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修道院を出たあと、ロロは黒猫の姿に戻っていた。本の所有者がノアになったので、呪いは解かれてロロは自由に本を出入りする事ができるようになった。その事をロロは深く感謝し、しばらくこちらの世界にいる事にすると言った。やはり、猫の姿の方が楽だからと、猫の姿に戻ったのだが、彼は普通に人の言葉を話す不思議な猫になった。おじいさんにどう伝えようかと、ロティはロロを抱きながら、帰路を歩きつつ考えていた。
ノアと別れた後、家に入る前にロティは一人で呟いた。先日、シャルルに禁書の事を聞いてから、まともに顔も見れていない。何を話せばいいのかわからないし、彼の過去の事を聞いてしまえばなおさらだった。
「入らないの?」
扉の前で逡巡していると、ロロがそう言った。早く家に帰りたいのに、帰り辛い。そんな矛盾した感覚に、ロティは足を止められていた。
ロティの想いとは裏腹に、突然扉が開いた。
「おや、おかえりなさい。ロティちゃん」
「おじいさん…」
いつものように、優しい微笑みのシャルル。彼はロティを迎える時、いつも一番嬉しそうに微笑んでくれるのだ。だからロティも、早く家に帰りたいと思う。
「おじいさん…」
その顔を見ていて、突然涙が溢れだした。緊張から解放された安心と、彼に対して隠しごとをしていた後ろめたさと、ずっとこうして優しく微笑んでくれていたという事に気付いた事と。色んな想いが、溢れてはらはらと流れ落ちて行く。
「おじいさんは…どうして、私とずっと一緒にいてくれるんですか…?」
結局口から出たのはそんな言葉だった。何も言わなかったシャルル。その内容も、それ自体も悲しくて。どうすればいいのかわからかったロティに、シャルルはそっと微笑んでくれた。いつもの、暖かい祖父の笑みで。
「それはもちろん、ロティちゃんと一緒にいたいからだよ」
「ほんとうですか…?」
シャルルは、自分に嘘を吐いて一緒にいてくれているのではないか。ずっと、そんな不安があったが、目を向けないようにしていた。だけど、昔の彼の話を聞いて、その不安と向き合わなくてはならないと思った。
シャルルはずっと、司祭として生きていた。司祭である彼と、その未来を奪ったのは、他でもない自分なのだ。かつて一人ぼっちだったロティを拾ってくれたシャルル。ロロが言っていたように、一人は不安で寂しくて、シャルルは暖かいご飯と、寝る場所と、言葉にならない暖かいものをたくさんくれた。それなのに、自分は彼に何ができただろう。
「ロティちゃんは私と一緒にいたくはない?」
「一緒にいたいです…!」
自分は、まだシャルルに何も返せていない。もしかしたら、今以上に迷惑をかけてしまうかもしれない。それでも。
「だったら、おんなじですよ」
言いながら、シャルルはロティの髪を撫でた。その手が心地よくて、優しくて、ロティの涙はさらに溢れた。
「迷子の子猫のようだって、思ったんだ」
突然のシャルルの言葉に、ロティはぱっと顔をあげた。
「小さな君はまるで違う生き物のようだって思った。怯えて、僕には全然懐いてくれなくてね…」
思い出を語るシャルルの目は優しく細められ、愛おしむような視線が優しくロティを包む。
「君はひとりぼっちだった。だから僕が、家族にならなくちゃって思ったんだよ」
優しいやさしい、ロティのおじいさん。それは彼が望んで、ロティの為にそうなってくれた。
「おじいさん、私、おじいさんの事を聞いたんです…」
「僕のことを?」
「はい。私の…私のせいで、司祭を辞めたんじゃないかって…」
嗚咽で声が詰まり、肯定が恐ろしくてそれ以上言葉が出こなかった。
「…言ったろう。僕が君の家族にならなくちゃならないと、思ったんだ。他の人ではなく、僕が君の傍にいなくちゃならないと。君の両親を自分の子供にして、此処に住まわせたのは僕なんだから。まだ小さかった君の傍から離れるわけにはいかなかったし、教会や修道院にいれたら結局離れ離れになってしまうからね」
他の人が君を育てて、教会に染めてしまう事は避けたかったと、シャルルは付けくわえた。
「それは…責任感から、ですか?」
「それもあるだろうね。でも…人から見捨てられた禁書達のように、ロティちゃんの事も守らなくちゃならないと思ったんだ。禁書達はイヴが守ってくれる。だけど、ロティちゃんは僕が守らないとならないとと思った。何より、一緒にいたかった。その為には司祭の称号なんて僕には必要なかったと気づいたんだ。誰かを救う事も、信仰も、何も無くても此処にある。何より守りたいものが目の前にあるのだから」
「おじいさん…」
シャルルの気持ちが嬉しくて、ロティを選んでくれた事が嬉しくて、零れ落ちる涙を止める事ができなかった。
シャルルは、ロティの胸に抱かれたロロの頭を撫でた。
「ロティちゃんはロロを拾った時、どう思った?」
「…他に誰もいなくて、私が…助けないとって思いました…」
そして何より、傍にいたいと思った。ロティの言葉を聞いて、シャルルは優しくにこりと微笑んだ。
「同じですね、ロティちゃん」
ロロがにゃあ、と鳴いた。それはロティのその想いが許されたかのようで。
そうか、シャルルもこんな気持ちだったのか。
守った選択は間違いではなかったと、傍にいた事は間違いではなかったと。
「私もおじいさんに話したいこと、たくさんあります」
止まらない涙を拭いながら、ロティは顔をあげてまっすぐにシャルルの顔を見た。穏やかな瞳が、ロティを優しく見てくれている。
まだ返せないものの方が多いけど、それでも共に在りたいから。だから話しておきたい事がある。言いたい気持ちがある。感謝したい事がある。
「聞いてくれますか?」
本当の気持ち、伝えたかった失われた言葉。もっとずっと、シャルルの近くに居るために。
「…ああ、もちろん。僕も聞かせて欲しいよ。ロティちゃんのこと」
シャルルは穏やかな笑みで、優しく言った。
「だって私たちは家族なんだから。心配も遠慮も、いらないよ」
まるでロティの心を見透かしたような、暖かい言葉だった。それでも優しく受け入れてくれた事が嬉しくて、ロティはようやく笑った。
「僕はね…禁書の事を思い出すと、君の祖父ではいられないような気がしたんだ。禁書は、僕が司祭だった頃の象徴でもあるから。だって君は僕の本当の孫でも子でもない。僕には正解が…家族の正解がわからないんだ。だから…冷たいもの言いをしてしまって悪かったね」
ロティは目いっぱい首を横に振って、シャルルに応えた。
「私もほとんうの家族はわかりません。お父さんとお母さんの事はあんまり覚えてないです…だから、おじいさんは、私のおじいさんです。大好きな家族です…」
涙と共に、今まで心に刺さっていたトゲや、閊えていた何かが、全て流れ落ちたような気がした。全てを受け入れて支えてくれる。ようやくロティは、“家族”という言葉を思い出した。
「ただいま、おじいさん」
泣きながら笑って、ロティは家へと足を踏み入れた。新しく加わった彼と、新しい家族を始めるために。




