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あたしたちの愛したお兄ちゃん

作者: 篠田柑橘

 目が覚めると炊き立てのご飯のにおいがして、あたしはもう朝だと気付く。窓から差す朝日は眩しいけれど、まだ四月の始めは冬の寒さが残っている。もう一眠りしたいところだけど、階段の下から声がしたから、仕方なく身体を起こした。

 階段を下りてリビングに向かう。奥のキッチンにハル兄の姿があって、忙しそうにしていた。

「おはよう、亜紀」

 それでもあたしの足音に気付いて振り返って笑ってくれるから、

「うん、おはよう」

 あたしは今日も朝が来て良かったと安心する。


 椅子に座ってぼうっとテレビを見る。いつも朝はめざましテレビが流れていて、今日も誰かが死んだり、どこかの動物園で赤ちゃんが生まれたりと世界は忙しいみたいだ。

「お待たせ」

 ことん、ことんと音がして、ハル兄があたしの前にご飯を並べてくれる。ふんわりと盛られた白米に豆腐の味噌汁。そしてあたしの好きな黄身がトロリと流れる半熟の目玉焼き。

 ハル兄も自分の分を向かいに並べて椅子に座る。

「じゃあ、食べようか。いただきます」

「いただきます」

 二人揃って両手を合わせて目を閉じる。兄と向かい合わせで食べる朝食。あたしの日常。

 味噌汁とご飯を半分ほど食べて、半熟の黄身を箸の先で突こうとしている時、トーストの出来上がる匂いが鼻先をかすめた。それとほぼ同時にリビングに人が入って来る。

 今日も白シャツに黒のスカートとジャケットを着て、艶のない黒髪をバレッタで一つに留めたその人は、ハル兄が用意した甘いカフェオレを座りもせずに一気に飲み干すと、丁寧にバターの塗られた出来立てのトーストを乱暴に銜えて玄関に向かう。

 そそくさと去っていく痩せた背中にいってらっしゃいとハル兄が声をかけるが、返事はなく数秒後に玄関のドアが閉まる音がする。コツコツと神経質そうなハイヒールの音が遠くに消えていくのを聞いて、あたしは黄身を箸の先でつぶした。川が決壊するみたいに薄い膜に入った亀裂からとろりとした黄色が流れ出る。

 家事も、あいさつも、目も合わせない母親。それも、あたしの日常だ。


高校二年生になり一週間が経った。クラス替えや進路希望調査があって慌ただしかったが、やっとその忙しさも落ち着いてきている。クラス替えに伴ってグループも変わり、あたしは去年から同じクラスの本田美香と席が近いということで椎名弥生と仲良くなった。おしゃべりで口を開けて笑う美香と大人しく真面目そうな弥生ちゃんは正反対の性格だけど、三人ということがいいのか、ほとんどこの二人と一緒にいる。

 あたしの席に椅子を二つくっつけて昼ご飯を食べていると、そういえばと美香がニヤニヤしながらあたしと弥生ちゃんを見た。あたしはまた何か情報を得たんだなと思い、弥生ちゃんは戸惑っている様子だった。

「あのさ、凄い噂を聞いちゃったんだよね。転校生のことなんだけど」

 ああ、何かと噂の多い転校生のことか。最近の美香のお気に入りの人物だ。

 美香が顔を寄せてきたので、反射的にあたしと弥生ちゃんも顔を寄せる。美香は声を潜めて、

「転校生の玉田君なんだけど、実は何年か前に隣町で子供が親を殺した事件があったじゃん、知ってる?」

 そんな事件あったかな? 首を傾げると、

「あ、はいっ。それ覚えてますよ。確か五、六年前だった思います」

 弥生ちゃんがはきはきと答えていて、静かな瞳の奥が鈍く光って見えた。

「そうそれ! 実は玉田君ってその関係者みたいなんだよね。なんか誰かが玉田って名前は聞き覚えがあったみたいで、調べたらその事件の家族って、玉田って名前だったんだって」

 おお! と弥生ちゃんがいい反応をする。そんなに面白ことかと疑問だった。

「でも、それ名前だけでしょう。玉田なんてそんなに珍しい名前じゃないと思うけど」

「まあ、そうなんだけどさぁ。でも同じ学校に殺人者の親戚がいるってなんか怖くない?」

「そう?」「怖いですね」

 あたしと弥生ちゃんが同時に答えてしまった。

「もう、亜紀も弥生ちゃんぐらい、もうちょっと乗ってよー」

「ああ、ごめんごめん」

 美香がむくれてしまったので、私は両手を合わせた。するとすぐにくるりと笑顔になる。

「まあ、そんな話。事実がどうかなんて分かんないけどさ」

 美香がはい、今日のニュースはお終いと半分だけ残っていたサンドイッチにかぶりついた。美香は噂好きだけど、ちゃんと噂は噂のままで終わらせようとする。それ以上調べたり深入りはしない。それが情報好きの彼女のポリシーらしく、そういうところがあたしは好きだった。

 まだ付き合いの浅い弥生ちゃんは今の話を続けようとしたが、美香の興味はもう薄れてしまっていてそれ以上は続かなかった。

 昼休みが終わり二人は席に戻って行った。次は現代文の授業なので教科書とノートを探していると、背中に何か当たった気がした。

 振り返ると西倉があたしの方にシャーペンを向けて、反対の肘をついた手に顎を乗せている。

「なに、急に」

「本田って、相変わらず噂とか好きだよな」

 その言葉の裏に軽蔑の色が見えて、ああこの人も美香のポリシーを分かっていないんだろうなと思った。

「七瀬はさ、ああいうのどう思うの? お前って噂話とかしないタイプじゃん。人の話をしてるの見たことないし」

 それではまるで、あたしが自分の話しかしていないみたいじゃないか。

「別に、人に話すような噂を知らないだけ」

「お前も相変わらずだな。まあ、そういうところが好きなんだけど」

 にひひと西倉が笑う。そういうことをさらっと言ってしまうあたりが、こいつがモテる理由なのかもしれない。

 西倉拓海も去年から同じクラスで、出席番号順で並ぶと前後の席になってしまう。容姿に運動神経と色々と得をしている男で、何人もの彼女がいて誰とも別れていないらしいからかなりの強者だ。そして、話す度に好きだとか付き合ってくれとかいう言葉を語尾や挨拶の代わりに使う。

 あたしは密かに告白病と名付けて今までスルーしてきた。今日もいつも通りスルーすると、

「なんでこれで好きにならないかなぁ」

 と独りごちる声が聞こえた。西倉はいい人だし、なかなかのイケメンだ。あたしも彼氏が欲しくないわけじゃない。でも、どうしても他人と“付き合う”ということが分からない。好きという言葉があたしは苦手だ。


 学校が終わり、バイト先に向かう。うちの学校では申請すればバイトができる。あたしも去年の夏休みから今のバイトを始めた。個人経営のヘンリエッタという名前の喫茶店で常連さんだけで賄っているようなお店だけど、店長も奥さんもいい人なので続いていた。

 自転車を店の脇に停め、焦げ茶色の重い扉を開ける。

「こんにちはー」

 店内にはゆったりとしたジャズが流れていて、からんからんとドアに付いたベルが鳴った。

「あら、亜紀ちゃん。お帰りなさい」

 奥さんの鳴海ミチ子さんが笑顔で迎えてくれて、あたしもただいまと返す。

「着替えてきますね」

 奥にある控室というか、自宅兼喫茶店なので奥は鳴海家の家となっている。控室もその空き部屋の一つを使わせてもらってる。

「おお、亜紀か。おかえり」

「ただいま、店長」

 控室に行く途中で店長の鳴海真三さんに会った。両手にコーヒー豆の入った麻袋を抱えている。

 荷物を控室の隅に置いて制服を脱ぐ。トートバッグに入れていたジーパンとモノクロチェックのシャツを着て、ハンガーにあったお店のロゴが胸元に入っているエプロンを着る。髪を一つにまとめてお店に出た。

「亜紀ちゃん、コーヒーでいいかしら?」

 手を洗っているとミチ子さんに尋ねられた。いつも来ると何か飲み物がもらえてありがたい。

「はい、ありがとうございます」

 ここのコーヒーはコーヒー好きの人たちにとってはちょっとした伝説らしい。よく雑誌や立派なカメラを片手に来る人がいて、前に興味本位でカフェを中心に扱った雑誌を読んでいたらこのお店が乗っていてびっくりした。確かに店長が四〇年かけて極めたというコーヒーはとっても美味しい。ここのコーヒーを飲んでからはインスタントや自動販売機のコーヒーは飲めなくなってしまった。

 出されたコーヒーの幸せに包まれながらカウンターに座って一服する。砂糖やミルクは入れない。

「亜紀ちゃんは大人やなぁ」

 同じカウンターにいた常連の川田さんがケラケラ笑いながら言った。お店にはカウンターに川田さんと、男の人と窓側に若いカップル。奥の隅にパソコンを難しい顔で見つめている、こちらも常連というか毎日ここにいる小説家の長谷川さんがいる。平日のこの時間は比較的落ち着いている。

「ごちそうさまでした」

 コーヒーを飲み干して、あたしはカップを持ってカウンターの中に戻った。もらってばかりじゃいけない、ちゃんと働かないと。袖のボタンをはずしてできるだけ上まで捲る。シンクにはカップとお皿が溜まっているので、まずはこれを片付ける。

 洗い物をして、カップルが帰ったテーブルを片付けているところでドアが開いてベルの音がした。お客さんを席に案内して注文を取る。接客と掃除を両方こなすのは最初の内は慣れなかったけど、今ではすっかり板についてしまった。注文はやっぱりコーヒーが多くて店長のコーヒーとミチ子さんの笑顔がお客さんを幸せにする。この店はあたしの大切な場所だ。

 八時二五分に最後のお客さんである長谷川さんを見送って、三〇分に閉店の看板を置いてドアを閉めた。今からは掃除の時間だ。モップで床を拭いていると、ミルの掃除をしていた店長がそう言えばと何かを思い出した様子だった。

「夕飯はカレーなんだ。良かったら持って帰りなさい」

「いいんですか?」

「遠慮しなくていい。母さん、余った入れ物ってあったかな?」

 しばらくして家の奥から戻ってきたミチ子さんがタッパーに入ったカレーを笑顔で渡してくれた。

「余り物でごめんなさいね。温めなおして食べてね」

 あたしはタッパーを受け取って頭を下げてお礼を言う。本当にお世話になってばかりだ。

「じゃあ、暗いから気を付けるんだぞ。明日もよろしく頼むな」

「はい!」

 自転車の籠の中にカレーを置いて、ひっくり返さないように鞄を籠とタッパーの隙間に押し込んだ。

「また明日」

 見送りに来てくれていた二人に手を振ってペダルに乗せた足に力を込める。


 家に帰りつくと二十一時前だった。家には明かりがついている。

「ただいま」

「お帰り、亜紀。それどうしたの?」

 あたしが腕に抱えたタッパーを見てハル兄が不思議そうな顔をしていた。あたしはタッパーをハル兄に渡す。

「店長からもらった。お兄さんと食べてって」

「店長さんか。いつもお世話になってばかりだね。今度何か持っていかないと。ちゃんとお礼言った?」

「言ったよ」

「それなら良かった」

 ハル兄が笑顔を向けてくる。全く、あんたは親か。そんなことぐらい言われなくてもちゃんとするのに。

「カレー温めるから、着替えておいで」

 エプロンをしたハル兄がキッチンに行ってしまう。子ども扱いはあたしが一六歳なっても治らない。こういう時あたしはずっと大人になれない気がして溜息が出る。

 鞄に詰めていて制服をハンガーにかけて、部屋着に着替える。部屋を出るとカレーのいい匂いがした。

 手を洗ってリビングに行くと、もうすでにテーブルには夕飯が用意されてあった。

「カレーがあるって分かってたらトンカツにしたんだけどなぁ。今度何かもらったら早めに連絡してね」

「うん、分かった」

 テーブルには大きく切った野菜が入ったカレーライスにメンチカツが添えてあった。あとはサラダとコンソメスープ。今日はカレーが追加したことでなかなかのボリュームになっている。

 ハル兄が前の席に着き、二人で揃っていただきますと両手を合わせて目を閉じる。

 ハル兄はトンカツが良かったと言っていたけど、メンチカツもなかなかカレーに合っていて、あたしはこっちの方が好きだと思った。


 夕食が終わり、お風呂から上がった。髪を拭きながらリビングに行くとハル兄がテレビを見ながら洗濯物を畳んでいたので、あたしも隣に座って洗濯物の山からタオルを引き抜く。乾燥機から出てきたばかりの洗濯物は温かくて、あたしは思わずその山にダイブした。ふわふわとした柔らかさに包まれて幸せな気分になる。鼻先をくすぐる柔軟剤の香りを肺いっぱい吸い込んだ。

「亜紀は相変わらずそれが好きだよね」

 隣でクスクスとハル兄が笑っている。

「ハル兄だって一緒にしてたじゃん」

「まあ、昔はね」

「どうせあたしがまだ子供って言いたいんでしょう」

 もっと邪魔してやろうと思って、再び顔を埋めた。

 すると急に背中が重たくなって耳の横で楽しそうな声がする。

「重いよ、ハル兄」

「亜紀だけじゃないよ。僕もまだ子供だから」

「二十一歳なのに?」

 うん、とまた笑い声がする。あたしはこの時間が止まってしまえばいいと思っていた。この背中の、ハル兄の温もりを誰にも渡したくなかった。

 でも、世界はきっとこういうのを許してはくれない。

 二人でしばらく笑い合っていると、ガチャッとドアが開く音がした。嫌な空気が流れ込み、一瞬にして体が氷つく。

「あ……お帰り、母さん。今日は早かったね」

 硬いハル兄の声、背中の温もりが薄れていく。

 重みがなくなり体を起こすとドアの前で、まるで車に轢かれてぐちゃぐちゃになった犬でも見ているような顔をした母が立っていた。

 ハル兄が気遣う声が虚しく部屋の中に響く。

「今日はカレーなんだけど、どうす――」

 最後まで話を聞かず、母は踵を返して二階に行ってしまった。

 沈黙の中にあたしとハル兄だけが取り残される。それから、二人で無言で洗濯物を畳み終わりあたしは部屋に上がろうとした。

「あのさ、亜紀」

 階段を数段上ったところで呼び止められた。あたしは返事をせずに振り返り言葉を待つ。

ハル兄は右耳をつまみ人差し指の先で掻いている。ハル兄が緊張している時の癖だ。何か大事な話なんだろうなと思い、心の中で身構える。

「なに?」

「あのさ、ええっと……」

 言い淀む。曖昧な言葉が出てくるたびに嫌な予感が私の心を淀ませる。しばらくして、ハル兄は耳を掻いていた手を下ろし、真っ直ぐあたしを見た。

「そろそろ百合を亜紀と母さんに紹介したいんだ」

 その言葉があたしの心の泉に落ち、波紋を生む。

「もう五年も付き合ってるし、百合もちゃんと二人に挨拶がしたいって言ってる」

「……それって、結婚を考えてるってこと?」

 ハル兄が静かに頷いた。

 ハル兄の彼女、雨宮百合さんはいい人だ。色白で、細くてふわふわした茶色の髪が子犬みたいで同性のあたしでも守ってあげたいと思えてしまう。よく手作りのクッキーやケーキをくれてそれが凄く美味しいし、旅行に行ったら必ずうちの分までお土産を買ってきてくれる。優しい、人。ハル兄はそういう百合さんが好きなんだろう。優しさというものに弱い人だから。

「まだ早いんじゃないかな、結婚なんて。もう少しゆっくり考えたほうがいいよ。うん、絶対そっちの方がいい。だって結婚したら一生その人なんだよ」

「僕は、それでいいと思う」

「えっ……」

 即答されたので、あたしはどう反応したらいいのか分からなくなってしまった。

 それっきり、ハル兄は何も言わなくなってしまう。

「……考えさせて」

 その場にいるのが耐えられなくなって、あたしは早足に階段を上って部屋のドアを閉めた。

 それからずっとそのことが頭から離れなかった。それでいい。そう言ったハル兄のの言葉が真っ直ぐすぎて、受け止められなかった。


 授業の内容が右から左へと流れていく。ノートをとしたけど、黒板に書かれている文字が半分を過ぎていたので、ああ、もう無理だと諦めた。後で誰かに見せてもらおう。古文の先生は左端から順に当てていくので当てられる心配もない。窓際のあたしは開かれた窓から空を見る。春の空は嫌味なほど水色に透き通っていて、ちっとも好きになれなかった。

 嫌なことがあった日は、いつもあの場所に行く。放課後、バイト前にあたしは第二校舎の屋上につながる階段にいた。うちの学校には屋上につながる階段が二つあって、第一校舎の方は三階から伸びる階段がコの字に曲がっていて屋上につながるドアのところはちょうどいい死角となっている。しかも西側に面しているからドアにはめ込まれた窓から夕陽が差して明るいので、カップルのたまり場となっている。一方、第二の方は東側に面していて薄暗くて埃っぽい。それに三階からすぐ見えて死角がないのでここで何かしていたら、三階の廊下を通る人にバレバレだ。しかも使わない机とか椅子があって物置と化しているので誰も寄り付かない。まあ、そのおかげで小さな死角は出来ているし第二校舎の三階は音楽室と美術室しかないから人が通ることも少ない。

 机の陰に隠れるように壁に身を寄せる。ポケットからウォークマンを取り出して、イヤフォンを耳に入れた。再生ボタンを押すと曲が流れ始め、一息つく。埃っぽい空気が肺に入ってくるのがなんとなく分かる。

 あたしのウォークマンには、ビートルズしか入っていない。しかも一つだけ。なんせこのウォークマンは何年か前に夏祭りのくじで当たったもので、SonyとかAppleとかそういうちゃんとしたメーカーのものじゃないから、入る曲の量が少ないのだ。それでも、あたしの人生の音楽はこれだけで足りていた。『レット・イット・ビー』それさえあれば、十分だ。

 ビートルズが好きというより、この『レット・イット・ビー』が好き。有名な曲だけど、周りで聞いている人がいるとかそういうのは聞いたことがなくて、だいたいみんなEXILEとか西野カナを聞いている。あたしも聞かないわけではないけど、何かあった時は必ずこの場所でこの曲だった。

 聞いていると落ち着いてくるのが自分でも分かる。目を瞑って、右肩にコンクリートの冷たさを感じると、そのコンクリートの中に沈んでいくような感覚になる。リピートモードにしているから、優しいポールの声がずっと流れ続ける。頭の中のぐちゃぐちゃした汚れがゆっくりと分解されていく。その過程でできた煙を吐き出すように、深く息を吐いた。

 その時、ガタンと大きな音がしてとっさに振り返った。

「あっ……」

心臓が大きく跳ね、呼吸ができなくなる。やっと息を吸うと、そこにはあたしと同様に机の陰に人が隠れていた。全く気付かなかった。まさか先客がいたなんて。

 あたしは咄嗟にミュージックプレイヤーを隠した。この学校は色々と厳しくて、携帯や授業に関係のない電子機器を持ってくることは禁止されている。見つかったら親が来るまで返してもらえない。

「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」

 しかし、机の後ろから現れたのは同じ学校の制服を着た男子生徒だった。

 あたしは突然の緊張感と安堵に声が出なくて、数秒後にやっと「大丈夫」と言えた。なんとなく気を抜いていた自分の姿を見られていたということが恥ずかしくて、その場を急いで離れようとした。

「あの、ビートルズ好きなの?」

 後ろから声を投げられて足を止めた。

「え?」

「いや、『レット・イット・ビー』を歌ってたから……」

 歌っていたと言われて顔が熱くなった。多分、無意識の内に口ずさんでいたんだと思う。それを聞かれていたと思うとさらに恥ずかしくなる。でも、同時に少しだけ嬉しい気持ちもあった。

 離れて見つめ合うのも変だと思い、あたしは思い切って彼に近付いた。隣に腰を下ろして何組? という話題から会話が続く。彼はあまり笑わないけど、ぽつぽつとした会話は居心地が良くて気が付くと三十分近く話していた。

 その日から、あたしはバイト前はイライラしてなくてもそこに向かっていた。行くとあたしの足音に気付いた彼が机のところからひょこっと顔を出して、片手を上げる。本を読んだり音楽を聴いたり、時々話したりして放課後を過ごした。カップルでもない男女が人気のないところに二人でいるなんて変だけど、そういう生活が一カ月続いてもあたし達はお互いの名前を知らなかった。最初に名前を聞かなかったせいでタイミングを逃してしまいそれっきり。でも、ねえとかあのさとかそういう言葉で二人の間には十分だった。


「亜紀、最近第二校舎の屋上に行ってるって本当?」

 美香のこの言葉が細やか日常の終わりだった。

 お昼ご飯をいつものメンバーで食べていると、唐突に言われてあたしは口に入れようとしていた卵焼きを滑らせ落としてしまった。

「急にどうしたの?」

「噂で聞いたんだ。最近、亜紀が第二校舎の屋上の方に行ってるって。しかも男子と会ってるって」

 一体、誰がこんな徳のない噂をしているんだろう。

「彼氏ができたなら嬉しいけどさ、どうして玉田冬樹なの? かなり驚いたんだけど」

「えっ、玉田?」

「あれ、違うの?」

 玉田冬樹。そういえばその名前は聞いたことがあった。前に美香が話をしていた噂の人だ。まさか、彼が玉田冬樹だったのだろか。しかしここで違うと言ってしまえばあたしは放課後に人気のないところで男子と会っていること肯定してしまうことになる。だから、人違いじゃない? と嘘を吐いた。

 美香は「えー、そうなの?」と残念そうな顔をしたけど、すぐに興味が無くなった様子であっさり話題を変える。しかし、ここまで一言も喋っていない弥生ちゃんが何かを言いたそうにじっとあたしを見ていたことには気付かないふりをして、お弁当箱の隅に入っていたプチトマトを口に入れた。

 彼は、玉田冬樹なのだろうか。美香に言われた時、正直知りたくないという気持ちがあった。大切なものを奪われたような気分だった。


 もやもやした気持ちのまま、放課後屋上に向かった。きっと今日も先に来ているはずだ。でも、どう話しかけていいのか突然分からなくなってしまい、あたしは話しかける内容を考えながら廊下を歩いた。

「おまたせー」

 階段の下から考えに考え、結局いつもと同じになってしまった言葉を発した。しかし、反応がない。いつもなら右奥の机の陰から顔を出すはずなのに。

 階段を上り、いつもの場所を覗き込んだ。でも、その前から人の気配がないことはなんとなく分かっていた。

「ねえ」

 覗き込むと、いつもあるはずの丸まった背中が無かった。もしかしたらまだ来ていないのかもしれない。

 しばらく音楽を聴く気も、本を読む気もなくてぼうっと階段に座っていて、階段の下を過ぎて行く生徒を眺めていた。しかし、いつまで経っても彼は来なくて、バイトの時間が迫っていたから、あたしは急いで学校を出てバイトに向かった。

 その日から放課後にあの場所に行っても彼には会えなかった。まるでこの一カ月が最初から無かったもののように思える。別に確かめたりしないのに。彼がもし噂の玉田冬樹だとしてもあたしは何とも思わないのに。心の奥でどうして信じてくれないんだろうと一人勝手に裏切られた気持ちになっていた。


その日、バイト先に着いたのはぎりぎりの時間で、慌てて用意をして店先に出た。

こういう時に限ってお客さんが多くて、あたしは一息吐く間もなく走り回る。

「ああ、亜紀が来てくれて本当に助かるよ」

どうやら先月取材を受けた旅行会社の本が発売されたらしく、その影響が早速出たみたいだ。店長もミチ子さんも忙しくしていた。

やっと落ち着いたのは閉店間近の二〇時を過ぎてからだった。最後のお客さんである小説家の長谷川さんを見送ると、やっと店内に静寂が戻る。あたしはモップを取り出して、フロアの床を拭いていた。奥さんが食器を洗い、マスターはミルの掃除をしている。この時はいつも会話がなくて、掃除に集中していると、

「そういえば、今日の今ぐらいだったな」店長がお店にあるカレンダーを見ながら呟いた。「母さん、覚えてるか?」

「ああ、そうでしたね。もうあれからどれぐらい経ちますかねぇ」

「六年、じゃないか。やっぱり毎年思い出してしまうものだな……そういえば、残された弟さんってあの時九歳だったから亜紀と同じくらいじゃないか? 亜紀、今何歳だ」

「一六です」

「じゃあ、同じくらいね」

「なにがですか?」

 話について行けず尋ねると、店長が答えた。

「六年前にこの近くのアパートで起きた事件のことは知ってるか?」引っかかるものはあったが、あたしは首を振る。「子供が親を殺した事件があったんだ。犯人は中学生の男の子で、事件の後にその子がこの店に来たんだよ。丁度今ぐらいの時間だった。もう店も閉めてあってそろそろ掃除をしようとしてた時にドアが開いて包丁を持って血で真っ赤になった男の子が立ってたんだ」

 あたしはドアの方を見た。誰もいないドアの向こうはすっかり暗くなっていて、鏡のように店内を映している。

「店長とミチ子さんは大丈夫だったんですか?」

「ああ、とても驚いたけど彼は私達に危害を加えることはなかった。手を引いたまだ小さい弟を私達の前に出して警察に電話をして欲しいとだけ言ったんだ。私は彼に言われた通り電話をして警察を待った。そして後日、ニュースで彼が両親を殺したことを知ったんだ」

「あの時はびっくりしたわ。でも不思議と怖い感じはしなかったの。警察を待つ間もお兄ちゃんは弟の頭を撫でて、大丈夫大丈夫って言っていて……聞きたいことはあったわ。でも、見守ることしか出来なかった」

「あの、もしかしてなんですけ……」

 こういうことがあると私は偶然という言葉が信じられなくなる。偶然なんてなくて世界は必然でできているんじゃないかと疑いたくなる。

「その中学生って、玉田って名前じゃないですか」

「ああ、知っていたのか。新聞やテレビで出てなかったが中学生の方は玉田夏輝くんって子だった。確か弟の方は」

「フユキ、じゃなかったかしら。夏と冬ってなんとなくだけど覚えているのよ」

「そうそう――玉田冬樹くん、だったと思う」

 噂は噂だけで終わらなかったみたいだ。

玉田君も “きずもの”の一人だった。


 あれから、玉田君は屋上に来ていない。

彼が来ないと分かっていても、あたしはあの場所に通っていた。今日はバイトがないし、どうせすることもない。君は、いないんでしょう?

 半分くらい意地になって荷物をまとめて教室を出た時だった。知っている後姿が廊下の向こうに見えた。

彼だ! いつも正面か、横顔を見ていたのにさらさらとした男子にしては少し長くて野暮ったい髪とよれたシャツは間違いなく彼だと思った。

 咄嗟に、その後姿を追っていた。

「ねえ!」

 もう少しで追い付く距離で声を張ったのに、彼は何も聞こえなかったかのように反応がない。

「あのさ!」

 いつもならこの呼びかけで振り向いてくれたのに、今は届かなくなっていた。だから、あたしは勇気を振り絞って彼の名前を呼んだ。

「玉田君!」

 ぴたりと足を止めた彼が振り返った。彼の顔にはなぜか右の頬に青痣と前髪隠れるようにして白い絆創膏があった。

「……七瀬、さん?」

 彼はあたしの名前を知っていた。一度も教えたことはなかったはずなのに。


 あたしが大声を出したせいで、周囲の目があたし達に集まっていた。

「ちょっと話があるの。ついてきて」

 すると彼は戸惑った様子で視線をそらす。動こうとしないのであたしは意を決して彼の手を引き、あの場所に向かった。

「俺の噂、聞いたんでしょう? じゃあ、一緒にいないほうがいいよ」

「どうして分かるの?」

「俺の名前を知っていたから……」

 階段に着くなり、彼は言った。あたしは手を握ったままで返した。

「その傷、あたしのせいでしょう?」

「なんでそう思うの?」

「あたしの名前、知っていたから」

 彼は何か言おうと口を動かしたけど、あたしと目が合うとしばらくしてふっと諦めたような笑みを浮かべた。

「君、人気者なんだね。最近どうして君といるか聞かれて、別にって答えたらこうなった」

「そうよ、あたしモテるから」

「自分で言うんだね」

「女だもの。自分がカーストのどこにいるかってことぐらいちゃんと分かっているわ。武器は、使ってなんぼだもの」

「君のそういうところがいいって、あいつらも言ってたよ」

「ありがとう」

 そう言って口の端を上げてみせると、彼も笑った。

「でも、やっぱこれ以上は一緒にいないほうがいい」

「なんで」

「みんなが言ってることは事実なんだ。少し違うけど、俺は犯罪者の親戚じゃなくて家族なんだ。兄は、両親を殺した人間なんだ。俺はその弟で、だから――」

「ごめん、全部知ってるよ」

 玉田君がえっ? と目を丸くしてあたしを見る。

「玉田君、隣町にあるヘンリエッタっていう喫茶店を知ってる?」

 その言葉に彼の瞳はさらに大きく見開いた。

「知ってる。そこは、あの時……」

「あたし、そこでバイトしてるんだ。そしたらこの前、店長がそういえばって話をしてくれて。それで、玉田君のことだと思ったの」

 それからしばらく彼は黙り込んでしまった。あたしも次の言葉が見つからなくて、なんとなく上靴のつま先を見る。四月に新しくした上靴は、もうくすんだ色をしていた。

「喫茶店の人たち、元気……?」

「ああ、うん。店長も奥さんも元気だよ」

 そうなんだと彼は言い、ふらふらと階段に腰かけた。あたしは隣に座るのは少し恥ずかしく思えて壁に背中をあずける。

「そういえば、前に勧めてくれた本読んだよ」

 それから全く違う話題を振った。これ以上の沈黙に耐えれなかった。この様子では話題に乗ってくれるか不安だったが、彼もああと、努めた明るい声で答えてくれた。久々に二人きりで話をした。しばらく話していなかったせいか話題が尽きなくて、泉から水があふれるように話続けた。

 それでも、あたしは彼の噂のことはそれ以上聞かなかった。興味がないかと聞かれれば嘘になるが、彼を傷つけるようで嫌だった。

あたしはどこかで彼が“きずもの”であることを願っていた。そして願うと同時に一つの決意をした。彼を守らないと、と。


「西倉、これ」

 前から回ってきたプリンを渡そうと振り返ると、西倉は頬杖をついて明後日の方を見ていたので仕方なく声をかけた。返事はない。

「ねえ」

「あのさ、なんでまだ玉田と仲良くするの?」

 貼り付けたような笑顔の裏に、暗いものが滲んでいた。

「仲良くしたらいけない理由なんてあるの?」

 あたしも笑顔で質問を質問で返す。ここで戸惑うかと思ったけど、さすが数多くの修羅場を乗り越えている男だ。全く動じた様子はなくて、

「相手のことも、考えたほうがいいぜ」

それだけ言うと彼は机の中に視線を落として何かを探し始め、再び目が合うことはなかった。あたしも視線を前に戻すと、ちょうど教科担任の先生が入ってくるところだった。

「西倉こそ、変なことしないでよね」

 西倉の右手のこぶしのところに白い絆創膏があることは数日前から気が付いていた。彼は男子の中でも目立つ存在で影響力がある。それに今回のことの中心だと思ったので、布石を打っておくことに損はないはずだ。

 それから、玉田君の顔や手に痣が増えることはなく、少しずつ色を変えて消えていった。

「うわぁ、突然なに?」

「良かった、傷跡も残ってないみたい」

 隣で膝にのせた本を読む彼の前髪をかきあげて確認した。羨ましいほど白くて滑らかな肌に傷が残らなくて良かったと心から思う。

 そういうことか、と驚いた顔をした彼が微笑む。笑うと垂れ目がはっきりと分かり、子犬のようだと思った。こういう顔をされると、あたしはいつも抱きしめて頭を撫でたくなってしまうから困る。

「西倉にはちゃんと言っておいたから」

「え?」

「えって……西倉じゃなかったの、玉田君に暴力を振るったのって」

 彼は首を振った。

「違うよ、殴ったのは別の人」

 あたしは血の気が引くのを感じた。

「うそ……あたし、てっきり西倉の手に絆創膏があったから、玉田君を殴った時にできたのかと思って……」

「それは俺を助けてくれた時にできたんだ。傷の手当てをしてくれたのも西倉君だよ」

「そうなの、あたし勝手に勘違いして……」

 謝らないと、そう思って立ち上がった。でも、あれから席替えをして席を離れたせいで話していない。

「もう行かないと。バイトに遅刻するよ」

 腕時計を見た玉田君に背中を押された。

「じゃあまた明日ね」

「ああ、うん……」

 荷物を持って階段を下りたところで振り返る。彼が小さく手を振ったのであたしも答えて早足に学校を出た。いつか、西倉にちゃんと謝ろう。そうは決めても、じゃあどうやってと考えた時、なにも頭に浮かばない。

戻ってきた放課後は前と変わらず淡白なものだった。周囲も諦めたらしい。あれから誰も、何も言ってこなくなった。玉田君の顔にできた痣も周りから黄色くなっていって目立たなくなってきている。

それでも、彼の噂は絶えなかった。絶えるどころかヒートアップしていて、あの事件の記事を見つけた誰かがそれをコピーして校内中に貼った。そのせいで全校集会が開かれ先生たちはでたらめだから信じるなと口を揃えていたが、その必死さが現実味を添えてしまった。

殺人者の弟ということでいじめられることはなくなったらしいが、次は近付く人がいなくなってしまったらしい。それでも彼は平然としていた。



 そんな彼の変化に気付いたのはそれから半月ほど経った頃だった。



良く晴れた、春の絵の具を広げたみたいな水色の空が広がる土曜日、あたしは毎月の習慣である場所に向かっていた。家から一番近い駅の近くある白い建物。ドアを開き中に入る。薄いピンク色を基調としたここは子宮の中にいるような不思議な感覚になる。

 はーいと奥から声がして、

「亜紀、待ってたわ。おかえり」

 あたしを見るなり銀の眼鏡の奥の瞳を細めて、その人が両手を広げた。

「久しぶり、えっちゃん」

 あたしは両親よりも歳の離れたその人をえっちゃんと呼ぶ。えっちゃんはこの松野産婦人科の助産師で、

「体の調子はどう、変わりない?」

 五年前、あたしの赤ちゃんをとりあげてくれた人だ。


もう五年という月日が流れたのが嘘みたいだ。あたしの時計は止まったままで、動き出す様子さえない。

 あの日、あたしは妊娠した。相手はハル兄。きっかけは、小さいことだった。

 あたしは十一才、ハル兄は一六才。当時ハル兄はいじめられていた。そのきっかけは知らない。でも五月を過ぎたころから学校から帰ってくるたびに傷と痣が増えていった。最初は顔とか首とか見える位置にあったものが見えない位置に移動して行く。色白の細い身体が腐っていくように胸やお腹、太ももに新旧入り混じった痣が増えていくのが生活の中でふと垣間見える。それでもハル兄は笑っていた。あたしや母に心配を掛けたくなかったらしい。

 母は気付いていたはずだ。でも何もしない。あの人はそういう人だから。

 だからあたしは母のような人間にだけはなりたくなくて、どうしたらハル兄が助かるか必死に考えた。学校に行ってハル兄を助けよう、先生に言おう。でも中学一年生のあたしが高校に乗り込んで行くなんてことは出来なかった。もし実行したとしても相手にされない、子供でもそれぐらいのことは分かっていた。

 じゃあ、どうしたらいい? あたしは『助ける』のではなく『救う』方法を考えた。どうやったらハル兄が笑ってくれるだろう、喜んでくれるだろう。その方法を必死に探した。そして、それを見つけたのはインターネットの中だった。

『男の人がよろこぶ方法』露骨なタイトルに、当時のあたしは何の厭らしさも覚えなかった。ただ、見つけた! と思ってそのリンクを開いた。そこに書いてあったものは全く理解ができないものではなかった。最近まで小学生だったとしても、うっすら性に関する知識は持っていた。だから書いてあることが凄く恥ずかしいことだということは分かった。でも、ハル兄は高校生で大人だ。きっと大人だからこういうことが楽しいと分かっている。

あたしが子供だから恥ずかしいと思うだけだ。

そう考えて、背けたくなる目に力を入れてページを読んだ。必死になったのにはもう一つ理由がある。最近、ハル兄が笑わなくなったのだ。いじめは日に日にエスカレートしていたらしく、それでも学校に向かおうとする姿は痛々しくて見ていられなかった。だから、

「今日は一緒に学校を休もう、もう学校なんて行かなくていいよ」

 母が仕事に向かい、重い足取りで玄関を出ようとするハル兄の背中に抱き着いた。ハル兄の身体は思っていた以上に細くて、弱くて、頼りなくて、

「亜紀……」

 振り返ったその顔が苦しさに歪んでいた。崩れ落ちる身体を全力で支えた。

 大丈夫、大丈夫。腕の中で泣き叫ぶ、小さな子供のような姿のハル兄を見た時、あたしが守らないとという使命感と同時に抑えようのない愛おしさに震えた。

 なんでもしてあげたかった、あたしにできることなら、どんなことでも。

「ハル兄が望むなら、なんでもするよ……?」

 あたしはインターネットで見たように、ハル兄の右手を掴んでスカートの中に滑り込ませた。手の冷たさとくすぐったさでぶわっと鳥肌が立つ。それでも動かそうとしないハル兄の手首を持ったまま、さらに奥へと誘った。

 次第に冷たかったハル兄の手が熱を帯び始めた。さっきまで腕の中にいた身体が覆いかぶさっていて、耳元でする息は荒くて熱い。手首を離すと、力のなかった手はまるで猛禽類みたいにあたしの太ももに爪を立てた。

 身体が突然ぐらりと揺れて、咄嗟にハル兄の首元に抱き着いた。そのまま抱えられて居間のソファーに下ろされる。

 馬乗りになったハル兄が乱暴にあたしの服のボタンを外した。そして、その下に着ていた白のキャミソールのブラジャーを勢い良く捲った。長く伸ばした前髪のせいでハル兄の表情は見えない。でも、今目の前にいるのはあたしの知っている人ではなかった。ハル兄の動きが一瞬だけ止まる。

 その時のあたしはまだ気付いてなかった。自分の身体が思っている以上に綺麗だということを。そして、小学生の割には発育がいいことを。

 震える指先があたしの乳首に触れ、身体がびくっと痙攣した。そして同時に高くて艶めいた、自分の物じゃない声が漏れた。それに挑発されるようにハル兄の力が強くなり動きに迷いがなくなる。貪るように触れられ、思わず悲鳴を上げそうになった。次第に下の方にハル兄の身体がずれて行った。簡単にスカートのホックは外され、パンツが下ろされる。そして、あたしの、女の子の一番柔らかく大切ところを触れられ、あたしは一際大きく喘いだ。ぴちゃぴちゃと水溜まりを弾く様なおかしな音がして、それは次第にぐちゃぐちゃと激しくなる。足の付け根から足先がツンとレモンを食べた時のような痺れを伴った痛みがして、腰が弓なりになる。息をするのが苦しくて、上手く吐けない。

「……亜紀、いい?」

 やっと見れたハル兄の表情には鬼気迫るものがあって、あたしはなにがいいのか分からないまま曖昧に頷く。かちゃかちゃとハル兄がベルトを外す音がした。そして、何の準備もしていないあたしの身体にそれは無理矢理に入れられた。

 引き裂かれるような痛みが走る。一体、何が起きたのか分からないけど、あたしは必死にハル兄の腕にしがみついて痛みに耐えた。そのうちハル兄の身体が上下するようになって激しさを増していった。

 突かれる度に鋭い痛みが走る。でもそれに耐えられるほど足に力が入らなくなっていて、身体がバラバラになってしまったような気持ちになる。身体はここにあるのに意識はなぜか天井から見下ろしているようで不思議だった。

 冷静な頭で考えていた。あたしとハル兄がしていることは間違っているのかもしれない。でも、あたしの周りの大人には間違っていることを教えてくれる人がいなかった。父はあたしが生まれる前に亡くなっているし、母は子供に興味がない。親戚も分からないし、先生だって教えてくれてはいない。だから、これが間違いだと断定できなかった。

 そして、あたしの身体はこうなる運命を知っていたのかもしれない。周りの子よりも生理が始まるのが早く、一三歳ですでに周期は安定していた。

 だから、その一回で、あたしは簡単に妊娠をしてしまった。


 大変だったのはそれからだった。

 周期的に来ていた生理が来なくなったことはさほど気にしていなかった。あの頃の私にはそれほど重要ではなかったのだ。次第に身体が変わってきていることには薄々気が付いていた。気分が悪い、ご飯が食べれないのに吐いてしまう。お腹が、身体が気持ち悪い。重たい。でも誰にも気付かれたくなくて必死に隠した。特に大人の女には見つからないように必死だった。その時は何かの使命感のような気持ちでやっていたけど今思えば生理的な反応だったのだろう。

 だから、無理して参加したマラソンの練習で目の前が霞んで見えなくなった時、このままの限界を知ると同時にやっと終わるんだという安心もあって、私はお腹を抱えるようにして地面に倒れた。

 次に目が開いた時、側に座っていた保健室の田畑先生が安堵の表情ではなく苦い顔であたしを見ていた。あたしはそれだけで全てを悟った。初めていけないことをしたんだと、悪いことをしたんだということが分かり、俯いて口を閉じるしかなかった。

「……いつからだったの」

 静かにぶつけられた声はあたしの芯を凍てつかせる。

「分からない、です」

 事実だった。もうずっと身体がおかしい気がしていたからいつからかなんて覚えていなかった。

「相手は」

「お兄ちゃん」

 でもこれだけは確実だろうと思った。田畑先生の目が一瞬大きくなって、深い息とともにさっきよりもさらに細くなった。

「そういうのって、なんて言うか知ってる? 七瀬さん」

 保健室なんて滅多に行かないから、初めて先生に名前を呼ばれた。あたしは動けなくなって首をすくめたまま目だけを向けた。

 先生はしばらくあたしを見つめて、溜息と同時に立ち上がった。

「いいわ、そのうち分かることよ。私なんかが言うより悦子から説明したほうがいいわよね」

 突然、突き放された気持ちになった。ひどく寂しくて手を伸ばしてしまう。先生のライムグリーンのシャツを掴む。離れて欲しくなかった。いやいやと駄々っ子のように首を振った。こんなこと母にさえ一度もしたことがないのに。

 あたしが必死だったせいか、そっと手を重ねた先生は再び腰を下ろしてくれた。そして、

「あなたとお兄さんがしたことはね、世間ではやってはいけないことなのよ」

 言葉を慎重に選びながら先生が言う。近親相関。先生はきっとそう言いたかったのだろう。でも子供のあたしじゃ伝わらないと、言葉を洗って、そぎ落として、こねて、柔らかくして与えてくれた。その優しさが嫌いだった。先生は大人であたしは子供。それをまじまじと見せつけられるようだったから。

 それから会話が生まれなくなって、一時が過ぎた。するとふいに奥のドアが開き女の人が顔を覗かせた。

「話はできた? そろそろかなと思って」

 立ち上がった田畑先生は逃げるみたいに早足にその人に寄って、二人はドアの向こうに消えた。手を伸ばす暇もなかった。取り残されたあたしはどうしたらいいのか分からなくて、被っていた毛布を引き上げて顔を埋める。優しい柔軟剤の匂いがしてやっと深く息を吸うことができた。なんだかずっと苦しかった。こんなふうに息をしたのはいつぶりだろう。目を閉じて、何も考えないようにした。これから起こることがいいことじゃないことぐらい、子供のあたしでも分かっていたから。

 しばらくするとまたドアが開いた音がした。見るとさっきの女の人だった。

「はじめまして、七瀬亜紀ちゃん」

 にっこり笑うその人は夏の花みたいで好きだった。

「助産師をしています松野悦子です。助産師って分かるかな」

「赤ちゃんを産むときにいる人でしょう?」

「そう、でも赤ちゃんだけじゃないの。助産師は女性の全てを見る仕事なの。今から亜紀ちゃんにはとっても大事なことを説明するね。でももう少しでお母さんが来るからちょっと待って」

 お母さん、という言葉に全身の細胞が反応した。

「言わないで!」

 考える前に声が出た。女の人は驚いて動きを止める。

「あの人には、言わないで……」

 知られたくなかった。どうせ知ったって何もしてくれない。だって母はあたしに興味がないから。だったら、お願い、何も、何も、言わないで。

 けれど、こんな状況になってからその願いは叶うはずがない。

「ごめんね、でももうある程度の話はしてあるの」

 裏切者! あたしは目の前のその人を刃物で切りつけてやりたかった。どうしようもない恥ずかしさに襲われて、汚れた感情がふつふつと湧いてくる。

 睨みつけていると、その人は眉をへにゃりとさせて弱った顔をした。あたしはどうにも感情を抑えられなくなって、でもこの人に当たってしまうのは間違いだと思って布団を勢いよく頭まで被って背を向けた。

 それから音が消えてしばらくしていた。布団の中の暗さのせいでうとうとしているとガチャッとドアが開く音がして、反射的に身体を起こしてしまった。

「あっ……」

 次の瞬間、後悔した。想像していた通り、母はあたしのことを、ゴキブリを見るような目で見ていたから。

「ああ、来て下さったんですね。七瀬さん」

 助産師の女の人は席を立ち、会釈した。母はドアの前から一歩も動かずに小さく頭を下げる。

「事情は田畑の方からお話しさせていただいたと思いますが、これからのことをどうするか二人で――」

「下ろしなさい」

 初めて真っ直ぐ目を見て言われた言葉が、それだった。ツカツカとヒールの音が部屋に響いて、母はあたしの前に立ちもう一度口を開いた。

「下ろしなさい!」

「嫌!」

 あたしは叫んだ。でも母は怯むことなくあたしの肩を掴んでまた下ろしなさい! と叫んだ。

 子供なんて欲しいと思ったことはなかった。だってあたしはまだ十三歳で、結婚も出産も、恋愛だってちゃんと考えたことがないのに。でも、母の言うことに従うのが嫌だった。

 もっと違う、別の言葉が欲しかった。大丈夫って、抱きしめて欲しかった。でもそんなこと不可能なことぐらい分かっていたのに、少しでも期待してしまった自分が馬鹿みたいで、そんな自分を殺してしまいたかった。

「子供なんて産んで、小学生のあんたがどうやって育てるのよ! しかも陽斗との、兄妹の間にできた子なんて周りに知れたらなんて言われるか!」

「赤ちゃん、産むもん! ちゃんと育てるもん!」

「子供はペットじゃないの! 馬鹿なこと言わないで!」

 両肩に食い込む母の手を何度も剥がそうとしてはまた掴まれる。それを繰り返す。

「離して、触らないでよ!」

 何度も絡みついてくる手が鬱陶しくて、

「どうせ、あたしのことなんてどうでもいいんでしょう! じゃあ放っておいてよ! 勝手に産んで、勝手に育てるから!」

 次の瞬間、強い衝撃が左の頬に走った。乾いた音に少し遅れてぴりぴりとした痺れに似た痛みが走る。何が起こったのか、分からなかった。

 視線を上げるとあの人も何が起こったのか分からないと言った顔であたしを見て、そして下ろした先にある右手を見つめた。

「うぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 あたしはわけが分からなくなって、叫んだ。ベッドに立ち、目の前のあの人に勢いよく突き飛ばす。バランスを崩したあの人はふらふらと揺れた後、すとんとあたしの視界から消えて、なにか張り付く様な潰れるみたいな音がした。

 無様に床に尻をついてあたしを見上げるあの人に飛びかかろうとした時、

「いい加減にしなさい!」

 はっきりとした、強い声に抑えられた。頭の中にあったものが全て消えてしまい、あるのは息を切らしたあたしと、同じように息を切らして見開いた眼であたしを見つめる母だった。

 自分が今から何をしたかったのか分からなくなって、とりあえずベッドに座り直して息をした。

「あなたたち、親子じゃないの? どうしてこんなことになるのよ。あなた母親でしょう? 小学生の娘が妊娠したのよ。もっと伝えてあげる言葉があるんじゃないの?」

 それから目の前で起きたことを、あたしはガラスの向こうの、こことは違う世界の出来事のような気持ちで見ていた。

 あたしの前に立ったその人は、母を叱っていた。あたしが言いたくても言えなかった言葉も交ぜて。

どうして、この人はあたしを守ってくれているのだろう?

 不思議だった。全くの他人であるはずなのに、どうして。

 あの人は何も言い返さなかった。しばらくして目の前の人の言葉が止むと同時に立ち上がりドアの向こうに消えた。あたしはただその一連の流れをぼうっと見ていた。

「亜紀ちゃん」

 振り返ったその人はなんだか泣きそうな顔をしていた。あたしが頷いてみせると、再び口を開いた。

「本当に、赤ちゃんを産みたいの?」

 あたしはすっかり忘れていたことを思い出す。でも、それが結局、答えだったのだ。その人は全てを悟った顔でそうと頷いた。

「お母さんが落ち着いたら、日程を決めましょうか」

 ふいに撫でてくれた手はとても暖かくて、

「……うん」

 あたしは泣いてしまった。涙は止めようと思ってもできなくて、拭えば拭うほど零れて、息が苦しくなった。そんなあたしを服が汚れてしまうことも気にせずにその人は抱きしめてくれて、それがまた嬉しくてたくさん、たくさん泣いてしまった。

 それがあたしとえっちゃんの出会いだった。


 それからの流れは、本当にあっという間だった。

 次の水曜日にあたしはえっちゃんの産婦人科に母とハル兄と向かった。あの出来事の後、ハル兄にも話が伝わっていた。家に帰りただいまを言うと顔を上げないままハル兄はごめんと言った。まさか、こんなことになるとは思っていなかったんだと。いいよとあたしは言った。でもハル兄は首を振って僕のせいだと泣き出した。母は何も言わず横を過ぎて部屋に戻って行った。

 残されたあたしはハル兄と頭を撫でて何度もいいよと言う、でもその度にハル兄はごめんと泣いた。わずかに抱いたのは失望だった。僕たちのせいではなく、僕のせい。そこにあたしはいないのだろう。

 結局、傷つくのは、いつもあたしばかりだ。

 その日は朝から誰も口を開かず、家を出て車で向かった。

「おはよう、亜紀ちゃん」

 優しい微笑みで迎えてくれたえっちゃんに縋るようにして、あたしは二人の顔も見らずにさよならをした。

 腕に針が刺さり、そこから点滴が繋がった。

 それからの痛みは覚えていない。いつの間にか、全てが終わっていた。


「急に電話して、ごめんね。忙しいのに」

「大丈夫よ、まだ満月には遠いし今は落ち着いている方だから。亜紀こそ、もう新しいクラスには慣れたの?」

「うん、グループもできたから大丈夫だよ。美香もいるし」

 それならよかったと、えっちゃんは笑顔で頷く。

「それに、ビートルズの話ができる人もできたの」

「え、本当に!」

 目が突然に輝いた。えっちゃんは洋楽が好きで、特にビートルズが好きだ。クリニックの中でゆったりと流れているオルゴールの曲もビートルズだったりする。それからしばらくえっちゃんのビートルズトークが始まった。こうなると止められないけど、彼と話していたおかげで前よりも話が分かるようになっていた。

「それにしてもいい友達ができたわね。いつかここに連れてきて」

 両手を合わせてお願いされる。

「うーん、でも男子だから産婦人科には入りづらいかも」

「えっ、男の子なの?」えっちゃんが一重の瞳をパチクリさせた。「彼氏?」続けてあまりにもストレートな言葉が来る。

「ち、違うよ。へんなこと言わないで」

 カッと顔が赤くなるのを感じて目を背ける。しかし、

「亜紀ちゃん、彼氏できたの?」

 違う声がして振り返ると、子供を抱いた、綺麗な女の人が立っていた。

「真由ちゃん!」

「久しぶり。なになに恋バナしてるの? 私も入れてよ」

 ずいずいと顔を寄せて来るのはえっちゃんの娘の真由ちゃん。そして真由ちゃんの腕の中にいるのは、

「花恵ちゃん、大きくなったね」

 去年の夏に生まれた、真由ちゃんの娘の花恵ちゃんだ。この前会ったのは半年前だったと思う。その時はもっと小さくて、首も座ってなかったのに今ではもうぷくぷくに大きくて髪もふさふさになっていた。真由ちゃんの腕から逃げようと手足を動かしていて、真由ちゃんもすかさず抱え直している。

「もうお座りもできて、歯だって生え始めたのよ。でも夜泣きがひどくて、もう大変」

 眉を寄せて笑う真由ちゃんの苦労なんてどこ吹く風で、花恵ちゃんはきゃーとかあうわーとか声を上げて楽しそうにしている。

「抱っこする? 結構重いけど」

「いいの?」

 もちろんと言われ、あたしはちょっと緊張して側にあった診察ベッドに腰かけた。後ろ向きで花ちゃんがあたしの太ももの上に座り、あたしは落とさないようにぎゅっと柔らかくて温かいお腹を抱く。花恵ちゃんはきゃっきゃと騒ぎながら目の前にいる真由ちゃんに手を伸ばす。小さすぎる頭に顔を近づけるとヨーグルトのような甘酸っぱい香りがして、赤ちゃんなんて花恵ちゃんしか抱っこしたことがないのに不思議と懐かしい気持ちになった。

 あうあうっと花ちゃんの声が湿っぽくなったので、あたしは慌てて真由ちゃんを見た。

「真由ちゃん、花ちゃんそっちに戻りたいって!」

 はいはいと真由ちゃんの手が伸びて花ちゃんの身体がひょいと持ち上げられた。すると、すぐに声はまた楽しそうなものに戻る。

 やっぱりママがいいよね。そんなの当たり前のことなのに、どこか寂しい気持ちになる。

「はあ、かずくんも亜紀ちゃんぐらい抱っこしたりしてくれたらいいのに」

 溜息と共に真由ちゃんが呟いた。かずくんとは真由ちゃんの旦那さんのことだ。

「旦那さん、あんまり抱っこしないの?」

「そう、なんか怖いみたいなのよね。でも自分の子なのよ?」

 怪訝そうな顔をする真由ちゃんにまあまあとえっちゃんが口を開く。

「男の人は出産しないから、女とはまた感覚が違うのよ。あんたもいい加減へそを曲げてないで帰りなさい」

「嫌、だってまだ許したわけじゃないもの」

「何かあったの?」

 聞いていいかものか悩んだけど、気になって聞いてみた。

「この子、旦那と喧嘩して帰ってきちゃったのよ。それで今日で一週間になるの」

「だって、かずくんが悪いのよ? 夜中に花恵が泣いてもあやしてくれないしおむつだって変えてくれないし、もっと協力してくれたっていいと思うわ」

「世の中の男の人がみんなイクメンなるわけじゃないの。しっかり働いてくれてるんだからいいじゃない。もっといいところを見てあげなさい」

 えっちゃんの言葉に真由ちゃんは頬を膨らましてそっぽを向く。すると話を聞いていたのか、少しの間大人しかった花恵ちゃんが突然、大きな声を上げて泣き始めた。

「ほら、花恵だってお父さんに会いたいって言ってるわよ」

「分かってるよ。亜紀ちゃん、ごめんちょっと向こうに行くね」

 そう言って真由ちゃんは扉の向こうに行ってしまった。

「夫婦になるのも大変なんだね。でも、花恵ちゃんのことを考えたらお父さんとお母さんは一緒にいたほうがいいよね。まあ、あたしはお父さんを知らないし、お母さんっていってもあんな感じだし、偉そうに言えないけど」

「そんなことないわ。亜紀はいいお母さんになると思うけど」

「どうして分かるの?」

 えっちゃんを見ると、彼女は少しだけ首を傾けてなんとなくと笑った。

 それからしばらく話していると入り口の扉が開く音がした。どうやら次の診察の人が来たみたいだ。あたしはえっちゃんにお礼を言ってクリニックを出る。外はちょうど太陽が真上に来ていて、もう熱いくらいの日差しが降り注ぐ。その日は近くの洋菓子店でいちごのケーキを食べてから帰った。


 それから二週間は中間考査の勉強で過ぎて行った。その関係でテスト後にまた会おうと玉田君と約束をしていた。

 テストが終わった日に連絡をすると、彼から明後日の日曜日に会おうと言われ、あたしは突然のお誘いにびっくりした。えっちゃんの「彼氏?」と言う言葉を思い出し、一人部屋の中で恥ずかしくて顔を隠してしまった。

 日曜日、約束の時間ギリギリに約束の場所に着いたあたしは、先に来ていた彼を見つけた。

「遅くなって、ごめんね」

「いや、遅刻はしてないと思うよ。ほら、だって……」

「こういう時は、大丈夫、俺も今来たところって言うんだよ」

 腕時計を見ようとしていた彼を制すると、キョトンとした顔をされ「そっか」と呟いた。

「じゃあ、行こうか」

「どこに?」

 そういえば今日のプランは何も聞かされていなかった。あれから連絡は今日の誘いが来たきりだったのだ。

「本屋さん」

 きっと彼は無意識なんだろうけど、本屋にわざわざ「さん」を付けてしまうのはどこか可愛らしいと思った。


 それからあたしたちはバスに乗って、市内の駅に隣接している大型書店に入った。彼は迷うことなく小説の方に向かう。

「これ、この前言ってた作家の本」

 彼が見せたのは理系ミステリィだった。

「あ、ドラマ化されてたよね。へえ、発売されたのって結構前なんだ」

 本棚を一歩進む度にお互いの好きな本があって、その都度立ち止ってしまうからなかなか前に進まない。ここ二週間会話ができていなかったから、その時間を埋めるように話が続いた。

 結局、書店だけで一時間近い時間を過ごしていた。そろそろお腹が空いてきたのでファミレスに入り、好き物を頼む。玉田君はチーズインハンバーグであたしはカルボナーラ。お互い単品だった。

「そういえば、生活費とかってどうしてるの?」

 彼は生活感が無いので、ずっと想像できずにいた。一体、どんな風に生きているのだろう。

「保険金と親戚からお金をもらってる。まあ、親戚にはこれから全部返すんだけど。あとは、バイト」

「バイトしてるんだ。何のバイト?」

「コンビニ」

「へえ」

 どこのコンビニなんだろう。そう思ったけど、あんまり質問ばかりすると気持ち悪がられる気がして、それ以上は聞けなかった。

「七瀬さんも、あの喫茶店でバイトしてるんだよね」

「そうよ」

 ハンバーグを切る手が止まり、しばらくじっと一点を見つめていた彼だったが、再び動き出しても返事はなかった。

 それからCDショップ行き、ぶらぶらしてから帰った。いつもと変わらず、特に何もない休日だったけど、あたしはなかなか楽しかった。

 別れ際も彼はあっさりしていて、「じゃあ、また明日」とバス停で手を振って帰っていた。

 オレンジ色の夕日を厚い雲が隠そうとしている。今にも雨が降りそうだった。

 家に帰りながら、そういえばハル兄以外の男の人と一緒に出掛けるなんて、初めてだと気付いた。

 もう少し一緒に居たい気もしたけれど、そう思ってしまうことをなんだか受け入れられない自分が心の中にいて、やっぱりあたしを家に向かわせているのはハル兄の笑顔だった。


 翌日に顔を合わせても、昨日の話にはならなかった。なんだか話してはいけない雰囲気になり、いつも通りお互い隣で好きなことをしている。その方がありがたかった。だって昨日のことは非日常だから。どう話していいか分からなかったから。だから、いつもと変わらない日常に安心していた。

 でも、この時から彼は悩んでいたのかもしれない。

 それから三日後、彼の様子がどこか変だった。具体的に何がと言われると難しいが、ほぼ毎日一緒にいるからなんとなく分かる。

 いつも会話のないところに、「あのさ」と彼は何度も会話を生もうとしていた。でもその先はなんでもないもので、そうだね、とかそうなんだとかそう言ったあたしの返事で終わってしまう。四回目の「あのさ」が出た時、あたしはどうしたのと声を上げてしまった。

 自分でも思った以上の大きさの声が出てしまい、しばらくの沈黙が生まれてしまった。

「ごめん、何回も言って。聞いて欲しいことがあるんだ」

「聞いて欲しいこと?」

「なんというか、お願いなんだけど……あ、嫌だったらいいんだ。だって普通はこんなの頼まれても断るだろうし。嫌だと思うし」

「嫌って……まだなにも聞いてないから断ることもできないよ。どうしたの? 今日変だよ」

「ごめん……」視線を下げた彼の目を、長い前髪が隠してしまった。そのまま動かなくなる。あたしはこの前のファミレスでのことを思い出した。

 あまりにも沈黙が長いので寝てしまったのかと思ったが、唐突に声がした。

「実はさ、兄ちゃんが……玉田夏生が少年院から出て来るんだ」

「え、いつ?」

「今度の日曜日。昨日の夜電話があって、迎えに来て欲しいって言われて。いや、二カ月ぐらい前から仮退院の話はあったんだ。それで俺も引っ越して一人暮らしを始めたんだけど……いざ四日後に帰ってきますってなったら、どうしたらいいか分かんなくなって」

 うなだれたままの彼の口の端から深い溜息が漏れた。きっとその色は灰色だろうと勝手に想像する。

「でも、迎えには行かないといけないんでしょう?」

「うん」

「それで、お願いっていうのはどういう――」

「一緒に、迎えに行って欲しいんだ」

 あたしが言い終わるよりも早く玉田君が言った。いつもよりはっきりとした彼の声に、少しだけ驚いてしまう。彼はさらに続けた。

「こんなこと、親戚でもない七瀬さんに頼むのは変だって分かってる。でも、他に頼れる人もいなくて。最初は一人で行こうと思ってたんだ。でも、兄ちゃんに会った時のことを想像したらどんな風に接したらいいのか分からなくて……」

 彼は両手で頭を抱えるように、うなだれて髪を鷲掴みにした。また、灰色の溜息が漏れる。

「あのさ、玉田君はお兄さんのことどう思っているの?」

 えっと彼が顔を上げた。不意を突かれた様子で、あたしの目を見る。

 彼の傷には触れないでいようと思っていた。だから、彼の噂は本当で、六年前の事件の関係者だと分かっても、何も聞かないようにしていた。彼もあたしのプライベートなことについては聞いて来ないし、お互いそれでいいと思っていたのだろう。

 でも、本心ではどうしても知りたいことがあった。それは、親を殺した兄を弟はどう思っているのか、と言うことだった。

 彼の目が、ふと静かなものになった。どこか、遠くを見ているようだ。

「七瀬さんは、あの喫茶店で働いているなら事件のことは知っているんだよね」あたしは正直に六年前のことを詮索したことを話した。しかし、彼はいいんだと首を振る。「普通のことだと思うし、それでも一緒にいてくれたから凄く感謝してる。じゃあ、もうあの日のことが教育に厳しかった両親に耐えきれず、兄が両親を殺したって理由になっていることも知っているよね」

「うん、新聞に書いてあったのを見たよ」

「でも、本当は違うんだ」

 驚いて、言葉が出てこなかった。色々当時のことについて調べたが、理由は一貫してそれだった。実際に殺害した長男が証言したと、どこのメディアにもあった。

「本当は、俺を守るためだったんだ。うちの親は兄ちゃんしか可愛がらなかった。別に俺だけ血が繋がってないとかじゃないよ。でも同じ血の流れる兄弟でも、兄ちゃんは顔が良くて、勉強もできるから母さんの自慢だったし、スポーツもなんでも人より上手くできるし、生徒会長もしていたから父さんの自慢でもあった。それに比べたら俺は全然ダメで、なんでも人並みかそれ以下しかできなかった。だから父さんも母さんも俺が疎ましかったんだと思う。毎日のように怒鳴られるし、殴られるし、ご飯だってなかった。だいたい、いつも兄ちゃんがこっそりご飯をくれてたから、どうにか

死なずにすんでいたのかも知れない。なんか大袈裟に聞こえるかもしれないけど、本当のことだよ」

 ははっと、彼は笑ったけど、あたしは全然笑えなかった。ただ六年前の冬樹少年が心配だった。

「それ、虐待だよ。誰かに助けを求めなかったの?」

「求めなかったよ。だって、物心ついた時からそうだったからそれが虐待だと分からなかったんだ。だた俺が両親の期待に沿えない悪い子だから怒られてるんだと思ってた。でも兄ちゃんだけは優しかった。親が殴ったりする時は助けてくれなかったけど、親がいないところで傷の手当をしてくれたり、ご飯を分けてくれたり、遊んでくれた。毎日がそういう生活だったから、それが日常だったんだ。でも、兄ちゃんだけは違ってた」

 ここで彼は一息ついた。ここまで、まるで台本を読むように感情のない言葉が流れるようだった。

「あの日、事件があった日も普段と変わらなかったんだ。みんながご飯を食べている時は、俺は別の部屋にいた。でも、兄ちゃんが来て父さんと母さんが一緒に食べていいって言ったんだ。凄く嬉しくて走って行ったけど、もう食べ終わった後だったし、父さんも母さんもびっくりした顔で僕を見てた。それで、どうして来たんだって父さんが叫んで殴ろうとした時、兄ちゃんが父さんをナイフで刺したんだ。最初は何があったのか分からなかった。殴られる思っていたから目を閉じていたんだ。でもなかなか痛みが来なかったら目を開けたら、目の前に兄ちゃんがいた。悲鳴を上げた母さんが父さんに駆け寄ろうとして母さんも刺された。別々のナイフだったことはニュースでもあっただろう。それからまだ息があった父さんの方のナイフを引き抜いて、何回も、息が止まるまで刺した。そして血だらけのまま一緒に外に出たんだ。雨の中をしばらく歩いて、あの喫茶店に入った」

 それから、しばらくの沈黙が流れた。どう、言葉を返したらいいのか分からない。

 きっと、お兄さんだけはこの日常を終わらせないといけないと思ったのだ。弟を守らないといけない。だから、親を殺してでも守ろうとした。

「兄ちゃんは、虐待をする親が許せなかったんだと思う。完璧主義なところがあったし。それから兄ちゃんは少年院に入って、俺は遠い親戚の家に預けられることになった。親戚の家族は凄くいい人でさ、そこで初めて今まで虐待をされていたことを知ったんだ。でも、兄ちゃんが少年院から退院するって連絡があって、俺もこれ以上迷惑はかけられなかったから戻ってきた。兄ちゃんには感謝してる。今考えると、そのうち俺は親に殺されるかも知れなかった。当時はまだ小学生だったけど、そういう怖さはあったんだ。ああ、俺は父さんと母さんに殺されるかもしれないって。でも、あの時はどうすることもできなかった。だけど、」

 玉田君の言葉が突然途切れた。今まで遠くを見ていた目から、

「え……どうしたの、だ、大丈夫?」

 一筋の涙が落ちた。とっさに手を伸ばそうとしたら、彼があたしの方を見た。なぜか、笑っていた。彼はもう一度、だけどと繰り返す。

「だけど、どうしても素直に思えないんだ。兄ちゃんは俺を助けてくれた。でも、怒鳴られても殴られても、殺されたとしても、俺の、ぼくの親はあの二人だけだったんだ。みんな家族だったんだ」

 笑っていた口元が歪み、しゃくりあげた。それを皮切りに、彼の目から涙が溢れだす。

 あたしはとっさに、彼を抱き締めた。腕の中で彼は子供のように声を上げて泣いた。誰かに見つからないだろうか。小さく残った冷静な部分が働いて、あたしは隠すみたいにさらに抱きしめる力を強くした。くぐもった声が腕の中に響く。彼が落ち着くまで、何度も、何度も小さなつむじのある頭を撫でた。

 やっと落ち着いた頃にはバイトに行く時間になっていて、あたし達は校門の前で別れた。彼の目は赤く腫れていて、今日は休んだ方がいいのではないかと提案したが、バイト先の人に迷惑がかかるからと帰って行った。


日曜日の朝にあたしはバス停にいた。彼は少し遅れてやってくると、おはようとだけ言い、来たバスに乗った。あたしも後に続き、乗車するときにICOCAを当てる。ピッと電子音が鳴った。玉田君はバスの一番後ろの左端の席に座り、あたしも少しだけ間をとって隣に座った。

市内の駅前で降り、電車に乗り換える。準急に乗りまたバスに乗り換えた。バスは住宅地を離れ、だんだんと山道に入って行く。次第に人が減り、最後はあたし達だけになった。

突然視界が開けたかと思うと、近代的な建物が現れた。イメージしていた少年院とはだいぶん違っていて、本当にここなのか不思議に思いながらバスを降りる。入り口に学園と表札があり、ぐるりと囲む高いコンクリートの壁と、その上にある有刺鉄線を見つけ、やっとここが少年院らしいということが認識できた。

 しばらく門の前で二人とも建物を見上げていた。

「七瀬さんはここで待っていて」

 やっと口を開いた玉田君の声は硬い。三親等までしか迎えに行けないことぐらいはあたしも調べていた。頷いて、高い壁の日陰で二人を待つ。

 辺りはとても静かで本当に中に人がいるのか分からないぐらいだった。六月の太陽はもうすっかり夏気分で、時折吹く弱い風が山の木々を揺らしてさらさらと音を立てる。鞄にはスマホも文庫本もあるけどどちらも気分じゃなくて、あたしはコンクリートの壁に背中を預けて目を閉じていた。

 玉田君、大丈夫かな。お兄さんってどんな人だろう。どうしても人を殺したことを考えると思い浮かぶイメージはぎょろっとした目をした、今にも襲ってきそうな人を思い浮かべてしまう。でも、きっと違う。よく事件があった時の周囲の反応はこうだ。

まさか、あの人が。

あれからずっと考えていた。お兄さんは玉田君を守るために両親を殺した。全ては弟のため。でも、玉田君にとってはそうではなかった。

その、お兄さんの姿がどうしてもあの日の自分と重なってしまう。あたしだってハル兄のためだった。全てはハル兄を守るため、でも、それは本当に正しかったのだろうか?

孤独がずっと頭の中で渦を巻く。あたしはもしかしたら、ハル兄の大事なものを奪ってしまったのかもしれないと考えると怖くなった。

 どれ考えていただろうか。ふと人の声がした気がして門の前に向かった。見ると建物の玄関に人がいる。その内の一人が玉田君だと分かった。隣に背の高い男の人がいる。男の人は目の前の大人に何度も頭を下げていた。しばらくして二人がこちらにやって来る。門を出ると男の人は振り返り、もう一度背中を丸めるようにして少年院に向かって頭を下げた。

「ありがとうございました」

 小さく掠れる声がした。今にも消えてしまいそうだと思った。長いお辞儀を終え顔を上げたのは想像とは全く違う、綺麗な人だった。

 まさか、この人が。

「待たせてごめん」

 玉田君に言われあたしは咄嗟に首を振った。そこで初めてお兄さんはあたしの存在に気付いた様子で目が合う。初めて見た玉田君のお兄さんはあまり弟と似ていなかった。

 それからバス停まで三人で歩いた。玉田君を先頭に、その少し後ろをお兄さんが歩く。重そうな鞄を肩にかけていた。あたしはその後ろを数歩離れて歩く。お兄さんは猫背で足を引きずるような独特な歩き方だった。

 二人は何も話さなかった。ただ無言でその距離を保っている。

 バスに乗り、行きと同じ駅に着く。丁度お昼時ということもあって、ファミレスに入ることになった。お兄さんはお店に入るなり辺りを見渡していて、あたしたちは禁煙席に案内される。お兄さんは玉田君の横に座った。

 あたしと玉田君はこの前と同じメニューの単品に決めた。しかし、お兄さんはなかなか決まらないみたいで何度もページを行き来している。そしてやっと指さしたのは一番ボリュームのある、鉄板の上にハンバーグと照り焼きチキンと長いソーセージが乗ったメニューのライスセットだった。

 料理を待つ間も、誰も話そうとはしなかった。そのうちに料理が来て食べ始める。そこであたしと玉田君は食べる手を止めてお兄さんを注視してしまった。

 お兄さんは手を合わせるなり箸で勢いよく料理を食べ始めた。飲み込む間も惜しいらしく、口いっぱいに詰め込む。あたしはそれに見とれながらフォークの先に巻いたカルボナーラをゆっくり食べた。

 しかし、結局お兄さんは半分も食べきれなかった。お会計は玉田君が全員分奢ってくれて自分の分は出すと主張したのだが、聞いてもらえなかった。

 最初のバス停に着くころには夕方になっていた。行きも長かったが、帰りはもっと長く感じた。やっぱり、誰も話そうとはしなかった。

 最初のバス停に着き、二人に手を振って後姿を見送る。最後までお兄さんと話すことはなかった。小さくなっていく二人は横に並ぶことはなくて、ずっと同じ距離を保っていた。


 それから半月が経ち、玉田君との会話の中にお兄さんが度々登場するようになった。あれからお兄さんは月に一回保護司という人のところに行きながら就職先を探しているらしい。今は近くのスーパーでアルバイトをするようになり、アルバイト先のおばちゃん達に可愛がられ良くしてもらっているのだと、玉田君は嬉しそうに語っていた。

 良かったねとあたしも言う。二人の関係が上手くいっているようであたしも嬉しかった。だけど、幸せそうに笑うようになった玉田君を心の底から祝えない自分がいることにも気が付いていた。彼の存在が遠くなって行く。置いてきぼりにされたような気分が日に日に募っていて、そんな自分がどこまでも汚い生き物に思えて嫌だった。

 学校を出て、自転車に乗ったまま坂を下る。このまま走っていたかったのに、目の前の信号機が赤に変わった。よりによって、学校の近くの赤に変わると次の青まで異常に長い信号機だ。ついてない。仕方なくブレーキをかけ、左足を下ろす。吐こうとした息が溜息に変わる。

「あれ、七瀬じゃん?」

 久しぶりに聞いた声でもちゃんと覚えていた。振り返ると片手を挙げた西倉がこっちに歩いてくる。隣には女子生徒がいた。多分、三年生だと思う。

 西倉はじゃあねとその女子生徒別れて、こっちに来た。最後に話した日のことを思い出して気まずかったけれど、向こうはそんなこと覚えていない様子だったのであたしも気にしていないふりをした。今では席替えがあったおかげで席も離れて、話すこともなくなった。でも、話しかけてもらえて、ちょっと安心する。

「新しい彼女? 誤解がないように後で伝えておいてね」

 変わらないねと西倉は白い歯を見せる。

「先輩は彼女じゃないよ。ただの友達」

「ただの友達と手をつないで歩くの?」

「日本人の考え方が狭いのさ」

 両手を頭の横に上げる、分からないというジャスチャーをしながら西倉が首を振るので笑ってしまう。

「そうかもしれないね」

「それに、オレは好きな子に一途だから」

「彼女が何人もいて、彼女じゃない人とも手をつなぐような人が何を言っているんだか」

「ああ、その噂ってまだあるんだ」

「噂?」

 あたしはてっきり本当だと思っていた。西倉ならやってみせるだろうという期待に似たものがあったのだ。やっと信号が青に変わり並んで歩き出す。

「現実的に考えてそんなの無理だろう。ドラマじゃないんだから」

 真っ当な台詞が彼の口から出てきたことに驚きつつ、それもそうかと思う。そんなに彼女がいるなんて、どんな修羅場よ。

「その答え、知りたい?」

 そう聞かれて足が止まった。気になるかと聞かれれば、気になる。いつも飄々としていて掴みどころのない彼にどうしてそんな噂があるのか知りたかった。

「ビックマック奢ってくれたらいいよ」

「えっ、それ結構高いんだけど。ちょっと、自転車返してよ!」

「確か、今はシェイクが一〇〇円だったはず。ほら、行くぞ」

 彼はあたしから自転車を奪うとひょいっと乗って走り出してしまう。

「待ちなさいって!」

 あたしはそれを追いかけて久々に走ったものだから、息を整えるのに時間がかかった。首筋を汗が流れる。もう、最悪だと思いながらも運動のおかげかちょっと頭の中がすっきりした。

 マクドナルドは学校からそう遠くない場所にある。テスト前からというか、普段からうちの学校の生徒の溜まり場になっていて、最近では店内での勉強禁止という張り紙まで出されるようになっていた。それでもみんなめげないから、時々学校の方に連絡があり全校集会で注意される。あたしはモスの方が好きだからあまりハンバーガー目的では行かないけれど、新作のシェイクが出た時は寄っていた。

 先に着いた西倉が自転車置き場のところでひらひらと手を振っている。一文句言ってやりたかったけど、言う酸素が足りずに諦めた。

 店に入ると、西倉はカウンターでビックマックセット、あたしはバニラシェイク頼んだ。支払いをしようとするとさっきのは冗談と手で制され、結局奢ってもらうことになった。いいやつだななんて現金なことを思ってしまう。

 店の中は八割がうちの学校の生徒で盛り上がっていて、頼んだものを受け取ったあたしと西倉は窓際の丸いテーブルに向かい合うように座った。ブラインド越しでも右肩に当たる日が熱いくらいで、あたしはシェイク一口飲む。目の前の西倉もコーラに口を付け、もぞもぞとビックマックバーガーの包みを開けた。

「そういえば、最近元気なかったよな」

 突然そう言われ、吹き出しそうになるのを必死に堪える。最近って、ずっと見てたってこと? 確かに最近は玉田君のことがあって、ずっとそのことで悩んでいた。でも、誰にも言っていないはずなのにどうして。

「あ、オレはストーカーじゃないよ。ただ何となくそう思っただけ。でも、ちょっと心配だった」

 しかも、そんなストレートに心配だったなんて言われて、あたしは熱くなる顔を隠そうと俯いてシェイクを啜る。

「別に、元気よ。それよりさっきの答えを教えて」

「まあまあ、これ食べてからね」

 西倉といると調子が狂う。全てこいつのペースに乗せられてしまう。まあ、食べながら話すのもはしたないし、あたしは仕方なく待つことにした。

 あれだけボリュームもカロリーもあるビックマックバーガーをぺろりと食べてしまった西倉は、セットで頼んだポテトに手を付けた。あたしも勧められて数本もらう。

「じゃあ、答えましょうか」

 そう前置きをして話されたのは、初っ端から理解が追い付かない内容で、あたしは聞き終えるとへ? っと間抜けな声しか出せなかった。

「つまり、何人もの彼女は付き合っているけど彼女じゃないってこと、え、意味が分からないんだけど。付き合っているのにどうして彼女じゃないの?」

「みんなオレが一番じゃないんだよ。一番は別にいるの。でも、その一番に大事にされないからその代わりに俺が大事にするの。俺は彼女たちが寂しい時の臨時の彼氏ってやつさ。ちなみに今は十一人を超えました。お別れした子もいるし、新しい子もいる」

 なんでもないことのように言われる。あたしは整理するのに精一杯だ。

「でも付き合ってるなら、その、全員とそういうことしてるの? それなら最低よ。利用してるだけじゃない」

「ああ、セックスとか? 大丈夫、それはないよ。俺はその子達とキスから先はしないから、絶対に」

「じゃあ、なんのために付き合うのよ」

 あたしの声はいつの間にか怒りを含んでいた。声の調子が強くなる。分からないけど、そういうことは許せなかった。

「だから、一番の人に大事にされないから俺が大事にするんだよ。話を聞いたり、一緒に遊んだりするだけ」

 その声は今までとは全く違うもので、真っ直ぐだった。いつの間にか笑わなくなっていた西倉は黙ってしまう。

「どうして、そんなこと始めたの?」

 彼は、聞こえていない様子でコーラを飲む。ねえとあたしはもう一度言おうとした。

「姉さんがさ、可愛そうなんだ」

 顔を上げた彼は寂しそうな笑顔を見せる。いつも白い歯を見せて笑う彼とは違っていて、別人のようだった。どうしてお姉さんが関係するのか尋ねようすると彼は続けた。

「オレの姉貴、凄い美人で優しいのに、いっつもできる彼氏がクズなんだ。暴力振るうし、賭け事するし、金をせびるし。そんな奴ばっかり。オレは毎回やめろって言うのに、好きだからって愛してもくれない彼氏を選んでぼろぼろになって。でも、そういう女って少なくないことが分かったんだ。どうして女って、自分を幸せにしない男をそこまで愛するんだろうな。姉貴もみんなも言っても気付かないんだよ。だから、オレはもう言うのは止めたんだ。その分、そのクズ達が大切にしない彼女達を大切にする。そして、いつか大切にしてくれる相手が見つかるようにする」

 テーブルに乗せた拳が小刻みに震えていた。そんなに強く握ったら爪で傷付けてしまうんじゃないかと思い、彼の手を握ってしまった。

 驚いた顔をしたのを無視して、あたしは彼の指を解く。

「それじゃあ、いつか本当に好きな人ができた時、困るのは君だよ」

 いいんだと、彼は首を振る。

「オレには姉さんがいるから」

 一瞬だけど、あたしは目の前にいる彼に自分が重なった。見たくないものを見てしまった気分になり、視線を逸らす。

 食べるものも飲むものもなくなったので、席を立ちダストボックスにごみを捨て、店を出た。

「ごめん、オレばっかり話して。ずっと誰かに聞いて欲しかったんだ。でも、誰でもいいわけじゃなくて。七瀬で良かった」

 白い歯を見せて笑う。でも、今までみたいにその笑顔が楽観的に笑っているものには見えなかった。

 西倉とあたしは似た物同士なのかもしれない。だから、彼はあたしに好きだとしつこいほど言っていたのだ。同類と言う意味で。

 西倉にならあたしの過去を言ってもいいと思った。でも、どうしても言い出すことができない。彼をこれ以上苦しめてはいけいない。この人は、きっと優しいから解決しようとまた一つしかない身を削ってしまう。

「……前に、玉田君のことで変なこと言ってごめんね。あたしはてっきり、いじめたのは西倉だと思ってた。でも玉田君が違うって、西倉は助けてくれたって教えてくれて。ずっと謝れなくてごめんなさい」

「ああ、井上達のことだろう。あいつ、七瀬のことが好きみたいだから気を付けた方がいいぜ」

「井上? 井上って、直継くんのこと?」

「直継くんって……七瀬と井上って仲良かった?」

「仲は良くないけど、いとこよ」

「うそ!」

 井上は母方の旧姓だ。母の兄の子供が直継くんらしい。あたしも話しか聞いたことがないし、彼と話したことはなかった。

「いとこか……じゃあ、もしかしたら噂も嘘じゃないかもしれないな」

「噂って?」

「あいつが、七瀬のことをストーカーしてるって噂」

「なにそれ」

 急に背中が寒くなった。ストーカーって、そんな話聞いたことないよ。

「まあ、俺も聞いた話だから良く分からないけど気を付けた方がいいとは思う。あいつの家って凄い金持ちなんだろう、なにされるか分からないし。それにそういう噂も多いから」

 噂のことも、金持ちであることもあたしは知らなかった。そういえば、うちの本家は同じ県内でもここからかなり離れているらしい。もし直継くんが本家にいるなら、どうして特別偏差値の高くないこの学校に来ているんだろう。

 それに、あたしもどうして井上くんじゃなくて、直継くんなんだろう……?

 これ以上は考えてはいけない気がした。分かった、気を付けるとだけ伝える。

 それじゃあ、と西倉と別れた。そういえば、西倉に会ったのに好きだと言われなかったのは初めてだと、今更気付いた。


 バイトが終わり、帰宅する。ハル兄とご飯を食べていると玄関が開く音がして母が帰ってきたのが分かった。いつもお風呂に直接向かうので、あたしとあの人はほとんど家の中でも顔を合わせない。でも、

「あ、お帰り。ご飯食べる? お風呂が先じゃなくていいの?」

 珍しく先にリビングに来た。「ああ、うん」と萎びた声がして、斜め前に座った。あたしは舌打ちしたくなる気持ちに堪えて、ご飯に味噌汁をかけてかき込んだ。お茶を飲み干して、

「御馳走様でした」

 さっさと立ち去ろうとした時だった。

「ねえ、最近、玉田冬樹って子と亜紀が仲がいいって職場のお母さんに聞いたんだけど、その玉田冬樹って犯罪者の親族なんでしょう。付き合うのは止めたほうがいいんじゃない。何かされたらどうするの」

 その不躾な言葉にカッと頭に血が上るのを感じた。

「なに、急に話しかけてきたかと思ったらそんなこと? 別にいいでしょう、あたしが誰と仲良くしてるかなんて」

 そのまま立ち去ろうとしたのに腕を掴まれた。

「人が心配してるのに、なによその態度」

「心配なんて軽々しく口にしないでよ。そういうのホント嫌」

「相手は犯罪者と血が繋がってるかもしれないのよ。もし亜紀になにかあったら」

「何も知らないくせに玉田君のこと悪く言わないで!」

 あたしは腕を払い、母親の肩を突き飛ばした。

 その瞬間、あの日の記憶が突然に戻ってくる。

「お母さんはいつもそうよ。結局あたしのためとか言って、なんにもしてくれないくせに! 上靴入れも、授業参観も、勉強だって、何も、何もしてくれたことないじゃない。全部、ハル兄がしてくれたわ! あたしになんかに興味ないくせに母親ぶらないでよ!」

 そのまま立ち去りたかった。しかし、勢いよく立ち上がったその人は。くま酷い、充血した目で睨んでくる。

「ちょっと、親に向かってなんてこというのよ!」

「あんたのことなんて、親だって思ったことなんて一度もないわよ! 母親らしいことなんて、なにもしてくれたことないじゃない!」

 それからお互い一歩も引かず、掴み合いの喧嘩になった。慌てたハル兄が仲裁に入って来て、邪魔だった。溜まりに溜まった不満をぶつけってやった。こんなやつ死んでしまえばいいのに!

 そのうちなぜかあたしの方がハル兄に取り押さえられて、あの人は引っ掻いてやった頬に手をやって逃げるようにしてリビングをを出て行った。

 ざまあみろ。間抜けな後姿に言ってやる。

「亜紀!」

 後ろからハル兄の声がして、振り返ると頬に強い衝撃があり、あたしはよろけてリビングの床に尻餅を着いた。

「なにするのよ!」

 ビリビリとした痺れの後、燃えるような熱さが頬を襲う。あたしに平手打ちしたハル兄は自分がしたくせに明らかにうろたえていていた。

「痛いじゃない!」

「ご、ごめん……」

 おろおろと伸ばしてくる手を払いのけた。それでもめげずに手を伸ばしてきて抱きしめられた。突然のことで頭が真っ白になる。

「亜紀、叩いてごめんな。でも、もう止めて欲しい。確かに何も知らずに亜紀の友達のことを悪く言うのは駄目だと思う。でも母さんだって、ただ心配しただけなんだ。あの人は不器用なだけなんだよ。だからもう亜紀も落ち着いて欲しい。叩いたところ、血は出てない? 口の中切れてない?」

「あたしは、大丈夫。でも、あの人の顔引っ掻いちゃって、血が……」

「うん、それは僕がまた消毒しておくよ。今日はもう休もう。ね?」

 ハル兄に言われ、そのまま部屋に連れて行かれた。

「おやすみ、また明日」

 布団に入ったあたしの前髪を優しく撫でてくれる。ドアの向こうにハル兄が見えなくなるまで、じっと細くなる光を見つめる。がちゃんと音がしてドアがしまった。ふとさっき抱き締めてもらった温もりを思い出しながら、やっぱりあたしの家族は今も昔もハル兄だけだと誓った。


 七月に入り、夏の暑さが増してきた。授業は前期のまとめ入っていて、最近は教科書からは少し外れた授業をする先生も増えてきた。特にあたしは数学が好きだから、神崎先生の趣味全開の授業が気に入っている。しかし、数字アレルギーと自称する美香や弥生ちゃんはさっぱりみたいで賛否の別れる授業みたいだ。

 土曜は午前中に学校が終わり午後からバイトに向かう。お店はもうすでに賑わっていて忙しかった。でも帰りに店長が夏のボーナスと言って給料をくれたので、あたしは早速いつも行きがけに通る、駅前のカフェに行ってみようと思った。

 そのカフェはスイーツがメインで、いつもフルーツたっぷりのケーキやタルトがショーケースの中に綺麗に並んでいる。でも一つが七百円ぐらいして、ドリンクとセットだと千円近くする。ファミレスで節約してしまうあたしにとってはかなり大きな問題だった。

 でも、今日は違う。せっかくのボーナスだし、一度ぐらいぱあっと使ってみたかった。店の横に自転車を止める。葡萄の蔓が重なり合ってできた日陰を進むと、大きな木の扉があった。ゆっくり開くと甘い匂いがふわりとあたしを包み、それだけで幸せな気分になる。

 いらっしゃいませと声がして、あたしはさっそくショーケース中を覗く。定番のショートケーキやチーズケーキがあるけれど、やっぱり一番に目に付いたのは白桃を丸ごと一つ使った桃源郷という名前のケーキだった。

 これにしよう。そう思って注文していた時、後ろの扉が音を立てて開いた。

「あれ、亜紀?」

 その声に急いで振り返るとハル兄と、

「亜紀ちゃん、久しぶりね!」

 その隣に間宮百合の姿があった。

「偶然ね! 私たちも今から少し休憩をしようと思っていたの。よかったら一緒に食べない? あ、今年もこの桃のケーキあるんだ! 陽斗もこれ好きだよね。亜紀ちゃんはどれにする? 一緒のでいい? じゃあ、すみませんこの桃のケーキ三つ下さい。中で食べます」

 一瞬で石にされる魔法にかかって何も言えずに立っているあたしの目の前で、百合さんは愛玩動物みたいな顔で笑う。あれよあれよという間に手を引かれ、テーブルに着いていた。店員さんが来て、飲み物を聞かれたけど、メニューの文字が頭に入ってこなくて、二人と同じブレンドコーヒーを頼む。あたしの前に座った百合さんはグレーのスーツを着ていて、緩く巻いた髪を後ろでまとめていた。細い指先には落ち着いた色のネイルが丁寧に施してある。

「この前会ったのいつだったかな? まだ私が大学にいたころよね。まあ、会ったと言っても挨拶ぐらいだったけど。それにしても陽斗はいいわね、こんな可愛い妹がいるんだもん。もう、亜紀ちゃん聞いて。陽斗は私とデートの時もいつも亜紀ちゃんの話をするんだよ。妬いちゃうよねぇ」

 目の前で休む間もなく言葉が飛んでくる。あたしはそうなんですねと合わせて笑うので精いっぱいだった。

 そのうちケーキとコーヒーが届いた。桃にフォークを刺すと、中からとろりとカスタードが溢れだす。一口食べると、甘いカスタードと少し酸味のある桃が絶妙だった。

 美味しいと言葉が漏れそうになって、

「まだ桃の時期には早かったみたいね。ねえ、去年食べた時より酸っぱくない?」

 百合さんの言葉に口を慌てて固く結んだ。ハル兄もそうだねと言っていて、言わなくて良かったと安堵する。でも、あたしにとったらとても美味しいケーキだった。

 二人の他愛もない会話が続き、時々こっちに会話が振られる。その度にもう構わないで欲しいという気持ちになって絞るような涙が出そうだった。早く逃げたくて急いでケーキを頬張ったら咽てしまって、百合さんに大丈夫と背中を叩いてもらい、もう情けなくて仕方がなかった。

「ちょっとトイレに行って来る」

 そう言ってハル兄が立ち上がったのは、ケーキが終わりコーヒーに口を付けた頃だった。

 今まで弾んでいた二人の会話がなくなり、急に静かになる。あたしは顔を上げないようにしてコーヒーを一口飲んだ。

「あのさ、亜紀ちゃんは陽斗からどこまで聞いてる?」

 顔を上げると、百合さんが大きな目でこっちをじっと見ている。あたしは逃げたい気持ちをぐっと我慢した。負けちゃいけないと咄嗟に思う。

「なんの、ことですか?」

「結婚のこと。そろそろちゃんと陽斗の家にも挨拶に行きたいから伝えて欲しいってお願いしたんだけど、なかなか返事が返ってこなくて」

「そうなんですか。知らなかったです」

「やっぱりちゃんと言ってなかったんだ。もう陽斗ったら」

 あたしは表情を変えないようにし答えた。百合さんは頬を膨らます。

「でも、ハル兄はやめておいた方がいいと思いますよ」

「え、どうして?」

「だって――」あたしは迷いを捨ててぐっと全身に力を入れた。「妹に手を出すような人ですから」

あたしはきっと最悪の人間だ。大事な人の幸せさえも願えないなんて。

しかし、返ってきたのは、

「うん、知ってる。陽斗から聞いたよ。亜紀ちゃん、ごめんね」

 思いもよらなかった言葉で、あたしは頭が真っ白になった。どうして、この人に謝られなければならないの? どうして、知っているの?

「付き合って、三年経った頃に陽斗から話してくれたの。正直驚いたよ。だって、兄が妹を妊娠させるなんて、しかもそれが陽斗だったなんて思ってもみなかったから。でも、隠さずに話してくれて、私の弟のしょうがいのことも理解しようとしてくれていて、そういう所に惹かれたの。だから、私も陽斗のことを受け入れようと思う。だから、亜紀ちゃん。陽斗のしたことは亜紀ちゃんを凄く傷つけることだったと思う。これからは亜紀ちゃんが幸せになれるように陽斗と私で償っていきたい。どうか、自分の幸せを見つけて欲しい」

 真剣な顔で言われ、あたしは言葉が出なかった。ハル兄、どうして言っちゃうの? 二人の秘密じゃなかったの? 

 真黒な気持ちになって、もうここにいれないと思い、あたしは荷物を掴んで店を出た。自転車に乗り、もうわけがわからないくらい力を入れてペダルを漕ぐ。

 気付いたら部屋のベッドの上だった。顔を埋めた枕が濡れている。いつかみたいに、声を上げて泣いた。泣いても泣いても、寂しくて、抱きしめて欲しいと思うのはやっぱりハル兄で、でも、もうそれは叶えられないことを知ってしまった。

 それでも、ハル兄を取り戻したかった。どうしたら、取り戻せるのだろう。どうしたら、


 アタシノモノニナルノ?


 物音がして、目が覚めた。いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。たくさん泣いたせいか、頭は空っぽなのに身体が重い。

 コンコンとまた物音がした。

「亜紀、入っていい?」

 ドアの向こうからハル兄の声がする。答えようとしたけど、掠れた声しかでなくてゆっくりとドアが開いた。

「良かった、僕がトイレに行っている間に急に帰ったって百合が心配してたよ。それにしても、急に帰るなんてどうしたの。何かあった?」

 心配そうな顔で傍に来てくれたハル兄をあたしは見上げた。

「ハル兄ぃ……ハル兄はあたしのこと嫌いになったの? あたしは悪い子だった?」

「そんなこと……亜紀はいい子だし、嫌いになったりしないよ」

「じゃあ、どうして百合さんなの? あたしじゃ、駄目、なの?」

「どうしてって……」

 困惑した顔で、ハル兄があたしを見つめる。あたしはその目が、ハル兄が、欲しくて欲しくて我慢できなかった。

「あ、えっ、亜紀――」

「ハル兄お願い!」

「ど、どうしたの?」

 あたしはハル兄の腰に抱き着いた。ぐっと両腕に力を込める。

「お願い……あの日みたいに抱いて欲しいの。あたしはずっとずっとハル兄が好きなの。ハル兄しかいないの。だからお願い、どこにも行かないで!」

 また涙が溢れた。ハル兄の腰は細くて、温かい。あたしはハル兄のためなら何でもするよ。そう言おうとした時だった。

「……駄目だよ」

 上から降ってきたのは冷たい一言だった。顔を上げると今にも泣きだしそうなハル兄の姿があって、あたしはどうしたらいいのか分からなくなってしまう。

「亜紀、五年前のこと覚えてる? ……忘れられるわけないよね。あの時僕はいじめに耐えられなくて、優しくしてくれる亜紀だけが味方だったんだ。でも、それでも僕は絶対にしてはいけないことをしてしまった。凄く、後悔してる。そのせいで、亜紀がずっと他の男の子を好きになれないことも分かっていた」

「どうして……後悔だなんて、言わないでよ。あたしは後悔なんてしてないのに」ハル兄の目が大きく開く。「好きだよ、ハル兄。誰にも渡したくないの。あたしのものになってほしいの。あの時、ハル兄はあたしの全てを奪ったんだよ。あたしにはもうハル兄しかいないのに」

 あの日の傷だけが、二人を結ぶ全てだった。傷さえあれば、ハル兄は私から離れないと思っていた。でも、

「僕だって亜紀が好きだよ。大好きだよ。でも、やっぱり僕らは家族なんだ。恋人にはなれない。だから、それを分かってほしい」

 ハル兄にとっては違うみたいだった。ハル兄が掌で顔を覆った。身体が小刻みに震えていて、今にも消えてしまいそうだと思い、どこにも行かないように腕に力を込めようとした時、

「もう許してくれ……」

 ハル兄は泣いていた。流れた涙があたしの頬に落ちる。

いつかの日のことを思い出す。ハル兄はあたしの気持ちに気付いていたのだろう。もう、ということはずっと前からだったんだ。

あたしはずっとハル兄を苦しめていたのかもしれない。

 初めての失恋だった。あたしのせいで大好きな人を苦んでいる。そう思ったら、もうこれ以上は迷惑を掛けたくなかった。愛する人を苦しめたくなかった。

 あたしはゆっくり腕の力を緩めて、ハル兄の身体を向こうに押した。

 よろけたハル兄が手を伸ばす。

 あたしは、産まれて初めてその手を取らなかった。

「ごめんね、ハル兄……」

 あたしは部屋にハル兄を残して家を出た。

 誰かに、傍にいて欲しかった。あたしの五年間を聞いて欲しかった。えっちゃんのところに行こう。そう思うけど、またあの日を繰り替えそうとしたことが分かれば、失望されてしまう。せっかくえっちゃんはあたしを助けてくれたのに。学校の友達のことも考える。でも、それも駄目だと思った。きっと分かってくれない。結局あたしは、今までハル兄以外の誰も信頼していなかったのだ。そして、そのハル兄を離さないために傷を利用していた。最低の人間だと思った途端、なんだか笑ってしまって。コンビニの窓に移った自分は、人間に見えなかった。化け物だった。

 あたしをきずものにしたのはハル兄じゃない、あたし自身だ。

 もう一層のこと殺してしまおうと思った。

 でも、それでも一人は嫌だから、あたしは決意をしてある人に連絡した。

 電話を切って歩き出す。あたしはあの場所に向かった。


 屋上に続く階段の先にあるドアの鍵が開きっぱなしになっていることを、一体どれぐらいの人が知っているだろう。誰も来ない場所だから、あたししか知らないのかもしれない。

 錆びた鉄のドアは、軋みながらも開いた。屋上に出ると、風が吹いていて少し肌寒い。校舎の向こうにある運動場からキンとボール打つ音や、下の音楽室から楽器の音がする。振り返ると、向こうの山に夕日が沈んでいて世界は薄い紫色に包まれていた。

 しばらく空を見上げていると、がちゃんと音がして、突然ドアが開いた。風がドアの向こうに吸い込まれ巨大な生物が呼吸するみたいな音がする。見ると荒い息をしている玉田冬樹の姿があった。運動をするイメージのない彼には不釣り合いだなという気がする。

「よ、かった……」

「早かったね。そこのドアが開くこと知ってたんだ」

「前に、試しに開けてみたことがあったんだ」

 どうして? と聞こうとしたけど、やめる。

「お願いがあるの」

 遮るものがなにもない屋上は風をもろに受ける。髪が暴れるのを抑えるのも面倒だった。

「抱いてください。もう、全部全部壊してほしいの」

 驚いた顔で止まった彼に近寄り手を伸ばした。あの日のことを思い出し再現する。

 きっと、玉田君もそのうち我慢できなくなる。あの日のハル兄みたいに。だって思春期の子供だし、男の子だし、それを満たすだけのもがあたしの身体にはあることをもう知っている。

「な、七瀬さん……?」

 彼の戸惑う声が耳の傍でする。彼を抱き締めた右腕に力を入れた。

「もう、いいのよ。あたしはあの人のものではなくなったの。自由になったはずなのに、一人は嫌なの。馬鹿よね。だから、次は君のものにして欲しい」

 言っている途中から涙が溢れて、視界が滲んだ。せっかく自由になったのに。自由なんていらなかったのに。

 しかし、彼の手は意思を持ったかと思うと、引っ込んでしまい数歩下がってしまった。

 距離を置かれ、目の前にいる彼が遠くに感じる。きっとこの世界にあたしを受け止めてくれる人なんていないんだ。そう思った途端、孤独というものがとても怖かった。 このまま彼は呆れていなくなってしまうだろう。そう思った時だった。

「もう止めよう!」

 突然伸ばされた手に肩を強く掴まれた。ぎりっと痛みが肩に走る。長い前髪の間から瞳が見え、あたしは初めて玉田君と目が合った。びっくりして声が出ない。

「君のそんな姿なんて見たくない。君は、七瀬亜紀はもっと強くて大胆で、人殺しの弟を助けてくれるような優しい人だ。だから、俺は、そんな君を、こんな風に泣かせる奴を殴ってやりたい」

「殴ってやるって……」

 どうにもそのフレーズに笑いが出てしまった。もう泣きたいのか、笑いたいのか自分でも分からない。でも、目の前の彼は動じ無くて真剣な顔をしていた。それから、大きく息を吸うのが分かった。

「俺だってそれぐらいのことはできるよ。だって、好きな人を泣かせるような人間なんて許せないだろう」

 途中から尻すぼみになった言葉を隠すように彼は俯いてしまう。あたしはその言葉がかみ砕けなくて、間抜けな声を出してしまった。

「だから、俺にできることだったらなんでも言って欲しい。一人で寂しそうにしている七瀬さんを見るのは嫌なんだ」

 真剣に言ってくれていることは分かった。でも、どうしてもその奥にある本心を疑ってしまう。

「教えたって、理解できないことだと思うよ」

「うん」

「もし、このことを知ったら、軽蔑されるぐらいのことだよ」

「うん」

「君だって、嫌いになるよ」

「それはない!」ああ……と彼はまた視線を下げた。「ごめん、大きい声を出して。君にとったら知られたくないことなんだと思う。それでも、知りたいんだ。教えて、ください」

 あの日、知られたくないことを知った母やハル兄の顔が浮かぶ。消し去りたくて、目を閉じて頭を振った。

 また、同じ顔をされるかもしれない。それが怖かった。でも、

「……分かった。長くなるけどいいの?」

 彼を信じてみようと思った。頷くのが分かって、私は初めて自分の口から五年前のあの日のことを話した。

 

話している内に本当に自分に起こったことなのか実感できなくなってきて、どこか違う人の話をしているようだった。玉田君はじっとあたしの話を聞いていた。全てを話し終わる頃には、辺りは静かになっていて星が見えた。

「小説の中で失恋で死ぬ人がいるでしょう? 失恋ぐらいで死ぬ人なんていないって思う人もいるかもしれないけど、あたしにはその死にたくなる気持ちが分かるよ」

 こんな風に空を見ていたら死ぬのも悪くないと思ってしまう。しばらくしてまた冷たい風が吹いた頃、彼は口を開いた。

「死ぬのは駄目だよ。死んだって何にもならない」

「そんなことないかもしれない。もしあたしが死んだら、ハル兄は百合さんと結婚しないかもしれない。一生誰とも結婚しないかもしれない。そしたらずっとあたしのものになる」

「自分のものにしてどうするんだよ。七瀬さんはお兄さんのことが大切なんだろう。大切な人を苦しめてどうするんだよ」

「でもっ、あたしはあの人のために全てを捧げたんだよ。あの人のために……」

「それは、お兄さんが望んだことだったの? お兄さんがそうして欲しいって頼んだことだった? 七瀬さんは、どうしてそうしようと思ったの?」

その言葉に、あたしは返せなかった。

 どうしてあたしはあんなことをしようと思ったんだろう。

 あの時、ハル兄は辛そうだった。いじめられていて、どこにも逃げ場がなかった。

 だから、助けてあげたかった。大好きなハル兄が辛そうにしているのが嫌だった。あたしの大好きな笑顔のお兄ちゃんでいて欲しかった。

 ――ああ、そうか。あの時あたしは、お兄ちゃんに笑ってほしかったんだ。

 昔の自分の姿が見えた。苦しそうな顔でこっちを見ていた。今にも泣きそうで、それをずっと我慢しているようだった。

きっとハル兄だけじゃない。あたしはあたし自身を救いたかったんだ。

 そう思ったら涙が溢れた。

「もう、遅いから帰ろう。送っていくよ」

 手を引かれて、屋上を出た。家に帰りつくと、ハル兄が夕食を作って待っていてくれた。あたしの好きなグラタンだった。たったそれだけのことでまた泣きそうになる。

「良かったら、君も食べて行かないか。たくさん作ったんだ」

 去ってゆく玉田君の後姿にハル兄が声を掛けた。振り返った玉田君は頬を掻きながら首を振った。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です。家で兄が待っているので」

 一礼して帰って行った。足音が聞こえなくなるまで二人で見送る。

「彼が玉田冬樹君か。いい子だね」

 私はその言葉に頷いて、家に入った。テーブルに座ると、今から焼くから、少し待ってねと言われ、ハル兄は耐熱皿に用意していたグラタンにチーズをかけ、オーブンに入れる。あたしはその姿をぼうっと見ていた。テレビを点けていないので、部屋にはハル兄の働く音だけがする。

 しばらくして、オーブンから熱々のグラタンが出てきた。

「お待たせ。チーズは多めにしたからね」

 ハル兄はあたしの好きものを何でも分かってくれている。グラタンはチーズが多いほうが好きなこと、パンケーキにアイスを乗せて食べるのが好きなこと、桜色が好きなこと、ウサギのキャラクターが好きなこと。みんなみんな、昔から知ってくれている。

 今日は○○だよとエプロンを着て、笑う姿があたしは大好きだった。

「ハル兄」

だから、あたしも精一杯に笑った。

「今まで、ありがとう」

 大好きな人のために。

 うんと、大きな手が頭に乗った。あたしはいつかの記憶を思い出そうとしたけど、分からない。ずっとずっと昔、同じ大きな手に包まれていた気がする。

 視界が涙で滲む。でも涙は零れなかった。

 それから二人で向かい合ってグラタンを食べた。あたしはグラタンのレシピをハル兄に聞いた。今度、一緒に作ろうか。そう言ってもらえて、あたしも頷く。次の週末が待ち遠しかった。


 月曜日、目覚めた時から一昨日のことを思い出し、恥ずかしくなった。全てを思い出そうとしてもところどころが曖昧でサイダー泡みたい消えてしまう。時々、自分のとんでもない行動には驚いてしまうことがある。

 家を出る時、信号で別れたハル兄にこの前、途中で帰ってしまったことを百合さんに伝えて欲しいと言った。体調が悪かったと。ハル兄は笑って、片手を挙げた。

 授業はいつも通り受け、変化のない日常に少しだけ安心する。でも放課後になるにつれて、なんとも言えない焦燥感に襲われる。

 あれだけ迷惑をかけてしまったし、今更会えないな。

 放課後はさっと荷物をまとめて、足早に学校を去った。


 少し時間があるし、本屋でも行こうかとしていた時、スマホが鳴った。見ると珍しい人から連絡が来ている。あたしは返事をして、いつもの場所に向かった。

 学校の近くにある、ウィーンの森と言う名前のレストランに向かう。中に入ると店員に何名か聞かれたので、知り合いが先に来ていることを伝えると、

「亜紀! こっちこっち」

 奥の喫煙席で綺麗な女の人が手を振っている。店員さんは察した様子でごゆっくりどうぞと言った。

「綾子姉ちゃん、久しぶり」

 あたしが前の席に座ると、綾子姉ちゃんは煙草を持っていない方の手を伸ばし、あたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。

「急に呼び出してごめんね。大丈夫?」

「バイトがあるけど、まだ時間はあるから大丈夫」

「そっかぁ、ありがとうね」

 艶のある紅い口元が上がる。その完璧な笑顔にやっぱり綾子姉ちゃんは凄い人だと思うのだ。綾子姉ちゃんこと、井上綾子さんはあたしのお母さんの姉だ。確かこの前の誕生日で四二歳になったらしいけど、正直見た目は三〇台前半にしか見えない。艶のある髪を後ろで一つにまとめ、ヘビースモーカーのはずなのに、皺もくすみもない綺麗ない肌。抜け目のない女力の高さは、やっぱり夜の世界のプロだと思い知らされる。

 店員さんが来て、あたしはパフェを頼んだ。

「綾子姉ちゃんこそ、今日はお仕事お休みなの?」

「ああ、今日はお休みをもらったの。ちょっと実家に帰らないといけない用事があって。まあ、店の方はあの子達がちゃんとやってくれているから問題ないんだけど」

「本家の方で何かあったの?」

「ああ、大したことじゃないのよ。ばあさんが死にそうってだけ。最期に会いに来て欲しいってい言われて、仕方なく行ったのよ。そういえば順子も昨日行ったらしいわね」

「え、そうなの?」

「聞いてないの?」

 そう言われてあたしは昨日の母のことを思い出そうとしたけど、分からなかった。ただ、いつも通りの服装だったから会社に行っているものだと思っていた。

「聞いてないよ」

「まあ、順子は亜紀や陽斗を本家の人間と関わらせないようにしているからね。あえて言わなかったのかも」

「そうなの?」

 綾子姉ちゃんはそうよと頷く。

「あそこの人間は、みんな家を守ることしか頭にないから。アタシも、できればもう関わりたくないわね。父親にも母親にも、会いたくないもの。順子なんて家にいた時期がアタシより長かったから、余計にそう思うんじゃない?」

 井上の本家は確か江戸時代から続く名家であることは、誰かに聞いたことがあった。でも、あたしもハル兄も行ったことがないから、どれくらいのものかは分からない。

「そういえば、兄さんところの子とはどうなの? ほら、なんて名前だったかなアイツ」

「直継くん? 同級生だけど隣のクラスだから話したことないよ」

「そう、直継! この前見たけど、挨拶もしないんだよ。ホント可愛くない。しかもこの時代にあの髪型に眼鏡って、ないわ、絶対いじめられるわ。アタシがもし同級生だったら絶対いじめるタイプ」

「綾子姉ちゃん、元ヤンが出てきてるよ」

 おっとと綾子姉ちゃんが笑い、あたしも笑った。前に綾子姉ちゃんは中学でグレて、高校で家出をしたという話をしてもらったことがある。それから今の世界に入って、今では夜の街に自分のお店まで持っているのだ。

「でも、アタシは適当に済ませて直ぐに出てきたけど、順子は大丈夫だったのかな。あの子、色々ある前までは親のお気に入りだったから、今回帰ったことで色々言われたんじゃない。何も言ってなかった?」

「聞いてないよ。ていうか、話さないし」

「あら、まだ亜紀は反抗期だったの? 長いわねえ」

「別に、反抗期だからじゃないよ」あたしが睨みつけても、全く効果がないみたいで綾子姉ちゃんはけらけら笑う。「だって、この前だってあたしの友達の噂を他のお母さんに聞いただけで仲良くしないほうがいいんじゃない? とか言ってきたのよ。いっつもほったらかしのくせに、なんでそんな時だけ言うのよ!」

「順子は心配なのよ、きっと」

「でも、玉田君のこと悪く言わないで欲しい。何も知らないくせに」

「え? 男の子なの?」

「あっ……」

 見ると、綾子姉ちゃんはにやにやと楽しそうな顔であたしを見ていた。しまったと思う。

「まあ、亜紀もそんな歳になったのね。いやあ、嬉しいわね。今度紹介してよ」

「まだそんな関係じゃないって!」

「え? まだ、ということは?」

「もう、やめて!」

 身体が急に熱くなって、あたしはお冷を一気に飲み干した。昨日の好きな人と言う言葉が、どうしてかずっと心の奥に残っている。そんな私を見て、綾子姉ちゃんはまだ笑っている。

「男の子なら順子はもっと心配するわよね。だって、あの子は裕二さんしか知らないから」

「裕二さんって、あたしのお父さんのこと?」

「そうよ」

「どんな人だった? あたし、会ったことないから何も知らなくて」

 父は、あたしが生まれる少し前に事故で亡くなった。ハル兄はまだお父さんとの記憶があるけど、あたしは写真しか知らない。母からもどんな人だったか聞いたことがないし、ずっと知りたいと思っていた。

「そうね、あの順子と駆け落ちしたぐらいだから、かなり大胆な人だったわ」

「お父さんとお母さんって駆け落ちしたの?」

 駆け落ちだなんて、ドラマの中の話だと思っていた。

「うちの家ってあんなんだから、あたしは中学でグレて、兄さんは引きこもりだったし、一番可愛くて、従順なのが順子だったの。だから親もばあさんもあの子を一番可愛がっていたわ。反抗期もなくて、自分の意見も言わない大人しい子だった。でも、あの子が一八の時、近くの書店で働いていた裕二さんに恋をしてそのまま二人でいなくなっちゃったの。裕二さんは学生の頃からその書店で働いていて、アタシも順子も小さい頃から行っていたわ。優しいお兄さんだった。でも、まさかその時のお兄さんと順子が恋に落ちるなんて思ってなかったから、びっくりよ。それでやっと消息が分かったと思ったら陽斗くんができてるし、今まで可愛がっていた分、親もばあさんの怒りようも凄かった。あの順子がってみんな思ったんでしょうね」

 吸っていたたばこの煙を長く吐いて、ふうと綾子姉ちゃんは息を吐いた。

「アタシはね、人の愛し方がこの歳に未だに分からないの。だって愛された記憶がないんだもの。全てじゃないにしても、やっぱり育った環境ってその人の、その後の人生を決めると思うの。もし大切な人ができても、きっと傷つけてしまって、それが凄く怖い。逃げてるって分かってるけど、やっぱり自分がどうなるのか想像ができないから、怖い。だから、アタシは順子は凄い子だと思うの」

「お母さんだって、人の愛し方なんて分かってないよ。だってあたしが分からないんだもん」

 愛するって、どういうことなんだろう。好きとはまた違うのかな。

 いつの間にか玉田君のことを考えていた。いつか、あたしも誰かを愛することができるのかな。

「大丈夫よ」

 顔を上げると、たばこの先を灰皿に押し付けた綾子姉ちゃんが微笑んでいた。細いくて白い手が伸びて、また頭をくしゃくしゃに撫でられる。くすぐったいよとあたしは言った。

「順子には裕二さんに愛された記憶があるから、きっと亜紀や陽斗のことだって愛しているわ。だから、その子供である亜紀もきっと大丈夫」

 大丈夫、大丈夫と言われ、身体の奥が温かくなるのを感じる。

「ねえ、綾子姉ちゃん。聞いて欲しいことがあるの」

 それから、あたしは玉田君のことを話した。出会ったこと、玉田君の過去、お兄さんを迎えに行ったこと、そして、昨日のこと。綾子姉ちゃんは煙草を吸う手を止めて、じっと聞いてくれていた。

 全てを話し終え、しばらく目を瞑っていた綾子姉ちゃんはうんと一つ頷くと、

「亜紀、今からその子に会いに行きなさい」

 突然そんなことを言い出したのであたしはうろたえた。

「今からって、無理だよ、バイトがあるのに」

「まだ間に合うわよ。それに、その子はずっと待っているかもしれない。それなのに、勝手に気まずくなったから会わないなんて、玉田君が可愛そうじゃない。その歳の男子って傷つきやすいんだから」

 確かにそうだと思った。勝手に気まずくなっているのはあたしだ。

「ほら、早くしないとバイトに遅刻するわよ。急いで急いで」

「せ、急かさないでよ。分かったから!」

 あたしは荷物を持ち、慌てて立ち上がった。

「じゃあね、綾子姉ちゃん。またね」

「うん、またね。ほれほれ」

「分かったから!」

 正直、学校まで自転車をとばさないとバイトに間に合わない。ちょっと会うだけでいいのだ。顔を見るだけで。

 去り際に、綾子姉ちゃんは手を振りながら順子と仲良くねと言った。うんと言うのは躊躇われたけど、勇気を出して頷いてみる。すると、綾子姉ちゃんは満足そうに笑った。ちょうど頼んだパフェを持った店員さんとすれ違う。


 あたしは店を出て自転車で急いで学校に向かった。こういう時に限って上履きが上手く履けず間誤付いてしまう。三階まで階段を駆け上り、いつもの場所に向かう。屋上が近づく度に、もしからしたらもういないんじゃないかという期待と、もしそうだったらという寂しさであたしの頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。

 息を切らしながら目的の場所にたどり着くと、階段の真ん中あたりに玉田君が座って頬杖をついていた。あっと、あたしは一瞬にして言うべき言葉を失う。

「今日は、もう来ないのかと思った」

 弱々しく笑う姿に、あたしは思わずごめんねと言う。

「待っていてくれたの?」

「一応、そのつもりだけど」

「この前あんなことが、あったのに……?」

 それが、一番の気掛かりだった。あんなことがあって、玉田君は引いてしまったんじゃないか、嫌いになられたんじゃないか。それを知りたくなくて、いつものようにここに来れなかった。

「俺は、ちゃんと言ってくれて嬉しかったよ。それに、七瀬さんは俺の過去を知っても傍にいてくれただろう。だったら、俺も、七瀬さんの側にいるよ。一人より二人の方が、寂しくないと思う。それに」

 立ち上がった彼は荷物を肩にかけ、階段を下りてきた。

「好きって言ったの覚えてる?」

 心臓が大きく脈を打った。その後も、息がまともに吸えないぐらい早くなって、苦しくなる。玉田君のくせにと思った。君が強いのか弱いのかさっぱり分からないよ。

 どうにか頷いて、彼の隣を歩いた。学校を出て、自転車を押しながら、彼の隣を歩く。同じ学校の人が見ていないか心配できょろきょろしてしまう。

「一つお願いがあるんだけど」

「なに?」

「七瀬さんのバイト先の喫茶店に連れて行って欲しいんだ」

 彼の真剣な瞳にどうしてとは聞けなかった。分かったと頷いて、また歩き出す。

 バイト先にはぎりぎり間に会った。

「ああ、亜紀。おかえ――」

 あたしの後ろから入ってきた玉田君を見て、店長の言葉が止まる。そして、

「……あの時の子かい?」

 歩み寄ると突然、玉田君の肩を両手でつかんだ。

「はい」

「無事で、よかった」

 店長の目から、ぽろりと大粒の涙が一つ落ちた。よかったよかったと何度も頷く。

「母さん来てくれ、あの時の子がこんなに大きくなったんだ」

 奥からタオルで手を拭きながら出てきたミチ子さんは玉田君を見るなりまあ! と声を上げた。

「もしかして六年前の? ずっと気にしていたのよ。良かった、こんなに大きくなったのね」

 玉田君はちょっと恥ずかしそうな顔で笑っていた。

「お兄さんは、今どうしているんだい?」

「この前少年院から出たところで、今は一緒に住んでいます」

「そうか、元気にしているなら良かった」

 それから店長はあの日のことを話してくれた。ニュースでの情報と現場周囲での情報では相違があったこと、殺害された両親が子供に虐待をしている事実があったこと、そして、殺人者となった兄は弟想いだったこと。

「勝手に色々と調べて申し訳なかった。でもニュースや週刊誌での理由がどうしても信じられなかったんだ。自身の都合で人を殺すような人間があんな風に弟の手を引いたりしないと思った。あの日、わたしが見たのは弟を守ろうとする兄の姿だったんだよ。お兄さんは、君を必死に守ろうとしていたんじゃないかな」

 気が付くと、隣で玉田君が泣いていた。店長が彼の背中を優しくさする。

「辛いことを言って、申し訳なかった」

 玉田君は勢いよく首を振った。

「いいんです。本当のことを知ろうとしてくれた人がいたことが嬉しくて……ありがとうございます」

 涙を拭いながら答える。店長とミチ子さんがずっと気にしていた理由はこれだったんだと、初めて知った。

しばらく三人であの日の話をしていた。

しかし、からんからんと店のドアが開く音がしてお客さんが入ってきたので、店長は彼の頭を撫で、またおいでと言った。見送るために外に出ると、まだ空は明るく蝉の鳴き声が遠くに聞こえる。

「ありがとう、七瀬さん」

 玉田君が振り返った。目は赤く濡れていた。

「お礼を言うのはあたしの方だよ」

「ずっと、この店の人には会いたかったんだ。それが、今日叶って本当に良かった。いつか兄ちゃんと一緒に来れたらいいな」

「その時はコーヒーぐらい飲んで行ってね。ここのコーヒー有名なんだから」

 そうするよと、彼はまた笑う。そういえば、こんなに笑う人だったかなとふと思った。

「じゃあ、バイト頑張ってね。また明日」

「また明日」

 手を振る時、この言葉が自然に出てきてくれたことが嬉しかった。明日の放課後を待ち遠しく思いながら、あたしは店の中に戻る。からんからんとドアが鳴った。



 それから、高校を卒業しあたしは看護大学に入学した。助産師の資格を取りたいと思ったのだ。本当はすぐに助産師になりたかったから助産師専門学校を考えていたけれど、大学には行った方がいいというえっちゃんの勧めもあった。この大学では看護師と保健師か助産師の資格を一緒に取ることができる。まあ、取るのは成績が優秀な人に限られるから頑張らないといけないのだけれど。

こんな人間が出産に携わる仕事をするなんて矛盾しているかもしれないけれど、やっぱりえっちゃんのような人になりたかった。

 助産の勉強をするようになり、妊娠中絶についても勉強した。その方法を知った時は衝撃的で信じられなくて、でも自分は同じことをしたんだと思ったら涙が止まらなかった。トイレに篭って、嘔吐した。胃の中になにもなくなっても、吐き気が止まらなくて、何度ももう赤ちゃんのいないお腹にごめんなさいを言った。あの時は自分のことしか考えられなくて、お腹にいた赤ちゃんのことまで考えられなかった。でも、やっぱり自分の都合で下ろしたあたしは人殺しなんだと改めて思い知らされた。

 知識がないということは本当に怖い。もしこの事実を先に知っていたら、あたしはあの日、下ろしていたのだろうか?

 それでも、やっぱり産めなかったと思う。あたしにはその覚悟がなかった。今だって分からない。だから、次に身籠る時はきちんと準備をしようと決めた。赤ちゃんが幸せに産まれて育つための準備を。もう自分の都合で誰かを傷付けたりなんて、絶対にしたくない。

 あれから二年が経ち、ハル兄は百合さんと結婚した。結婚式の時初めて母が泣いている姿を見て、この人も人間だったんだと当たり前のことに気付いた。高校を出て、今は寮で一人暮らしをしているからなかなか会えてないけれど、会っても挨拶ぐらいはするようになった。あの時、下ろすように言ったお母さんの気持ちが、今は少し分かるようになった。

 それと、助産師を目指そうと思った理由はもう一つある。ハル兄と百合さんの間に赤ちゃんができたのだ。その報告を受けた時、あたしは助産師になりたいと強く思った。子供が少なくなっている世の中だけど、その中でも生まれてこようとしてくれているのなら、あたしはその子達を安全に迎えてあげたい。そう思った。

 今日も授業が終わり、学校を出る。友達と別れて、喫茶ヘンリエッタに向かう。実習が始まるまではバイトを続けようと思っている。今日は日曜日だからバイトはお休みの日だ。

 バスを降りて、少し歩く。いつもの道のりでも今日はやっぱりワクワクしている。

 焦げ茶色の木でできた重い扉を開ける。

「こんにちはー」

 店内にはゆったりとしたジャズが流れていて、からんからんとドアに付いたベルが鳴った。

「あら、亜紀ちゃん。お帰りなさい」

 奥さんの鳴海ミチ子さんが笑顔で迎えてくれて、あたしもただいまと返す。

「おお、亜紀か。おかえり」

「ただいま、店長」

 店長はコーヒーを淹れていた。

「亜紀ちゃん、コーヒーでいいかしら?」

「はい、ありがとうございます」

 出されたコーヒーの幸せに包まれながらカウンターに座って一服する。

「なんやぁ、可愛い格好して。今日はデートか」

 同じカウンターにいた常連の川田さんがケラケラ笑いながら言った。お店にはカウンターに川田さんと、奥の隅にパソコンを前にこちらを気にしている長谷川さんがいる。

 コーヒーを半分飲み終わる頃に、扉の開く音がした。

隣の椅子が引かれ、コーヒー一つお願いしますと声がする。

「ただいま、亜紀」

 声がした方を振り向くと、そこにはやっぱり大好きな笑顔がある。

「おかえり、冬樹くん」

 だから、あたしも同じ笑顔で笑った。

「うん、ただいま」

 隣に大好きな人がいてくれる。

それだけで、今は満たされた気持ちになる。

                                   了


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