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此処に来る時は、いつもロティは緊張でいっぱいいっぱいだった。
街の中でも特に大きなお屋敷、見たことも無い美しい花壇が出迎えてくれる庭を通って、緻密な模様の絨毯の上を歩く。輝く白の調度品ばかりが誂えられていて、華美が過ぎないように清廉さが保たれている。そして案内された部屋にはふかふかのソファがあって、そこで座って飲むお茶と食べるお菓子ときたら、まるで夢のような味がするのだから、きっとこれは夢なのだと最初の頃は思っていた。
「今日は急に呼びだしてしまってごめんなさい」
「いえ、とんでもないです。アンリエット様」
屋敷と同じような華美過ぎない、それでも華やかな衣装を纏った女性が優雅ににこり、とほほ笑んだ。女の自分でも当初はその清廉な微笑みを見るたびにどきどきしたものだ。
「私の事はアンと呼んで頂戴。そのかわり…私も貴女の事、ロティって呼んでも良いかしら?」
「えっ…あの、い、良いんですか…?」
「駄目かしら…?」
優雅に頬に手を添えて、女性は首を傾げた。
「だ。ダメじゃないです!じゃあ…あの、アン様って呼んでも良いですか?」
「有り難う。ロティの呼びやすいように呼んで頂戴」
アンは優雅に笑いながら美しい所作でお茶をひとくち呑んだ。その動作にロティはまた見惚れてしまった。しかし自らの役目を思い出して、軽く首を振る。
「あ、あのアン様!それでお仕事って…」
「あら、ごめんなさい。久しぶりにロティとお話できるからって私うかれちゃったみたい。忙しいのにいつまでも居てもらうのは悪いわね」
「あああの、そういう意味じゃ…」
「わかっているわ。ルイ、本を持ってきて頂戴」
アンが側に立っていた男性に声をかけると、男性は何かを持ってきた。それをロティの目の前に恭しく置いて行く。
「これですか?」
「そう。何やら昔の事が書かれた大切な資料らしいのよ」
触っただけでもぼろぼろと崩れていきそうな程に古い本だった。元はどんな色をしていたのかすらわからない、半分破けた表紙に破れたたくさんの貢。日に焼けて読めないばらばらの文字。
「修復…ですか?」
「本それ自体の修復はもう無理でしょう。だから内容の復元をお願いしたいのよ。出来るかしら」
ロティは本を手に取り、ゆっくりと貢をめくる。そしてバラけた文字を、軽く目で追いかけた。
「たぶん、大丈夫だと思います…。著者の手書き、ですよね」
「ええ、とても貴重な歴史的資料の原本ですって」
それってとっても高価なものじゃないのだろうか。そう考えると、途端にロティの手が軽くガタガタと震えだした気がした。
「だ、だ、大丈夫なんでしょうか…。こんな小さな写本屋の娘なんかがこんな大事な本の復元なんて…」
「あら、ロティ以外にそれが出来る人なんていないわ」
優雅に微笑むアンに対して、無理だなんて消極的な言葉が出ようはずもない。何より期待してくれる事が嬉しくもある…それで重圧が軽減されるわけではないが。
「がががんばります…」
「有り難う、ロティ。でも無理はしなくても良いのよ。先方もほとんど諦めてらっしゃるから」
だからこそアンはロティに頼んできたのだろう。まったく我が能力ながら恨めしいと、ロティは心の中だけでため息を吐いた。
「面倒な事を頼んでしまってごめんなさいね」
「とんでもないです。私だってお仕事を頂けて嬉しいです」
「そう言ってくれると助かるわ」
ロティはそこでようやく、出されたお茶を呑んだ。ちょっと冷めていても、やっぱり美味しい。
小さな写本屋の娘である自分が、大商人の一人娘と知り合いになれるなんて思ってもいなかった。元々同じ商店街に店を出す間柄ではあったが、向こうは数ある自店舗のひとつ、それも綺麗で大きな店構えの街の花。対する写本屋は商店街の片隅に埋もれるようにある古ぼけた小さな店だ。それも人を選ぶ店。
そんな正反対の二人が出会ったのは偶然だった。写本屋の隣である貸本屋に、アンが稀覯本を探しに来ていた所に遭遇したのだ。本の原本をアンは持っていたのだが、それは矢張りボロボロになって破けた本だった。その内容をロティが復元したのが契機である。それからアンにしばしば仕事の依頼をされるようになったのだ。
「アン様の家ってお洋服屋さんだと思ってました」
「まあ、お父さまは割と手広く色々なさっているわ。大切なお客様のお願いだったらどんな事でも叶えないといけないの」
それが客を逃がさないコツだわ、とアンは悪戯っぽく笑った。大商人といっても色々と苦労はしているようである。
「そうそう。彼はスカーフを気に入ってくれたかしら」
「えっ」
「お誕生日にノアに贈ったスカーフ。知らないかしら?」
ロティはお嬢様の問いかけに、ぎくりと心を揺らした。もちろん贈り物の事は知っている。
「えっと…凄く気に入ってるみたいです。いつも首周りにつけてますよ」
「まあ、嬉しい」
「で、でも…」
言い淀んだロティに対して、アンは首を傾けた。
「書庫に入った時の埃避けにって、鼻と口を覆うのに使ってるんですよ」
「まあ!」
ロティが気まずげにそう言うと、アンは可笑しそうにクスクス笑った。
「やっぱり面白いわね、ノアって。今度は彼ともおしゃべりしたいわ」
「伝えておきます」
「それに」
アンは伺うようにロティを覗き見た。
「探偵としての彼を是非とも見たいわ」
きっとアンは善意と好奇心からそう言っているのだろう。しかしロティにとってそれはあまり持ち出して欲しくない話題だった。
「あ…、そ、それより!今度何か楽しみなお茶会があるって聞いたのですが…」
やや強引だったかもしれないが、話題を無理やり刷り変えた。それでもアンは嫌な顔せずににこりと微笑んでくれた。
「ええ、その話なんだけどね…」
それからしばらく、美味しいお菓子を食べながら、楽しいおしゃべりに花を咲かせた。