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悠遠の旅空に~半神のバックパッカー~  作者: ビール汁
フォルティス大陸南東海域
26/76

26話 論ずる事はなくとも

「ふわぁ……」


 ザフェルは背伸びをしながら欠伸をする。

 つい先刻まで、海の彼方を睨みつけながら、救いの手段を模索していた。その緊張の糸が切れた途端に、眠気に襲われる。

 疲労は癒えて、喉の渇きも潤った。深い傷を負った仲間達も、今では酒を楽しんでいる。もう、この船に漂っていた死の気配は消え失せていた。


「……ザフェル、少し休め」


 素っ気ない口調のオルハンが言う。

 その声色は、長年の付き合いがある者にだけ分かる、労いの色が浮かんでいた。


「いや、俺はもう少しこうしているわ」


「そうか。……俺は目を瞑って少し休んでいる。休みたくなったら言ってくれ」


「了解だ」


 そう言ってオルハンは立ち上がり、少し離れた場所に移動した。壁に背中を預け、目を瞑る。

 眠った訳ではない。おそらくは体力の温存だ。なにせまだ先は見えないのだ。

 陸地にあがった訳ではない。今はまだ、とりあえず生き永らえただけに過ぎない。それなのに不思議と安堵感が身を包んでいた。


(何なんだろうな……この安心感は)


 心の奥底では、このまま海で朽ち果てるのではないかと、いう考えが、まとわりついていた。いくら気丈に振る舞っていても、日を追うごとに、その気配が強まっていた。

 辛うじて息をしているだけの仲間達。数刻後には冷たくなっていてもおかしくはなかった。

 仲間も死ぬ覚悟は出来ていた。しかしそれは、言い換えれば生きる事を諦めたとも言える。それ故にザフェルは、諦めさせたくなかった。仲間達と生きて帰りたかった。


 とはいえ仲間達の矜持を汚したくはない気持ちもある。頑張れ等と励ます事が出来るはずもなく、楽にさせてやる為に介錯する訳でもない。抗いようのない閉塞感に、ザフェルが出来る事は、外に救いを求める事だけだった。


 だが――


 ジョージという男を助けた筈が、逆にザフェル達が救われた。彼には優れた力があった。範囲化された上級治癒術を難なく使い、死を待つだけであった仲間達は瞬く間に救われた。

 しかし、船上に万事順調な雰囲気が漂っているのは、彼の優れた治癒術や魔術だけではない気がしていた。

 彼には他者を惹き付ける何かがある。その正体が何なのか、ザフェルは分からなかった。

 分かるのは、彼が傍にいるだけで、心が凪いだ海のように落ち着いてゆく、という事だけである。

 もしも船乗りに掟に従わずに、ジョージを見捨てていたらと考えると背筋が凍る思いだった。


(先人達にも似たような事があったのかねぇ)


 ふと船乗りに掟について考えが及ぶ。

 もしかすると過去の船乗り達にも、似たような事があったのだろうか。絶望に襲われながらも、ジョージのような優れた者を偶然助けて、逆に助けられた事があったのではないか。

それが切っ掛けとなり、船乗りに掟が作り上げられた――という事も考えられなくはない。


(ははっ……考えすぎか。……それでも)


 船上では命の恩人らしからぬ態度の彼が、楽しそうに仲間達と酒を飲み交わしている。

 優れた治癒術に加えて、優れた魔術も使いこなせる、死の海域を越えた者だ。人間種だが、人間種にはない力を持っている。


(ジョージの旦那はどこから来たんだ?)


 死の海域の向こうには、おそらく彼の故郷の島がある。

 もしかすると、彼のような優れた者ばかりが、暮らしているのではないか。

 船乗りと掟は、彼の先祖との出来事ではないかと、ザフェルは考えてしまう。


「なぁ、ジョージの旦那! あんたが暮らしていた島は、どんな人が住んでいたんだ?」


「んー? どっちの……? あ、いや……違うか。 そうだね……ダークエルフって人達と暮らしていたかな」


 酒精で顔を赤く染めたジョージは、視線を上に向けながら、楽しそうに笑って言う。


「ダ、ダークエルフ!?」


 ザフェルはジョージの言葉に狼狽した。

 ダークエルフと言えば人間種と敵対関係――という生易しい言葉では表せない怨恨があると、人間の商人から聞いたことがある。


 商人曰く、ダークエルフは排他的な存在であり危険な存在。

 他種族の命を塵のようにしか思わず、目が合っただけで強大な魔法によって殺されるという。

 ただ、殺されるのではなく、じわじわと痛め付けながら――さながら拷問のように、陵辱され、尊厳を奪われる。

 そして何よりも哀哭を好み、心が壊れるまで相手を加虐する、残忍な存在だと聞いた。

 時には他種族の親子を拐い、生きたまま子供の皮を剥ぎ、目玉を切り抜き、性器を切り取るという。そしてダークエルフが崇める闇の神の供物にされるのだ。

 子供の肉は、ダークエルフが貪り食い、残りは親に無理矢理食わせる。その様子を、さも芸術であるかのように歌い、悪逆を極めた行為を楽しむというのだ。

 その故にダークエルフは、この世界に存在してはいけない。存在そのものが悪であり、世界を侵す病原菌そのものである、と。


 そして人間の商人は、こうも続ける。


 ――だから我々人間が、闇の眷属である厭わしき闇人(ダークエルフ)を、この銃火器で打ち倒したのだ、と。


 商売文句なのか、商人たちは武器を売買する時に、決まってそう言った。これこそが正義の兵器であると、自慢気に語る。


 ザフェルにしてみれば、所詮は遠く国の出来事だ。

 人間種とダークエルフの確執には興味がない。それにシュケル周辺にはダークエルフなる存在がいなかった。その強さも性質も知らなければ、どのような容姿なのかも知らない。商人の言葉に胡散臭さを感じながらも、真偽を追及する気もなかった。

 しかし、人間が開発した銃には興味を持った。大砲を片手で持てる程まで小型化したような武器だ。面白そうに感じた。――ただ、それだけだった。


 そのせいもあってか頭の中には、ダークエルフが魔術に長けた、悪辣な存在という印象が、漠然として残っている。「そういや、ダークエルフって悪い奴らなんだっけ」と、その程度の印象だ。


「な、なぁ、旦那。……ダークエルフってのは、どんな奴らなんだ?」


 ザフェルは息を呑み、ジョージに問う。

 商人の話が本当なら、人間であるジョージと共存出来る筈がない。


「どんなって言われてもなぁ……。うーん、そうだね、一言で言えば容姿端麗だね。こう、なんて言うか、ぼんっ!きゅっ!ぼんっ! みたいな感じ」


 ジョージは身振り手振りを交えながら愉快に笑う。

 若干だが親父臭さの感じられる様子なのに、その笑みには卑しさが感じられなかった。当然のように負の感情も宿っていない。


「そ、そうか、美人なのか。で、性格とかどうだった?どんな暮らしをしていた?」


「ふふっ、もしかしてダークエルフの事が気になるの?」


 途端にジョージは微笑み浮かべながら言った。

 またあの厄介な微笑みだ。目が合うと妙な気分になる。


「……まぁ、そんなところだな」


 それ故にザフェルは思わず、顔を逸らしながら返答する。


「……その態度。ははーん、なるほどね。そりゃ綺麗な子ばかりって聞けば、男なら気になるよね」


 あの微笑みから一転して、ジョージはニヤリと口角を上げた。世話焼き者に似た笑い顔を浮かべながら言葉を続ける。


「性格といっても、人それぞれだから一概には言えないけど、天真爛漫な子もいれば、引っ込み思案な子もいるね。全体的には感動屋なところがあって、すぐに泣いたりする事も多いけど、みんな素直でいい人ばかりだよ。一緒に島を散策したり、魔法で畑を耕したり、海や湖で泳いだりとか……したかな。それから朝と夜は一緒に女神様に祈りを捧げていた。神様の事を覚えているって嬉しい事だね」


 ジョージは饒舌に語る。

 それは好きな事を語る者の姿だった。邪気がなく、晴れ渡るような空にも似た、朗らかさがある。決して酒精の勢いだけではなかった。

 それに加えて、どことなくではあるが、娘を紹介しようとする、父親の姿のようにも感じられる。

 その勢いにザフェルは自分で聞いておきながら「そ、そうなのか」と尻込みながら、相槌を打つことしか出来なかった。

 それでも尚、ジョージの言葉は続いた。


「それに野菜が好きな人達だったかな。あの野菜も彼女達と一緒に育てたものだからね。……とまぁ、そんな感じの可愛い子達だよ。ほら……これを見てみて――」


 ジョージは甲板に落ちていた木の残骸をいくつか拾い上げ、手の平で撫でる。

 すると、輝く砂粒に包まれた木切れは、一瞬にして三体の精巧な木彫りの人形へと変化した。


(……おいおい、こんな事も出来んのか)


 一つは両手を下方に広げている儚げな表情の少女の像。もう一つは髪を二つに結っている眠たそうな瞳の、耳の長い少女。最後は木彫りの像からでも扇情さが感じられる、耳の長い女だった。


「これが女神ニナで、こっちの小さいのと、胸の大きいのがダークエルフの子達だよ。ほら、手に取ってみて。可愛いでしょ? 」


 ザフェルは勢いに飲まれて三体の木彫り像を渡される。


「あ、ああ……。これがダークエルフの女なのか。ま、まぁ確かに整った(ツラ)してるな」


「でしょ? きっとザフェルもお近づきになりたいって思って、俺に聞いてきたんだろうけど、この像を見て更にに会いたくなったんじゃないかな?」


「あ、いや……。まぁ、そうだな」


 ジョージの反応が妙だなとは思っていた。

 やはり何かとんでもない勘違いさせてしまっている。

 しかし、今更そういう意味で聞いたんじゃないとも、言えなかった。それ程までに彼は満足そうな表情を浮かべている。


 しかしながら聞きたかった事は、半分ほど達成された。

 ジョージの先祖の話から逸れてしまったが、ダークエルフの事は聞けた。彼の話すダークエルフなら、人間と共存していても何もおかしくはない。刺激はなさそうだが、平和的な生活だ。


(しかし……魔法で畑を耕すって、なんだそりゃ)


 (にわか)には信じがたい事だった。

 たかだか農耕だ。そんな事に魔力の無駄遣いするとは思えない。しかし逆に考えれば、有り余る魔力の持ち主だからこそ、可能になるとも考えられる。

 それに彼が今しがた使った魔術もある。木切れを撫でるだけで、精巧な木彫り像を造り上げるとは、ザフェルには考えられない事だった。

 信じられないが、信じる他にない。胡散臭い人間の商人の言葉よりも、目の前の事柄の方が説得力がある。

 これ程の魔術を当然のように使うのだ。ジョージやダークエルフ達が住まう島では当たり前の事なのかも知れない。

 世界は広いという事だ。


 ザフェルは手元にある三体の像を眺める。

 シュケルでは国で統一された信仰はない。山の神を信ずる者もいれば、海の神を信ずる者もいる。地域によって様々であり、その殆どが自然崇拝ともいえる。

 それとは別にして、自らが認めた強者に従うという性質も持っていた。


 しかし女神ニナという言葉には聞き覚えはない。

 これがダークエルフなる存在が、崇める闇の神なのかと考えても、そんなに悪いものとは思えなかった。


(……悪神には全然見えねぇ)


 人間の商人から聞かされていた印象とはかけ離れていた。

 もっと邪悪な存在なのだろうと漠然と考えていたが、とても他種族の子供を供物にするようには思えない。

 それどころか木彫り像からでも、可憐さと清浄な神々しさが感じられる。

 ザフェルは無意識に尻尾を振っていた。思わず拝んでしまいそうになる。船内に専用の棚を作って、飾るべきなのではないかと、さえ考えてしまった。


 そしてダークエルフなる像も同様だ。


(どんな化け物かと思ったら、人間と大して変わらねぇな)


 ジョージの言う通り、整った顔をしていた。木彫り像では色まで分からないが、耳の長いだけの人間のようにも見える。実際に会った事はないが、悪辣な事を好んでするようには思えなかった。そもそも野菜を好む種族が、他種族の子供を食べると思えない。

 それにジョージという男が、悪辣な事を好む存在と、仲良くするとは思えなかった。助けられた事を除いても、彼にはそう思わせる何かがある。


 シュケルを訪れる人間には、胡散臭さを漂わせている者が多い。いまだ尻尾は見せないが、悪巧みの類いの匂いもするし、人間の瞳からは真っ直ぐな力が感じられない者が多い。しかしジョージの瞳からは、そういった類いの匂いは感じられない。それに悪意のない柔らかな眼差しだった。


 それ故に何度も会った事にある商人と、会ったばかりのジョージのどちらかを信じるのなら当然後者だ。きっとダークエルフも悪辣な存在ではないのだろう。


 ザフェルは無意識にジョージを目で追っていた。

 彼は酒樽の横にジョッキを置き、船首に向かって歩いていた。

 何度も杯をあけているのに、しっかりとした足取りだ。泥酔しているようには見えない。

 そうして船首に着くと、勢いよく両手を真横に広げて、空を仰いだ。そよ風を一身に浴びて、彼の服がたなびいている。


「Breeze is nice!」


 突然、ジョージは弾むような声で、何かを叫んだ。

 ザフェルには聞き慣れない言葉だった。おそらくは彼の住んでいた島の言葉。あるいはダークエルフの言葉か。

 当然、この船上で彼の言葉を理解出来る者はいなかった。誰もが首を傾げている。

 しかし、悪い言葉のようには思えなかった。何故なら彼は、楽しそうに叫んでいたのだ。

 彼にとって緩やかな潮風すら楽しい事なのだろう。その姿に一同から笑みが溢れる。


 安穏とした雰囲気が船上を包んでいる。

 先は見えなくとも、何とかなるような気がしていた。


 ――その時だった。


 船が悲鳴のような軋み音をあげた。

 船底から突き上がるような衝撃にザフェルの腰が浮く。

 鼻につくような異臭が漂い、船は大きく傾く。


「警戒態勢!来るぞ!」


 目を瞑っていたオルハンが叫びながら飛び起きる。

 ザフェルは咄嗟に舶刀(カトラス)を抜いた。仲間達も杯を捨て、武器を取る。


 敵の姿は見えない。

 それでも敵が何であるかは分かる。

 この帆船が機能を失う原因になった海魔だ。


「ちっ、こんな時までクラーケンかよ!」


 ザフェルは舌打ちをして悪態をつく。

 クラーケンから薙ぎ払われる触腕によって、甲板から上は吹き飛ばされた。その余波で海に転落した者もいる。

 鞭のようにしなる触腕は重く、ただの一撃で、仲間達の手足は吹き飛ばされる。


 しかし触腕に攻撃を加えたところで然程(さほど)意味はない。

 切り落としたところで直ぐに再生した。それに攻撃を加える度に、クラーケンは警戒色に染まり、どろりとした粘膜に覆われて、異臭を放つ。

 そうなれば斬撃は通りにくくなる。銃弾など巨大な怪物には通用しない。


 既に異臭を放っている。

 ならば警戒色に染まったクラーケンだ。

 元から油断は出来ないが、更に油断が出来ない。


「旦那、そこは危ねぇ!真ん中で伏せていてくれ!」


 ザフェルは焦りを感じながら叫ぶ。

 クラーケンとの争いに巻き込んでしまった。これ以上は命の恩人を危険に晒したくはない。


「うわ、なにこのイカ臭さ。って……クラーケン?あー、うん。分かった」


 危険を危険だと感じていない様子だ。

 首を傾げながら、傾く船上を歩き出そうとしている。何の事か分かっていないように困惑しているように見える。

 おそらくクラーケンの事を知らないのだろう。それにザフェルも、帆船がこうなった原因を伝えていなかった。


 しかし、その歩みはすぐに止まる。

 船首の先から噴水のような水飛沫があがり、二本の触腕がジョージに絡み付く。


 ――そして


 憎悪が感じられるような、赤黒く染まったクラーケンが、巨大な顔を覗かせた。

 これから何が始まるのか見せつけるように、ぎょろりとした瞳がザフェルを射抜く。


「旦那ぁ!!」


 無我夢中で叫んだ。

 瞬間的に仲間の散った姿が脳裏を(よぎ)る。

 これから何が起こるのか、否応なしに理解してしまう。

 彼が握り潰され、引き千切られる。

 理解したくなくても、それが分かってしまう。


 前の戦いでは仲間の一人が、触腕に握り潰され、千切られた。

 声をあげる間もなく、骨の砕ける音が響いた。

 凄まじい圧力に飛び出した仲間の眼球と目が合った。力任せに引き千切られた胴体からは、どさりと臓物が落ちる。血潮が飛び散り、背骨が力なくぶら下がっていた。

 そして――物言わぬ肉塊となった仲間は、襤褸(ぼろ)雑巾のように海へ投げ捨てられた。


 もう、遅い。間に合わない。

 次の瞬間には、彼は自身に何が起こったのか、分からないまま、力ずくで切断される。即死だ。


 ――それでも


 死なせはしない。

 戦いの原因は自分達にある。巻き込む訳にはいかない。

 例えこの身が限界を越えて力尽きようとも、恩人を殺させはしない。


 ――握り潰されるまでの刹那、それまでに触腕を切り落とす。


 瞬時に身体の底から力を湧き起こす。

 魔力による身体強化が己の限界を突破した。

 舶刀(カトラス)に魔力を通し、切れ味をあげる。刃が自身の一部になるように注ぎ込んだ。

 骨が軋んだ。血管が浮き上がり、目が血走る。自身から蒸気が迸り、体は熱を帯びる。

 鼻から血が流れ落ちた。

 その滴が甲板に落ちるよりも速く、ザフェルは飛び出そうとして――


「な――!?」


 足が甲板に縫い付けられたように止まる。

 身体が動かない。瞳だけが動かせた。

 時の流れが異様なまでに緩慢に感じた。

 仲間達が舶刀(カトラス)を手にして、オルハンは銛を投げる体勢に入っている。が、銛は放たれる事はなく、オルハンは静止しているも同然に、緩やかに動いている。クラーケンの動きすら止まって見えた。


 その中でジョージだけが、いつもと変わらない速度に見えた。

 彼は口を開き、何かを呟く。


 ――大丈夫。


 慈愛に満ちた微笑みを浮かべる彼の口が、そう動いた気がした。


 実際に聞こえた訳ではない。それなのに、焦りや怒りにも似た感情が融解してゆく。本当に何事もなく、大丈夫であるかのように思えた。

 ザフェルは限界を越えた身体強化を止め、膝から崩れ落ちる。

 力を全解放したのは一瞬の事。しかし身体は悲鳴をあげていた。


 ゆっくりと深い息を吐く。

 胸の辺りの違和感が酷い。咳き込むのと同時に、吐血する。

 身体の節々が痛んだ。

 しかし、それは一瞬の事。

 気が付けば煌々とした砂粒が降り注ぎ、身体は癒えていた。


「だ、旦那?」


 彼は何も言わずに微笑んでいるだけだった。

 それから首だけで、クラーケンに振り返り、何かを呟いた。


 その声はザフェルまで届かない。

 声色も内容も聞き取れなかった。

 しかし、ザフェルの本能が言い知れぬ畏れを感じた。

 クラーケンが世界の禁忌に触れてしまったような錯覚に陥る。


 その言葉を直に受けたクラーケンは、警戒色が瞬時に失せた。

 触腕は解かれ、蛇が逃げるように、甲板を這ってゆく。

 そしてクラーケンは涙を浮かべ、ずるりと海の底へと帰っていった。

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