23話 大航海は嵐と踊る
紺碧の海に揺られながら、穣司は風の向くままに進んでいた。
抜けるような青空には雲一つ見当たらない。周りには島の影はなく、どこまでも大海原が広がっている。穏やかな海は、白波も立っていない。青一色の世界だった。
ところが一転して、晴天が続いた穏やかな大海原は、牙を剥く。
銃弾の雨のようなスコールが降り注ぎ、雷鳴が轟いていた。船を丸ごと呑み込むような、壁のような巨大波が幾度も襲い来る。幾つもの巨大な海上竜巻が、荒れ狂う海で踊っていた。何もかも飲み込んでしまうような、巨大な渦潮はまるで蟻地獄のようだ。
異常過ぎる程の自然の脅威だ。海上で起こりうる全ての脅威を一纏めにしたような災害だった。
まさに海上の地獄。荒れ狂う海は、人の無力さを味わうにしては、十分過ぎる程だった。
そんな絶望的な状況で、穣司は板切れに乗って、奇声にも似た声を上げていた。
「くくくっ、うぇひひひ……いやっはー!!」
もしもこの状況を見ている者がいるとしたら、穣司があまりの絶望に精神をきたして、壊れてしまったと思うだろう。荒波に揉まれながら、板切れに乗って棒を振り回している姿は、漂流者が発狂しているようにしか見えない。
しかし、今この世界において穣司を観測できる者などはいない。人が生きるには過酷すぎる海だ。全ての者を海の藻屑にする魔の海域に違いない。
そう思っているからこそ、穣司は奇声をあげながら、はしゃいでいた。周りの目を気にする必要がない時は、年甲斐もなく楽しむのだ。いうならば電球の紐で、本気のシャドーボクシングをする素人のようなもの。人前では見せる事の出来ない行為である。
そんな穣司が乗っている板切れは、自作したサーフボードだ。手にしているのは棒切れではなくパドルである。
スタンドアップパドルサーフィンというウォータースポーツだ。
沖までパドルを漕いで、そこから波乗りする事も出来るが、凪いだ海でパドルを漕いで遊ぶ事も出来た。老若男女問わず楽しめるレジャースポーツでもある。
ただし海洋を進む事には絶対に使われないと断言できるだろう。そんな者がいるとしたら、指を指されて冷笑される事だろうし、そんな危険な事をする者はいない。
だが、穣司はこれで海を渡る事にした。
理由はいくつかある。
一つは、こんな無謀な事は誰もやらないだろうという考えだ。
つまりは自分が先駆者になるという事だ。
元の世界では様々な旅人であり先駆者がいた。自転車で世界一周する者。バイクで世界一周する者。充電バイクを走らせる猛者もいれば、徒歩で世界一周した猛者もいる。リヤカーを引っ張って世界一周する猛者だっているのだ。それに手作りのヨットで世界一周した驚嘆すべき人もいる。
穣司はそんな先駆者に憧れを抱いていた。しかしそのよう真似をする度胸もなかった。穣司の世界一周はせいぜい、出来るだけ陸路で国境を越える。その程度であった。
二つは、自身の身体の事だ。
ただの一般人である武久穣司は、栄光や名誉の為に命を賭とした、偉大なる先人の探検家のようにはなれなかった。旅をしていても、何より自身の命が大切で、危険地帯を避けるように移動してたのだ。
しかしながら、今は生身で成層圏上部付近から落下しても死ぬ事もない身体である。便利な能力も授かっている。強盗の類いに怯える事も、自然の猛威に怯える事もないのだ。
そこまで御膳立てされて、ようやく無謀な事に挑戦出来るのだ。このような前提がない限り無茶な行為は出来なかった。
とはいえ神から授かったズルに近い能力では、公式な記録にはならないだろう。
それでも良いのだ。自分だけでも満足出来れば構わないのだから。
そして三つは、何よりも重要な事だ。
――面白そうだから。
この単純な思いが大半を占めている。いくら先駆者への羨望があろうとも、面白くなさそうであるなら興味も沸かない。
そして思った以上に荒波に揉まれながらの、スタンドアップパドルサーフィンは楽しかった。死ぬ事はないと分かっているからこそ、暴力的な海は刺激的だ。信頼性のある絶叫マシーンに乗るのと同じ感覚である。
現に穣司は奇声をあげながら楽しんでいた。
突如足下に現れた海上竜巻に巻き上げられ、空高く放り出されても――
「おっほー!」
落下する際に雷に打たれても――
「yeaaaah!!」
海面に叩きつけられ、渦潮に飲み込まれようとも――
「うひひひひっ! ……ごぼごぼごぼ」
――ただただ楽しかったのだ。
穣司は激流に身を任せて、海に浮かぶ漂流物も同然となっている。
能力は極力抑えていた。そうでもしないと竜巻に巻き上げられる事がなく、何事もなかったかのように通過してしまうのだ。
これもあの島での成果だろう。
暇潰しに溢れ出る能力を抑える練習をしていたのだ。やりすぎて他者から知覚されない程だった。テネブラに「おとーさんが、消えた」と、この世の終わりのような顔をされた事もある。あまりにも悲しそうな顔をしていた為、やりすぎないように気を付けた。その結果、適度に力を抑える事を習得したのだ。
それに能力を常時解放したまま海に落ちると、海が凪ぎ始めるのだ。まるで「手加減しましょうか?」と言われているようで癪に障る。
だから穣司は能力を抑えていた。こうしている限りは海は荒れっぱなしだ。それでこそ楽しみがいがあった。
言わば緊迫感のないゲームのようなものだ。
いかに海に舐めプされずに、この海域を抜け出すかが、勝利の条件である。自然の猛威がそのような事を考えている訳がないが、穣司は自分ルールを設けていた。今この状況を楽しむ為にだ。
穣司は渦潮から浮上して、すぐにボードに乗り直す。
流れに逆らいながら、パドルを漕ぎ、渦潮から脱出する。力任せに漕げば激流も何のその、である。
最初こそは何度も落ちた。しかし靴底をボードに吸着させて、波乗りしている間だけは、振り落とされないようにした。
それらを踏まえた最低限の能力の込め方。バランス感覚の強化。それらを駆使して海上を突き進んだ。
上から覆い被さってくる波のアーチに、体を海上スレスレまで傾けて波に乗る。力を込めて漕げば、パワーボートのように波の上で跳ねた。時には襲い来る強大波を台にしてウェイクボードのように飛び上がる事もあった。渦潮に突っ込んでいっては、スノーボードのハーフパイプのように傾斜を利用して飛び上がる。
そして――また足下に発生する竜巻に巻き上げられては、雷に打たれた。
どこに進んでいるのかも分からない。下手をすれば同じ所をぐるぐると回っているだけなのかも知れない。辛うじて分かるのは、昼と夜の違いだけであった。それでも楽しみながらパドルを漕いだ。
雨風と波の音に自らの笑い声が重なっていた。
それから――
ようやく穣司はついに魔の海域を抜けた。
嘘のように海が穏やかになっていき、晴れ渡る青空には堂々とした太陽の姿が現れている。
陽射しが暖かく、心地好い。太陽を拝むのは三日ぶりだった。
「いやっはー!抜けたー!!」
両手を上げて、空を仰いだ。
勝利のガッツポーズである。
元々傷を負う事のない身体であり、空を飛ぶことも出来る。いくら能力を抑えているとはいえ、荒波に揉まれたところで、どうという事はない。
実際のところ、舐めプしているのは穣司の方だ。自然との勝負だとしても、最初から勝ちは見えている。レギュレーション違反も甚だしい。しかしそれを咎める者はいない。相手は自然なのだから。
「ほわちゃー!」
気分はノリに乗っていた。
魔の海域を抜けた達成感と、睡眠不足による妙なテンションのせいでもあった。微かな眠気を感じるが、体は疲れていない。しかし高揚感が体を支配していた。
槍に見立てたパドルを何度も突き出す。それから片足で立ち、パドルを構えて、演舞のようなポーズを取った。気分はカンフーアクションの俳優だ。
ボードの上で回転しながら飛び跳ねて、着地と同時にパドルを突き出す。最後は手招きをしてポーズを決めた。
もちろん誰かがいる訳でもない。誰かに向けて手招きした訳ではないのだ。
――しかし。
少し離れた所から「ぷはー」という声と共に少女が浮上した。
幼さの残る顔付きの少女だった。少し垂れ気味のぱっちりとした瞳で、温和そうな雰囲気が漂っている。年齢は14から15歳くらいだろう。中学生程度の外見だ。
薄水色のウェーブががった髪は、後ろで一つに纏められている。自己主張の少ない胸には、布が巻かれていた。下着とも水着とも言えない姿だ。妖艶さは感じられない。
下半身はキラキラとした鱗が陽光を反射していた。透き通るような尾びれが、潮流に揺られて美しい。
彼女は穣司を見つめながら首を傾げて近寄ってくる。
紛うことなき人魚だ。
その事に穣司は愕然とする。
もちろん人魚という存在に思うところがある訳ではない。
元の世界でも多くの人が知っている架空の生物である。悲恋の物語でも知られているだろう。
穣司は人魚の物語を読んだ事はなかったが、ある国で人魚姫の像を見た事ならあった。しかし、あまり良い思い出がない。
何故なら人魚姫の像は、心無い者の悪戯によって、塗料が掛けられていたからだ。それに加えて景観も良くなかった。
それ故に本物の人魚に会えるのは、本来なら喜ばしい事の筈である。しかも美少女ときている。
――しかし、出会い方が不味かった。
よりにもよって、他人に見せられない姿を、見られたかも知れないのだ。
(うわぁ……うわぁ……。は、恥ずかしい!)
穣司は羞恥心に襲われて、両手を顔で覆いながら屈んだ。
流石に人魚の存在までは頭が回らなかった。この大海原に人の目はない筈――
そう思って、はしゃいでいた。しかし人魚の目はあった。あってしまったのだ。
鼻歌を歌いながら歩いている時に、自転車の女子高生に追い抜かれる時よりも恥ずかしい。自身の黒歴史に、新たな項目が書き足されてしまった。
しかも人魚の彼女は手招きされたと勘違いしていた。「何か用?」とでも言いたげな表情をしている。
「※※※?」
人魚の彼女が何かを喋った。
知らない言語のようにも聞こえたが、羞恥心に襲われている穣司は、聞き逃してしまった。
最初に授かった言語やダークエルフの言語とも違うが、響きは似ている気がした。それでも、聞きなれない言葉のような気がした。
「あー、言葉、通じるかな? ってか、見てた……よね?」
穣司は恥ずかしさを感じつつも、最初に授かった言葉で、ゆっくりとした口調で話しかけた。
「※※?※※※※※※※。※※※※※※※? アー、コトバ、スコシ、ワカル」
人魚の彼女は何かを呟いた後に、片言で喋りだした。
多少は会話出来る事に穣司は安堵する。
以前として恥ずかしさは残っている。だからこそ聞かねばならない。
「えっと、その。見ていた?」
「ミテイタ。アナタ、ゲンキ、ナンデ?」
彼女は訝しむような目付きで言った。
「見ていたんだ。そっかそっか。何で、元気なんだろうね。あはは……」
口がカラカラに乾き、全身の血が顔に集まってくる。
張り付いたような苦笑いで石のように固まった。穣司の心境を表すかのように、二人の間に季節外れの寒風がひゅるりと吹いた。
(あーっ!やっぱり見られていた!恥ずかしいっ!!しかも哀れんだ目で見られているよ!!もう、そのなんか……帰りたい)
穣司は心の中で絶叫した。
ゲンキ、ナンデ。彼女が放った言葉が胸を抉る。
おそらく、お前はいい歳して何でそんなに元気なの?と言いたいのだろう。温和そうな可愛い顔して、意外と手厳しい。
しかも中学生くらいの女の子に、蔑んだ目で見られている。恥ずかしいにも程があった。
しかし、それも自己責任だ。起こった事は取り戻せない。甘んじて受け入れるふりをして、忘れるしかない。嫌な事は忘れるに限る。
穣司は深呼吸した。咳払いをして、気持ちを整える。見られた事を無かった事にするかのように、笑みを浮かべた。
「俺、ジョージ。君、名前は?」
穣司は自らの胸を叩きながら、聞き取り易いように、単語を主体にして喋り、人魚の少女に手を差し出して名を尋ねた。
恥ずかしい出会いの事はもう忘れた。これが初めての人魚との出会いなのである。ならば、まずは自己紹介が必要だろう。そう自分に言い聞かせた。
「ジョージ? ……ナマエ?……アア、ナマエ!ワタシ、アニエラ。アナタ、ジョージ。ワカッタ」
言葉を聞き取った彼女は、目を見開いて、一度パンッと手を叩いた。それから、うんうんと頷きながら名乗った。
「アニエラ……か。じゃあ、よろしくね」
穣司は言いながら右手を差し出す。
もちろん握手のつもりではあるが、これがこの世界で通じるかどうかは分からない。何せ異世界なのだ。握手という文化がないかも知れない。
それでもやってみる価値はある。こういった行為からも、この世界の知識を知っていけるのだ。それに自然に相手と触れられる。当然の事ながらセクハラ的な意味ではない。
「テ、ドウシタ?」
「挨拶かな。握手って、言うんだけど、知らない?」
「アイサツ?アクシュ? ……シラナイ。デモ、ワカッタ。アイサツ、ダイジ」
そう言ってアニエラは手を差し出した。
どうやら人魚には握手という文化はないらしい。
これは穣司にはチャンスでもあった。
(よしっ!)
自然と相手に触れられる。これを機に能力を使えば、彼女の有する言語を学習する事も可能だ。流暢にアニエラと会話をする事が出来れば、交流も深まりやすくなる。
「うん、挨拶は大事だね。アニエラ、よろしくね」
「ヨロシク」
差し出された彼女の手を握る。
ついでに能力を使って、彼女の有している言語を抽出した。
濁流のように流れ込んでくる言語知識は、驚く事に複数の言語があった。彼女は若くしてマルチリンガルだった。
穣司は有難く自らの脳に焼き付けた。
――その瞬間の事だった。
アニエラは驚いた表情をして、握った手を払いのけた。
自らの手と、穣司の顔を何度も交互に見比べて、顔を赤くしたり青くしたりと忙しくしている。
何か大切な事を思い出したかのような、そんな表情だ。
「ご、ごめん。何か不味かったかな?」
穣司はアニエラから学習した言葉で謝る。
「あ……あ……。か、帰ります!」
彼女は血相を変えて突然別れを告げた。
海面には既に姿がなく、透視度の高い海でも見えない程に、深くへと潜っていった。
「あちゃー、軽率だったかな」
中学生くらいの少女に手を払いのけられて少しばかり傷付く。
良い感じで人魚との交流が育まれるかと思いきや、空振りに終わった。
この能力に副作用がないのはアンジェリカで実証済みだ。ならば他の問題が発生したのだろうか。
例えば人魚は異種族の男と気軽に触れ合ってはいけない。そんな掟でもあるのかも知れない。
そうであれば、アニエラに済まない事をした。そうでなければ、手を払いのけられた事実が重くのしかかる。なんとも複雑な気分であった。
「人魚には握手の文化はなかったか……。知らない男と手を握ってはいけませんって、掟があったらどうしよう。……かといって追い掛けて謝る訳にもいかないしなぁ」
アニエラは逃げるように去って行った。
ならば追い掛ける訳にはいかない。今の穣司には潜って追いかける事も可能だが、それをすれば余計に彼女を追い込んでしまうだろう。
それにストーカーと思われても厄介だ。人魚界のお知らせに、事案発生の情報が流れてしまえば、恥ずかしくて居た堪れない。
「一石二鳥で言語も習得しようとしたのがいけなかったな……。次から気を付けよう」
溜め息を吐き、ボードの上で正座をする。
異文化コミュニケーションの失敗だ。次はもっと慎重に接しなければいけないだろう。能力による言語習得に頼りすぎて、他者との距離感を誤ってしまった。
謝るべき相手は深海へと去っていった。もしも次があるのなら、その時は謝罪するべきだな、と自省しながら、穣司は波に揺られていた。
しばらく正座しながら、ぼんやりと海を眺める。
水平線の向こうまで陸地はおろか島の影すら見当たらない。
「……何も見えないな。ちゃんと陸地あるのかな? ……なんか腹減ったな」
穣司はこの三日間、何も口にしてなかった。
それどころか休憩する事もなく、嵐の中で延々とパドルを濃いでいたのだ。あまりの楽しさに無我夢中になっていたが、興奮から覚めた今になって、空腹感を覚えた。
「とりあえずランチタイムといきますか」
背中のザックを外して、前に抱えながら胡座をかく。
無造作に手を突っ込んで、玉蜀黍から作られた薄焼きパンとトマーテを取り出して、交互に噛りつく。
味付けなどない単純な味だが、その分だけ野菜本来の美味しさが引き立った。空腹というスパイスも利いているのだろう。いつもより美味しく感じ、あっという間に完食した。
「それにしても高機能過ぎるザックだなこれ」
腹が満たされた穣司はザックの性能に今更気付く。
あれだけスコールや海水を浴びていたにも係らず、中身が濡れていないのは驚きものだ。ザック自体が優れものというガルヴァガの言葉を思い出す。それに身に纏った服も濡れてもいない。
「……ふわぁ。 ……なんか眠くなってきた」
背伸びをして、欠伸をする。
満腹感と精神的な疲れが眠気を誘った。
おそらく寝なくても死ぬ事はないのだろう。それでも睡眠欲がある事には代わりない。それに三日間も寝ていないのだ。穣司は少しばかり横になりたくなった。
「ちょっと休憩しようかな」
ザックを前に抱いて、仰向けに寝転がる。
程よい揺れと、ポカポカとした陽気が心地好い。被ったフードがアイマスク代わりとなり、日差しを遮った。瞼が重くなり、眠気も更に増してくる。
まだ先は長く、時間に制限もない。少しくらい、うたた寝してもいいだろう。
そんな事を考えながら、穣司は気楽にも眠りについた。




