22話 微笑を求めた神獣の追憶
記憶の最奥にあるのは、朗らかに微笑む母の姿だった。
柔らかな笑顔だった。時には困ったようにも笑った。いつも笑顔を絶やさない、優しい女性だった。
テネブラはそんな母の笑顔が好きだった。腰まで伸ばされている、緩やかに波打つような、母の白金の髪が好きだった。自分の銀色の髪と、近い髪色なのが嬉しかった。
母である女神がいて、姉である七人の神獣がいた。それに付き従う様々な種族がいて、様々な動植物もいた。
肌の色が違い、髪の色も違う。体毛のある者、鱗のある者。種族も違い、匂いすら違っていた。それでも争いは生まれず、穏やかな幸福感に包まれていた。
母を中心としたこの世界は、種族の壁を越えて一つに繋がっていた。誰もが満ち足りていた、完成された世界。始まりの地は母と子達の楽園だった。
個人や種族、性別の優劣など、女神の前では些細な事だ。
女神の前においては、生きとし生けるものは平等だった。誰もが平等に愛されていた。誰もが平等に女神を愛した。
この楽園は永遠のものだと思っていた。
テネブラも、姉妹達も、終わりが訪れる事など考えてもいなかった。
だが、終幕の兆しは突然やってくる。
ある時、母はこう言った。
「私は遠い所に行かなくてはならなくなったの。もしかしたら帰ってこられないかも知れない。でも、皆が私の事を信じてくれていたら、絶対に戻ってこれるから。……だから、待っていてね」
その言葉にテネブラは、初めて不安という感情が生まれた。胸の内が暗雲が広がり、言いようのない息苦しさが生じた。このまま離れ離れになってしまうかも知れないと、考えると泣き叫びたくなった。このとき、恐怖という感情も初めて芽生えた。
それでもテネブラは得も言われぬ感情を飲み込んだ。その感情を吐き出せば、母は困るだろうと思った。困ったように笑う母は好きだったが、本当に困らせたりはしたくなかった。
だから母の言葉を信じて待つ他なかった。絶対に戻ってこれるから、という言葉を信じて。
それから少女達は毎日祈った。
すぐ傍に母の笑顔がない。それだけでテネブラは焦燥感に駆られていた。母がこの世界から離れた途端、匂いは届かなくなり、母との繋がりが薄くなった。それがどうしようもなく怖かった。
だから全身全霊を注いで祈る。別れの際に授けられた神器を握り締めて、早く母が帰ってきますようにと、悠遠の彼方に向けて願いを込めた。母の帰りを待つ子供達の想いは一つだった。
それでも母は帰ってこなかった。
幾つもの年月を重ねても、神の座に戻ってくる事はない。神獣の少女達は、祈りを捧げる事しか出来なかった。母の言葉を信じ、待つ事しか出来ない。それだけが全てだった。
しかし、ある日を境に母との繋がりが途絶える。
母の庇護が消失した瞬間でもあった。その日から世界は変わっていった。
女神という唯一の柱を失い、下位の生物は心が脆くなった。
不穏な空気が流れ出し始めた。争いこそ生まれなくとも、種族の間に、溝が生まれはじめていた。種族の壁を越えて一つになっていた全ての者は、いつしか種族の差を感じるようになっていた。
平等になれるのは、神の前においてのみ――だった。
始まりの地は、決して小さい島ではない。
それでも、ありとあらゆる種族が住むには狭い。まだ少数なら内ならどうにかなった。たとえ種族が違おうとも、手を取り合って助け合えた。
しかし次第に人口が増えると、同じ種族で固まって行動するようになり、他人を種族で区別するようになった。他種との交流が薄くなっていき、種族間に壁が生まれていた。
全てが一つに繋がっていた心は、どうしようもなくばらばらだ。それでも争いにならなかったのは、神獣達の影響下にあったからだ。
それ故に光の神獣は、始まりの地を離れる事を決心した。
今はまだ食糧も住居も足りていた。それでもいずれは足りなくなる。足りなくなれば、奪い合いに発展する事は容易に想像出来る。たとえ争いにならなくとも、心に作られ始めている溝は、深まるに違いないと感じていた。
人間は知恵はあるが、魔力は低く、体力も少ない。しかし繁殖力は随一だった。そんな人間達が増えていけば、食糧は足りなくなるのは必然だ。
人間達が増えれば増える程、他種族に行き渡る食糧は減っていく。そうなれば表面には出さなくとも、心の内には不満が溜まってゆくだろう。一度対立心が芽生えると、解きほぐすのは容易ではない。
一番能力の低い人間は無駄飯食らいでしかなかった。それを他の種族達が強く意識する前に、この地を去るべきであると、光の神獣は考えていた。
母が望むのは平穏に包まれた世界。共存共栄の楽園。
このままではいずれ修復不可能な亀裂が生じてしまう。そうなる前に、お互いに離れて暮らすべきなのだ。
そうして光の神獣は人間達を率いて、始まりの地を去り、新天地を求めた。
その流れは伝染し、他の神獣達も次々と始まりの地を去っていった。全てはいずれ帰ってくる母の為。争いを避けたいが故の、その場しのぎの策だった。
そんな中、テネブラと闇妖精だけは、始まりの地に残った。他種族が出てゆくなら、自分達が出ていく必要もない。何よりもテネブラは、自らが生まれたこの地で、母の帰りを待っていたかった。
そして、また幾つもの年月が経った。
いまだ母は帰ってこない。それでも待ち続けた。テネブラには、そのくらいどうという事はなかった。
しかし闇妖精はそうもいかなかった。
住居を兼ねた神殿は力を失い扉を閉ざした。
それだけではなく、作物も実らなくなっていった。始まりの地は黒い霧が漂うようになり、テネブラは時々、記憶が曖昧になっていく。数日前の事ですら、いつの記憶だったのか、分からなくなりはじめた。随分と昔の事に感じるようなる時もあれば、つい最近の事のようにも感じる。それでも食事なしでも生きていられるテネブラには関係のない事だった。何があろうとも、この地で母を待ち続けるだけで良かった。
頑なにこの地を離れようとしない神獣に、闇妖精は危機感を募らすようになった。
そうした経緯を経て、闇妖精達も、始まりの地を離れる事を決意した。神獣とは違い、食糧がなければ、生きてはゆけない。家がなければ、雨風を凌げないし、安心して眠れない。
生きる為には、外の世界に出るしかなかった。幸いな事に、船も数隻残されている。僅かではあったが、水の神獣と、その支配下の生物との交流もあった。出立に不安はない。
世代も変わり、女神の恩恵を知らない闇妖精達は、女神の帰りを待ちながら、ここで朽ちていくという選択肢はなかった。知らない存在を崇拝するよりも、今を生きる事が重要だったのだ。
それからしばらくして、テネブラの意識は覚醒した。
いつものように山の頂きにある、突き出た岩の上で母の帰りを待っていた。始まりの地で一番標高が高く、見晴らしも良い。母がどこに帰還しても、すぐに分かる場所だ。
気が付くと独りぼっちになっていた。
ふと闇妖精達に、この地を去ると言われた事を思い出す。
テネブラは、それを聞いた途端、目の前が真っ赤になった。言いようのない怒りに任せて言い合いをした気もするが、はっきりとは覚えていなかった。随分と昔の事にも感じるし、昨日の事のようにも思えた。記憶が混濁している。
分かるのは、ヒトの姿になれなくなった自分と、闇妖精に渡した神器の事だった。
なぜ大事な物を渡したのか定かでない。あんなに大切な物を渡す筈がないのに、渡してしまっている。その時の状況を思い出そうにも、額が痛く、重くなる。そこでいつの間にか、額から角が生えている事に気付いた。
体毛には乾燥して完全に風化した血が、こびり付いていた。身体を震わせると、血は粉になって飛び散る。それでも血の匂いは僅かだった。かなり昔に浴びた血のようにも思える。
これが自分の血なのか、他者の血なのか分からない。いつ付着したのかも分からない。もはやどうでもよい事だ。
それからまた幾つもの年月が経った気がした。
島に漂う瘴気は随分と濃くなっていた。空気は淀み、草木は変色している。川は毒々しい色になっていた。あれだけ美しかった世界は、酷く汚れていた。
それでも獣の姿に固定されたテネブラは、母の帰りを待つしかなかった。
時々、昔の事を夢に見る。
母がいて、皆もいた幸せな時代だった。
だからテネブラは寝ている時が幸せだった。
とはいえ、いつも幸せな夢とは限らない。
この地ではない何処で、自分が走り回っている夢だった。その夢では、言いようのない怒りに任せて、がむしゃらに走り回っている。どれだけ走っても、目的地に辿り着けない。そんなものは最初から存在している筈がないのに、走り回る夢だった。
そんな夢を見た時に限って、夢から覚めると、全身の体毛は血を浴びていた。既に風化して体毛に張り付いている。いつ浴びたのか分からないが、考えようとすると額が痛くなる。いつの間にか角は更に太く伸びていたが、それもどうでも良かった。
それから幾つもの年月が経った気がしたが、日の感覚もなく、記憶が曖昧なテネブラには、どれだけ経ったのかも分からなかった。考えるだけ無駄であり、頭痛の種にしかならない。
全ては曖昧模糊としていた。
時々、自分が何をしているのか分からなくなる。夢を見ているのか、起きているのさえ分からない。
それでも常に頭の中にあるのは母の姿だった。いつだって、あの微笑みを思い出せられるし、母の帰りを待つ事だけなら、何の問題もない。ただ、少し疲れた気がしていた。
体が不調をきたしているのか、テネブラは吐き気を催すようになった。
堪えきれない不快感に、たまらず嘔吐する、杯に注がれ続けた泥水が溢れるように、こぼれ落ちた。黒くて粘着質な液体だった。
吐き出された嘔吐物は、粘液生物のように蠢き、やがて獣の姿になった。獣の姿のテネブラと似た造形だった。自分に比べると小さな体格ではあったが、妹が出来た気がして、嫌な気分にはならなかった。
意志疎通も出来た。一人ぼっちじゃなくなって、少しだけ嬉しくなる。
それからまた幾つか月日が経つと、夢を見なくなった代わりに、頻繁に吐き気を催すようになった。
何をした訳でもない。何を食べた訳でもない。それなのに日に日に体格は大きくなっていき、体内にはどす黒いもので、はち切れそうになっていった。
本能というべきなのだろうか。感覚的なものではあったが、理由は直ぐに分かった。
闇妖精達が神器を別の用途に使っているのが、手に取るように分かる。殺傷目的で神器に集まる力を使っている。
その分だけ、数えきれない負の感情が、自らに集まってきていた。自我を保つので精一杯だ。自分が何かに汚染されていくのが分かる。
何故そんな事に神器を使っているのか。
何の為にこの地を離れ、様々な種族が別々の道を歩んだのか忘れたのか。争いを避ける為に、この地を離れたというのに、その離れた地で争っているのが、少女は不快でたまらなかった。
そんな事になってしまえば、母は悲しむ。それだけは避けなければならない。なのに身体は言う事を聞いてくれなかった。この地に縛りつけられたかのように重い。
闇妖精達の間違いを正す事も出来ず、ひたすらこの地で耐えるしかなかった。
また幾つか月日が経った気がした。
吐き気は収まり、争いが一先ず収束した事が分かる。
始まりの地は、禍々しい地になっていた。昔の面影はどこにも残っていない。どこまでも広がる蒼穹は、分厚い雲に閉ざされている。
それがテネブラは悲しかった。こんな島を母に見せたくないのに、どうする事も出来ない。ただ、眺めている事しか出来なかった。
だから久し振りの来訪者にすぐに気付けた。
山の頂きの岩からは、海辺もはっきりと見渡せる。そこに一隻の船が、この地に着岸しようとしていた。
すんすんと嗅げば、神器と闇妖精の匂いがした。随分と久しぶりな気もするし、そうじゃない気もした。それでも懐かく感じる匂いに、少しだけ嬉しくなる。どうして渡してしまったのか分からないが、やっと神器が手元に返ってくるのだ。
とはいえ手放しに歓迎する訳もいかない。喧嘩別れをした気もする昔の事はどうでもいい。それよりも神器の間違った使い方に、一言文句をつけなければ、気が済まなかった。
テネブラは山を駆け下りて、闇妖精の下を目指す。不思議と体は軽くなっていた。全力で走ったせいか、ものの数秒で着く。
闇妖精達の前に姿を現すと、彼女達は訝るような目つきで、こちらを見ていた。身体を震わせながらも、噛みついてきそうな気迫も感じられる。
何故そのような態度なのか、テネブラは不快に感じた。噛みつきたいのはこちらだと言いたいが、獣の姿では言葉を発する事が出来ず、グルルと唸り声を上げてしまう。
次の瞬間、闇妖精達の長であるらしき少女が、神器を掲げて何かを叫んだ。
訳が分からなかった。僅かに聞き取れる単語もあったが、何故そんな言葉を使っているのか理解不能だった。それよりも、またもや神器を兵器として使おうとしているのが気に入らない。神器を弾き飛ばして、阻止する必要がある。
だからテネブラは駆けだした。
しかし、それよりも早く女は神器を使用した。
次の瞬間、テネブラは八属性の光の檻に閉じ込められた。
苛立ちを覚えながら、唸り声を上げる。どうにか抜け出そうとするも、上手くいかなかった。
(お前は何がしたい!なんで私に攻撃する!)
理解不能だった。この地を去った闇妖精が戻ってきたと思えば、この仕打ちだ。まさか自分の物である神器で攻撃されるとは思ってもみなかった。相手を閉じ込める用途があるなんて知りもしなかった。
そんなテネブラの困惑に追い討ちをかけるかのように少女は続けて言う。言葉が聞き取れないテネブラは思考を読んだ。闇の神獣と闇妖精との間に繋がりがあるからこそ、なせる芸当でもあった。
『黒き獣よ、鎮まり給え!何故そのように荒ぶるのか? 我らが何の罪を犯したと言うのか?』
『我らはただ、始まりの地とされるこの地に安息を求めて、帰郷しただけなのです』
その言葉を聞いて、テネブラは頭が真っ白になる。
(――え?)
テネブラは涙が溢れた。
闇妖精の守護獣たる自分の存在を忘れ去られていた。先程、聞き取れなかったのも、新たな言語を使っていたからだった。母から教わった言葉を忘れ去ってしまっている。ならば――母の事も忘れたというのか。
(ああ……。だから、おかーさんが、帰ってこないんだ)
きっと、誰も母の事を覚えていない。長命種の闇妖精ですら忘れてしまった。生きとし生ける者は、全ての母である女神ニナを、忘れてしまったに違いない。平穏を愛した母の教えを忘れたからこそ、争いが生まれている。
(信じてって言われていたのに……)
なぜ負の力がこの地に集まってくるのか、テネブラは不思議に思っていた。しかし今になって、ようやくその意味が分かった。
そこら中で争いが起こり、憎悪が連鎖している。だから負の力が溢れていた。なぜ時々、自分が血濡れになっていたのか、はっきりと理解した。
いや、薄々は気付いていた。夢を見ていると自分に言い聞かせ、誤魔化していただけだ。誰も争いを止めていないから、自分がやるしかなかった。
(みんな、おかーさんを、忘れた)
光を司る神獣のメルですら何もしていない。だから負の力が浄化される事もなかった。きっと脆弱な人間すら、争いを起こしている。メルはそれを見て見ぬふりしているとでもいうのか。争いを避けて、この地を去った最初に神獣だというのに。
(……もう、いい。皆死んでしまえ。おかーさんを忘れる奴らなんか、全部壊してやる。そんな奴らしか居ない世界なら要らない。全ての命を奪って、おかーさんに返す)
母の帰りを信じていたのは自分だけだった。
誰も信じていないから、母も帰ってこられなかった。
ぷつりと繋がりが切れてゆくのが分かる。もう何もかもが憎らしかった。内なる憎悪に身を焦がし、集まる負の力に身を委ねた。視界は薄れていき、自分の体が自分のものではなくなっていく。
――そうしてテネブラは、終わりをもたらす神獣となる。
憎悪を焦がす凶獣の内から、テネブラは外の世界をぼんやりと眺める。靄のかかる暗闇の底から、闇妖精の長の少女が、突き刺され、地に叩き付けられるのが微かに映った。
妹ともいえる黒い影は、逃げた者を追い掛けていった。死を与えるのに数秒もいらないだろう。もう闇妖精すら、どうでも良い存在だ。死ねばいい。
このまま全てを終わらせてゆく。
まずは海を汚染して海洋性物を死に至らしめる。次は陸上生物を鏖殺する。時間など掛けない。殺せば殺す程、負の力は集まり、更に力は増していく。妹達の数も増えていく。それが闇の力。既に光と闇の拮抗は崩れていた。浄化の光が働かないのなら、世界は闇に染まるだけだ。
そんな時、懐かしい匂いを感じた。
憎悪を焦がす凶獣の身体ですら、神々しさを感じ取り、歩みは止まる。
(おかーさん!?)
まさか、そんな。
空を見上げると、穿たれた雲の間から、何かが降りてくるのが分かった。懐かしい匂いを感じる。神の降臨だとすぐに分かった。
身体から力が抜けてゆく。母の姿を確かめたくても、身体が言う事を聞いてくれなかった。
全速力で駆けて、匂いの元まで行きたかった。しかし今の現状を知られるのが恐ろしい。自分の仕出かした事を見られるのが怖かった。
テネブラは溢れ出す憎悪を抑え込み、恐る恐るといった様子で、匂いの元に向かう。
覚束無い足取りで辿り着くと、あの女が息を吹き返していた。生半可な魔法では治癒する事も出来ない怪我の筈だ。なにせ殆ど死んでいたのだ。光のメルですら治癒するのは難しい傷だった。
そんな傷を癒せるの神しかいない。やはり母が帰ってきてくれたのだ。
しかし母はいなかった。母と同じ匂いのする、知らない男の人がいるだけだった。
(おかーさん……じゃない?この人は誰?)
その気の緩みが、抑え込んでいた憎悪に、主導権を奪われた。
意識は再び暗闇の底に追いやられる。
生き返ったのなら、再び殺すだけ。憎悪を焦がしている身体を止まらなかった。
(待って!止まって!)
そう叫ぶも、テネブラは見ている事しか出来なかった。身体は女を刺し殺さんと向かっていった。
しかし、直ぐにそれは止められる。
いつの間にか、あの男の人が目の前に立っていた。
角を掴まれて身体が前のめりになる。衝撃は全て跳ね返ってきた。次元の違う力だった。まさしく神の力。溢れ出る憎悪は、音を立てながら浄化してゆく。身体は縮んでいき、妹達も一瞬にして消えた。
ようやく主導権が戻ってきたテネブラは恐怖を覚えた。
母と同じ匂い。母に似た力を持つ男の人。これが何を意味するのか理解した。いつか母が言っていた言葉を思い出す。
(……おとーさん?)
遠い所に行っていると聞かされた父親だ。そんな人に攻撃を仕掛けてしまった。たとえ自らの意志ではなくとも、許されざる行為だ。
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)
テネブラは泣き叫び、懺悔する。それも鳴き声にしかならなかった。
闇妖精を殺そうとした。怒りに身を任せて、世界を壊そうとしてしまった。そして、初めて会う父が、治癒した闇妖精を、再び殺そうとしてしまった。
謝るのは制裁が怖いからではなかった。失望されるのが恐ろしかった。母が愛したものを壊そうとして、父の意志まで背いてしまった。振り上げた拳で殴られても仕方がないと考えていた。
しかし振り上げた拳は振り抜かれる事はなく、力なく垂れ下がった。
そうして父は、忘れ去られた言葉ではなく、テネブラの知っている言葉で何かを言った。自分の事で精一杯のテネブラには何を言ったのか聞き取れなかった。それでも悲しげな表情の父を見ると胸が張り裂けそうになる。
その直後に温かな光に包まれた。
懐かしかった。母に抱き締められる優しい匂いと同じだった。温かな光が心の奥に残る闇を打ち払っていくのが分かる。ああ、やっぱりおとーさんなんだ、とテネブラは感じた。
光が消えると世界は一変していた。
負の力が集まり、禍々しく汚れていた始まりの地は、あの頃のような美しさを取り戻していた。空は青く、緑の匂いが鼻腔をくすぐる。浄化された世界だった。
すんすんと鼻を鳴らして嗅ぐと、懐かしい濃い匂いがした。
母と同じ優しい匂いだ。これが父親の匂いなんだと思うとテネブラは嬉しくなる。
そして頬をつままれながら、父は困ったような笑顔を見せた。悪戯をする子供を窘めるような表情だった。その笑い方が、母とそっくりで、テネブラは涙が溢れる。
嬉しかった。ずっと待っていた。
母はまだ帰ってこないけれど、その代わりに父が帰ってきてくれた。一人ぼっちになろうとも、皆が母を忘れてしまおうとも、ずっと信じて待ち続けていた。気の遠くなるような年月を経た先に、初めて父親と出会えた。
神の力を感じるだけで幸福感に満ち溢れた。この世界に存在してくれる事が、どれだけ有難い事なのだろうか。
あまりの嬉しさに尻尾どころか尻まで振ってしまう。言葉を喋りたくても喋れない。父を舐め回す事でしか、喜びを表現する事が出来なかった。喜々とした感情が極みに達して、下半身の力が緩くなる。
あとは母が帰ってくれば完全なる真の世界になる。既に歪んでしまった世界だけれど、父ならきっと何とかしてくれる。テネブラは確信めいた予感がした。
父は神器を拾い上げて、神の力を空に放った。
光が八つに別れて、空に飛び去ってゆく。その内の一つが自分に降り注いだ。
失った力が戻ってくる。ヒトの姿になれなくなって久しかった。随分と長い間、獣の姿だった。力を与えられて、昔の頃のようにヒトの姿に戻れる気配がする。
もしかすると姉達にも異変が起こっていたのかも知れない。それでも、きっと問題ないとテネブラは思った。他ならぬ父が帰ってきてくれたのだから。
止まってしまった時間が再び動き出す。
闇妖精達も神を知覚して、敬う事を思い出した。
(おかーさんが言っていた事は、この事だったんだ)
全ての起こりは神から始まった。
世界が再び動き始めるのも、また神から始まる。待ち続ける事は辛かったが、それも今日で終わりだ。
母が愛した世界を、父が救ってくれるのだから。
(皆にも、おとーさんに会ってもらいたいな)
待ち続けていたテネブラはようやく救われた。
幾万もの長い時を経て、ようやく心に平穏が訪れたのだった。
次から章が変わります




