クラーケンは鳴き声で答える。アニエラはその鳴き声の意味を感じ取る事が出来た。
「えっと、癖になる匂い?なんの匂いだろう……。それから?」
「**********、***************、********************。***********************、********」
「うんうん。痛い事は嫌だもんね。だから暴れたくなったのかな? ……それで?」
「**********、**********、*********。*********。***************。**************************」
「白い服を着た人間……えっ!? 怒られたの?」
「***。*********」
「そ、そんなぁ!」
アニエラは顔を青くしながら驚きの声を上げた。
心音が激しく鳴り、全身の血が引いていくようだった。
(あわわ……男神様が怒ってらっしゃる。原因はクラーケンちゃんだけじゃないよね? わ、私にだって責任はある……。だって私も無礼を働いたんだもん。きっと不快な気持ちが積み重なって……ひぃ)
もはやアニエラにはクラーケンの言う、癖になる匂いだとか、悪い船なんて事は、頭から消えていた。疑問に感じるよりも先に、男神が怒っていたという事実が、胸に突き刺さる。
取り返せない失敗を犯してしまった。たとえ自分に責任が無かったとしても慰めにもならない。海に生きる者全てが見放されたとしたら、どうしようもないのだから。
「あ、あのね、もしかしたらその御方は男神様……だと思うの。クラーケンちゃんが怒られた原因は、私にも責任はあるかも知れないの。……だから私は謝りにいくね」
「*****!?*********。*********?」
「う、うん、分かった。まずは男神様を探さなきゃいけないから、クラーケンちゃんは海底付近で住んでる子達にお手伝いを頼んでね。私は深度の浅い場所を探してるから」
アニエラはクラーケンと二手に分かれて泳ぎ出す。
一刻も早く、男神様にお会いして、誠意を込めて謝罪しなければならない。そんな思いが氾濫していた。
とはいえ、心当たりがある訳ではない。ひたすら一心不乱に泳ぎ探し続けるしかなかった。
最低限の知能を持っている海の生物に頼み込み、自身は海面付近をあてもなく泳いた。アニエラにはそれしか出来る事がなかったのだ。
そうして数日が経過した。
一日の殆どを泳ぐ事に費やしていたアニエラは、ろくに睡眠も取れていない。過労に次ぐ過労で意識も朦朧としつつある。目を閉じれば直ぐにでも夢の世界へと旅立てた。
それでも意識を保てるのは、彼方から流れてくる海流に、男神の気配が感じ取れたからだった。理由が分からないが、潮の流れを操っている気配がある。
この果てもなく広い大海洋で、ようやく手掛かりを見つけた。一筋の光明が差し込んだ気分になり、アニエラは残り僅な力を振り絞る。
万全の状態なら、おそらく一日も泳げば辿り着ける距離だ。しかし、無駄に泳ぎ回っていた事もあってか、今は疲労困憊でもある。死にかけの魚のように、ふらふらと泳ぐ事しか出来なかった。
それでも今は、全て賭してでも泳ぎ続けるしかない。この機会を逃す訳にはいかなかった。
動物が匂いを辿りながら行動するように、アニエラは男神の残り香をともいえる気配を辿りながら泳いでいると、視線の先から魚の群れが泳いでくる。
それは頼み事をしたモダトーナ達だった。
「ね、ねえ、どうだった?」
陸上生物と会話が出来ないモダトーナに過剰な期待はしていない。
それでもアニエラは無意識に良い報告を期待してしまう。しかし返ってくる言葉に頬を叩かれた気分になる。
「えっ? 仲間が銛で刺されて捕まったから逃げてきたの? ……一体どういう事なの。あ、ちょっと待って! あ、あぁ……行っちゃった」
モダトーナの群れはそのまま去っていった。
弱い生物は攻撃されたら逃げるしかない。本能だから仕方がないとはいえ、もう少し情報が欲しかった。とはいえ追い掛けて問い質す体力と時間に余裕がない。
「ふぇぇ……。私が男神様にお会いになった前後に、何が起こったんだろう」
アニエラは水面に上がり、海の彼方を見つめながら、考えを巡らせる。
原因は不明だがクラーケンは、どこかの船に乗った人に攻撃された。後に報復の為に船の人に仕返しをしようとすると、その船には男神が乗っていて、お叱りを受けた。
そして男神の気配を感じ取ったモダトーナ達が追尾していると、銛で刺されて捕まえられた。それを意味するのは何か。
「クラーケンちゃんが神様の庇護下にある人達の不興を買うような事をしたから折檻されたのかな? ………あっ! も、もしかして……」
疲労でまともに働かない頭に、稲妻が落ちたように閃いた。
「つ、つまり、私が神様の不興を買ったから、同じ海の仲間のクラーケンちゃんも巻き添えで、神様の付き人に怒られて折檻されたんだ。そして神様の付き人だとは知らずに、クラーケンちゃんは逆上しちゃって仕返しに行った。そして……畏れ多くも神様に掴みかかって怒られた。……ああ、なんて事を。……私はそうとは知らずに、モダトーナに追い掛けさせたから、余計に不快に思われて罰を与えられたんだ……」
少ない情報で推測したアニエラは答えに辿り着く。
詰んだも同然で、最も最悪な状況だった。その全ての原因は自分にあり、もはや疑いの余地はない。アニエラそのようにしか思えなくなった。
「はわわ……。私ったら何て事を」
アニエラは鋭い刃を首元に当てられるような激しい焦燥を感じた。
そのまま刃を一思いに振り抜かれたとしても当然の報いでもある。史上最悪の失敗を犯してまった事に、心臓が早鐘を打ち鳴らし、限界を越えた自責の念に、嘔吐感を覚える。
「は、早く謝罪しなきゃ! 」
もはや一刻の猶予もない。
消えかける蝋燭が最後に見せる光のように、アニエラは残り滓も同然の力を振り絞った。
それから暫くして、夜の帳が落ちた。
月が一番高い位置で輝こうとも、アニエラは泳ぎ続けていた。
時折、泳ぎながら意識が途切れそうになっていた。しっかりと目を開けているのに、一瞬だけ夢を見てしまっている。そこには刃が喉元に食い込んでいき、ゆっくりと引き裂いていく自分の姿が映っていた。
もう体力も精神も限界だった。
全身を蝕む疲労感に加えて、心も摩耗していた。
酷使した尾びれは感覚が失われ、意識も混濁していた。自分が何をしているのか、分からなくなりつつある。
人魚なのに溺死してもおかしくはない。このまま楽になれたら、どれほど幸せなのかと、心が折れそうになる。
(……もう……だめ。……少しだけ……少しだけでも……寝ないと)
アニエラは意識が途切れていく。
束の間の睡眠を身体が要求していた。瞳を開けていられなくなり、自然と瞼が落ちる。が、瞼越しに目映い閃光が迸った。
まるで太陽を直視しているかのような光だった。
思わず目を逸らして、手で覆いながら空を見つめると、夜の世界が変容していた。
「……えっ、なにこれ」
漆黒の世界を照していた月が逃げ出すような光が、海の彼方から放たれていた。
空が白む程に眩しすぎる光で、圧倒的な力も漂わせてもいる。計り知れない量の純粋な魔素の塊が一つになっている。まるで噴火の兆しを見せる火山のようだった。
それはまさしく神の息吹きだった。
海流に漂っている微力な気配ではなく、この世界の創造者たる神々しい気配である。
手を握られた時に感じた力を、途方もなく圧縮したような力であり、簡単に一国を破壊する力であると、寝惚けた頭でも確信出来た。
「ね、寝てしまおうとした私にお怒りになって……。お、お許し下さい。す、すぐにそちらに向かいます」
あまりの畏れに眠気は醒めた。
たとえ朽ち果てようとも、このまま泳ぎ続ける事が罰であるように感じられた。
それからアニエラは夜通し泳ぎ続けた。
東の彼方から顔を覗かせた太陽が、幾分か高い位置まで上った頃に、ついに神の存在が漂う船を目視した。
あと少し。もう少し。
これでようやく謝罪する事が出来る。
そう思えるだけで、果てたも同然の身体に力が入る。
たとえ自らの全てを捧げて赦されなかったとしても構わなかった。せめて自分以外の海洋生物が赦されれば、それで十分だと思えるようになっていた。
だがしかし、瞳に映った次の光景に唖然とする。
一瞬の事だった。
大空を舞う鳥が、急降下して魚を捕まえるように、巨大な深紅の龍が舞い降りた。そして大切な宝物を抱えるようにして、船を持ち去っていく。その龍はアクエと同質の気配を漂わせていた。
「そん……なぁ……」
男神まで僅な距離だった。
思わず伸ばした手は空を掴むだけ。無情にも希望は水沫に消え去り、アニエラの意識も薄れてゆく。
極限の疲労を迎えた身体では、もう何も出来る事はなかった。このまま海の底に沈んでいったとしても、どうする事も出来ない。
人魚が溺死。笑い話にもならないが、神に不敬に働いた者の末路には丁度良い。途切れる意識の中で、アニエラは自虐する。
――そして、沈みゆく身体は突如として浮かび上がる。
「く……くらーけん……ちゃん?」
意識が途切れる間際、クラーケンの触腕に抱えられるのが分かった。
視界の端には他の触腕に掴まれた木箱のような物が見える。が、それが何か理解するよりも早く、アニエラは意識を失った。




