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悠遠の旅空に~半神のバックパッカー~  作者: ビール汁
フォルティス大陸南東海域
27/76

27話 勇ましい船乗りと忌まわしき怪物

 見渡す限りの大海原には船の往来はない。

 水平線の彼方にも陸地は見えず、島の影も見当たらない。岩礁さえも目に映る事はなかった。

 そこは青に染められた世界。たとえ人が漂流しているかのように、浮かんでいたとしても、その存在に気付く者はいないだろう。いるとするのなら、それは海洋生物くらいだ。

 海全体の広さからすれば、人間一人の存在など、あまりに小さい。世界地図を広げたところで、人の大きさは地図には書き表せない。もしも遭難者がいたとしても、探し出すのは困難だろう。

 それは現代でも同じだ。救命具を装備していても、救難信号発信器でも持っていない限り、救いの手を差し伸ばされる事は難しい。


 ――それでも誰かに助けられるのなら。


 それは偶然ではなく、巡り合わせ。

 きっと(えにし)というものなのだろう。



 事の始まりは昼寝だった。

 そう。ただの昼寝。


 神より授かった力のお陰で、穣司は次元の違う存在になっている。危険は危険でなくなり、決して死ぬ事もない。まさに約束された安全の旅。鼻歌気分で何処だって行ける。

 それは自然が相手でも同じである。たとえどんな場所であろうが、穣司はそれを物ともしない。吹き荒れる海の猛威すら屁でもなかった。


 そんな人ならざる力も手伝って、穣司は呑気にも大海原で眠りについていた。

 年甲斐もなくはしゃぎ、嵐を楽しんだ満足感もあった。心地好い日差しに、程良い満腹感が加われば、自然と眠気に誘われる。ボードの上に横たわり、目を瞑れば、すぐにでも夢の世界に旅立てた。


 そして、次に目を覚ました時、穣司は困惑した。

 直ぐ傍で、見知らぬ青年に曳航されていた。

 彼の頭には犬のような耳が生えている。シェパード犬を思わせる大きな耳だ。臀部からは尻尾も生えている。それ以外は人間と変わりがない。

 彫りが深く、野性的な鋭さのある瞳の、精悍な顔立ちの男前の青年だった。

 無駄を削ぎ落としたかのような、引き締まった体は、長らく日差しを浴びていたのか、小麦色に焼けたような肌色だ。栗皮色の髪は海水に濡れて、艶を帯びていた。


 その彼の腕が、覆いかぶさるように、腰に回されていた。ボードから転落しないようにと、固定されているようにも思える。

 幸いな事に、彼の言葉は理解出来た。人魚の少女から学習した言語の中の一つだった。理解出来たからこそ「助け?」と、気の抜けたような声が漏れ出てしまう。


 きっと彼は助けようとしてくれているのだろう。

 見ようによっては――いや、どう見ても今の穣司は遭難者にしか見えない。この何もない海洋で、板切れに乗って昼寝をしている人間がいるとは、誰だって考えはしないだろう。そんな馬鹿げた事をするのは、此処にしかいない。


 穣司としても「昼寝していたのでお構い無く」等と言える筈もない。仮に言ったとしても、錯乱していると思われるだけだろう。ただ、状況に流されるままに、曳航されていた。


 青年は疲労困憊の様子だった。

 顔色も悪く、腕が小刻みに震えている。曳航した疲れだけではないように思えた。しかし瞳には強い意志が宿っている。

 そして彼は何よりも、要救助者の身を案じていた。船に辿り着き、梯子に登るにしても、まず要救助者の事を考えているようだった。何をどうしても、要救助者を第一に考えている。海の転落させないように、押し上げるか、引き上げる二択しかないらしい。


 それ故に穣司は青年の後で登る事にした。

 もしも彼が転落したとしても受け止める事が出来るし、浮かせられる事だって出来る。しかしそれは最後の手段とも思えた。

 能力(ちから)を使えば、穣司に何の問題もなかった事が知られるかも知れない。そうなれば彼の厚意を仇で返すような気がした。それは避けたかった。


 そうして彼は梯子を登り始める。

 その姿は力強さが感じられない。いつ転落してもおかしくはなかった。穣司は落ちても大丈夫であるように備えた。

 それでも彼はどうにか梯子を登りきって、甲板に転がり込むように姿を消した。穣司も後を追って素早く登る。


 そこには二足歩行の犬がいた。服を着ている犬人間というべきなのだろうか。

 顔は犬そのものである。垂れた耳は黒く、鼻先も同様に黒い。布を頭に巻き、片眼を隠している姿は、勇ましさも感じられた。

 年齢は読めないが、艶の失せつつある毛並みからは、それなりに歳を重ねているようにも見えた。渋味を漂わせ、威厳も感じられた。が、疲労も滲ませて、草臥(くたび)れているようにも感じられる。

 骨格は人間に近いが、全身は体毛に覆われている。それでいて屈強さが感じられる程に、短い体毛の下から筋肉が浮かびあがっている。右手を縛りあげている布切れは、血に染まっていた。肘から下が失われている。


 この世界にやって来て初めて見る存在に穣司は戸惑う。

 髪の色と耳の長さを除けばダークエルフは人と然程変わらない。今しがた自分を助けてくれた青年も同様である。

 しかし、この犬人間に至っては驚きを禁じ得なかった。このような生物がいるとは想像もしていなかったのである。動き始めるまでは精巧な人形でも置いてあるのかと思ってしまう程に現実感がなかった。肘から下が失われている姿も、元からそういう造りであるように感じられた。

 それに甲板は荒れていた。まるで何らの災害に遭遇したかのような船だった。

 マストと思わしき部分は、へし折れている。その残骸が甲板に散らばって、見るも無惨な様子だ。動力源を失い、ただ浮かんでいるだけの船だった。きっと幽霊船の方が、まだマシだと思えるだろう。

 穣司は思わず、これは映画のセットなのか、と考えてしまった。

 しかしここは異世界である。映画があるかはさておき、このような犬人間がいても不思議ではないのだろう。ならばこの船の方こそ遭難中なのではないかと、思考の渦から戻った穣司は考える。


 周りに目をやっても甲板にはたった二人しかおらず、帆を張るマストもない。操舵輪も見当たらなかった。

 ただ潮流に身を任せるだけのように見える船は、天命を待つだけの状態に思える。


 やはりと言うべきか、穣司の推測は当たっていた。

 青年もまた、偽る事なく、現状を明かした。

 遭難中みたいなものだと言い、期待させて悪かったとも言う。


 そんな状況でも尚、他人の為に動けるのは何故なのだろうか。青年は立っている事すら、ようやくといった様子だった。とても救助出来るような姿には思えなかった。


 しかし、その疑問は直ぐに分かる事になる。

 青年は曇りのない眼差しで、誇らしげにこう言った。


 ――船乗りの掟だからな。


 その言葉に穣司は胸に込み上げる熱を感じる。

 遭難者を助けるのは当たり前だと言われた気がした。


 青年の話によると、彼自身も昔からの船乗りの掟によって、犬人間の船長に救われた事があるらしい。そして次は青年が別の誰かを救う。

 その助け合いの精神は昔から引き継がれ、そして次の世代へと受け継がれてゆくのだろう。


 掟があるとはいえ、そうなかなか出来る事じゃない。

 この広い海で遭難していたのだ。彼も窮地に立されていたのだろう。それでも尚、誰かの為に動けるのは、それが彼の本性というものなのだ。

 そして彼は助けを待つ者の気持ちが誰よりも分かる。それ故に彼からは、強い信念が感じられる。絶対に助けるという意志が瞳に宿っていた。


 ――なんて凄い青年なんだうか。


 もしも彼の立場だったとしたら、他人を助けられるだろうか。

 人外的な存在になっている今の自分ならともかく、普通の人間だったのなら、おそらくは難しい。助けたい気持ちは沸いても、二重事故を言い訳をして、手を差し伸ばせない可能性が高い。


 穣司は青年から崇高なものを感じた。

 もしも自分が女性だとしたら、きっと彼の在り方に惚れてしまう事だろう。まるで物語の主人公のようだ。

 穣司は彼に尊敬の念を抱き、感嘆の吐息を漏らした。

 感動を覚え、胸の奥から温かい気持ちが湧き起こる。自然と笑みが溢れた。


 穣司は助けられた時、戸惑うだけだった。

 しかし、今は感謝の念が満ち溢れている。

 これも助けられた事による紡がれた縁。

 ならば次はこちらの番だろう。彼の疲労を癒し、水を提供しようと穣司は考え、行動に移そうとした。


 しかし青年は首を横に振った。

 船内で休ませている仲間を優先したいとの事だった。彼の仲間は、彼以上に水に飢えているらしく、酷い怪我も負っているらしい。

 右手を失った船長よりも酷い怪我なら、目を背けたくなるような惨状なのだろう。末期(まつご)の水を予感させて胸が疼いた。


 しかし、先ほど以上に感銘も受けた。

 彼も疲労が蓄積している筈だ。脱水症状も起こしているようにも感じられる。喉も渇き、すぐにでも水を飲みたいだろう。それでも彼は自分の事よりも仲間を優先させる。自分の損得など放り投げているようにも思えた。


 なんて男前なのだろうか。容姿だけでなく、心の在り方までもだ。これが侠気(おとこぎ)のある者の姿なのだろう。

 しかし危うさも感じられる。老婆心ながら、もう少し自分を大切にした方がいいのではないかと、余計な事を考えてしまう。


 それ故に穣司は彼等に生きてほしいと強く感じた。

 この素晴らしき青年に、この船乗り達に幸あれと心から願う。


 ――彼等に癒しを。


 疲労と怪我。渇きも何もかもが、癒えるようにと願った。

 その想いは即座に反映され、癒しの力が船を丸ごと包んだ。


 助けられたから、助け返す。ささやかな恩返しだ。


 思えばこの世界を初めて訪れた時も、癒しの力から始まった。何らかの因果関係があるように感じてしまう。

 始まりの地(あの島)では、島の全てを癒した。前回に比べると今回は小規模だが、少しばかり気掛かりもある。

 アンジェリカ達を命を救えた事に後悔は全くないが、彼女達のように「ジョージ様」と呼ばれるのは気が引けてしまう。

 あの時は彼女達から神だと思われているように感じた。半分は神になっているのだから、それは間違っていないが、ああも畏まられていると心苦しくなる。

 結果的には穣司の勘違いであり、彼女達もこの世界の創造主を知っていた。穣司が他の世界から来た事にも、知っているようだった。それでも彼女達から様付けで呼ばれ続けていた。慣れてしまえば気にならなくなったが、はじめは居心地悪く感じていた。

 ただ授かっただけの力である。いくら畏まられても、そこに誇れるものはない。


 それ故に彼等からも、様付けで呼ばれるのではないかと一抹の不安が過る。

 とはいえ、そんなちっぽけな願望より命の方が何より大切だ。

 もしも彼等から、様付けで呼ばれたとしても、受け入れるしかないのだろう。


 しかし、お互いに名乗った後でも、彼から様付けで呼ばれる事はなかった。


 ジョージの旦那――である。


 なかなか良い響きだ。親しみのある呼び方であり、客引きのような気軽さもある。

 まるで「ヘイ、旦那(マスター)。リキシャ乗っていくかい」とでも言われそうな口調だ。ジョージと呼び捨てにされるのも良いが、こういった呼ばれ方も良い。

 それからザフェルは、控えめな態度はやめてくれとも言う。穣司は思わず顔がにやけた。


 助けられ、助け返した。

 困った時はお互い様の精神で、まさに対等の関係のように感じた。

 人魚の少女との出会いは、残念な結果になってしまったが、ザフェル達の出会いは上々ともいえるだろう。

 砕けた口調で会話を交わせるなら望ましい間柄だ。


 穣司はつい嬉しくなり、さっそく能力(ちから)で水を作り出す。

 いくらでも飲んでくれと言わんばかりに人数分だけ浮かべる。

 どの程度の魔法なら一般的なのか、アンジェリカ達を見て、既に学べている。彼女達の同等の魔法であれば、やりすぎという事はないだろう。きっとザフェル達にとっても常識内だ。

 せっかく対等な友好関係を結べているのだ。やりすぎた能力(ちから)で彼等から敬服されたくもなかった。


 彼等は魔法に驚いていたようにも見えた。しかし魔法に驚いたのではなく、水が飲めるという嬉しさによる驚きだろう。

 誰もが水に顔を突っ込み、喉を潤していた。その様子が微笑ましく、つい笑みが溢れてしまう。


 それから程なくして野菜と酒の物々交換が始まった。

 久しぶりの酒は旨かった。それにこの世界でも、船乗りはラム酒を飲んでいた。壊血病の予防なのだろうか。元の世界との共通点を発見して、妙に嬉しくも感じる。


 ザフェルは野菜の味を楽しんでいたように見えた。

 アンジェリカ達と共に作った野菜だ。喜んでもらえるなら嬉しい限りである。

 そして野菜を売ってくれとも頼まれる。

 穣司としては別に無料でも良いし、物々交換交換でも構わなかった。それでもザフェルは買う事を望んだ。

 なんとも義理堅い青年である。素晴らしい出会いに、心から笑みが浮かんでしまう。


 そうして宴会にも似た雰囲気が甲板を漂っていた。

 穣司は船乗りと酒を飲み交わした。酒精の高い酒であるはずなのにいくらでも飲める。何度も杯をあけ、気分は益々上がった。

 穣司は元の世界でも普段から酒を嗜むが、これ程までに楽しい気分になったのは久しぶりだった。素晴らしい出会いが、嬉々とした気分を更に高揚させるのだろうか。

 酒に飲まれまいとする、律する気持ちが(ほど)けるように感じた。まるで抑制から解き放たれて自由になったかのような気分になる。


 不意にザフェルに島での事を聞かれ、穣司はダークエルフとの暮らしを話した。

 侠気(おとこぎ)のある彼でも美人の話は気になるのだろう。穣司としてもザフェルのような良い人には、彼女達とも友好関係を結んでほしくなる。


 つい調子に乗って、木彫り像を作る。

 ザフェルに渡すと彼はまず、女神像を見つめていた。

 女神の事を知らない様子で、少しだけ残念に思うが、それでも彼の尻尾も揺れていた。

 彼は嬉しそうな時、尻尾を振ってしまう癖があるようだ。ならば女神に対して嫌な感情はないという事なのだろう。


 宗教というのは難しいもので、強烈に勧められると、人は遠ざかっていくものだ。この世界が女神ニナという一柱により作られたとしても、興味を持たない人に無理に勧められるものではない。

 何より穣司は女神ニナの教義を知っている訳ではない。布教活動のしようもなかった。


 それでも、せめて名前程度は知って貰いたかった。

 女神ニナの存在があったからこそ、穣司はこの世界に来られたのだ。

 テネブラという義娘が出来た。アンジェリカ達と島で暮らしは心穏やかなものだった。そして素晴らしき船乗り達と出会えたのだから。


 それから穣司は船首に向かった。

 両手を広げて、そよ風を浴びる。

 心地が良かった。この世界の全てが愛おしくも感じた。

 きっと素晴らしき船乗りとの出会いが、そう思わせるのだろう。

 酒はその時の気分を強くする。故に穣司の喜々とした感情が爆発して、思わず叫びたくなった。

 その言葉は旅人にとって聖書ともいえる小説の文章を引用したものだ。船に乗るなら、つい使いたくなる言葉でもあった。


 ――しかし、その気分はすぐに害された。


 船が大きく揺れて、巨大な怪物が姿を現した。

 クラーケンという怪物だ。その名は元の世界でも聞いた事もある。

 この世界のクラーケンという怪物は、茹で蛸のように赤黒く染まっていた。タコに似た姿でありながら、イカに似た悪臭を放っている。


 穣司はどろりとした粘膜に覆われた触腕に拘束された。

 しかし、それがどうという事もない。触腕の力は弱く、子供から抱き付かれているのと、然程変わりはない。ただ大きいだけのタコだ。ヌメリと臭いが気になるだけで、恐怖を感じる事はなかった。


 ただし、ザフェル達の表情は険しいものだった。

 冷や汗を流しながら、焦りとも思える表情を浮かべている。武器を取り、戦う体勢に入っていた。

 そこでようやくクラーケンが危険な存在なのだと穣司は理解した。欠落した危機管理能力では、危険を危険だと感じられない。あるいはこの怪物は、怪物ではないのかも知れない。力尽くて触腕を楽に引き剥がせる気配もある。


 しかしザフェルは必死の形相を浮かべながら、こちらに走り出そうとしていた。

 見るからに異常な姿だ。知らぬ間に攻撃を受けたのか。それとも捨て身の攻撃のつもりなのだろうか。

 身体の血管が浮き上がり、蒸気を発している。鼻血を垂らす姿に、妙な胸騒ぎを覚えた。このままでは彼が危険だと、目に見えて分かる。


 出会ったばかり者の為に、己の命を賭してまで、助けようとしてくれているのだろう。

 おそらく彼も死の恐れを感じている。それでも彼は危険だと感じているクラーケンに挑むのだろう。

 それがザフェルの信念。危なっかしさもあるが、それ以上に輝きも感じられる。そうそうこんな男はいるものではない。


 その生き方は穣司には眩しすぎた。

 もっと長生きしてほしいと思うのは我が儘なのだろうか。彼には安心して休んでほしかった。


 それ故に強い願いが、口から漏れる。


 ――大丈夫。


 こちらの事は心配いらなかった。

 何せ痛みも恐怖も感じていない。それよりもザフェルの方が負担が重そうに思える。

 穣司は即座に治癒の能力(ちから)を彼に降り注いだ。


 彼を見ていると心が温かくなる。出会ってからの時間は短いが、彼の人となりが分かった。

 その反面、クラーケンの姿を見ると、心の内に肌を刺すような冷気が吹いた。悪臭とは別の嫌な臭いが感じられ、心がささくれてゆく。

 きっとこの怪物も捕食に来たのだろう。自然の摂理と思えば当たり前のことであり、責める事も出来ない。それでも、クラーケンの存在が煩わしく感じた。


 胸の内に渦巻く不快感が、思わず吐き出される。

 穣司はクラーケンを睨みつけ、小さく言葉を放った。


 ――海の底に帰れ。


 その言葉は自分でも驚く程に、冷たい声色だった。

 研ぎ澄まされた幾千もの氷の刃を、吐き出したかのような気分になる。


 言葉の刃を突き刺されたクラーケンは、赤黒い色から、くすんだ灰白色に変化した。それから涙を浮かべながら、項垂れるように、去って行った。


 穣司はその姿に、罪悪感を覚えてしまう。

 あの島で懐かれていた狼に似た獣を思い出し、あの時の既視感も覚えた。

 もしかするとクラーケンも、何らか問題が発生していたのではないかと考えてしまう。もしもそうだとしたら、申し訳ない事をした気分になる。

 それにまさか怪物が涙するとは思わなかった。そもそも頭足類が泣く事があるのだろうか。まるで親に怒られた子供のような姿だった。


「うぅ……しかしヌメヌメするなぁ。しかも……酷い臭い」


 顔を顰めながら穣司はローブを脱ぐ。

 クラーケンの触腕に拘束された時の粘液が、身体中にまとわりついていた。

 白濁とした液体は粘度が高く、殆ど糸を引かない。触感はゼリーに近く、どろりとしている。

 そして何よりも、酷い臭いがした。濃縮されたイカの臭いと、腐敗臭にも似た臭いが鼻腔を刺激して、胸の辺りに吐き気にも似た不快感が生じた。


「何か……穢れた気分がする」


 全身が白濁液まみれだ。絵面としても非常に不味い。

 なにか大切な物を失った気分になり、気分は落ち込んでゆく。すっかり酔いも醒めてしまった。


 穣司は能力(ちから)を使い、水の塊を浮かべる。その中に、ローブを突っ込み、かき混ぜるように(すす)ぐ。

 水の中には固まった蛋白質にも似た物体が浮いた。クラーケンの粘液は水に溶ける事はないようだ。


 新たに水の塊を浮かべ、幾度となくローブを濯ぎ洗いする。やっとの思いで、綺麗にすると次は自分自身だ。

 また新たに水の塊を浮かべて、その中に入る。身体をこすり、白濁液を削ぎ落とす。念入りに何度も洗った。


「だ、旦那……平気なのか?」


「……ジョージ殿。……怪我はないのか?」


 ザフェルは膝を突いたまま、鼻血を拭いながら言う。オルハンは手にした銛を、壁に立て掛けながら言った。

 二人とも穣司の身を案じているかのように、心配そうな表情をしている。


「いやぁ……この臭いが平気じゃないかな……あはは。……それよりザフェルの方が大丈夫なの?」


 おどけるように苦笑してローブを嗅ぐ。まだ臭い。

 仕方がなく、能力(ちから)を使う。消臭と念じると、煌々とした光が溢れだし、臭いは消え去った。


「俺は……まぁ大丈夫だ。この通り旦那が治してくれた。……つーか、どうやって撃退したんだ?」


「えっ、あ、いや……。俺は何もして……ないよ? 心に中で女神様に祈ったと言うか……その、あはは」


 穣司は咄嗟に嘘をついてしまう。しかも苦しい嘘だ。

 実際のところ、何かをした訳ではない。強い言葉で突き放しただけだった。穣司としても、それで撃退したとも考えられない。

 とはいえ、ありのままを伝えて、妙な誤解をされても困りものだ。説得力もないし、それで撃退したとしても、あまりに人外過ぎる。


「そんな事って……あ、いや、そうなのか?」


 しかしザフェルは妙に納得していた。

 彼は甲板に置かれた女神の木彫り像を手に取った。

 不思議そうに像を眺めながら、何故か納得しているようにも思えた。


「なぁ、旦那。この像を俺に売ってくれないか。何故だか分からねぇけど、船内に棚を作って、像を飾っておきたい気分なんだ」


「えっ? 欲しいなら、ただであげるよ。金儲けの為に作った訳じゃないし、元々はザフェルに見てもらいたかっただけだからね。なんならダークエルフの像もあげるよ」


「それじゃ旦那に悪い……あ、いや、分かった。有り難く貰うわ。確かにこれは金で買うようなものじゃねぇよな」


 神妙な様子のザフェルは、大事そうに三体の像を抱えた。

 神棚でも作る気になったのだろうか。そういえば――と、穣司はある事を思い出す。


 日本では船霊は女性の神と聞いた事がある。

 西洋でも航海の安全を祈願して、女神を模した船首像を取り付けてあったと聞く。

 そして現代でも艦艇には船内神社が設けられていると聞き、某国の空母には礼拝所もあると噂で聞いた事がある。


 ならば同じ船乗りの彼も、何か感じるものがあったのだろうか。こういった形でも女神の名が、彼等に広がってゆくなら悪くない気がした。


「ジョージ殿。済まないが、俺にも女神を模した物を作って貰えないか?」


 照れた様子のオルハンが頭を掻きながら言った。

 彼は屈強さを滲ませる歴戦の船長だ。その彼が恥ずかしそうに、要望してくる様子を見ていると、自然と笑みが溢れる。


「どんなものがいいかな?」


「そうだな……。何か身に付けられるものがいい」


「じゃあ首飾りとかどうかな?」


「ああ。それで頼む。素材はこれでお願いしたい」


 オルハンはポケットから複数の金貨を取り出した。

 彼等の国の高額貨幣だ。そんな大層な物を加工しても良いのかと、戸惑いを覚える。


「金貨を加工して大丈夫なの?」


「だからこそ良いんだ。それに御利益もありそうだ」

 

「そっか。なら分かった」


 穣司は手渡された金貨に能力(ちから)を注いだ。

 まずは金貨を平らに均し形成する。それから女神ニナの表情を思い浮かべた。彼等の守り神になってくれるようにと、慈しむような優しい表情を、コインに刻み込む。残った金貨はシンプルな形のチェーンにした。


「あぁ……そうか。いや、やはり何度見ても素晴らしい魔術……だ。有り難く頂こう。代金はこれでいいだろうか」


 満足そうにネックレスを眺めるオルハンから一枚の金貨を渡される。


「いやいやいやいや、ただでいいよ!? ザフェルにもタダであげたんだから、金銭を受け取る訳にはいかないよ!」


 穣司は慌てて金貨を突き返した。


「……む。確かにそうだな。金を払わないのは失礼な気もするが、無理に押し付ける訳にもいかないか」


 納得してくれたようで、穣司も胸を撫で下ろす。

 自分が苦労の果てに習得した魔法なら受け取っただろう。だが、これは授かった力を使っただけだ。これで金銭を受け取るなら、本職の人に申し訳ない。


 穣司がそんな事を考えていると「俺も俺も」と次々と他の船乗り達から、せがまれる。その中にザフェルも混じってした。

 その事に穣司は吹き出しそうになった。彼も身に付けられる物が欲しくなったのだろう。

 彼等の殆どが、ネックレスのような身に付ける物を欲した。要望に応えて、穣司はいくつもネックレスを作り上げる。

 彼等は嬉しそうに首からネックレスを下げていた。


 ふと、風に乗って何が聞こえたような気して、穣司は振り返る。しかし、何も瞳に映る事はなかった。海面に変化もなく穏やかなままだ。クラーケンが再び襲ってくる気配もない。


(……気にしすぎかな)


 穣司は彼等に視線を戻して、しばらく眺めていた。

 今度こそ平和的に過ごしている。船上には穏やかな空気が流れていた。穣司はそんな彼らを楽しげに眺めていた。


 もしも食糧が尽きそうになった場合は、船ごと浮かせてでも、彼等の国に送り届けるつもりでいる。しかし、それを行えば、この対等な関係は終わってしまうだろう。

 しかし彼等の命の方が大事である。穣司は何がどうなろうとも、彼等に故郷の地を踏ませる気になっていた。


 ――だから、もう少しだけ。


 今のままの彼等との時間を共有したかった。

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