3話 滅亡へ誘う黒き獣
少女は遥か彼方の地に希望を求め、絶望の淵に立たされる。
額に鋭い角を生やした黒き獣が、怨嗟に満ちた唸り声を上げていた。瘴気にも似た黒い殺意を身に纏い、憎悪に満ちた赤い瞳が心を射抜く。
獲物を少女に定めた黒き獣は、ゆっくりとした足取りで少女に一歩ずつ近づいてゆく。
まるで理性が失われたかのように、口から粘着質な涎をどろどろと垂れ流し、鼻息も荒い。
その姿はまさに狂気の化身だった。この世界の全てが憎いと言わんばかりに、怒りを撒き散らしている。
この世界にお前が存在している事が許せないと、黒き獣の目が語っているように少女には感じられた。
迸ほとばしる怒気と威圧感を放ち、意思の疎通など叶わぬ事は明白だ。
少女は後ずさりさえ出来なかった。全身の血は冷えわたり、膝は小刻みに震えだす。呼吸する事もままなならず、微かな声をあげる事すら出来ない。
一歩、また一歩と近づかれるだけで、全身を襲う圧迫感は増していき、意識を保つだけで精一杯だった。
ただ、本能で理解した。
このまま蹂躙される運命なのだ、と。
――それでも、少女は抗わなくてはならない。
戦火に巻き込まれ命を落としていった者がいた。
足止めの為に残り、生き別れになった者がいた。
旅路の途中で力尽きた者がいた。
――そして、自分の後ろには守るべき大切な人達がいる。
だからこそ、少女は立ち向かう。
残された者を救う為。そして命運を託された責務を全うする為。その為なら自分の身を、投げ打つ覚悟は出来ていたのだから。
少女は自らの唇を噛み、己に活を入れる。
その痛みが恐怖に支配されていた身体に、自我を取り戻させ、僅かに残っていた勇気を奮い立たせた。
少女は腰に携えた短剣を抜き、口から滴り落ちる血を刀身に浴びせ、両手で握りしめた。
それは太古より神から授かったされる神器。少女の一族に伝わる伝説の宝剣。その剣が今、血の奉納により解き放たれる。
刀身の両面に埋められた八つの宝石が、眩い光を放ちはじめる。
そして、その光に吸い寄せられるかのように少女の魔力、そして周囲の魔素が渦をまいて刀身に収束した。
少女は短剣を掲げ、天を穿つように剣先を空へと向ける。
そしていまだに動けずにいる仲間達を鼓舞するかのように叫んだ。
「私が食い止めます。あなた達は早く逃げなさい!」
その言葉に少女の一団は、呪縛から解き放たれたように落ち着きを取り戻し、歩んできた道を引き返し始める。
年端もいかぬ少年少女。幼子を抱えた母親。年老いて戦えぬ者ばかりだ。その場に留まっても、足を引っ張るのは目に見えていた。だからこそ種族を代表する者の言葉に従い、一団は引き返す。
しかしそれは獣にとって許されざる行為だった。
身に纏う黒き瘴気が、殺意で更に膨れあがり、憎悪の咆哮を上げて一直線に走り出す。刃のように研ぎ澄まされた角で、不届き者を串刺しにするが如く。
――だが、それよりも早く、少女は声を上げる。
「自由を殺す障壁」
その言葉の直後、刀身に宿っていた光が一瞬にして空へと膨れ上がり、分厚く覆っていた雲を穿つ。
そして天から八色の光がうねるように降り注ぎ、黒き獣を囲うように地へ突き刺さる。それはを獣を拘束する檻となり、歩みは障壁によって遮られた。
獣は不快そうに唸り声を上げ、壁に何度も突進する。が、自慢の角をもってしても障壁を破る事は叶わない。
「黒き獣よ、鎮まり給え!何故そのように荒ぶるのか? 我らが何の罪を犯したと言うのか?」
少女は肩で息をしながら、懇願するように語りかける。
魔力の消費も激しく、障壁を維持するだけで、身体は悲鳴をあげていた。獣が障壁を破ろうと、体当たりする度に骨が軋む。
このままでは圧倒的に不利だった。持久戦に持ち込む間もなく、魔力切れを起こすのは目に見えている。
だからこそ対話を試みる必要があった。この荒れ狂う獣が去ってくれるとは思っていない。それでも僅かな時間が稼げるなら、仲間達はこの地に辿り着いた船に戻り、この地を離れられる。海の彼方にまで行けば、この脅威から逃げきれるのだ。その為なら自身を犠牲にする事もやむを得なかった。
「我らはただ、始まりの地とされるこの地に安息を求めて、帰郷しただけなのです」
「――!」
その瞬間、黒き獣の瞳から赤い涙が流れ落ち、そして障壁内に暴風が巻き起こった。
全身の体毛が針のように逆立ち、黒き瘴気が吹き荒れる。
憤怒を吐き散らすかのように咆哮し、血涙を流した瞳は赤黒く光る。目に映る全ての物を喰い破らんとするばかりに憎悪を焦がしていた。
角でも突き破られなかった障壁は、黒き獣の膨れ上がった怒気で、僅かな亀裂が走った。
「くっ、これ以上はもう――」
既に限界を通り越していた。
先程の言葉が何故、黒き獣の逆鱗に触れたのかは分からない。
ただ、それを考える猶予は少女には残されていなかった。
亀裂の入った障壁は音を立て、そして広がってゆく。
眼は霞み、立つ事もままならない。魔力も尽きようとしていて、少女に出来る事はもう何もなかった。
このまま黒き獣に障壁を破られてしまうのは時間の問題だ。それでも仲間が逃げる時間は僅かでも稼げたはずだ。
それで少しでも多くの仲間が生き残れれば、まだ種の希望は潰えない。
たが、そんな淡い願望も打ち砕かれる。
「――嘘っ」
黒き獣に似た姿の獣の群れが、のそりと森から現れた。
その体格は黒き獣より小さい。しかし孕んだ怒気は同等のものだった
群れ姿はまるで黒き獣の咆哮に応じて、呼び出された眷属のようにも見えた。
そして獣の群れは一斉に少女に飛び掛かる――訳でもなく少女の横を走り抜けた。
その方角は仲間達が逃げた方向だった。
「お願い、待って!」
少女は悲痛な叫びをあげる。
黒き獣の自由を奪っているつもりだった。しかし奪われていたのは自分の方。
片方を足止めしても、もう片方までは押さえる事が出来ない。二つ同時に行使する魔力は、既に残されていないのだから。
「あぁ……やめて」
少女の声は黒き獣には届かない。
そして心と同様に障壁も打ち破られる。
「あぁ……」
魔力が枯渇し、体力も失われた。黒き獣に立ち向かう術も、仲間を助けにいく事も叶わない。もう……何も出来る事がなかった。
そして黒き獣は走り出す。その鋭利な角の向かう先は少女の腹部――
「かはっ」
少女の腹部に激痛が走り、浮遊感が襲う。
腹は焼けるように熱く、視界は目まぐるしく変わる。少女は黒き獣に串刺しにされ、いたぶるように振り回されていた。
垂れ流れる血が角を伝い、地面に血溜まりを作る。そして吐き捨てるかのように地面に叩きつけられた。
血は失われ、骨は砕けた。内臓に至ってはこぼれ落ちている有り様だ。もう生きる力は残されていない。
それでも少女は消えかけの意識に鞭を打つ。
「おね……がい……しま……皆を……殺……いで……」
濁って黒ずんだ血をむせるように吐き出し、もはや少女は言葉すら上手く紡ぎ出せなかった。
それでも死の淵から願うのは仲間の事だった。
謂れのない罪を被せられ、故郷の国は侵略され奪われた。
男も女も、老人も子供も、区別なく殺され焼き払われた。抵抗する者には残酷な死を。そして抵抗しない者には、人としてのあらゆる尊厳を奪われた。
だからこそ逃げ仰せた者は、死んでいった者達の分まで生きなければならない。そして少女は皆の事を、守らなければならないのだ。
いつか故郷を取り戻す為。それこそが少女に課せられた使命なのだから。
だが、その願いは黒き獣には届く事はなかった。
興味を失ったかのように少女に背中を見せ、眷属が走り去った方向へと悠然と歩き出す。
「……ううっ」
少女の頬に大粒の涙が零れ落ちる。
あの日から弱さは捨てたはずだった。泣く事も嘆く事もせずに、少女は希望だけを抱いた。ひたすら前だけを見て歩き、ようやくこの地に辿り着いた結果がこの有様だ。
堰き止めていた涙は溢れ、希望は血反吐で塗り潰される。
救いなどなかった。苦難の先に待つものは、絶望だと思い知らされた。
少女は最期に空を見つめ、声にならない言葉を紡ぎ、意識を閉じた。