18話 誘われるは安らぎの夢
子供が屈むと姿が隠れてしまうような、青々しく茂った草むらで、褐色の幼い少女は安らかな寝息を立てていた。銀色の長い髪が痛む事も気にならないのか、敷き布のように髪の上に体を乗せている。穏やかに眠る少女の口元からは涎が垂れていた。
義務も責任もなければ使命もない。遊び疲れて眠る子供そのものだった。その少女は鞘に収められた短剣を宝物のように抱き締めていた。
アンジェリカは、この髪の長い少女が、幼い頃の自分である事に気付いた。
ダークエルフの女にとって、長い髪は未婚の証である。しかしアンジェリカは神に身を捧げると誓ったあの日から、自らの手によって髪を切り捨てた。この身は神の為に在るという意思表示であり、己の弱さを捨てる儀式的な行為でもあった。故にこの幼い少女は、信仰に目覚める前の自分なのだと認識する。
そして大森林が不自然なまでに穏やかだ。自身が幼い頃には既に戦火が燻っていたのだ。無知だった幼き頃の自分とはいえ、こんな所で昼寝をする筈がなかった。だからこれは夢なのだと、アンジェリカは感じていた。
それを証明するように、近付こうにも体が言うことを聞いてくれず、声もうまく出せなかった。まるで体が自分のものではなくなったかのような感覚だ。
そんなアンジェリカは数歩離れた場所から幼き自分を眺めていた。
何で今さらこんな夢を、とは感じなかった。不思議と心は満ち足りていて、身体は羽根のように軽く感じられた。軽すぎて思うままに動かせない程でもある。
ふと気が付けば、白い衣装を身に纏った男が、幼い少女の横で膝をついて屈んでいた。
「おはよう、アンジェリカ。こんなところで寝たら風邪をひいちゃうよ」
男は慈愛に満ちた微笑みで、幼い少女の頭を撫でながら、柔らかな声で言った。
「うう……。おはようございます、ジョージ様。私、まだ眠いから、抱っこ……して下さい」
幼い少女は寝惚け眼のまま、両手を広げて、緩んだ笑顔でおねだりする。
「あはは、アンジェリカは甘えん坊さんだなぁ」
男は幼い少女の手を掴んで起こすと、一度抱き寄せる。くしゃくしゃになった長い髪を、撫でるようにして手櫛でとかした。それから抱き抱え、立ち上がる。
幼い少女は幸せそうな笑みを浮かべてから、再び眠りにつこうと目を瞑る。憂いのない、満ち足りた表情だった。
大地を踏み締める複数の音と同時に、懐かしい声が聞こえてくる。
「申し訳ありませんジョージ様、うちの娘が甘えてしまって」
「あらあら、この子ったらジョージ様に抱っこしてもらいたくて、こんなところで寝ているのかしら?」
「そうだねぇ。この子はジョージ様が大好きだからねぇ」
アンジェリカは久しぶりにその声を聞いて心が温かくなる。
申し訳なさそうに詫びる父と、呆れたように笑う母。そしていつでも優しかった祖母の声だ。そのいずれの声も、現実では二度と聞く事は出来ない。夢の中でしか届かない所へと行ってしまった。
アンジェリカは急に視界が狭まる。
夢から覚める兆しなのか。あるいは感極まって無自覚に涙したのか。
ふと気が付けば、幼い少女の中に入っていた。少女の瞳を通して、大人達の穏やかな表情が映る。何も押し付ける事のない自然な笑みだ。それがひどく懐かしく感じた。
アンジェリカは嬉々とした感情を抱いている幼い少女に身を委ね、大好きな人達な甘えようとする心に同化してゆく。子供の人格と、大人ならざるを得なかった人格が、混ざりあって一つになろうとしていた。
常日頃から感じていた圧迫感にも似ていた重みは、暖かな陽射しを浴びて解ける雪のように消えていった。
「うん!ジョージ様大好き!」
幼い少女は締まりのない、にへら顔で、心のまま素直に感情をぶつけていた。
そんな幼い少女の事を、家族は慈しむような眼差しで見守っている。白い衣装の男は困ったような笑みを浮かべていた。
手を伸ばしても決して届く事のない光景は、眩い光に包まれて消えてゆく。それでも寂寥感はなかった。これが水沫の夢だと分かっていても、いつまでもこうして安らぎを感じられる気がした。心の奥底で封をして押し込めた物が溢れ出る。
――ああ、早く起きてしまいたい。大好きな人と、お話がしたい。
アンジェリカの瞳はすっと開いた。眠りと覚醒の狭間で微睡む事もなく、綺麗さっぱり意識は覚醒していた。
随分と長い時間眠っていた感覚がある。それでも気怠さはなく、重荷を下ろしたばかりのように、清々しい気分だった。
良い夢を見ていた。幼い少女が大好きな人に抱き抱えられ、大好きな家族に見守られる夢だった。その温もりが現実に引き戻されても尚、身体に残っている。
夢の中の大好きな人が見せた、慈愛に満ちた眼差しを思い出し、顔がだらしなく緩んでいくのが、アンジェリカ自身にも分かった。
「夢の中だとしてもジョージ様に抱っこされるなんて羨ましいなぁ……え、あれ?私はジョージ様の事が……あぁあ!?」
アンジェリカは巣っ頓狂な声をあげ、顔を真っ赤に染めた。
夢の中の幼き自分は、神に大好きだと伝えた。それが自分の意志でもあった事に気が付き、アンジェリカは悶える。両手で顔を覆ったまま、ごろごろと寝転がり、ベッドから落ちて「あ痛っ」と声をあげる。
神に身を心も捧げているつもりであった。愛し、敬うと誓っていたのだ。しかし、今になって愛するという言葉の意味が分かった気がした。家族に向ける愛と、神に捧げる愛。それとは別に芽生えた、愛しているという感情。
救いの神だからではなく、神を一人の男性として愛してしまっている。だから夢の中の幼き自分は、その感情を素直にぶつけていたのだ。胸のうちに生まれていた恋心を、ようやく自覚したアンジェリカは、胸の鼓動が止まらなかった。
「えっと、どうしたらいいんだろう、どうしたらいんだろう!」
アンジェリカは起き上がり、室内を忙しなく歩き回る。
こんな感情を抱くのは生まれて初めての事だった。そのせいか、この感情を持て余していた。そわそわして落ち着けず、とにかく体を動かしていないと、どうにかなりそうだった。でなければ、大好きですと、愛を叫びそうになる。
室内を行ったり来たりしていると、薄紫色に光っている玉が目に入った。近づいてみると、縦三列、横八列に繋がれた玉が、壁に吊り下げられている。
「あれ、これって?」
感情の高ぶりを感じながらも、アンジェリカは両方の掌を開く。左手には光火土水の属性を宿す光が現れ、右手には風氷雷闇を宿す光が現れる。その八属性のうちの雷の属性が、一際強く薄紫色に輝いた。その色は壁に吊り下がっている玉と同じだった。
「今は雷時間の六の刻ね。という事はこの玉は時刻を表しているのかしら?」
ダークエルフはこうして、おおよその時間を計っていた。
日付が変わり、新たな一日の始まりは、光、火、土、水、風、氷、雷、闇の順に時間が経過してゆく。三巡すると一日の終わりである。
一巡する毎に光は少しずつ弱くなっていき、三巡目にもなると光は今にも消えそうな、弱々しい輝きになる。
地球でいうところの、日付が変わる深夜0時が、この世界でいうところの一巡目の光時間にあたるのだ。深夜0時はダークエルフには、光時間の零の刻と言い方になる。雷時間の六の刻は朝6時と同じであり、奇しくも地球と似かよった24時制で考えられていた。
時刻の確認をしたところで、アンジェリカは浮わついた心は鎮まらなかった。深呼吸をして落ち着かせようとすると、好ましい匂いが鼻腔をくすぐる。その正体がすぐさま思い浮かんでしまい、むせてしまう。
「これは……ジョージ様の匂い!」
意識して匂った事もないのに、それが神の匂いだとすぐに分かった。テネブラが匂いで分かると言っていた意味を理解する。
神獣だからそういった事が分かるのだろうと思っていたが、まさか自分自身も分かるようになるとは、アンジェリカは思ってもみなかった。
すんすんと鼻を鳴らし、匂いの元を辿ってしまう。部屋を出て、階段を上る。入口の大広間に辿りつくと、濃い匂いが外から漂ってきていた。
匂いにつられて外に出てみると、太陽が顔を覗かせていた。夜は明けて、すっかり朝になっている。まるでこの匂いは、お日様の香りであると、言わんばかりだ。やはりあの御方は太陽の化身なのだと、改めて実感した。どんなに世界が暗くなろうとも、必ず照してくれるのだから。
匂いが急激に近付いてくる。アンジェリカは我にかえり、嬉しさと恥ずかしさが、急に込み上げてきて、思わず建物内に入る。何度も深呼吸をして落ち着こうとするが、大好きな人の香りで胸が一杯になり、余計に気持ちは高ぶった。
程なくして、神獣に跨がる男神が建物内に入ってくる。
ああ、なんて神々しい姿なのだろうかと、アンジェリカは息を飲み、見惚ける。それでもどうにか己を取り戻し、何事もなかったかのように挨拶をする。
すると男神は挨拶してから、昨日の事を詫びた。
感謝する事はあっても、詫びられる事は何もなかった。
大人達に叱咤される事はあっても、激励される事など、ティア以外にはいなかった。だから、それが当たり前なのだと思っていた。自分が他者より優れた魔力を持っているからこそ、己を犠牲にしてでも、率いていかなければならないと思っていた。頑張れなんて優しい言葉は掛けられた事もない。
だからこそ「アンジェリカは凄く頑張ったんだよ」と言われた時は堪えきれなくなった。今までの自分を行いを、認められた気がして、溢れ出る涙が止まらなくなった。もしも謝るとするのなら、子供のように縋り付いて、泣きわめいた自分の方なのにと、アンジェリカは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
それ故にアンジェリカは、男神の言葉を慌てて否定した。
口から出る言葉はいつもと口調が違っていたが、不思議と違和感はなかった。
その直後、アンジェリカは神に両肩を掴まれる。熱を帯びた真剣な眼差しで見つめられ、自身の顔が熱された鉄のように赤くなるのが分かった。
心臓は更に激しく鼓動して、言葉も滑らかに出せなかった。
ほのかな期待感と、湧き上がる恥じらいが、氾濫する。胸が痛くて息苦しいけれど嫌ではなかった。むしろ、もっと見つめられていたいと、思ってしまう程でもあった。
しかしながら、アンジェリカはこういった時にどうすればよいのか分からなかった。あまりに知識が足りていなかった。
目を瞑ってしまえば、その熱い眼差しから、遠ざかってしまう。しかし、こういった場合は目を瞑り、身を委ねるべきなのでは?とも思えた。それからどうなるのだろう。これから何がはじまるのだろう。口と口を重ね合わせるのだろうか。などと考えれば考える程、アンジェリカの心は、感情の熱が高まった。
男女の契り。その言葉の意味を知らないアンジェリカではあったが、なぜかそんな言葉が思い浮かんだ。
そんな矢先、神はすっと手を離した。アンジェリカは、無自覚に「あっ」と声を漏らしてしまう。
それでも気持ちは萎まなかった。寸止めされたからなのか、むしろ感情は更に高まった。息は荒く、体を火照る。アンジェリカは愛を叫びたくなる。
しかし、そんな状態のアンジェリカを鎮める言葉が、男神から放たれる。
「大事な話がある」と重々しい口調だった。これから別れを告げるような雰囲気も感じられる。凛とした空気が張り詰め、誰もが息を飲んだ。
アンジェリカは一転して、心臓が止まる思いだった。
まさか天上の世界に帰ってしまわれる?そんな悪い予感が頭に過る。救われた恩を返してもいない。それに夢の中の幼い自分のように、心の内を明かしていなかった。
嫌です、帰らない下さい。そんな懇願ともいえる願いが、喉元にせりあがる。
だがしかし、幸運にも別れを告げるものではなかった。
男神の口から出たものは、世界を創造したのは女神ニナであり、今は病に伏せているという事であった。その原因を探るために世界を跨いできたのだという。加えて男神は、自分は女神ニナの親族であり、崇めるならニナにして欲しいとも言った。
親族であると、控えめな表現で言っているが、それが家族を意味していると、直ぐに理解した。妻である女神が作った世界だから、謙った言い方をしたのだろう。気遣いと優しさが垣間見える。
これが初耳ならば、衝撃を受けただろう。事実として、神の存在を知ってはいても、女神ニナの名は忘れ去られてしまっていたのだから。
それを心配しているのか、地上に生きる者が、女神ニナの事を忘れてしまったのではないかと、男神は危惧していた。もしも知らないままであったのなら、男神は悲しんだのかもしれない。
しかし事前に、創造神である女神ニナの名と、その夫である男神の存在を、神獣に聞かされていた。だから、アンジェリカ達は落ち着いていられる事も出来た。
とは言え、女神ニナが病に伏せているとは知らなかった。神獣も同様だったようで、心配そうに男神を見上げている。それでも、アンジェリカは絶望的な気分は抱かなかった。妻の為に世界を跨ぐという、高次元な事を出来る存在が、こうして降臨しているのだ。
だからこそアンジェリカは、女神の事も知っていると答えた。
正直なところ、先日まで知らなかった事ではあるが、それでも男神の悲しむ顔は見たくなかった。嘘に近い返答ではあったが、それで良かったのかも知れない。
男神はその言葉の後に、女神ニナは世界で最も大切な存在であると、公言したのだ。世界を跨ぐ事の出来る男神にとって、女神ニナはありとあらゆる世界で、最も大切な存在なのだろう。そんな女神の存在を、地上に生きる者が、忘れてしまっていたら、きっと男神は悲しむ。それこそ、この世界に住まう、地上の者を見限ってしまうかも知れない。
後ろめたさを感じながらも、アンジェリカはそこまで愛されている女神が羨ましくも感じた。
神がどのような生活をしているのか、地上を生きる者には知る由もないが、もしかすると神の夫婦にとって、この世界は家同然なのかも知れない。
種族や生物によっても違うが、雄は狩りに出かけて、雌は家を守っている事もある。すなわち男神は狩りに似た行為のために、この世界を離れていたのかも知れない。だから長らく不在だったのだろう。それで世界に帰ってくると、妻が病床に伏せていたのを知ったのだ。
夫婦の愛。そう考えると胸が暖かくなる。
どれだけ男神を愛してしまっても、低次元な存在である自分が入る余地は皆無だ。愛していますと、言葉を口にするだけでも烏滸がましいと、昨日までの自分なら、きっと己の心を戒めていた。
しかし今日からのアンジェリカは違う。
夫婦の深い絆を知っても、気持ちが萎れる事はなかった。逆に神と自分が結ばれる事は決してないのだと吹っ切れた。
しかしだ。もしも神が一夫多妻制であるなら、という僅かな期待もある。だからこそ、想いを胸に秘めたままは生きられない。もとより駄目で元々だ。
だから先程までの興奮が再燃する。実る事のない恋だとしても、あの幼き自分のように、甘えてしまいたい。心のまま想いを告げたいし、叫びたい。
それに神獣は言った。神は親であると。ならば子が親を愛しても何もおかしい事はないと思えた。ならば一人の男性として、好きになってしまっても、問題はないのではないだろうか。男神が相手なら血の繋がりはないし、そもそも想いを告げるだけでも満足なのだ。
アンジェリカの鼓動は速くなり、鼻息は荒くなっていた。
今にして思えば、救われたその日から、あの微笑みに心を奪われていたのかも知れない。きっと神の降臨に感動していただけではなかったのだろう。
たった一日の出来事ではあったが、自身が生きてきた、百年以上の年月の中で、最も胸が熱くなった日だった。
目の前には、その大好きな人がいる。だから想いを告げたいと、気持ちは高まっていた。そんな感情が生まれるのは初めてだった。それ故に芽生えた想いは大切にしたかった。だからアンジェリカは告げる。
――ジョージ様を愛してます、と。