1話 始まりは鐘と共に
それはなんて事のない大晦日の夜だった。
居間の窓を開けて夜空を見上げると、舞い散る雪が街灯に照らされ、白銀に輝いて見える。
今年の冬は冷え込むという事らしいが、どうやらその通りらしい。
身を刺すような凍える風が室内に流れ込み、暖房の利かせすぎで暖かくなりすぎた居間の温度を、急激に冷やしていった。
「うひぃ、今日は冷えるなぁ。ま、おかげで目が覚めたからいいけどさ」
思わず身を縮めてしまう程の冷えた風が、武久穣司の頬を撫でる。
しかし酩酊気味になるまで、宅飲みをしていた穣司には、その風もどこか心地好いものに感じられた。
誰と会話する訳でもなく、呆けたようにテレビの特番を見ながら、酒をちびりと飲み続けていたのだ。
未開封だった一升瓶も、気が付けば空となり、いつの間にか穣司はうつらうつらと船を漕いでいた。
だからこそ眠気覚まし代わりに冷風を浴びる。そのお陰か落ちかけていた意識を徐々に取り戻していた。
例年通りあれば日付が変わるより、ずっと早く寝ているが、今日ばかりは早々に寝るつもりはない。そのまま窓際に腰を降ろし、何かを待つように雪の舞う夜空をしばらく眺め続けていた。
しばらくそうしていると、どこからか遠くで鳴っている鐘の音が、吹き抜ける寒風に乗って、ようやく穣司の耳に届いた。
「やっぱ除夜の鐘の音を聞かないと、年越しって気分がしないよな」
今年も特に何かがあったという訳でもなく、いつも通り平々凡々とした一年だった。自宅と会社を往復するだけ毎日で、何か刺激的な事がある訳でもない。今は趣味らしい趣味もなく、楽しみと言えば休日前夜に自宅で酒を楽しむ事でぐらいであった。ただ、それだけでも時間は流れてゆき、気が付けば今年最後の日になっていた。
「あー、あと15分程で俺も三十路かぁ。この生活のまま年老いていきそうだ。まぁ、それはそれでいいんだけどさ」
穣司は元旦産まれだった。子供の頃は誕生日とお年玉を、一纏めにされた気がして損した気分な事もあったが、今となっては懐かしい事だ。
駆け落ち同然で結婚した両親は既に鬼籍に入っている。母は穣司が小学生の頃に病気で亡くなり、父は20代半ばの頃に事故で亡くなった。
そして両親は故郷から遠く離れた地で新たな生活を始めたので、親戚付き合いは全くと言っていい程にない。その為、結婚を急かしてくるような節介な身内もおらず、お年玉を渡す相手もいないので気楽なものだった。
「さてさて、テレビでも見ながら新年を迎えますかねっと」
染々とした様子で穣司は独りごちる。
穣司は両親が残した木造平屋建住宅で独り暮らしをしている。一昔前であれば友人達が訪れてきて、酒盛りをしながら年を越す事もあった。そして酒精でふらつく体で、近所の神社に初詣に出掛けるのだ。
しかし今となっては、そういった事もめっきり減っている。友人達も今では既婚者だ。そういったふざけ合いをいつまでも出来るはずもない。
そして穣司には彼女らしい影も見当たらない。10代の頃にはそういう存在もいたが、今ではそのような縁は欠片もない。人肌恋しいと思わない訳でもないが、ひとりぼっちの生活も特に苦はない。むしろ独り身は気楽でいいぐらいにしか思っていなかった。
ふと時計を見上げると23時59分を越していた。
ふらつきながら炬燵に戻った時には、カウントダウンは既に終盤を迎えようとしている。
23:59:55、56、57……
時計の長針の音がカチカチと音を立て、確実に新年へと進んでいる。
今年も大きな怪我や病気を患わずに無事に終わった。
おそらく来年も代わり映えのしない毎日だろう。
穣司は長針のカウントダウンに合わせてテーブルを指で叩く。
そして何事もなく新年を迎える瞬間の事だった。
「あけおめ~。そして三十路突入~ってあれ?」
ピンポーンと無機質な呼び鈴の音が響き、誰かが控えめに玄関の戸をノックする音がした。
「ん~? こんな深夜に誰だろ」
穣司は戸惑いながらも、覚束無い足取りで玄関に向かった。
こんな夜更けに宅配便が来るはずはない。おそらく身内が訪ねてくる事もないだろう。そもそも顔も覚えていないのだ。ならば友人だろうか――
一昔前であれば友人がアポ無しで来る可能性もあったが今では友人も二児の父だ。そんな友人がわざわざ来る可能性は低いだろう。夫婦喧嘩をした勢いで家を飛び出したのであれば考えられなくはないが、それはそれとして新年早々やめてもらいたいものだが……
ただ、押し入り強盗の可能性が一瞬だけ頭によぎり、念の為に空になった酒瓶を握り締め、応戦出来るようにだけしていた。
そして警戒しながらドアを開けると、
「やぁ、ジョージ! 誕生日おめでとう!」
と、玄関の引き戸に入りきらないような大柄の筋骨隆々の老人が白い歯を見せながら笑みを浮かべていた。
「――はい!?」
穣司は思わず、うわずった声で答えた。予想をはるかに超えた来訪者である。
喉元を覆うような立派な髭に、肩まで伸びている艶のない白髪。彫りの深い顔に刻みこまれた皺は深く、厳かさえ感じられる。古代ローマのトーガのような衣服から覗かせている肉体は、顔と相反するように若々しく、漲った力をもて余しているようにも見えた。
まるで神話の世界から飛び出してきたかのような老人だ。最新の3D映像を見ているのかと、錯覚してしまう程に非現実的な光景である。それを表すように老人は煌々とした輝きを身に纏っている。
(誰この人!? つか何でキラキラしてんの!?)
このような知り合いは穣司にはいない。海外一人旅に出掛けていた時に仲良くなった人達にもこのような人物はいなかった。知らず知らずのうちに、どこかで会っていたとしても、このようなインパクトのある老人を忘れる訳がない。ましてや流暢に日本語を話す外国人だ。しかも誕生日を祝ってくれるような間柄ならば尚の事、忘れる訳がない。たとえ酩酊気味に酔っていたとしてもだ。
ならばドッキリかなにかだろうと瞬時に考えた。
もしかしたら素人を驚かせる性質の悪いテレビ番組ではないかと――
ならば物陰にスタッフは潜んでいないか。あるいは慌てふためく様子を撮影するために、どこか隠しカメラが設置していないかと、慌ただしく周りに目を向けた。
しかし玄関のあらゆる所を目視しても、それらしい物は見当たらない。天井の隅や靴箱の中、何となく買ってしまった観葉植物の植木鉢もいつも通りだった。
穣司には何がなにやら分からず、頭を抱えて混乱していた。
新年と同時に現れたガチムチ外国人の老人に、誕生日を祝われる事なんて都市伝説でも聞いたことがない。ならばこの状況は一体なんなのかと――
応戦用に握り締めていた酒瓶の事など、すっかり頭から抜け落ちていたぐらいに理解が追い付いていない。
だが、そんな様子の穣司に老人は気にする様子もなく話し掛けてくる。
「おや? どうしたジョージよ、そんなに慌てて」
「あ、いえ、その……ですね。失礼ながら、何処のどちら様でしょうか? どこかで会った事ありましたかね? どっきりとかじゃないですよね?」
「ガハハッ。こうしてジョージと会うのはこれが初めてだとも! ああ、名を名乗っておらんかったな。儂の名はガルヴァガと言う! どっきりとは何か知らぬが驚かしてしまったようだの!」
穣司が意を決して尋ねた言葉に、ガルヴァガと名乗る老人は豪快に笑いながら答えた。
「初対面なのに何で名前と誕生日を知って……。ああ、個人情報がどこかから漏れてたんですね」
溜め息を吐くように穣司は言う。
セールス電話のように相手がこちらの事を一方的に知っているというのは、たまにある事だ。
しかしガルヴァガの返答は有り得ないものであった。
「ずっと見ていたから知っておるのだぞ?」
「え? 見ていた? どこから……?」
「神界からだとも!」
「――は?」
穣司には言葉の意味が理解出来なかった。
この老人はいったい何を言っているのだろうかと――
神界と言うぐらいだから、もしかしたらこの老人は神様か、あるいはそれに準ずる存在なのだろう。なるほど、確かにそれらしい格好もしている。しかし、だからと言ってそれを鵜呑みにするほど純粋ではない。
仮に神様だとして、そもそも何故このような存在が自分の誕生日を祝うのか分からない。両親の葬儀は仏教式だったため、おそらく自分は形上は仏教徒なのだろう。だが、どう見ても眼前の老人とは異教だと思われる。老人の信徒でもないのに祝われる事などあるのだろうか。
酔いが回って思考力の落ちている脳は、頭痛すら発していた。もはや限界寸前である。どっきり大成功のプラカードがあるなら、早く見せてほしいと願うばかりであった。
だが、そんな様子を気に留める風でもなく、ガルヴァガと自称した老人は口を開いた。
「ところでジョージよ。今夜は冷えるのう?」
「え、ええ、そうですね」
穣司はとりあえずといった様子で相槌をうった。
突然何を言い出すのかと思ったが、確かに今日は雪が舞う程度には寒い。おそらく気温も氷点下に下がっているだろう。
「儂は薄着じゃから体調を崩していまいそうだのう」
「はぁ、そうなんですか」
「見ての通り、儂はか弱い老いぼれだからのう。あー、外は寒いのう。屋内で暖が取れるといいんだがのう」
「いやいやいや」
穣司は思わず掌を横に振り、突っ込みを入れる。
とてもじゃないが、か弱い老人には全く見えない。前腕にいたっては穣司の足より太いのだ。殴られたら一発ノックアウトを通り越して、おそらく天に召されてしまうだろう。そう思わせるような見事なまでの体躯である。
が、その老人は自らの両肩を抱き、震えるようにして、二度見どころか何度も見つめてくる。チラッチラッという擬音が聞こえてきそうな素振りで――まるで拾われるのを待っている子犬のようである。そのわざとらしい様子に脱力感しか生まれなかった。
そうして穣司は真面目に考えるのが馬鹿らしくなり、なげやりな気持ちで迎え入れる事にした。
「……はぁ、狭いですが、うちにあがっていきますか?」
「おお! それはありがたい。この寒さは老体にはちと毒でな! それに土産に秘蔵の酒を持ってきたのだ。冷えた身体を酒で暖めながら、少しばかり語り明かそうではないか!」
そのあまりにも打って変わった態度に、溜息を吐きながらも穣司は居間に招き入れた。
ただし、握りしめた酒瓶を離す事だけはしなかった。