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アンの屋敷を出た後、ロティは真っすぐ家に帰らずに、お隣さんである貸本屋の扉を開けた。ちりん、と高らかに鈴の音が鳴る。
写本屋と貸本屋は持ちつ持たれつの関係である。真新しい手書きの本など、庶民が気軽に買えるものではない。そこで出てくるのが貸本屋と写本屋だった。貸本屋は書物の写本、増刷を依頼する。そして客は貸本屋で気に入った本の写本を、写本屋に依頼する。お互いがお互いの利益なのだ。
そんなわけで、貸本屋はロティも小さい頃から通い慣れた場所だった。だからこそ、店主の姿をなかなか見つける事ができない薄暗い店内でも、臆することなく目的に向かって真っすぐ歩く事が出来た。たくさんの本棚とぎっしりと詰め込まれた本達の間を、慣れたようにをすり抜けて、ロティは最奥を目出す。
古いインクの匂いが鼻先を掠める。ロティはこの匂いが大好きだ。そして少しだけ埃の匂い。この匂いは少し苦手だった。
「ノア。いますか?」
店の最奥に置かれた、小さな古ぼけた傷だらけの机。その向こう側は小さな扉があるだけだ。ロティはその扉に向かって声をかけた。
「ノア?」
しばらくしても、何の反応も返ってこない。仕方ないとため息をつきながら、ロティは小さな扉を遠慮がちに開けた。
「きゃあっ」
途端にロティの足元を黒い何かがすり抜けて行った。驚いたロティは身を縮こまらせて扉からサッと離れる。
「にゃあ」
「なんだ、君か…」
姿を確認すると、正体は小さな黒猫であった。
黒猫が動くたびに、ちりりん、と軽快な音が鳴った。ロティが遠慮がちに近づいても、黒猫は大人しくじっとしてる。その様子を見て、ロティは黒猫に手を伸ばして両手で抱きあげた。
「…鈴」
「にゃあ」
この黒猫は、数日前までは捨て猫であった。いや、迷い猫だろうか。どちらにしても、居場所を見失ってしまったこの黒猫を拾ってきたのはロティだった。
家を出る前までは、確かロティの部屋に居たと思ったのだが、何時の間に此処に来たのだろう。それにロティには黒猫に鈴をつけた覚えは無い。
「この鈴って…」
「僕がつけました」
突然声がしたので、そちらの方をサッと振り返る。扉を半分開けた向こう側に、眠そうに目をこする男性が立っていた。
「ノア…。起きてたんですか?」
「今起きました」
目に涙を溜めながら欠伸をして、クセ毛を掻き毟りながら男性は言った。生白い肌に、細い身体。柔和な笑みがよく似合う優しい顔はまさに文学青年、とロティは思っていた。ただし、見た目だけは。首元にはアンが彼に贈ったスカーフが相変わらず巻かれている。こんな素敵なスカーフを贈られたら、ロティなら大事に仕舞っていざと言う時に使っている事だろう。それを埃避けに使うなどもってのほかだ。
そんな寝惚けた彼こそがこの店の主、ノアであった。
「鈴、なんで付けたんですか?」
「昔そんな絵本があったなって思いまして」
そう言いながらノアは店主席である椅子に腰かけた。片手でロティにも着席を促したので、それに従い対面の椅子に座った。挟んでいるのは腕半分程の幅の小さな机なので、年上の男性との距離としては近すぎる程だ。しかし幼い頃から慣れ親しんだこの距離に、今更違和感などは無い。
「絵本って何ですか?」
「覚えてないですかね。僕がロティに読み聞かせてあげたのだけど」
言いながらノアは、ロティが抱いている黒猫の頭を撫でる。黒猫はまた、にゃあ、と小さく鳴いた。
ノアはロティよりも八歳年上で、まだ文字が正しく読めなかった幼い頃にはよく彼に本を読み聞かせてもらっていたのだ。それはロティにとっては大事な思い出ではあったが、奈何せんその数は両手の指で足りるようなものではない。
困惑するロティの表情を読み取ってか、ノアはうふふ、と笑った。
「ある家にネズミが数匹住んでおりました。ネズミ達は家主の食べ残しや食べ物の欠片を食べて慎ましく暮らしていたのですが、家主は大のネズミ嫌いでした。家主はネズミを一掃する為に、ある日一匹の猫を飼う事にしたのです。猫は俊敏な動きと凶暴な足で次々にネズミ達を捕まえていきました。ほとほと困り果てたネズミ達は、一計を案じるのです。猫が眠っている間にこっそりと近づいて、ネズミ達はその首に鈴を巻きつけました。目を覚ました猫は、いつもの様に獲って食おうとネズミの姿を探しました。ところがネズミの姿は一向に見つかりません。きっとこの家のネズミはもう喰らい尽くしたんだ、猫はそう思いました。ところが家主が“ネズミが出たわ”と大騒ぎ。なんて役立たずな猫かしら、そう言って家主は猫を追い出したのです。ネズミ達の作戦は大成功でした。猫の首に付けた鈴の音…それが聞こえると、ネズミ達はそっと物陰に隠れていたのでした。こうしてネズミ達は元の暮らしに戻れたのでした。…めでたし、めでたし」
ノアはそれだけ語ると、満足そうにまた黒猫を撫でた。しかし猫はその手から逃れるように、ロティの腕をするりとすり抜けた。
「怒っちゃいましたよ」
「なんで怒るのですか」
「だってそのお話、猫が悪者で可哀想じゃないですか。それにそれじゃあ、鈴をつけたら私の家がネズミだらけって事になっちゃいます」
ロティが少し頬を膨らませながらそう言うと、ノアは今度はロティの頭を撫でた。
「子供のお話ですよ。まさか猫やネズミにそんな知能があるわけないでしょう。ただ可愛いなと思ったから付けたのですよ」
「でもロロはきっと怒りましたよ」
「ロロ?」
「猫の名前です。私が付けました」
「なるほど、良い名前ですね」
ノアは誰に対しても丁寧な話し方をする。その理由は、いざという時に不遜な口を聞く事のないように、らしい。それならアンの贈り物も大事に扱えば良いのにとロティは思った。
「ところで、どうしてロロは此処に居たんですか?私が家を出る前は、私の部屋に居た気がするんですが…」
「さあ、どうしてでしょう。猫は気まぐれな生き物だって言いますし」
「そうですか…」
ロロはふっと突然いなくなる事があった。そんな時は大抵いつも貸本屋に居るのだ。自分より彼の傍の方が居心地が良いのだろうかと考えると、なんだか悔しい。ロロを拾ってきたのはロティなのに。
「猫より、ロティが此処に来た理由の方が僕は気になりますけどね。あ、もしかして僕の助手をやる気に…」
「違います」
ノアが言い切る前にロティはずばっと、台詞を遮って否定した。ノアはわざとらしく不満そうに眉を顰める。
「残念です。そろそろ観念してくれる頃かと思いましたが…」
「こっちの台詞です。今日は古語辞典を借りに来たんです」
言いながらロティはアンから預かった古い本を机に置いた。
「またアンリエットお嬢様の依頼ですか?」
「そうです」
ふーん、と気の抜けたような返事をして、ノアは目を細めた。
「僕のお願いは聞いてくれないのに、お嬢様のお願いは聞くのですね…。長年の信頼関係って何でしょう」
「話が別です!」
ロティが少し声を荒げると、ノアはへらりと笑った。
「そうですか?同じですよ。ロティの能力を買っているのです。君の…書物を“読みとる”能力を」
悪戯っぽい視線でロティの顔を覗き込みながらノアは言った。
そうだ、皆がみんな、ロティのこの能力に期待している…。
書物を“読みとる”不思議な力。
幼い頃からロティだけが使えた不思議な能力だった。手書きの文字を見ると、それを書いた人の想いや書きたかった言葉が次々と頭に溢れてくるのだ。
それは写本屋として、破損した本を修復するのにとても役立っていた。何が書かれていたのか…何が書きたかったのか、ロティには手に取るようにわかるのだ。
この能力があったからこそ、アンの依頼にも応える事ができた。
「だって…凄く役立ちそうじゃないですか。探偵業には」
この台詞も何度聞いた事だろう。
ノアは自称“探偵”だった。
正確には貸本屋兼探偵…いや、本人曰く探偵が本業で貸本屋が副業らしいので、探偵兼貸本屋だろうか。
「そういう台詞は…私の能力が役立ちそうな依頼を受けてから言ってください」
ロティがそう切り返すと、ノアは困ったように眉を曲げて力無く笑った。
ノアは昔読んだ本に憧れて、自らも探偵を名乗っている。しかし、依頼をしてくる人はまったくと言って良いほどいないのだ。
それもそのはず、店に訪れてもノアは寝ている事が多いし、起きていてもトボけたような態度な天然発言に翻弄される。街の人からのノアの評価は大体が「いつも寝惚けている人」なのだ。そんな人に依頼をしようなんて人がいるはずもない。ただ人は好いという事を知っている井戸端会議のご婦人達のみが、たまにノアの“探偵ごっこ”に構ってくれる程度だった。
そしてノアは、そんな探偵の助手にと、ロティを熱心に誘ってくるのだった。
「だってロティが一緒だったら、もっとしっかりした印象が僕にもつきます」
「…自分で言いますか…」
しっかりしていないというのは、自分でもわかっていたらしい。
「でも…私なんかノアの足手まといになるだけです。ノアの凄さ、私知ってます。だから私の能力なんてノアには必要ないんですよ」
「ロティ…」
ロティは爽やかな笑みを浮かべたつもりだったが、名前を呼ぶノアの瞳は寂しげな色を差している。憐れみなのか、非難なのか、謝罪なのか。真意を汲み取ることはロティにはできなかった。
「とにかく、私はしばらくアン様のお仕事をしなくちゃダメなんです。忙しいです」
話題を変えようと、ロティはノアから視線を逸らしてそう言った。一日に何度会話を変えるのか、我ながら逃げ腰で嫌になる。
「残念。じゃあ、代わりにひとつお願いしても良いですか?」
ノアはロティの話題変えにすんなり乗ってくれて、わざとらしくため息を吐いた後、にこりと笑ってそう言った。
「なんです?」
「しばらく店番をお願いします。辞典の借り賃の代わり、という事で」
「何処かに行くんですか?」
「某資産家の遺品の本が大量に売りだされて、昨日その競売があったのです。数冊はその日のうちに持ち帰ったのですけど、まだ整理しきれてないとかで今日取りに行く予約をしているので」
買い付けです、とノアは付け加えながら立ちあがった。
「探偵の仕事じゃないのが残念なところです」
「探偵の仕事じゃ無い事だけはわかってました」
「なんでです?」
「帽子、被って無いじゃないですか」
言いながらロティは、立ちあがったノアの腰あたりを指差した。ノアの腰に吊られているのは、騎士のような細身の剣…では無く、何故か茶色のキャスケット帽である。白の一本線が入った長いリボンがついた帽子で、男性向けにしてはやや可愛らしく、女性向けにしては花に欠けるなんともいえない形をしている。少しくすんだ金色の留め具がなんとなく年季を感じさせる。この帽子をノアは、何故か探偵の仕事をする時だけ被る。それ以外の時は常に腰に吊って持ち歩いているのだ。被らないのに。
「どうして探偵の時だけ帽子被るんですか?」
ロティが首を傾けながら問うと、雰囲気です、とノアは言いながら帽子を軽く叩いた。
「剣も盾も持たないシャツ姿の騎士なんて格好がつかないでしょう?僕にとってはそれがこの帽子なのですよ」
「探偵とキャスケットって関係あるんですか?」
「昔僕が読んだ本の憧れの探偵は、キャスケット帽を被っていたのですよ」
そう言いながらノアはにっこり笑い、挨拶をして店を後にした。
貸本屋の店番をするのは一度や二度の事では無かったので、ロティ一人にされても淡々と仕事をこなしていた。
店番を任せる、というのはノアの優しさなのだ。貸本屋の仕事というのはそんなに多いものではない。本を借りに来る人はたまにいるが、借りればすぐに帰って行く。立ち読みするには狭い店舗だし、そもそも店の表側に置かれている本は少ない。大抵は客の要望に応えて書庫から本を出してくるのだ。その場所もロティは熟知している。そもそも貸本屋の目録を作ったのはロティなのだ。いっそ店主のノアよりこの店に詳しいぐらいかもしれない。だから写本をしながら店番をするのは全く苦にならない仕事だった。そんな仕事を任せる、というのは、本を貸して貰う代金には見合わないとロティは常々思っていた。ロティが貸本屋で本を借りて、お金を払った事など一度も無いのだ。いつも店番と、そのほか簡単な雑用を頼まれるぐらいだ。
先ほどロティの解り易い話のすり替えにも付き合ってくれるぐらい、自分は大変に甘やかされているのではないかと思う事があった。
しかし、それは自分の能力が故なのではないだろうか。
ロティはたびたびそう思う事があった。お金持ちで素敵なアンと知り合いになれたのも、年上のノアが自分を甘やかしてくれるのも、全て能力に期待しての事。
アンやノアがそんな狡猾で冷徹な人間だとは思わないし、思いたくなかったが、もし自分にこの能力が無かったら…そう思わずにはいられない。この能力が無くなってしまえば自分には何の価値も無い。
「はぁ…。だけど便利な能力には違いないものね…」
期待されたからには、精一杯応えるしかない。何故自分にこのような能力があるのかはわからなかったが、持っているものを使わないのは宝の持ち腐れ。貧乏な町娘なんかが折角の宝を隠して持ち腐れるなんて神様の罰が当たる。そう思って仕事に取りかかろうと、書庫から辞典を出してきて、気合をいれて借りた原本を机に置いた。机の抽斗にはいつもロティの為の写本用の紙が入っている。愛用のペンも取り出して、インクの硝子の蓋を開けた。インクの匂いが濃密に香る。ロティは腕まくりをしてからペン先にインクを浸した。
本の表紙に手をかざして、ゆっくりと目を閉じる。心に思い描くのは、本の黒ずんだ緑色の表紙、黄色と、ところどころ茶色に沁みた貢、古ぼけた茶色の薄い文字。眠るような速度でゆっくりと呼吸を繰り返すと、途端に全身の感覚が薄らいでいく。
頭の中に文字が躍る。踊る文字は列を為し、文章に変わる。ロティはそれを順に読んでいく。それからペンを走らせた。
『この文章を残さねば、私は何の為に産まれてきたというのだろう…』
同時に頭の中で声が響いた。この声はおそらく、著者の声なのだろう。この文章を書いていた時に思っていた事だろうか。ペンを走らせるごとに、声はどんどんと重なり合っていく。全て同じ人の声だ。どう書けばいいのか、どういう言葉が正しいのか。著者は考えながら書いている。
『これでは事実を正しく伝える事はできない…』
どうやら歴史書のようだ。以前ノアが、どんな歴史書でも完全なものは無いと言っていた事を思い出した。それは書いた人の主観、捏造、妄想、想像が差し挟まれる。それが別の誰かにとって同じ歴史だと、断言する事はできない。自分達の知らないうちに、知らない所で歴史は作られるのだと、ノアは言っていた。それに“正史”を残すのは、いつだって力の強い方、勝者なのだとも言っていた。
『これでは、否定できない!間違った歴史に、また嘘を重ねてしまうのか…』
著者の苦悩の言葉は尚も連なる。どうやらこの書物を書いた人は、随分と繊細なようだ。ロティは写本をする際は作業効率を重視する為に、内容にはほとんど思いを寄せない。しかし、もしかしたら其処には…ロティの知らない歴史や世界がたくさんあったのではないだろうか。それこそ、触れてはならない世界まで。