24話 散りゆく者の矜持と信念
暫定的ですが大まかな世界地図を後書きに貼っておきます。
始まりの地より、北西の彼方。
複雑な形をしたフォルティス大陸がある。
大陸中部には、東の海洋に向けて突き出している、ヘリアンテス半島があった。先端付近には小さな島が幾つもある。
より正確に言うのならば、亜大陸と表現するのが正しいだろう。雄大な大地が広がっており、半島と表現するにしては大きすぎた。
沿岸部は蒸し暑く、中央部は比較的乾燥した気候である。半島の付け根には山脈が連なり、そこから北部沿岸に向けて広大な森林が広がっていた。大陸側から陸路で往来するには不便であり、陸の孤島も同然であった。
そのヘリアンテス半島を領土としているのがシュケル共和国である。
国民の大多数が獣人または半獣人だ。闘争本能旺盛な彼等は、古くから争いが絶えなかった。半島に住まう者同士の争いである。国家の成り立ちの前は、より優れた者、より強き者が、ヘリアンテス半島を支配していた。
事ある毎に争い合う戦闘狂の民ではあったが、半島を襲った災害により、いつしか戦乱の世は終わりを告げた。
闘争の本質こそ変わる事はなかったが、災害以降は殴り合いだけではなく、他の分野での競い合いも始まったのだ。
そんな経緯があり、時代の流れと共に、実力主義の国となった。君主の存在しない共和制の道を辿ったのである。
ヘリアンテス半島の付け根の山脈が、陸の国境となっているシュケルは、陸路で国外から商人がやって来る事が殆どない。荷車を引いて越境するのは困難極まりないのだ。
それでも商魂逞しい者は、自らの足で山を越えてシュケルに向かった。獣人種は好戦的だと知られており、危険なのは十二分に分かっていた。だからこそ、他の商人が手にしていない金の匂いを、嗅ぎ取った者もいたのである。
その商人の勘は見事に当たり、シュケル国内に出回っている豊富な香辛料と、上質な砂糖に出会った。それに加えて、香りの良い茶葉が栽培されている事を知った商人は、背嚢にありったけの品物を詰め込んで帰郷した。少量だが貴重でもある商品だ。多くの金銭を掴み、財を成した。
それが切っ掛けになり、シュケルに訪れる商人は増えた。そして時が経ち、いつしか国外からやってくる商人は、船で来訪するようになった。
好戦的で肉体的にも強いシュケルの民に、威圧的な行動を取る商人や国家は少なく、比較的温和な取引が行われた。シュケルが海洋貿易で栄えるようになったのも必然と言える。
しかしながら、悪だくみをする者もいた。商船を襲い、利益を横取りする者も現れ始めたのだ。時には海の魔獣に襲われる商船もあった。
そんな状況を黙って見ている事の出来るシュケルの民はいなかった。
海賊や魔獣を恐れて、国外から商人が来なくなる事に、危機感を募らせたのではない。自らの縄張りで好き勝手にされるのが、堪らなく許せなかった。
はじめはシュケル国が保有する船が、護衛の任を果たしていた。しかし他国からすると、シュケル国の保有する船は、軍船も同然だ。護衛の名目があるとはいえ、軍船に随伴されるのは、様々な問題が発生したのだ。それにシュケル国としても、国の保有する船を、長期において護衛に出すには効率が悪く、国防にも響いた。その結果、民間警備船という建前で、商船護衛を主体とした海運ギルドが設立されたのであった。
それがシュケルの海の男と呼ばれる、海運組合所属の者達だ。自らを犠牲にしてでも商船を逃がす、勇猛果敢な戦う者である。
オルハンという名の隻眼の船長が率いる護衛船も、海運組合に所属していた。
他にもいくつか組合があるが、シュケルでは商人組合と海運組合の結びつきが強い。海洋貿易国家の側面も持つ国では、この二つの組合は切っても切れない縁なのである。
とある日も、いつものように海運組合の依頼を引き受け、商船の護衛をしていた。
その日は二隻の商船の護衛だ。シュケルを訪れた商船が、帰り荷を母国に運ぶのである。商船にとっては復路だが、オルハンからすると往路である。その日は海賊や海魔が現れる事もなく、無事に商船を送り届けた。
そしてオルハン達にとって復路こそが、今回の主たる仕事だった。
現地で待機している別の護衛船と合流して、シュケル行きの大規模な商船団を護衛する予定になっていたのだ。
――しかし復路では商船団に思わぬ事態に発展した。
商船団の一隻が、航路から外れたのだ。
風に逆らうように、明後日の方角に進む一隻に、オルハンは異変を感じ取った。
すぐに追い掛け、接舷する程に近寄せる。
その商船の船員達は、オルハン達の事が目に映らない程に恐慌状態に陥っていた。恐る恐るといった様子で、海面を見つめている。
真下には船を丸ごと包める程の大きな影があった。
オルハンにはその影が、風も潮流も無視して、曳航しているように映った。
海の魔獣だと直ぐに気付いた。巨大な銛を撃ち込み、続けざまに銛に雷撃魔法を放つ。それから船員に緊急旗を揚げさせた。
雷撃が効いたのか海魔は一度、商船から離れた。
その隙に商船を船団へと戻らせる。商船団は緊急旗を確認すると、オルハン達を置き去りにして、その場を離れた。別の護衛船も商船団と共に去ってい
く。
――緊急事態発生。直ちに離れ、生き延びよ。この場は本艦が受け持つ。
これがシュケル海運組合在籍の船が揚げる緊急旗が意味するものであった。勝ち目のない戦いの殿を務める事でもある。
他の護衛船まで来てしまっては、商船団を別の脅威から守る事が出来ない。それ故にオルハン達は単独で遅延戦闘に持ち込む。
相手はおそらく伝説級の海魔。複数の護衛船で戦っても、沈むのは目に見えていた。ゆえに初手に一撃を与えて、海魔の攻撃が自らに向くように仕向けた。己を犠牲にして、船団を逃がす事をオルハンは決意したのだ。
船員は強者ばかりだ。海上で死ぬ事を厭わない、歴戦の海の男達だった。
そうしてオルハン達は、勝てる見込みのない海魔との戦いを一身に背負ったのだった。
――それから幾日も経ち、シュケル共和国より遥か遠洋に、一隻の船が漂っていた。
翼をもがれた鳥も同然の帆船の上で、犬種の半獣人種のザフェルは海の彼方を睨みつける。
紺碧の海洋には、陸地はおろか島の影さえ見当たらない。どこまでも続く蒼穹と相まって、青だけの世界が果てなく続いていた。
二度と祖国の地を踏む事は叶わない。そんな現実を突き付けられるようだった。
「……ちっ」
ザフェルは何度吐いたか分からない舌打ちをする。
力強さを感じさせた三本のマストは根元からへし折れ、海原を羽ばたく白い帆は、跡形も残らず沈んでいった。
甲板の上には何一つ残っておらず、他に推力を得る手段は何一つ残されていない。そこらじゅうが傷だらけである。
潮流に身を任せるだけの帆船は、辛うじて浮かんでいるだけの棺桶と変わらなかった。
既に水は尽きていた。
恵みの雨が降る事もなく、しばらく晴天が続いていた。
魔法で水を生み出す事も出来たが、それも長くは続かない。船乗り達の魔力が尽きてしまえば、それまでだった。
それにザフェルを除いた船乗り達の殆どが重傷者でもある。魔力はおろか体力も失われていた。魔法が使える状況ではなかった。
食糧も尽きかけている。乾パンが僅かに残されている程度だ。しかし、パンは鉄のように堅くて、食べるのに一苦労するような代物だった。衰弱した者では咀嚼する力は残されていない。
他には腐った果実と、酢漬け野菜の残り滓がある。とてもじゃないが口にする者はいなかった。
酒は残っているが、誰も飲もうとはしなかった。飲んだところで渇きが癒える事はなく、余計に苦しむだけであった。酒を喰らって痛みを誤魔化す気力も残されていない。
「……ザフェル。お前、まだ諦めてないのか?」
海を睨み付けるザフェルに、船長である犬種の獣人のオルハンが言った。
壁に寄りかかりながら座るオルハンの表情は、体毛に覆われているのに土気色にも見えた。薄汚れた眼帯代わりの布切れと相まって、オルハンが草臥れているように感じる。
右腕の肘から先は失われていた。布切れで縛り、簡易的な治癒魔法で出血を抑えたが、それでも流した血は多かった。吹き出した血飛沫は、自身の体毛に貼り付いている。
「俺は最後の最後まで諦めねぇよ。船長に拾ってもらった恩を返しきれてねぇからな。それに運が良けりゃ船が通るかも知れねぇだろ? その時の為にも見張っておくのさ。それに――」
ザフェルは疲労と渇きを感じながらも、振り返りながらニヤリと笑って言った。そして、一呼吸置いてから、言葉を続ける。
「あの糞ったれの化物野郎に殺られ損なった仲間が、助けを求めて浮かんでいるかも知れねぇだろ? だから、その時は俺が助けてやんねぇとな」
「全く……。こんな時でも船乗りの掟か?」
オルハンは痛みで顔を歪めながらも、苦笑しながなら言った。
「まぁな!」
ザフェルは胸を張って言い、再び海の彼方を睨み付けた。
運良く致命傷を避ける事が出来たザフェルだったが、船内には重傷者ばかりだ。一番腕っぷしの強いオルハンですら片腕を失った。他の船乗り達も似たようなものである。五体満足の者は少なく、海魔との戦いの最中に死んだ者も多い。
それでも船乗り達に悔いはなかった。海上で死ぬなら本望だった。それに自らが乗る帆船を犠牲にして、伝説の海魔を撃退したのだ。その結果、無事に商船を逃がし、護衛船の役目を果たした。
男達は誇らしげに死んでいった。残された者も痛みと渇きに苦しみながらも、充足感に満ちていた。
――やり遂げた。その誇りがあるからこそ、忍び寄る死を受け入れられる。
どの道、助かる術はない。
痛みと渇きに苦しんだとしても、無駄に足掻く事より、誇りを保ったまま死にゆきたかった。
それがシュケルの海の男の生き様である。
だとしても、ザフェルは生を望んだ。
仲間達に祖国の地を踏ませたかったのだ。喉の渇きに潤いを与えたかった。仲間の傷を癒してもらいたかった。全ては昔に受けた恩を返す為だ。
そして――もしも海に転落した仲間が、木切れに掴まって生き延びているのだとしたら――
それこそ絶対に助けなければならない。それがザフェルを突き動かしいる信念でもあった。
ザフェルはもう何日も水を飲んでいない。
口は渇き、喉が張り付いているように感じた。正直なところ、立っているのが、ようやくと言っていい程である。気を抜くと意識を失いそうになっていた。
それでも可能性に賭けた。それが僅かな可能性だとしても、機会を逃さまいと海を睨みつける。無傷な自分が出来る事は、それぐらいの事しかない。ザフェルは自分にそう言い聞かせていた。
そのせいもあってか、大海原に浮かんでいる漂流物に、ザフェルはいち早く気付いた。
「あん?」
瞬きをして、目を凝らす。
霞む目でも、何かが浮いているように映った。
遠目には海面に白い何かが漂っている。
「なんだありゃ?」
板切れの上に白い何かが乗ってあり、その上に茶色い何かが乗っていた。
潮流に身を任せる物体は、棺桶同然の帆船に向かって流れてくる。近付いてくるにつれて、ようやく白い物体の正体が分かった。
「仲間じゃねえな。人間……か?」
それは板切れの上で行儀良く、仰向けに寝かされている人間だった。背嚢を大切そうに抱え、身に纏った白い衣装が死装束にも見える。
「……海洋葬か?」
遭難者のようには見えなかった。海の男のようにも見えない。なにせ身動き一つしないのだ。行儀が良すぎて、遺体にしか見えなかった。
シュケルでは火葬する獣人種族もいるが、土葬が主流であった。シュケルに住んでいる人間種も土葬である。海洋に遺体を流すのは、余程の事がない限りはしない。
このように身なりを整えてまで、海洋葬をする文化は周辺国でも聞いた事がなかった。
「遠い国では海に遺体を還す文化もあるのか? だとしたら随分と遠くまで流されちまったんだな」
生きているのなら仲間でなくとも助けるつもりであった。
しかし死んでいるのならどうしようもない。それが知らない国の文化であるかも知れないなら尚の事だ。静かに眠らせてやるべきだろう。
――しかし、遺体と思われた人間が動いた。
波に揺られたのではない。僅かではあったが人間の首がぴくりと動いたのだ。
「い、生きてんのか。遺体かと思ったぜ。……なら助けなきゃな」
「お前、立っているのがやっとなんだろ? この船だってどうなるか分かってもんじゃない。それでも行くのか?」
オルハンが力なく立ち上がってザフェルの横に立つ。
「まぁな。あの人間だって、きっと助けを待ってたんだろ。だから背嚢を大切そうに抱えてたんだろうさ。それに、あんな板切れに乗って浮かんでいるより、この船の方が幾分かマシだろうよ」
「……そうか。ま、ザフェルの好きにやんな。……ただし、途中で力尽きるなよ。片腕だがお前を引っ張り上げる事だって出来るだからな。絶対に戻ってこいよ」
「大丈夫さ。一人でくたばっちまったりはしねぇよ」
そう言ってザフェルは身に付けて武器を外す。
短銃を収める為の、ホルダー付きのベルトが、体の至るところに巻き付けてある。左右の太腿に一丁ずつ。左右の腰に一丁ずつ。たすき掛けのベルトに二丁。計六丁の短銃を装備していた。腰には二振りの舶刀も備えてある。
それらを外し、服も脱いでゆく。半獣人のザフェルは耳と尻尾以外は、見た目では人間と変わりがなかった。
「じゃあ行ってくらぁ」
そう告げて、ザフェルは海に飛び込み、水飛沫を上げる。
以前として板切れに乗った人間はこちらに向かってきている。放っておいても、潮流に任せれば、自然と船の近くにまでやってくるのだろう。
しかしながら、呑気に待っている事も出来ない。途中で目が覚めて、海に落ちてしまえば、どうしようもないのだ。板にしがみついてくれれば良いが、そうなるとは限らない。
それに体力の落ちている今では、溺れる者を救う程の力が残されてないのだ。自分も巻き添えを食らう可能性もある。
それよりは、まだ潮流に逆らって泳いだ方が気が楽だった。要救助者を板ごと曳航した方がやり易い。
泳いでいると自らの体力が思った以上に落ちている事に気付く。想像はしていたが、やはり潮流に逆らって泳ぐのは苦しく、いつものようにはいかなかった。
それでもザフェルはどうにか人間の下へ辿り着く。
その人間は男だった。それならば何の遠慮もいらない。腰に腕を回し、板ごと抱えた。後は潮流に任せて、船へ戻るだけである。
「おい、あんた。ちゃんと生きているか? 言葉は通じるか? おっと、動かないでくれよ。助けられなくなっちまうからな」
ザフェルは励ますように声を掛けた。
どうやら言葉は通じるらしいが、人間の男は状況が分かっていないのか「助け?」と力なく呟いた。深く被ったフードの上からでも、驚いたような表情をしているのが分かる。
ザフェルとしても、その気持ちは痛い程に理解出来る。
助けを求めて、海を漂っていても、いざ救助されると、それが現実の事なのか理解出来ないのだ。
夢現に何度も助けられる事を想像していると、そのうち夢なのか現実なのか分からなくなる。だから、人間の男も助けられている事に実感が湧かないのだろう。
「もう少しだからな」
「……あ、はい」
潮流に身を任せながら泳いだ事もあり、体力をあまり消耗する事はなかった。人間の男は暴れる事もなく、静かにしていた。そのお陰か、無事に船へと帰還する。
「あんた、甲板まで登れる元気はあるか?」
「だ、大丈夫です」
ザフェルの問いに人間の男は引きつったような笑みで答えた。気丈にも無理して笑っているのだろう。
「本当に大丈夫か? 俺が先に登って、あんたを引っ張りあげるか? それとも後ろから押し上げる方がいいか?」
「あ、いえ、本当に大丈夫です。お気遣いありがとうございます。あの、お先にどうぞ」
そう言って人間の男は、板切れに浮かんでいた。
一刻も早く甲板に登りたいだろうに、我先に行こうとはしなかった。その姿勢にザフェルは好感を持った。
「そっか。んじゃ俺が先に登るわ」
ザフェルは先に梯子を登り始める。
腕が震えて、言う事を聞いてくれなかった。オルハンが心配そうに左手差し出そうとするが、ザフェルは「大丈夫だ」と言って、どうにか甲板へと転がり込む。
全身が悲鳴をあげていた。体力の消耗が激しく、四肢に力が入らない。息もあがり、肺を空気で満たしても、なかなか呼吸が整わなかった。
そのまま倒れ込んで休んでいたい衝動に駆られるが、そうもいかない。
まだ安心は出来ないのだ。人間の男が梯子の途中で、力尽きて転落するかも知れないのだから。
ザフェルは疲労困憊の体に鞭を打って立ち上がる。
人間を引っ張りあげなければならない。そう思って梯子に向かおうとすると、いつの間にか人間の男が甲板に上がっていた。板切れと棒状の物も、甲板に転がってある。
「お、あんた、意外と元気なのな。安心したわ」
ふぅと息を吐き、ザフェルはその場に寝転がり、オルハンも腰を下ろした。
「あ、あの、ありがとうございました。まさか助けられるとは思っていなかったので驚きました。それで……この船は?」
人間の男は甲板の現状を見ながら、戸惑っているようにも見える。
船上には破片が無造作に転がっているだけだ。既に帆船の意味を成していない。
「まあ、なんていうか……俺らも似たようなものでな、遭難中みたいなものなんだ。期待させて悪かったな。それでも板切れに乗って浮かんでいるよりはマシだろ?」
「そうだったんですか。あ、いえ、すみません。大変な時に助けてもらってしまい、何と言えば良いのやら……」
「船乗りの掟だからな。気にしないでくれ」
「船乗りの掟?」
「ああ、俺らの国では、遭難者は誰でもあっても助けろって、昔から船乗りの間で言われているんだ。だからあんたを助けたのさ。それに俺だってガキの頃に、そこにいる船長に救われてるからな」
ザフェルは寝転がったまま、オルハンの方へと親指を指す。
オルハンはぶっきらぼうに、ため息を吐きながら、頭を掻いていた。
「へぇ……昔からの掟が今も続いているんですね。素晴らしいです」
人間の男は感嘆の吐息を漏らし、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。一語一語が心に染み渡る優しい声色だった。
その柔らかな眼差しと目が合い――ザフェルの心臓はどくりと脈を打つ。
(――えっ?)
誉めてもらいたくて助けた訳ではなかった。
掟によって救われたからこそ、ザフェルは掟に拘るようになっていた。その信念こそが、確固たる自分を存在させているのだ。
――それなのに
微笑みを向けられただけで、ザフェルは言いようのない安心感と高揚感を覚えた。
もっと誉めてほしい。もっと声を掛けてほしい。ずっと見守られていたい。そんな気持ちになり、無意識に尻尾を振りそうになる。
(いやいやいや、違う……違う! 俺にそんな気はねぇ!)
ザフェルは寝転がりながら、頭を左右に振って、余計な思考を追い出す。明後日の方へ視線を逸らし、話題を変える。
「ま、まぁ、そういう事なんで、少し休ませてくれ。喉も渇いてるし、ちっとばかし疲れたんでな」
言いながら、目を閉じる。
目を合わせるのは危険だと感じた。男に見惚れてしまったようで精神衛生上よろしくなかった。
「あ、じゃあ助けてくれたお礼という事で、水を出しましょうか?」
「そいつは有難いな。……でも、俺は後回しでいい。先に船長や他の船乗りに、水を飲ませてやってくんねーか? 皆、俺より疲れているんだ。それに――酷い怪我もしている。船長よりも酷い怪我だ」
「……皆?」
「ああ、船内で休ませているんだ。口には出さないが、苦痛に耐え、喉の渇きに苦しんでいる」
「あぁ……そうだったんですか。あなたも疲れている筈なのに……分かりました! では、皆さんを先に治しましょうか」
人間の男が感心したような声色で言い終わるのと同時に、眩い光の砂粒が浮かび上がり、船を丸ごと包んだ。
瞼越しにも感じる明るさに、ザフェルは目を開けて様子を窺う。
すると人間の男から金色の砂粒が溢れ出していた。先程の慈愛に満ちた眼差しのまま、人ならざる神々しさを漂わせている。
「なっ!?」
言葉を放ったのは、自分なのかオルハンなのか。あるいは両方か。
温かく降り注ぐ光を浴びたザフェルは、力が滾るのを感じた。疲れ果て、四肢に力が入らなくなっていた身体は、いつも以上に体力が有り余っている。
オルハンを見れば失った筈の腕は元通りになっていた。土気色に見えた顔も、すっかり元に戻っている。大きな口を開けたまま、驚愕の表情を浮かべていた。
一瞬の事過ぎて理解を越えていた。
欠損した部位を治すなんて事は、それなりに経験を積んだ治癒士でないと不可能な筈である。しかも無詠唱どころか魔術を唱えてもいなかったのだ。
「お、おい、あんた……何者なんだ」
ザフェルは息を呑みながら問う。
「俺ですか? あなたに助けられた、ただの旅人ですよ」
そう言って人間の男は上機嫌に笑顔を浮かべていた。




