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2話 自由の旅へ

 夜の帳も完全に落ち、本来なら寝静まっているこの住宅地も、今夜ばかりは明かりの灯っている家がいつもより多い。

 家族、恋人、あるいは友人達と新たな年を迎えられた喜びを分かち合っているのだろう。町全体がどこか浮かれている雰囲気が漂っていた。だが、その町にも異質なものがあった。


 改築や建て直しが増えつつある住宅地の一角に、時代に取り残されたかのような、昭和の匂いを残した木造平屋の一戸建て住宅がある。

 その家主である武久穣司は独身であった。最近では友達付き合いも減っていて、例年通りであれば独りで静かに酒を飲み、年越しの瞬間を待たずに眠りについていた。

 しかし、今年はどうやら違うらしい。深夜0時を回っても談笑している声が外にも漏れていた。


「いやぁ、今まで飲んだものとは比べ物になららいくらい旨いれすね」


「ガハハッ。そうであろう!? なんといっても儂の秘蔵の酒だからの! さぁさぁもっと飲め」


「いやぁ、すいませんね。いたらきます。っと、返杯しなきゃ失礼すね。どうぞどうぞ」



 この家主の相手はガルヴァガと名乗る筋骨隆々の老人である。

 先程までは二人は初対面であり、酒を飲み交わす間柄ではなかった。しかし、成り行きで半ば強引にガルヴァガを招き入れる事になり、土産である秘蔵の酒を飲む事になったのである。


 ――そして、その土産の酒を取り出す姿に唖然とする。


 ガルヴァガが虚空に手を伸ばすと、まるで水面に波紋が浮かぶように、空気が波打った。手はその先に沈み込み、そこから黄金に輝く酒瓶と酒器を取り出したのであった。


 その姿はどう見ても、この世界の常識の範疇を越えていた。

 虚空から物を取り出すなんて目を疑う光景である。だからこそ秘蔵の酒という言葉には余計に好奇心がそそられた。

 それはおそらく神界の酒。人の世とは遠く離れた世界で作られた酒とは一体どのような味なのか、と。

 そうして警戒心を少し残したまま、好奇心に負けてその秘蔵の酒を口にする事になったのである。


 だが、酒の味は想像以上に美味で、警戒心など吹き飛んでしまう程の代物であった。


 肉厚で重みのある味わいで、爽やかな丸みのある滑らかな風味。胃に到達すれば熱が体全体に行き渡り、微弱電流が体内を駆け巡るかのような快感さえ感じられ、得もいえぬ幸福感に満ち足りた気持ちになる不思議な酒であった。

 しかし、その病み付きになる神酒は度数も高い代物であった。元々酩酊気味に酔っていた穣司は、三杯四杯と飲んでいるうちに、呂律もすっかり回らなくなる程であった。


 そして今に至る。


「ところで、ジョージよ。今の生活に満足しておるか?」


 朗らかな笑みを残したまま、どこか厳かな口調でガルヴァガは言った。それまでの他愛のない雑談とは違い、本題を切り出したかのようであった。


「なんれすかいきなり? まぁ満足っちゃ満足れすよ。衣食住は足りてますからね」


「ふむ、では言い方を変えようか。まだ、やりたい事があるのではないか? いや、また欲が出てきたと言うべきか」


「それは……」


 穣司は思わず言葉に詰まった。

 今の生活には満足していたつもりである。長年の夢だった事も叶えた。だからこそ今の生活を他人にどう思われようと気にする事はなかった。しかし――


「欲というものは際限がないからの。一つ叶えれば、また違う欲が生まれるものよ」


「……そう、れすね」


 穣司もまたその通りであった。

 夢を叶えた直後は幸福感も優越感もあった。しかし欲望は時が経てば、また涌き出るものだ。だが、その欲求を満たせるかと言えばそうでもない。


「ジョージはまた旅に出たいのではないか? この世界でも旅をして回ったのであろう。自由気ままに行きたい所へ行く。そんな旅を――な」


「何で知って……ああ、見ていたんでしたっけね。そりゃ、行きたいですよ。 でもね、この歳で仕事を辞めて、また旅に出るなんて難しいんです。再就職らって大変らったんれすから」


 穣司は1年半ほど海外を放浪していた事があった。決して自分探しの旅などではない。ただ気ままに、そして風の吹くままに、自由に旅をするのが夢だったのである。

 きっかけは少年時代に放送していた、芸人がヒッチハイクで大陸を横断する番組だ。その番組を毎週楽しみにしていて、いつか自分も旅に出てみたいという夢が膨らんだ。

 それからは海外特集の旅番組は欠かさず見るようになり、いつか自分も旅立つ事を夢見て、バックパッカーのバイブルとも呼ばれている小説を何度も読み返した事もあった。


 そうして紆余曲折を経て、26歳の時にようやく旅に出たのである。偶然にもその小説の作家が、旅に出た年齢と同じだった。


 だが、帰国してからは苦労の連続であった。再就職も上手くいかず、アルバイトをしながら職探しをして食いつないでいた。

 アルバイト先では年下の先輩に顎で使われる事もあった。だが、夢を叶えたという満足感もあり、我慢する事も訳はなかった。そうした先でようやく就職先が決まったのだ。今さら仕事を辞める気にもなれなかったのだ。


「……そうか。ならばこの世界の誰もが行った事のない――そうだな、異世界に旅立てるとしても難しいか?」


「い、異世界?」


「うむ。言葉の通り、異なる世界だ。もしもその世界にジョージが行くのであれば地球人として初の事になるであろう。――そして、そんな世界を気ままに旅をする。どうだ、心焦がれんか?」


「地球人初の旅人……って、いやいやいや! いくら俺が酔っているからといって、そんな絵空事みたいな話を信じるとでも――」


 思っているんですか? と、続ける事は出来なかった。それは目の前にいる存在こそが、穣司にとって異世界の住人と同様のものだったからだ。


「えっと、本当に異世界がある……? ち、ちなみにその異世界の治安はどうなっていますか? 行った瞬間に拉致されたり、殺されたりしないですよね? それに言葉だって――」


 異世界なんて考えた事もなかった。それに旅人というものは、他の誰もが経験した事のないような旅を、望んでいる節もある。だからこそ異世界旅なんてものに、心が揺れ動かされない訳がない。

 とはいえ、今さら無謀な旅をするつもりはない。何の情報もなく危険地帯に入り込んでしまうような真似は避けたいのだ。この世界でも、知らなかったで済まされない地域はいくらでもある。


 期待と不安が入り交じり狼狽する穣司を見て、ガルヴァガ一度目を瞑って頷き、感心した様子でこう言った。


「ふむ、そうだな。心配いらぬと断言する。が、酒の席では信憑性も薄れるであろうし、ここらへんで酒を抜いて真面目な話にするかの」


 ガルヴァガが手をかざすと、優しい淡い光がふわりと穣司に降り注ぎ、身体に溶け込んでゆく。

 先程まで乱れていた感情は、すっかり落ち着きを取り戻し、泥酔感すら完全に消え失せ、素面に戻っていた。


「酔いが消えた? これは一体……」


「なに、少しばかり力を使っただけよ。解毒の力を使えば酒精も抜けるだろうからの。ついでに心も落ち着せたが、気分はどうだ?」


「え……あ、はい。大丈夫です」


 すうっと潮が引いていくかの如く、穣司の心は落ち着きを取り戻していた。まるで悟りを開いたかのような気分であり、何も取り繕ろう事のない心情でもあった。それは賢者タイムと呼ばれているものに近い感覚である。


「ならばよし。ジョージが身の心配をするのは分かる。その身体で簡単に命を落としてしまう危険性があろうからな」


「まあ、それはそうでしょうね」


「――だからこそ儂の力を授けようと思っている」


 ガルヴァガは一呼吸置いた後に、続けてこう言った。


「ジョージに行ってもらいたい世界は、儂より位の低い神が作った世界だからの。それ故に儂を上回るような存在は、そこにはおらぬ。そして儂の力を授かった時点で、その世界では最上位の存在になったも同然だ。現地の者から殺される事はおろか傷一つ負う事はあるまいて。どのような大魔法であっても完全抵抗(レジスト)するであろう。大空を自由に舞う事も出来るし、負傷者はおろか死者も蘇生出来よう。まあ一言で言うならば、ジョージの創造する事を具現化させる力だ。それに言語に不自由もないようにするし、身支度もこちらで用意しよう。もちろん換金できそうな物も用意する」


 それはまさに完全無欠の力である。

 どのような理不尽な暴力にも屈する事なく、現代であれば退避勧告の出ている危険地帯でも、鼻歌気分で散策できる程の力だ。それは何事にも脅かされる事もなく、自由に旅を出来る力でもあった。


 だからこそ疑問が湧く。


「なぜそこまでして下さるんですか」


 なんと言うべきかと、ガルヴァガは眉間に皺を寄せて思案した後に、杯に残った酒を一気に飲み干し、そして答える。


「……まぁ、そのなんだ。その世界は儂の姪のニナが創造した世界なのだが、今は深い眠りについたまま起きる気配がないのだ。――そこでだ、原因の一端でも分かればと、ジョージに世界の様子を窺ってきてほしいと思っておる。だから簡単に命を落とされては困るのだ」


「なるほど、そういう事だったんですね。あ、でも俺に何か、お使いでもさせるつもりですか?」


 尚も淡々とした口調で穣司は尋ねる。感情の起伏が少なくなっている事に違和感も覚えなかった。


「いや、何かをさせるつもりはない。ジョージは気兼ねなく何十年でも気ままに旅をすればいい。無意味な殺戮は控えてもらいたいところだが、仮にそのような事をしたからと言って咎めるつもりはない。自由に旅をして見たままの感想を伝えてもらえば良いのだ。後はこちらで勝手に咀嚼するでの」


「さすがに殺戮どころか人殺しもするつもりはないですよ。それに食べる目的以外で生き物を殺す趣味はありませんし。でも、このままだと至れり尽くせりで逆に怖いです。何かデメリットもあるなら包み隠さず教えていただけませんか?」


「デメリットと言えるのか分からぬが、儂が力を授けている間は時間から切り離されるから不老になる」


 どこか気後れしたような態度で、ガルヴァガはポツリと答えた。


「不老ですか。メリットともデメリットとも思えますね。他には?」


 しかし、さほど気にしてない様子で穣司は言葉を返す。


「あとはその、なんと言えばいいかのう。生物としての強い欲求の一つなんだが――済まぬが性欲は制限させてもらう事になる」


 ガルヴァガは言い淀みながら答えた。

 その言葉に穣司は僅かに逡巡する。目を瞑り、胸の内に眠るわだかまりを深い吐息で吐き出した。


「性欲……ですか」


「う、うむ。儂の力を授かれば神の領域に踏み込む事になり、有り体に言えば半神になるからの。その体で子種でも残そうなら、後々に世界の均衡が崩れるであろう。ジョージだけならともかく、それ以外の者まで儂の力の一端を与えるつもりはないのでな。まぁ性欲がなくなるのは雄としては辛いかも知れぬが――」


「……その程度の事なんですか。思ったより軽いデメリットですね」


 疲れた笑みで穣司は答える。

 今の穣司からすると、その程度でしかなかった。


「不能になるのだぞ? 性的欲求を微塵に感じなくなるのだぞ?」


「ええ、問題ないですよ」


 どこか吹っ切れた様子の穣司は、はっきりとした声で即答する。

 異世界の女性と一夜を過ごしてみたいという気持ちがないと言えば嘘になる。だが、こちらの世界で旅をしていた時も、そのような嬉しい出来事(イベント)は全くなかった。それどころか性に強い忌避感を焼き付けられた思い出もある。


 それに今の生活でも女性と接点が薄く、肌を合わせる機会もない枯れたような日々を過ごしているのである。今更そのような事をデメリットとも感じなかった。むしろ性欲処理に困らなくなるのなら、それはそれで気が楽になるのものだ。悶々とした気持ちのまま旅をするのは辛くもあり、心から身体が剥離したようで、苛立ちを覚える事もあった。


「うむ、それなら良いのだが。――で、どうだ? 行ってみてはくれんか?」


 迷いのない穣司を目の当たりにしたガルヴァガは、納得するかのよう小さく頷く。


「……そうですね。帰ってきてからの生活には不安がありますが、それはまぁ、なるようになるでしょう。それにこんな機会は二度とないでしょうから、私としても是非ともお願いしたいと思っています」


「おお! 行ってくれるか!! では善は急げだ。儂がこうしてこの世界に留まっていられる時間もあまり長くはないのでな。早速だが支度をするとしよう」


「えっ、ちょ!? 今からですか? さすがに職場に何も伝えずに突然辞めるのは問題がありますよ」


 いきなりの事に穣司は戸惑いながら言う。

 さすがに無断欠勤は避けたかった。会社にも迷惑が掛かるし、なにより失踪した事にでもなれば大事である。


「それについては安心するが良い。この世界からも切り離されるから、戻ってきたとしても時間の経過はない。ジョージは安心して旅立つがよい」


「それは……凄いですね。帰ってきても失業者にならないなら、何の憂いもなく旅が出来ます」


 不思議と疑問に思う気にはなれなかった。

 ガルヴァガにそう思わせる何があるのか、はたまた別の力が働いているのか分からなかったが、穣司は素直に受け取った。


「では【能力(ちから)】【言語知識(ことば)】を授けよう。それから旅装束と身支度もな」


 ガルヴァガが再び手をかざすと、煌々とした光が穣司を包み込む。その姿は絵画に描かれているような神々しさだった。


 ――そして、変化が訪れる。


「力が……漲っていく」


 それはガルヴァガのように筋骨隆々の姿になった訳ではなく、身体的な見た目には変化はなかった。

 しかし、言い得ぬ力の奔流が身体を駆け巡っていた。全能感を感じてしまう程の、ほとばしる絶対的な力である。


 そのあまりにも強烈な力に驚いたせいか、服装にも変化があった事に遅れて気付く。


「服はちょっと変わった修道士みたいな感じですね。それに、この何の革かよく分からない革製のザックも渋くて良いです」


 上下セットのスウェットに半纏を羽織るという、日本の冬の定番の部屋着スタイルから、一瞬で白を基調としたフード付きのケープに、くるぶし丈のローブのような服に変わったのである。

 足下に用意されたザックは、目測で90Lはありそうなサイズだ。柔らかく滑らかな革製で、現代のザックのように腰ベルトまで付いていた。


「それで巡礼者とでも自称して旅をすれば、訝る者は少なかろうて。そして金銭に替えられそうな物は背嚢に入れておる。背嚢そのものも優れものだが、それは自らの手で追々確かめてみるといいだろう」


「そういう事なら後のお楽しみにしておきます」


 そうしてザックを背負い、腰ベルトを締める。

 オーダーメイドのように体にフィットしていて、まるで昔から使っていたかのように体に馴染んでいた。不思議と重量感は感じられず羽根のように軽い。これも優れもの理由の一つなのかなと「おお」と小さく感嘆の声をあげていた。


「では、異世界へ送ろう」


「お願いします!」


 そうして穣司の身体は、煌く粒子となって、霧散するかのように消えていった。

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