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6

アンの父親は一代で成り上がった大商人である。元は各地を巡りながら主に布や糸、裁縫道具など洋裁に関わる物品の交易商人の一族であった。ある時仕立てに興味を抱いた彼は、自ら衣服を作り始めた。その斬新な型や、理想とする洋服を作るために作りだした糸や生地は瞬く間に人々の注目を集め、貴族や王族の御用達となったのだ。元々庶民であった彼は貴族たちの煌びやかな衣服だけではなく、安価で丈夫な庶民向けの衣服を作りだすことにも精魂を注ぎ、その過程でたくさんの発明品を生み出し、いつの間にか大商人と呼ばれるようになっていたそうである。

 今では洋裁に関わらず幅広い商売をしていて、名前だけの貴族や田舎の領主などよりは余程金持ちである。しかし、やはり庶民は庶民でしかなく、一人娘であるアンも、この栄光も一時のものであると考えている。母は幼いころに病気で亡くし、父と娘二人で守るにはあまりにも大きなものになってしまった事を、アンは少しだけ嘆いていた。

 アンの夢はいずれ貴族と結婚し、地盤を盤石なものにすることである。そうして父が作り上げたものを守りたいと思っていた。

 しかし庶民は所詮、庶民である。まして、ただの庶民なのに無駄に金を持つ者など、貴族にとっては鼻つまみものでしかない。興味を示すのは、金にしか興味の無い貧乏貴族ばかり。それでも無駄に誇り高い彼らは、アンを金蔓の側室にしてやろうなどと、手紙を寄越してくるのだった。

 そんなうんざりするような内容ばかりの手紙の中に、真っ白い封筒の手紙が混じっていたのは少し前の事だった。

 送り主はシリル・サン・ピエール。公爵家の印で押された封を見た時、これは何の策略だろうかとアンは疑った。

 公爵家のシリル…その名を知らない者はこの王都にはいないだろうという程の有名人である。公爵家の末子で、王国一の美貌を持つと評判の王族であり、未だ結婚どころか婚約の話すらない王都一のモテ男である。

 とはいっても王族である。女の子たちは心の中で、ただその姿を見て癒され、ただ胸に憧れを秘めるというだけの存在だ。あまりに高嶺に咲く花は、誰も手を伸ばそうとは思わないものだ。

 そんな彼が一度だけアンの店に訪れた事があった。城の姫たちの新しいドレスを代理で受け取りに来たのだ。その時アンが対応したのだが、噂通りの美貌の持ち主で、そして噂通りに表情が動かない人であった。

 常に穏やかな視線と笑みを湛えてはいるものの、交わされる言葉は必要最低限で、それでいて簡潔だった。彼は人形なのではないかという噂も聞いたことがあったが、そうなのではないかと思える程だった。しかしその佇まいと美しさは、アンの心を奪うのに充分なものだった。

 しかしアンとて高すぎる花に手を出す程無謀ではない。夢を見ていたのだと言い聞かせて日々を送っていた所の突然の手紙。

 内容は“お茶会を主催するから来てほしい”という招待状であった。

 まさかただの庶民である自分にそんな招待がくるとは思わず、つい裏を疑ってしまった。

 それでもあまりの嬉しさに、気分が何処までも高揚していくのを止めることはできなかった。


「それで、アン様はそのお茶会に行ったんですよね…?」

「ええ…」

 ロティの髪を丁寧に梳きながら、アンは応えた。

「私が冷静だったら、そんな安い恋愛小説のような出来事がって、笑い飛ばしていたかもしれないわね」

 言いながら笑うアンは、何処か寂しげだ。

「や、やっぱり偽物だったとかですか…?」

 アンにそんな事をするなんて許せない…ロティはそう思いながら興奮気味に聞いた。しかしアンは鏡の向こうでゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。本物だったわ。私も半信半疑だったのだけど、指定の場所は公爵家の庭園だったし、そこでは間違いなくお茶会が開催されていたの。だけどね…」

 アンは少しだけ視線を落としたように見えた。

「そこにはシリル様目当ての貴族のお嬢様方々がたくさんいて、私なんかとても横に並べそうもなかったわ。誰もが皆、美しく飾り立てて、気位が高くて…。私が会場に現れると、どうして庶民がってこそこそ陰口が聞こえたわ」

「アン様は充分お綺麗だし、お金持ちです…」

 ロティが正直にそういうと、ありがとう、とアンはほほ笑んだ。

「でもね、やっぱり私は何処か…垢抜けきれない所があったのね。でも、招待状は本物だったし、此処に招待された事には間違いなかったから、私はそんな視線や陰口を聞かないフリしていたわ」

 貴族のお嬢様なんて直に観ることなど滅多にない。時折、祭ごとや式典なんかで見かけるが、庶民には手の届かない遠いところにいる事が多かった。庶民とはいえ、アンにすら近づくことは叶わないとロティは思っていた程だ。

「お嬢様方より厄介なのはお坊ちゃま方の方よ」

 アンは少し怒っているような、呆れているような口調でそう言った。

「私に手紙を寄越して側室にしてやる、なんて言ってきた奴もいたわ。そうでなくとも、私のパパが大商人だと知ると、近づいてきて勝手に“婚約者だ”なんて言う人もいて…本当にいい迷惑」

「た、たいへんそうです…」

 ロティは異性にモテた事などないのでわからないが、好きでもない人…それもお金目当ての人たちに付き纏われるのは大変そうだという事は理解できた。まして、アンが恋しているのは主催者であるシリルだ。高嶺だった花が手の届きそうな場所にいるのに、そこに至るまでの険しい道は、煩わしさを感じるだろう。

「お茶会、たいへんだったんですね…」

「全体的にいえばそうだったのかもしれないわ。だけどね…」

 ふ、とロティの髪を梳くアンの手が止まった。鏡越しにアンの顔を見ると、夢見心地のように、頬を紅く染める乙女がそこにいた。潤んだ瞳と優しく笑う口元がなんとも可愛らしく、言葉にせずともアンが何を思っているのか理解できた。

「シリル様。やはりあの方はとても素敵な方だったの…」

「会えたんですか?」

「ええ…」

 思いだしているのか、僅かに伏せられた瞼の下にはおそらくシリルの姿が映っているのだろう。

「忙しそうに参加者の方々に挨拶をされていて、私の所にも来てくださったわ。楽しんでいるか、お茶は美味しいかと気遣ってくださって…それに、招かざる貴族のお坊ちゃん方の非礼も代わりにと、詫びてくださったの。佇まいもとても美しければ、心根もとても美しい方だと思ったわ…」

 朱を差す頬と、潤む瞳。その瞬間だけはアンはとても幸せだったのだろうと、ロティに思わせた。いつも凛とした彼女の、こんな姿を見るのは初めてだ。

「凄いです、アン様。きっとシリル様はアン様の事を気に入ってくださって、招待してくださったんですね」

 ロティにとってはアンの話に聞くシリルも、アン自身も、同じぐらい容姿、佇まい、心根、全てが美しいと思っていた。だからシリルもアンの事を気に入ってお茶会に招待したのではないかと、そう思った。何せロティの頭の中の二人は、とてもお似合いなのだ。シリルの姿は観たことが無いのだが、たとえどんな絶世の美男でも、アンが引けをとる事はないだろう。

「…そう、だったら良いわね」

 アンの瞳から光が消えたのは突然だった。俄かに、夢から現実に引き戻されたかのように、まっすぐと鏡の中の己の姿を見ているようだった。

「違うんですか…?」

「私は…シリル様ではないから、本心というのはわからないわ。でも…」

 アンは鏡の中の己から目をそらし、再びロティの髪を梳き始めた。最初と比べて少し力ないように感じたが、アンの気が紛れるならそれで良い。

「今から考えてみれば、どんな会話もとても事務的な挨拶でしかなかったのかもしれないわ。貴族というのは体面を気にするものだから、庶民である私に気を留めてくださるのもその一端でしかないのだと…そう思ったの」

「どうしてですか…?」

 あんなにもシリルの心根は素晴らしいと語っていたアンが、同じ口でそれは体面かもしれないと言っている。夢と現実に揺れる心が、彼女の暗い瞳に現れている。

「お茶会の後…私、個人的にシリル様に呼ばれたの」

「えっ…それって…」

「ええ、私も最初は喜んだわ」

 憧れの公爵子息様に個人的に呼びだされるなんて、夢のような事だったろう。確かに高嶺の花がその手に届きそうな…そんな心地だったのではないだろうか。

「先日、再び公爵家に伺ったの。一人の女としてではなく、大商人の娘としてね」

 思わずロティが振り返り、直接アンの顔を見上げると、アンは少し困ったように目を眇めた。

「シリル様が個人的に、内密に聞きたい事があると仰ったの。王家や貴族の筋でなかなか解決しそうにないってことだったから、他に伝手がありそうな私を呼んだらしいわ」

 確かにアンの家は、手広く商売をしている事から、種々さまざまな人たちとの繋がりがある。ロティのような一介の写本屋の娘だったり、お偉い学者、僻地の冒険家、そして深窓のお姫様達。アンに聞いた事がある知人だけでも、ロティには縁遠そうな人たちばかりだった。そういう少し変わった伝手を、シリルは求めていたという事だろうか。

「それでね、私、思ったの。シリル様が私との交流を望んだのは、そういう事なのかしらって…」

「アン様…」

 そういう事、というのは、アンが大商人の娘だから、その伝手を利用したいが為の交流だという事だろうか。アンの事を女性ではなく、取引相手として見ている。彼女はそう考えているのか。

「でも当たり前の話だわ。だってあの方は王族で、私はただの商人の娘なんですもの。私だっていつも商売の事を第一に考えているというのに、あの方がお家の事を考えないだなんて、おかしな話よ。私は少しうかれすぎていたの…私だって、冷静に取引すべきなの」

 言いながらアンは、ロティの髪を、つむじを中心に半分に丁寧に分けた。

「アン様…?」

 アンは鏡台の抽斗をあけて、中から茶色いリボンを取り出した。縦縞模様の素朴なリボンをそのまま手に持ち、半分に分けた髪の片方を耳よりも高い位置で結いあげた。そして手に持った茶色いリボンを綺麗に結ぶ。同じようにもう片方も揃いのリボンで結んだ。

「思った通り、とてもよく似合うわね」

 にこり、と鏡越しにアンが微笑むのが見えた。

 鏡の向こうには、今まで見たことの無い女の子がいた。しかし呆けた顔をしているが、それは間違いなく自分である。可愛らしいリボンを左右ひとつずつ、綺麗に梳かれて結われた髪がゆらゆら。きゅっと頭が締まって、なおかつ感じた事の無い部分への重みに頭がゆらゆらと平衡を保とうと揺れているように思えた。

「かわいい。ロティにはこの髪型が似合うと思ったの。とっても素敵だわ」

「あ、あの…」

「ロティの髪はとても長いから、こうして尻尾みたいにゆらゆらしてたら可愛らしいと思ったのよ」

「尻尾…二本ですか?」

「ええ」

 見たことのない自分がいて、気恥かしいようなくすぐったいような感じがした。しかし、可愛い、似合うと言われれば悪い気はしない。

「あ、あの…有難うございます…。でも…」

 今まで話していた内容とはかけ離れた話題になって、ロティは困惑した。アンはただ単にロティの髪を結いながら愚痴言いたかっただけなのだろうか。

「ロティ。宜しければ、そのリボンは貴女に差し上げます」

「え、ええっ。良いんですか…?」

「もちろん、これはいつものお礼」

 言いながら満足そうにほほ笑むアン。それから鏡の中のロティにまっすぐと目を合わせた。

「それからこれはお願いよ。シリル様のご用件に、ロティに付き合ってもらいたいの」


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