◆進み行く者達◆
視界を白い影が過ぎる。
慌てて目で追った私の頬に、生暖かい何者かの呼吸。
「っあ!?」
私は狼狽してよろけ、床に尻餅をついて後退った。
「……あ。……ああ」
喉から漏れるのは、もつれた喘ぎだけで。
視線は目の前の異形から離すことが出来ない。
ヒュウ、と。
異形は細い息を吐き、ゆっくりとその白い顔を近付けて来た。
ヒュゥ……
半ばパニックに陥りながらも、閃いた記憶の光が少しだけ私を冷静にさせる。
これはさっき、特別室に横たわっていたうちの一人だ。
医院長と同じように細く切れ上がった黒目だけの瞳、半透明の体から突き出した硝子のような羽が、キラキラと窓から差し込む陽光に反射している。
ヒュウゥ……
色の無い唇が吐息を漏らしながら近付き、私の頬から首筋すれすれを滑っていく。
(食われる)
ギュッと目をつむり、私は恐怖と戸惑いをどうにも出来ずに固まった。
生暖かい息からは青臭い草の匂いが微かにして、唇の隙間に覗く牙の列がいやに白かった。
その白い牙が深々と肉に食い込む痛みを想像して、私は息を止める。
「……大丈夫だよ」
ふいに青年医師の穏やかな声がかけられ、私は強張った瞼を恐る恐る開いた。
全身が緊張による汗でじっとりと湿っている。
顔を上げてみるとすでに、そこに異形の少女はいなかった。
いつ離れたのか音も無く、その姿は開け放たれた窓辺にあった。
ホッと力が抜けると同時に、不思議に引き寄せられた。
少女と、少女の溶けたその光景に。
キラキラ。キラキラ。
大木のように成長し絡み合う蔓植物に、まばゆい太陽の光が弾けている。
あまりに混じり気の無い白さに、どこか造り物めいた不自然ささえ感じていたというのに。
太い蔓にじゃれつく異形の少女は、何と違和感なくその白さに溶け込んでいることだろう。
細い手足を緩やかに蔓に絡ませ。
柔らかな羽が舞うように。
小さな妖精が踊るように。
太陽を華奢な体に透かし、自身も弾けるように輝きながら。
半開きの滑らかな唇を、口付けるように蔓に寄せて……
(……樹液を)
少女の牙で傷ついた蔓の表面から、透明な樹液が滲み出す。
ぷっくりと丸く溢れた樹液を、少女の柔らかそうな舌が美味しそうに。
(飲んでる? ……でも)
蔓植物は猛毒だったはずではないのか。
疑問の答は、すぐに青年医師が与えてくれた。
「我々にとっては有害でも……、彼らにとっては貴重な栄養源になるようなんだ」
青年医師は朧な視線を遠くに流した。
「彼らは分かち合い、……多くを望まず、決して、人のものを奪おうとしたりはせず……」
息子の体を貪り続けていた元医院長である異形の女が、音も無く体勢を変えた。
赤ん坊にするように優しい仕草で息子に覆い被さり、その唇を躊躇いも無く首筋に、動脈の上に。
カシュッ
小気味よい音。
青年医師の首の、太い、大切な血管が切断された音。
「君には、絶対誰も手を出さない」
鮮やかな血の飛沫を母親に捧げながら、彼は最後に消え入るような声で言った。
「……君は、彼のものだから」
寂し気に笑った青年医師を残して、私はよろめきながら病室を出た。
静まり返った廊下を抜け、受付カウンターの前をもつれた足で走り抜けた。
ほとんど体当たりするような形で、出入口の大扉を押し開ける。
わっと押し寄せる、外の湿った熱気。
そこには、少し前と何も変わらない、見慣れた初夏の午後が満ちていた。
煌めく太陽。
太陽の熱気を心地良く中和してくれる、涼やかな西の風。
「……」
私は不思議に汗が乾いていくのを感じながら、来た時同様、きちんと扉の横で待っている車椅子を見やった。
「……待たせて、ごめんね」
微かに頷いたように見える圭太郎に、いつものようにキスして。
私は、ゆっくりと車椅子を押しながら病院を後にした。