◆狂ウ◆
「……くそ野郎……」
ゴトリ。
それは私が、床に放置されていたガラスの置物を拾い上げた音だ。
「……ふざけんな」
まるで夢見るように目を細め、ずっしりと重い置物をしっかりと片手に掴む。
全てが遠く、非現実的に思えた。
自分が歩く靴音、ゆっくりと確かなそれさえも、どこか朧で頼りなく。
ああ、この感覚は久しぶりだ。
ヒリヒリするような、全身を細かい針で突かれているような、奇妙に夢現で恐ろしくハッキリと明確な。
《 死ねばいい 》
意思。
圭太郎が発病したと同時に、彼を生きた実験体として欲した地元大学の学生。
この奇病には治療法が無いと研究を投げた、昔馴染みの信頼していた街医者。
苦しむ彼を見て、あからさまに不快を顔に出してみせた奴ら……。
《みんな、みんな》
硬い、重い、鋭い、凶器になりうる物がこの手にあれば簡単……。
《 死ねばいい 》
振り上げ、振り下ろし、容赦無く刺し、貫き、殴打して。
肉の破壊される湿った音を聞きながら。
絡み付く血飛沫を浴びて、激しく深く深く喘いで。
奇病パニックの最中。
無法地帯と化した街で、私は何度この感覚に捕われたことだろう。
全て幻覚だったようにも思える。
だけど確かに覚えていた。
手が、腕が、凶器を奮った時の生々しい感触を、あまりにも鮮烈に覚えていた。
たくさんのたくさんの人が病に倒れ、すっかり静寂に満ちた、今。
あの時期の自分。
沸騰して、煮えたぎった街の人々。
私を含め、全ての人の生活を飲み込んだ、非現実的な《 狂気 》
それら全てが、遠い昔のことのように思えるのに。
ふと、こうやって激怒の爆発に見舞われた時、それらは確かな現実としてこの体に蘇ってくる。
私は、感情のままに人を殺したことがあったのだ。
平和な頃。
代わり映えの無い日々に退屈を感じ、平和をあって当然と思っていた頃。
テレビに流れる通り魔事件のニュース、悲惨な事件を起こした犯人に対して、共感を覚えたことなど一度も無かった。
発作的に。興奮して。
そんな感情、殺人の理由になるはずが無いと思った。
人が人を死に至らせるという行為は、神の領域に踏み込む禁忌。
そんな単純な理由で、冒せる行いでは無い、と。
だけど。
そう思えていた頃の自分は、ただ幸運だっただけなのだ。
私は身をもって知った。
人は環境と条件によって、あまりにも容易く狂えるのだと。
だって見たじゃないか。
同じように狂気に走った健常者の数々。
愛しい者の突然の破滅を目の当たりにさせられ、悲しみ荒れ果て、黒い嵐と成り果てた者達の凶行。
それが人間。
スイッチの入り所は人それぞれ。
だから、私はある意味正常なのだ。
こんな凄まじいストレスに晒され、平静を保てる者がいるならば、それこそ人を離れたモンスター。
私は、正常。
この静かな爆発も、人として当然の在り方。
だ か ら 。
私は無意識に獲物を狙う猫のように素早く、奥の個室の前までしっかりと歩み寄り。
ドアノブを掴むと同時に、ほんの僅かに体を硬直させた。
ノブを引いたと同時に、右足で床を蹴って凶器を持った腕を振り上げた。
ガラスの置物の重さが、そのまま肉を砕く強さとなる……