◆望みは砕けし◆
ひどく時間をかけて、私は街の外れにある病院に辿り着いた。
「ちょっと、待っててね」
車椅子を入り口の横に停め、圭太郎にそっと口付けしてから中に入る。
「先生?」
無人の受付カウンターを素通りし、私は奥の院長室へ向かった。
ここは今でも諦めずに奇病の打破に取り組む、この地区では唯一頼りになる病院だった。
医院長はすでに病に倒れてしまっているが、医大生だった息子が後を引き継いで研究を続けている。
「先生……」
覗いた院長室は無人で、代わりに奥の娯楽室から物音が聞こえた。
「先生、あの、瀬川です」 ピタリと閉じた扉に呼び掛けるも、返事は無い。
何度かノックを繰り返した後、遠慮がちにドアノブを握ってみる。
鍵は掛かっていなかった。
「先生、沢木圭太郎の痛み止めの薬を……」
言いかけた私は、思わず言葉を飲んで立ち止まった。
「……っ!」
裕福な患者御用達だった、広々と娯楽設備の整った特別室。
広いその空間からあらゆる機器が姿を消し、床に敷き詰められているのは大量のシーツだけ。
「何……? これ……」
そしてそのシーツの上で、赤ん坊のように丸まった数人の男女。
奇病に蝕まれ、末期を迎えた何人もの患者達。
「瀬川さん?」
名を呼ばれて、私はギクリと振り返る。
部屋の奥にある個室の扉が、少しだけ開いていた。
「あ、あの」
どうしていいか分からず、私は床と扉に交互に視線を走らせた。
「瀬川さん」
再び呼ばれ、引き攣った声で何とか応じる。
冷たい不安がよぎった。
年若い医師の声色に、何とも言えない違和感を感じたからだ。
「……あ、あの、先生? どうかなさったんですか」
頭の中には奇病に蝕まれた医師の姿がハッキリと描かれているというのに。
この期に及んでまだ、的外れな質問でごまかそうとしてしまう己が、どうしようもなく哀れに思えた。
「先生……」
扉の向こうからの返事は無く、ただ、冷たい沈黙だけが流れる。
(ああ……)
私は唇を噛み締めてうなだれた。
唯一残っていた希望の火が消えたのだと、漠然と理解していた。
「……瀬川さんは、覚えてるかなあ」
私は伏せた目を少しだけ上げ、薄く開いた扉に視線をやる。
「ここのさ、医院長が突然倒れた時……、俺、ずいぶん迷惑かけたよなあ」
自他共に認める名医だった医院長。
つまりこの青年医師の母親が倒れた時の、彼の狂乱振りを忘れるはずもない。
《何故? 何故? 何故!》
獣のように咆哮し、ひたすらに泣き乱れていた痛々しい姿。
《何故自分のような凡人が生き残って、母のような優れた人間が死に行くというのか!》
「……あの時は、取り乱してしまってすまなかったねえ」
妙に間延びする声色が不気味で、悲しかった。
「……いいえ」
「でもさ、でもさあ。研究してて分かったんだよ。やっぱり、俺は正し、正しかったんだって」
唯一頼りにしていた医者の、もつれた口調。
……まるで弱り切った圭太郎のようだ。
「俺はただだ正し、……っあ、ああ」
興奮したような、脱力したような、正常とは遥かに掛け離れたその声色。
スゥッと、私の中の何かが退いていく。
カメラが被写体から音も無く遠ざかるように。
私と私の属する世界が現実から取り残され。
そして、孤立する。