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「ふう…今日の所はこんなものかな」
ロティは出来上がった紙の束を掲げて、満足げにため息を吐いた。後はこれを製本すれば完璧なのだが、それには数日の時間を要する。写本の中には、製本されていないものも多かったが、やはりロティは表紙があって、背に糊付けされた本の体裁が好きだった。できるだけ原本に近い出来に仕上がると、満足度も割増だ。良い表紙の素材はあっただろうかと、ロティは顔をあげた。本棚の隙間から覗く窓の向こう側にロティの家があったのだが、ちらりと見えた向こう側に残照が見えた。壁にかかった時計を見ると、既に夕方の時間帯を示している。
「もうそんな時間か…ノア、いつ帰ってくるのかしら…」
そろそろ帰って夕飯の支度を始めなくてはならない。ロティは祖父と二人暮らしで、家事は分担でこなしていた。今日の夕飯はロティが当番だったが、ノアも誘えば来てくれるだろうか。ノアの痩せた体躯を見ていると、本当にちゃんと食事をしているのか不安になる時がある。お金には困っていないはずだが、彼が料理を作っている所を見た事が無い。仕方ないので今日夕飯に誘ってそのへんの話を問いただそうかと、紙束を纏めて整理をした。書棚を眺めると、見たことの無い本がいくつかある事に気付いた。ノアが言っていた本だろうか。また目録をつくらないと、と思いながらロティは一冊を手に取った。
その時、ちりん、と綺麗な鈴の音が鳴った。ロティは音につられて扉の方を振り返る。
「…え?」
きっとノアが帰って来たのだろうと思っていたから、来訪者の姿を見て一瞬ロティは凍りついた。半分だけドアを開けて中を覗き見ていたのは、小さな女の子だったのだ。歳は十歳前後ぐらいだろうか。栗色の髪を下ろして、頭に大きなリボンをつけた可愛らしい女の子だった。
「あ、い、いらっしゃいませ…」
思わず声が上ずって小さくなってしまった。ノアだと思っていたから、不意打ちをくらったせいもある。しかしそれ以上に、ロティは子供と接するのが苦手だった。写本屋には滅多に子供なんて来ないし、ロティの周りは年上ばかりだ。まったくと言って良いほど子供慣れはしていない。
「お店、やってますか?」
「え、ええ。まだ、やってます」
子供以上にあやふやな言葉遣いになってしまい、顔に熱が集まる。何を子供相手にこんなに緊張しているのだろう。十七歳にもなって情けないと、ロティは頭を振った。
「どんな本をお探しですか?」
ロティはなんとか子供に近づこうと、手足を必死に動かした。今のロティの姿を見たら、何の曲芸だろうかと人は笑うだろう…。ぎこちない動作で子供の目線に合わせるように屈み、歪な笑顔を作った。唇が震えていて、自分でも下手な笑顔である事は承知している。
「王子さまの絵本」
「お、王子さま…?」
そう言われて、ロティの頭の中にはたくさんの本の題名が並んだ。ナントカの王子様…そう名のつく絵本だけでも何十冊とある。絵本の写本は範疇外だったので、貸本屋によく読みにきたものだ。
「王子さまの本なら、なんでも良いの?」
「ううん」
女の子は首を振って応える。どうもこの女の子に対してロティが緊張する理由は、子供だからというだけでは無いらしい。大人でも稀に見るくらい、無表情なのだ。これは警戒されているのだろうか…。そんな事をロティが考えていると、女の子はすっと、ロティを指差した。
「それ」
「え?」
女の子が指差していたのは、ロティが先ほど手に取った本であるらしい。
「…え、この本…?」
見たことの無い、新しい本。改めて見ると、確かに絵本らしい、絵のついた表紙だった。元は何色をしていたのかわからないような、古い色。何か木々のような緑と茶色のモノが描かれているのはかろうじてわかったが、それ以外はこすったように白く剥げている。元々こうだったのかもしれないほど、その部分だけやけに綺麗だとロティは思った。
「女の子と……の、おうじさま」
ロティは表題を読みあげた。“おうじさま”の前に何か言葉が入るのだろうが、こちらも綺麗さっぱり抜け落ちている。貢をめくってみると、やはり同じような状態だった。ところどころ抜け落ちた文字に絵。字が薄くなって読めなくなる事はたまにあるが、こんなにも多くの貢が駄目になってしまっているのはあまり見たことがない。そういう場合は、本それ自体が形を保っていない場合が多い。それなのに、この本の装丁は崩れておらず、まだしっかりと本の体裁を保っている。まるで誰かが意図的に消しているのか…あるいは書かなかったのか、白く抜け落ちた部分はそんな奇妙さをぽっかりと映し出していた。
「あ、ご、ごめんなさい。この本は…駄目みたい、です」
女の子の存在を思い出して、ロティは慌ててそちらを振り返った。しかし女の子は何も言わずに一度だけ瞬きをした。
「探してください」
「え?」
別の本を、だろうか。しかし絵本は量産が難しいために数多くは置いていない。まして同じ絵本を置いている事なんて。ロティが困惑しながら言葉を探していると、女の子が再び口を開いた。
「王子様を、探してください」
「…王子様?あ、他の王子様の絵本?」
ロティが問うと、女の子は静かに首を左右に振った。
「この絵本の王子様、探してください」
「…え?」
ロティは再び絵本に目を落とした。
この絵本の王子様…?
何を意味する言葉なのか、ロティにはさっぱりわからない。緊張と相俟っていよいよ混乱に達しそうである。
「どういう…」
ロティはぐちゃぐちゃの頭のまま再び女の子に問いかけようと顔をあげた。
「あ、れ…?」
そこにはもう誰の姿も無かった。最初からそこには誰もいなかったように。まるでこの絵本の空白のように。埃の匂いとインクの匂い。女の子の残り香は何も無い。
「鈴の音、鳴らなかった、よね…?」
来訪を告げたドアベルの音。店内を叩いた軽やかな靴の音。それら一切を残さずに、女の子は姿を消した。ロティは棚の間を見まわしたが、やはり誰もいない。顔を背けていたのはほんの一瞬だったのに。それとも、混乱しすぎて時間が立つのも音が鳴るのも気がつかなかったのだろうか。
「…いったい…」
何だったのだろう。
王子様を探して。
女の子のその言葉だけがロティの頭の中をぐるぐるまわる。大切なものが抜け落ちた絵本。名前を失った王子様。ロティはもう一度、本を開いた。
「…」
そして言葉を失った。何かがロティの胸をぎゅっと握ったような、そんな心地だった。
先ほどまで白く抜け落ちていた一部分に、絵が描かれていたのだ。まだたくさんの空白が残ってはいたが、それでも先ほどより色彩が鮮やかになった絵本。自分の見間違いだったのだろうかと、ロティは目をこすって頭を振った。いや、それでも。ロティはゆっくりと絵本を閉じた。表紙に描かれていたのは森のような木々。そして、栗色の髪に、頭に大きなリボンをつけた女の子。先ほど店に現れた女の子そっくりなその容姿。
「これじゃあ…」
これじゃあまるで、女の子が本の中に入っていったみたい。
そんなはずはないと、ロティは首を振ってため息を吐いた。そして本を元あった場所に圧し込む。
得体のしれない不安と恐怖心でガタガタと指先が震える。
この不思議な出来事が本当に、本当の事だったのか…?
それを確かめたくて、うずうずとしている自分がいるにも気がついていた。
「ど、どうしよう…どうしよう…」
いずれにしても、鼓動は速度をゆるめようとはせず、頭が熱くてたまらない。足が震えて立っていられなくなって、その場にへたりこんだ。
誰かに話して相談したい。だけど、誰が信じてくれるだろう。こんな不思議で奇妙な話をいったいだれが?
ちりん、という高い音が鳴って、ロティの心臓は再び跳ねあがった。
「…どうしたのですか?」
驚いたように目を丸くして、扉を開けた状態で固まっていたのは、ノアだった。その顔を見て、途端にゆるゆると鼓動が落ち着いていくのを感じる。
「の、ノア…」
「何かあったのですか…?ひどい顔をしていますよ」
この際、顔なんてどうでも良い。ロティは絡まる足を叱咤しながら立ちあがり、ノアの胸にしがみついた。
「ロティ?」
「ノア、聞いてください!」
ロティが勢いよく顔をあげると、ノアは更に驚いたように唇をきゅっと横に引いて、軽く顔を後ろに退いた。
※
先ほど起った出来事を、ロティは興奮気味にノアに伝えた。ノアは話が終わるまで何も言わずに、頷きだけを返して聞いてくれていた。
「なるほど。それは不思議ですね」
話が大体終わったのを見計らって、ノアは件の本を見ながらそう呟いた。
ノアに話しながら出来事を整理しているうちに、これが現実だったか夢だったか自分でも判別出来ないとロティは思い始めていた。途端に不安と恥ずかしさがこみあげてきて、ロティは伺う様にノアの顔を覗き見た。
「あの…信じてくれるんですか?」
「はい。もちろん」
ノアは不思議そうに目を丸めながらそう言った。自分でも突拍子もないと思っていたのに、ノアはすんなりと受け入れてくれたようだ。今更自信が無いだなんて言えない。だけど自信満々に現実だったとも言えない。
「で、でも…夢…だったのかも」
「その可能性ももちろんありますけどね」
信じる、と言った口でさらりとその可能性も肯定した。やっぱりそうかと、ロティは恥ずかしさで顔を伏せる。
「でも真実である可能性の方が僕は大きいと思いますよ」
「なんでですか?」
「ロティ、凄く青い顔していましたよ。血の気の引いた。それに君が床で居眠りするほど寝相が悪かった覚えも無いですし」
確かに流石に、自分もそこまで寝相が悪いとは思いたくはない。
それに、とノアは続けた。
「本はちゃんと此処にあります」
言いながらノアは手元の本を指差した。
「この抜けた部分はあからさまに不自然ですよ。意図的にそうしたとしか思えません」
「そうですね…」
王子様の名前と姿だけが抜けた不思議な絵本。それは確かに現実に存在している。
「ロティ、君が知らないだけで世界にはたくさんの“事”があるのですよ」
ノアは口許で両手を組みながら、伺うような目をロティに向けた。
「それは…私がモノを知らないって事ですか?」
確かにノアはたくさんの本を読んでいるし、物知りだと思う。しかし自分がまるで世間知らずだとでも言われたようで、ロティは少し悔しくなった。
「いえ、そういうわけじゃないですよ。ロティだって僕の知らない事たくさん知っていますよ。美味しいパン料理、破けたシャツの繕い方、綺麗な字の書き方、製本の仕方。僕は君より少しだけ多くの本を読みましたが、それは知らない事です」
言いたい事がわからず、ロティが首を傾げると、ノアは口許に笑みを浮かべた。
「それは他の人達も同じ事であり、可能性は無限に広がるのです。そしてそれは僕達が思いもよらない事である可能性だって大いにあります」
「つまり私達が不思議だと思うからといって、現実にあり得ない事だとは言い切れないって事ですか」
「ご明察」
言いながら悪戯っぽくノアは笑った。
「世界には多くの人が知らない事もたくさんあります。旅人でも無い限り場所も出会う人も制限されてしまうでしょう。しかし外側にはこんな不思議な出来事も、たくさんあるのかもしれませんよ」
「そう、ですかね…」
なんだかノアの話を聞いていると、そうなのかもしれないと思い始めてきた。やはりロティが見たのは現実だったのだろうか。
ロティが考え込んでいると、おもむろにノアは立ちあがった。
「まあ、さっきも言いましたけど、夢である可能性もありますよ」
「…ですよね」
だけどね、と言いながらノアは腰に提げていたキャスケットの留め具を外し、顔辺りまで持ちあげた。
「僕は探偵としてこの依頼を受け、解明したいと思います」
「か、解明って…?」
ノアは満足そうな笑みをロティに向けて、キャスケットを被った。
「この名前の抜けた王子様の秘密、です。探しましょうよ、王子様」
「え、ええっ…」
ロティの話を信じた挙句、依頼を探偵として請け負うのだと、ノアは言ったのだ。
「わくわくしませんか?」
「それは…」
それはとても、心をくすぐる。秘密を知りたい、可能性を知りたい。抑えられない好奇心と知識欲。それは人間にとって、一番抑えがたい欲求なのだと、ロティは思った。
「わかりました。探しましょう、王子様」
ロティが頷きながらそう言うと、ノアはにこりと微笑んだ。なんだかノアにはめられたような気がしないでも無いが、あの不思議な体験にもしも意味があったなら、知りたいのだ。王子様の姿を。
「では、まずは腹ごしらえです。お腹が減っては良い考えも浮かびません。できれば僕の知らない美味しい料理が食べたいです」
ノアはそう言いながら、折角被ったキャスケットをあっさりと脱いだ。