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「おじいさん、今帰りました」

 貸本屋の裏口から出て一歩分、写本屋の裏口の扉を開けてロティが言った。すぐに目の前の階段裏から木の軋む音が聞こえてきたが、途端にがたん、という大きな音が響いた。

「お、おじいさん!」

 ロティが階段の正面に急いでまわると、男性が階段の上に座りこんでいた。

「あいたた、ちょっと滑っちゃったよ」

「だいじょうぶですか?」

「だいじょうぶだよ」

 ロティが駆け寄ると、その頭を撫でながら立ちあがる。にこにこと目尻に皺を寄せて笑う顔を見て少し安心した。

「凄い音でしたね」

「やあ、ノア君」

「お邪魔しますね、シャルルさん」

 ノアが挨拶をすると、おじいさんことシャルルはにこにこ笑って手を挙げて返事した。

 いつも通り何処も調子は悪くなさそうだったが、ロティはやっぱり不安になってシャルルの手を取った。

「おじいさん、こっちです」

「ロティちゃん。心配してくれるのは嬉しいけど…」

 支えるように腕を引くと、シャルルは乾いた笑いを零した。

「僕はまだそんなにお爺さんではないと思うんだけどねぇ…」

「あれ、シャルルさんて何歳でしたっけ」

「三十九。まだ三十路だよ」

「確かに“おじいさん”にしては若いですね。でも何かこう…お爺さんが板について来ましたよね」

 笑いながらノアは居間の椅子を引いて、手でシャルルに着席を勧めた。頷いてそれに応えながらシャルルが座ったのを見て、ロティもようやく安心する。シャルルは写本屋の大事な店主で、ロティの唯一の家族で、最愛の養祖父であった。だから少しの怪我でも不安になってしまう。まだ三十路の男性だといっても、ノアのようには若くは無いと思えば心配にもなる。実際はロティよりも身体能力が高い普通の男性であるはずなのだが、シャルルは何処か老人のような雰囲気があった。

「遅くなってごめんなさい、おじいさん。今からご飯用意しますね」

「ああ、構わないよ。また、お嬢様に仕事を頼まれたのでしょう?忙しいだろうからね」

 シャルルは穏やかに微笑んでそう言った。ロティはシャルルのこの笑顔が好きで、何よりも安心できるものだった。

 ロティが急いで用意したのは、作り置きしたスープに旬の山菜を入れて煮込んだもの、焼いた茸の傘の上に焼いた野菜、チーズで蓋をしたもの、そしてアンの家で分けてもらったふわふわのパンだった。

「さすがお金持ち御用達のパンですね。美味しいです」

 パンをちぎって口に放り込みながら、ノアは口角を上げて幸せそうに笑った。

「まさか、今日はそれが目的ですか?」

 ロティはアンの屋敷に行くと、いつもお土産にとお菓子やらパンを貰って帰って来る。その事をノアは知っている。疑いのまなざしを向けると、ノアはパンを口の中に押し込みごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。そして流し込むようにスープを掬って口にする。

「いやあ、ロティの作るスープは年中美味しいですね」

「そうだね」

 ノアに同意しながら、シャルルはアハハと笑った。あまり嬉しくない褒め方だったが、シャルルが楽しそうに笑うので良いかと、ロティは心の中だけでため息を吐いた。


 夕飯の後片付けを済ませた頃には、既に明かり窓に月の柔らかい光が落ちていた。シャルルが書斎に戻り、ロティが居間に戻ってくると、ノアは月灯りで本の貢をめくっていた。ぼうっと浮かび上がったノアの白い横顔とクセ毛が妙な夢幻感を漂わせていて、普段とは違うように見える。真剣なまなざしを覆う睫毛の先も仄かな灯りに照らされている。

「暗くないですか?」

 ロティが声をかけると、ノアは顔を上げて、月のように青い瞳を優しげに細めた。

「今日は明るいです」

「ですね…何かわかりましたか?」

 ノアが見ていたのは、件の王子様の絵本だった。内容を精査したノアによると、物語は小さな女の子と誰かが、魔法使いにお願いに行く、という単純明快なものだ。途中、大きな獣に襲われたり、悪い大人に騙されたり…そんな困難を乗り越え、女の子と誰かは魔法使いの元に辿りつく。そしてお願いごとを言う…。

 白く抜けている部分はこの“誰か”であった。文面には『女の子は   と一緒に』や、『   は女の子に言いました』という具合に、女の子の相手の名前だけ最初から無かったように抜けている。おまけに描かれているのも、いつも女の子ひとりぼっちだった。見えない白い何かに向かって必死そうな顔を向ける少女。なんだか寂しい気分になってくる。

「抜けているのはこの“誰か”の名前だけではないようです」

「他にもあるんですか?」

 ロティが問うと、ノアは本の貢をパラパラとめくって、最後の方で止めた。貢をロティの方に向けて見せた。

「 “誰か”と女の子が何を願ったのかがわかりません」

 ロティが本を覗いてみると、最後の最後で、魔法使いが二人に願い事を聞く場面であった。


“おまえたちの願いごとは何だい?”


魔法使いは二人にいいました。

女の子と   は、声を揃えていいました。


“             ”


二人がそう言うと、魔法使いは頷きました。



「本当だ、此処にも何も書かれてません」

「僕の推察だと…この“誰か”が“王子様”だと思うのですよ」

 絵本の中では、王子様という言葉は一度も出て来なかった。表題にもなっているのに一度も出て来ないという事は、この白く抜けた部分が王子様なのだろうとノアは言った。

「しっくりきます」

「ですよね。しかし何故、この王子様という言葉が書かれていないのか…」

 ノアが呟くように言った。確かに、すぐに推察できるような事がわざわざ伏せられている理由がわからない。絵本の文字は全体的に薄く、消えかかっているものも多かったが、意図的に書かなかったのか、あるいは…。紙の日焼けも酷くて、元は白かったのだろうが、全体的に淡い黄味を帯びている。

「誰かが消しちゃったんでしょうか」

「だとしたら理由が気になるところですね」

 確かにそれに何の意味があるのかわからない。表題には“王子様”と書いてあるのだ。

本の貢を最後まで捲りきったところで、ノアはふっと手を止めた。

「…奥付けがありますね」

 ノアが指でトンと叩いた場所を見ると、そこには掠れた文字何かが書かれていた。

「塔上修道院禁書庫蔵書」

 ノアが文字を指で追いながら読みあげた。

「塔上修道院…」

 聞いた事のない名前だった。そもそも修道院は教会とは違い、人の集まる場所からは離れた所にある事が多いと聞いた事があった。

「僕達のように、街に暮らすような俗世の人々が、名前も知らないような修道院というのは少なくありません」

 修行の邪魔になるものを排除するため、ひっそりと存在する修道院も多いのだと、ノアは語った。

「でも、どうして修道院の本が貸本屋に…?」

「うーん」

 ロティの問いに、ノアは唸りながら自らのクセ毛を搔いた。

「修道院の本が売りに出されて流れるのはよくある事なのですよ。修道士の修行のひとつが写本、ですから…。まあ、でも、こんな絵本は珍しいです。それに…」

 ノアは眉間に皺を寄せて難しそうに唸りながら、本にトン、と指を置いた。

「禁書庫蔵書、気になりますね」

「禁書庫…」

 その名前は、ロティも聞いた事があった。曰く、修道院や教会、王城には、普通の人々には見せられない、読ませられないような書物があるのだという。内容は過激で危険な思想であったり、人を洗脳してしまうようなものであったり、読むだけで頭がおかしくなるようなものである…らしい。写本屋や貸本屋では、そういった類の書物は見ない。それらの本が万が一にでも出回らないように、厳重に監視されているからだとロティは聞いた事があった。

「ただの絵本なのに、禁書、ですか」

「物語はそうですね。でも…」

 ノアの青い瞳と目が合い、ロティは思わず顔をあげた。

「君が体験した不思議な出来事…王子様探しと何か関係があるのかもしれませんね」

 そう言われて、ロティは今更ながら背筋にひやりとしたものを感じた。人が読んではならない書物…不思議な体験。言葉がぐるぐると脳内を巡る。

「ま、ま、まさか…変な呪いにかかったんじゃ…」

 ロティは震える頬を両手で押さえた。

「その可能性も考えられますね」

 ロティの怯えを知ってか知らずか、適当そうに、軽くノアはそう言った。気休めでも、そんな事ないと言って欲しかったのに。お陰で足までががくがくと震えてくる。

「どど、どうすれば…」

「怯えているのですか?」

 ロティの様子にようやく気付いたのか、ノアは目を丸くしてながらそう言った。怖くない、と見栄を張りたいところだったが、気がつけばぎこちなく首を前に倒していた。

「多分、だいじょうぶです」

 ノアが手を伸ばし、ロティの頭を軽く数度叩きながら、あっさりとした口調で言った。

「え…ど、どうしてですか?呪いじゃないんですか?」

「探偵の勘です」

 臆面もなくノアはそう言い切った。しかしその言葉に信頼を抱くだけどの探偵性を、ロティは未だ見出していない。

「この本はね、間違いなく僕が買い付けしたものですよ」

「え?そうなんですか?」

「先程行っていた某資産家の蔵書のひとつです。先日持ちかえった分ですね」

 ノアは本の裏表紙をロティに見せ、そこに書かれていた人名らしき手書き文字を示した。

「絵本は珍しかったので買ったのですけど。まさか禁書だとは思いませんでしたが」

「ちゃんと確認してから買ってください」

 ロティが頬を膨らませながら言うと、ノアは、あははと笑って誤魔化した。そうすればわざわざ怖い思いをせずに済んだのに。

「一応、教会や修道院に関する書物は漁ってみようとは思いますが…さて、寂れた貸本屋の蔵書に良いものはありますかね…。まぁ、修道院の事なら教会に聞くのが一番ですが」

 ノアが話を戻した。この街の教会といえば、住宅街の最奥にある市民の憩いの場、三日月教会だ。そこには、年老いた穏やかな司祭が一人いる。

「三日月教会の司祭さまに話を聞いてみますか?」

「あのお爺さんですか…どうも、一筋縄ではいかないと言うか」

 ノアが唸りながら頭を搔いた。

「そうだ。シャルルさんなら話を通せるのでは?確か、あそこの司祭様と仲が良いと聞きましたが。それともシャルルさん程の物知りなら修道院の事も知っているかもしれませんね」

「あ、はい。そう、なんですけど…」

 ノアの提案は最もで、もちろんロティも真っ先に祖父の事を思い付いた。

「あの、でも。おじいさんには黙っててくれませんか?この事…」

「この事って、本の依頼の事ですか?」

 ノアが絵本を持ち上げながらそう言って、ロティはゆっくり頷いた。不思議そうにノアの瞳が疑問を投げかけてくる。

「もし、この本が本当に危険なものだったら嫌です。おじいさんを巻き込みたくないんです」

「ロティ…」

「それに、おじいさんも同じ事思って、危険な事はやめなさいって言うかもしれません」

 ロティが拳を握りながら眉を吊り上げて、訴えるようにそう言った。ノアが目を見開き、数度瞬かせた。

「…珍しくやる気満々ですね。僕の探偵業の手伝いなんて嫌だと思っていましたが」

「うう…」

 ノアの言葉に、ロティは唸りながら項垂れた。

「だって、怖いんです…。禁書とか、本当に呪いだったらどうしようって…」

「あはは」

 ロティの真剣な想いの吐露を、ノアは吹きだし笑いで飛ばした。怖がりだと馬鹿にされてしまったのかと思って、ロティは恥ずかしさと悲しさが頭を打ち付けたような心地になった。

「なんで笑うんですか…」

「くく、ごめんなさい。少し君を怯えさせてしまったようですね」

 ノアは堪え切れない笑いを洩らしながら、ロティの頭を数度、軽く叩いた。それで励ましているつもりなのだろうか。ロティは涙目をキッと吊りあげた。

「笑わなくても良いじゃないですかぁ…」

「ロティこそ、泣かなくても良いですよ」

 ロティの頭を叩いていた手が、今度は髪を優しく撫でる。ロティは顔をあげてノアの目を見た。

「僕が笑ったのは、怖いものから逃げるんじゃなくて、立ち向かって排除しようとするのが負けず嫌いなロティらしいなって思ったのですよ」

 それにね、とノアは目を細めて微笑んだ。

「ロティを危険な目になど、僕が絶対に合わせませんよ」

「ノア…」

 普段はぼーっとしているくせに、こういう台詞ははっきりと、自信たっぷりにノアは言ってくれる。それが真実と成り得るかはわからなかったが、安心に足るだけの声色に、ロティの涙が乾いてゆく。覆いかぶさるような不安という恐怖が、少しずつ小さくなるのを感じた。

「だからね、ロティも僕を守ってくださいね」

「………はい」

 にっこり笑ってそう言われれば、無理だとは言えない。微妙に格好がつかないのもノアのだと、ロティは心の中だけでため息を吐いた。やっぱりちょっと不安。

「では、シャルルさんには秘密にしときましょう。と、なると三日月教会の司祭様に話を伺うのも避けたいところですね」

「あ、そ、そういえばそうですよね…。うーん、どうしましょう」

 シャルルに秘密で何かを調べるのは、結構難しい事なのかもしれない。この街で一番の物知りの名を問えば、十人中八人はシャルルの名を挙げるだろう。

 ロティが唸っていると、ノアはパタンと本を閉じた。

「とりあえず、今日は此処までにしておきましょう」


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