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ノアがしばらく店を空けると聞いたのは、不思議な出来事から三日程経った頃だった。

「何処かに行くんですか?禁書の事はどうするんです?」

 不安げに問うロティとは逆に、ノアは爽やかに笑っている。

「ちょっと港までですよ。すぐ帰ってきます。いつもの事じゃないですか」

 ノアはたびたび港の街まで出かけることがあった。港の街までの馬車は二日に一回しか出ず、その行程も二日かかる。帰りも当然同じだけの時間がかかるのだから五日程留守にすることになる。

「また店番お願いしても良いですか?」

「それは良いですけど…」

 まだ禁書の事が何もわかっていないのに、ノアがいなくなるのは少し不安だった。彼がいた所で何か頼りになるのかと問われれば微妙な所だが、共有する人がいなくなるのは何となく不安になる。

「港でも情報を集めてくるつもりです。あそこは世界中から色んな船が集まる大きな港ですから、何か知っている人もいるかもしれません。巡礼者なんかも多いですし」

 ロティを慰めるような口調でノアはそう言った。ロティもノアを困らせるような我儘を言うのは嫌だった。それでも不安が漏れてしまったのは、自分が思っている以上に、本の事を恐ろしいと思っているせいかもしれない。

 にゃあ、という事が聞こえて振り向くと、黒猫がロティの傍までやってきてじゃれた。

「ほら、君にはロロがついているから大丈夫です。大した騎士ぶりじゃないですか」

 抱き上げると気持ちよさそうに身を捩るロロを見ていると、心が自然と休まる。

「ノアより頼りになりますもんね」

「ひどいなぁ」

 ノアは言いながら眉を潜めて空笑いした。


 たとえノアがいなくとも、ロティは自分に降りかからんとする災厄を、自分で跳ね除けねばならない。怖いから。

 店主のいなくなった貸本屋の店主席の上では、黒猫のロロが身体を丸めていた。

「良い?ロロ。今日からしばらく君が貸本屋の店主だよ。誰かきたら教えてね」

「にゃあ」

 ロティの言葉に、ロロは元気に鳴いたが、本当に言葉は通じているのやら。猫は気まぐれで恩知らずな生き物だと聞いたことがある。確かにロロは飼い主のロティの家である写本屋ではなく、何故か貸本屋にいる事が多かったが、ロティが抱き上げたり、撫でたりするのを嫌がる事はない。構って欲しい時もロティに甘えてくるし、可愛いものだとロティは思っていた。それに今は誰かと一緒にいたい気分だ。

 もちろん猫をアテにしているわけではない。誰か来店すれば扉の鈴が鳴り知らせてくれる。その間ロティは書庫に入り、修道院に関する本を自分で探そうと考えていた。

 教会に関する書物は、ノアの店ではあまり取り扱っていない。そういう本は教会で借りられる事が多く、わざわざ代価を払ってまで貸本屋で入手しようとする人は少ない。書庫の隅に埃を被っている白い本達を丁寧に拭いてから、ロティは貢をめくった。

「うーん…」

 教義ではなく、教会そのものについて書かれた書物は少なく、あっという間に調べ終えてしまった。修道院の事が書かれたものはいくつかあったが、修道士の生活や聖人の話ばかりで“塔上修道院”の名は終ぞ出てこなかった。

 他所の本屋に聞いてみるという手もあるが、それだと祖父への話の伝播は避けられない。

 やはり祖父や教会に内緒で調べようと言うのが無理な事なのだろうか。此処は大人しくノアの持ち帰る情報に期待していようかと考えていた時だった。

「あ…」

 ちりりん、とドアベルの鳴る音が響き、次いでもっと軽やかな鈴の音が聞こえた。にゃあ、というか細い声が聞こえて足元を見ると、子猫がこちらを見上げていた。

「凄いよ、ロロ。ちゃんと知らせてくれたんだね」

 ロロを抱き上げながら頭を撫でると、成されるままにロロは身を捩った。


 「いらっしゃいませ…」

 ロロを抱いたままロティが書庫から店に続く扉を開けると、店主席の目の前に男性が一人立っていた。

 地面にまっすぐと立って少しも歪みの無い立ち姿、無感動なのにノアとは違ってきりっとした顔つきには一分の隙も無いように思える。

 口以上にモノを語らない静かな瞳は一見すると威圧感さえ感じるが、知人である事にロティはほっとして笑みかけた。

「あ、ルイさんでしたか。いらっしゃいませ」

「はい」

 短くそれだけ答えて男は軽く頷いた。

 ルイはアンの家に仕える唯一の使用人である。街一番と言っても過言でない程の大商人でありながら、使用人は彼一人で、家事や秘書業務など一人でこなしているらしい。

 従業員は数え切れないほどいるが、彼は従業員ではなく家族なのだとアンがかつて言っていた。

 ルイは店の中を確認するようにサッと目線を巡らせた。

「店主は留守ですか」

「はい、今日は港に…ノアに何か御用ですか?」

「いえ、まさか。安心しただけです」

 ロティの問いに間髪いれずにルイはそう応え、首を左右に振った。

 ルイの年齢は確かロティの少し上で、ノアともそんなに歳は離れていないので一方的にノアがルイの事を気に入っている…のだが、ルイはそれを心底迷惑がっているようだ。

 表情にはさっぱり表れないのだが、ノアに対する言葉はロティに対するそれよりもあからさまに険がある。ロティに対してはお嬢様の友人として丁寧に接してくれる紳士なので、ノアが悪いとロティも思っていた。

「えと、じゃあ今日はどうして貸本屋に…?本を借りにこられたのですか?」

「いえ。所用で近くを通りかかったので、写本屋に寄らせて頂いたのですが、店主様からロティ様は今日はこちらにおられるとお聞きしまして」

「私に用事ですか?それはわざわざ…どうもです」

 わざわざ手を煩わせてしまった事を詫びようと思ったが、うまい言葉が出てこず微妙な言い方になってしまった。

「大したことはございません」

「あ、はい…あの、それで私に用事って…」

「先日預かって頂いた本の事です」

 そう言われてロティははっとした。もしかして催促だろうか。締め切り日を間違っていただろうかと急に不安が襲い、次になんと言おうかと考えて混乱してきた。

「あああ、あの、私、もしかして間違って…?」

「落ち着いてください。催促ではありません」

 慌てるロティとは逆に、ルイは瞬きひとつして静かな口調でそう言った。

「お嬢様が、厄介な仕事を押し付けてしまってロティ様がお困りではないかと煩わしい程に心配なさるので、様子を伺いに参りました。それも無駄に威圧感を与えるだけだから止めた方が良いと言ったのですが…まったく、それなら初めから仕事を頼まなければいいものを」

 呆れたようにルイはそう言ったが、ロティはむしろアンの心遣いが嬉しかった。混乱していた頭が嬉しさでいっぱいになり、笑み崩れた。

「そうだったんですか!私は全然、だいじょうぶですよ。それに、あの本の復元なら、実はもう終わってるんです。すぐにお渡ししますね」

 ロティが元気にそう答えると、ルイは少しだけ口の端をあげてほほ笑んだように見えた。

「さすがロティ様。そうして頂けるとお嬢様の心配も杞憂であると教えて差し上げることができるでしょう」

「じゃあ、すぐに取ってきますね」

「…ロティ様。今日これからお時間はございますか」

「え、今日ですか…?」

 写本の仕事はだいたい片づけて後は祖父に任せているし、貸本屋の店番くらいしかやる事は無い。夕方には店も閉めてしまうが、それまでの時間も間も無い。店主もいない事だし、早く閉じてしまっても問題は無いだろう。

「ええ、大丈夫ですよ」

「でしたら屋敷までご足労願えませんでしょうか。仕事の報酬の事と…それとは別に普段からのお礼がしたいとお嬢様が言っておりまして」

「え、そんな。いつも美味しいお菓子やお土産いっぱいもらって、お仕事だって…お礼を言いたいのは私の方なのに…」

 そんなにたくさんの好意を貰える程、ロティは大したことなどやっていない。慌ててそう言うと、ルイはまた少し微笑んだ。

「これはただの建前です」

「たてまえ…ですか?」

「お嬢様は貴女と楽しくお食事やおしゃべりをしたいだけなのです。ご迷惑でなければ、その願いをかなえてやっては頂けないでしょうか…?」

 もしかすると、ルイはロティの心を読んで気兼ねなく屋敷へ行けるようにと、言葉を選んでくれていただけかもしれない。しかし、もしアンがそう思ってくれているなら嬉しいと思って、気が付けばロティは頷いて応えていた。


「まあ、ロティ!いらっしゃい。もうあのお仕事を終わらせてくださったんですってね。ルイに聞きましたわ」

 ロティが居間で待っていると、アンが小走りに駆け寄り嬉しそうにほほ笑んだ。その顔を見ているだけで、ロティの顔も自然と緩む。

「あ、はい…あの、今日もお招きいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ突然だったのに遊びにきてくれて有難う。ロティが来てくれてうれしいわ。貴女に話したい事があって…」

「もしかして例の君の事ですか?」

 ロティが興奮気味にそう聞くと、アンは優雅にほほ笑んだ。

「ええ…。その前に、少し私の部屋に来て頂けないかしら」

「え…?アン様のお部屋、ですか…?」

 ただの客人のロティが、アンの部屋に入っても許されるのだろうかと思ったが、アンがにこりと微笑むのを見て、その後を黙って付いて行くことにした。

 アンの部屋はロティの家の部屋を全て合わせても足りないぐらいに広いのではないかと思われた。こちらもふわふわの絨毯が敷かれているし、まるで美しい額縁のような細工の窓からは、絵画のように美しい庭園が見える。ひとつひとつが芸術作品のような調度品が少しずつ置かれていて、思わずロティは立ちつくしてしまった。

「そこの鏡台の前に座って頂戴」

 アンに言われてそちらを見ると、全身映るのではないかと思う程大きな三面鏡があった。白い花の細工が美しい純白の鏡台で、それと同じ背もたれの無い椅子のあまりの綺麗さに、一瞬座るのが躊躇われた。おそらくそれはアンが普段使っているものだろう。

 ロティがぼーっとしているうちに、アンが椅子を引いてにこりと微笑んだ。

「どうぞ」

「あ、は、はい…すみません…」

 何故か謝りながら恐縮しつつロティが着席すると、大きな鏡に間抜けな顔をした自分が映り込んでいた。

 ロティの背後に立ったアンの手にはブラシがあった。

「髪をいじらせてもらっても良いかしら」

「あ、はい…」

 髪に手が触れた感触と、鏡に映ったロティの髪に触れるアンの姿を見て、緊張が高まる。心臓が大きく動いて、そのまま鼓動を早めていった。髪に触れられると、何故か心が読まれているような気がする。そう思うと、また心音が早まった。

 アンの手つきは優しく繊細で、髪を梳かれるのは気持ちよかった。しかしこんな事をされるのは初めてで、しかも場所が場所なだけにロティは緊張を隠しきることはできないと思った。

「ロティの髪は綺麗ね。とても綺麗な色だし、ふわふわしていてとっても可愛い」

「あ、ありがとうございます…。あの、アン様の髪もとっても素敵です」

 ありがとう、とアンは嬉しそうに答えた。

「あ…あの。それで、例の…お茶会の事を聞いても良いですか…?」

 ロティがそう言うと、髪に触れるアンの手が一瞬止まったような気がした。

「ええ、勿論」

 アンは優しく微笑んでいたが、その笑顔にロティは何か違和感を覚えた。鏡越しに見ているせいだろうか。

「何処まで話していたかしら?」

「公爵子息様のお茶会に呼ばれたっていう所までです」

 そうだったわね、とアンは答えた。


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