17
「…!開きました!」
ノアの声が響き、ノブを回す音が聞こえた。硝子が割れるように、闇が散って拡散する。その代わり、強い光がロティの目を打ち、思わずぎゅっと目をつむった。
「あ…で、出れた…?」
ゆっくりと目を開けると、周りが石壁で覆われた、廊下であった。小さな窓からは、綺麗すぎる青い空。
「どうやら、鍵は合言葉だったようですね。さすがロティです」
「あ、はい…」
どうしてお菓子の名前なんだろうと、ロティは思った。
ロティの能力の法則と、ノアの推理が正しければ、やはりこの金属の鍵の正体も“書物”なのか。合言葉…本に書かれた内容も、ロティの頭に流れ込んできた。それ以外の事も。
「どうしたのですか、ロティ?早く行きましょう」
「ど、何処にですか?」
此処から出られたからと言って、本の呪いの事は何も解決していない。ノアの命の危機は、未だに去っていないのだ。ロティの不安を他所に、ノアはにこりと微笑んだ。
「禁書作家というのは、その名の通り、禁書を書く…つまり、魔術を作る力のある人の事を言います」
ノアについてやってきたのは、先ほどとは別の“書庫”であった。同じ方法で鍵を開けて入ったのだが、先ほどと見た目は全く同じ部屋だった。
ノアはそんな部屋で、適当に書棚から本を出したり、仕舞ったりを繰り返していた。
「あの修道士…イヴさん…もですか?」
「彼はそう言っていましたね。呪いを上書きした、とも言っていましたし。という事は、この絵本の禁書としての力そのものとは関係が無いはずです」
「現実世界に本の登場人物が現れる…みたいな力じゃないんですか?」
ロティは純粋にそうだと思っていた。ロティは見たのだ、絵本の女の子にそっくりな子が、目の前に現れるのを。この本の“王子様”は未だに見つかっていない。
「…微笑ましいですね」
ノアがくすりと笑ったので、子供だと馬鹿にされた気がして、ロティはちょっとムッとした。
「でも、そうですね…禁書とはそういうものです。割と単純な事しか出来ない事が多いです。しかし現実世界に影響を与える本です」
「そもそもなんでノアは…」
禁書について詳しいのかと、聞こうとした瞬間だった。重い音が響いて、書庫の扉が開いた。ロティは緊張と驚きで、肩を震わせた。
「…あそこから出てくるなんて、キミ達、結構厄介だね」
不機嫌そうな顔で、扉に背を預けてイヴが立っていた。
「それにキミは随分と禁書に詳しいようだ。気に入らないね」
靴音を響かせながら、イヴはノアへと近寄って行く。
「禁書の事を知りすぎた者をボクは許さない…。あの資産家だってそう。何処で知ったのかは知らないけれど、その力に魅入られた。だからこそ、ボクの書庫から本を盗むなんて愚行に走った」
「じゃあ、安心してください。僕はそんなことはしませんので」
「それはボクが決める事だよ」
にっこりと笑いながら、イヴはノアの目の前で足を止めた。
「さあ、返してよ。ボクの本」
少年らしい、無邪気な笑顔を湛えて、イヴはノアに向かって手を伸ばした。
ノアは黙ってイヴを見ていたが、しばらくしてため息を吐いた。
「…わかりました」
「ノア!?」
本を返してしまえば、呪いは解けなくなってしまう。ロティの驚きに、ノアは軽い笑顔で返した。
「此処から帰れないのも困ります。恐らく、此処には、他にもたくさんの禁書があって、貴方はそれを扱えるのでしょう?」
「まあ、一冊だけじゃない、とだけ言っておくよ」
可愛らしく、上目づかいでノアを見ながらイヴは言った。彼自身が魔術を生み出せる禁書作家なのだから、当然といえば当然か。
「それは困るので、とりあえず此処を出る事と呪いを緩和する事考えて、それから呪いを解く方法を探そうかと思いまして」
「無駄だと思うけど。まあ、返してくれるならそれで良いよ」
「その代わり、ひとつお願いがあるのですが」
「…何さ」
「本を一冊頂けませんか?もちろん、他の禁書以外で」
ノアの申し出に、イヴは眉間のしわを寄せて、伺うような視線を向けた。
「…何を企んでるの?」
「探偵としてはそれで良いかと思うんですけど、貸本屋としては損したままでは終われないって思いましてね。商売ですから」
「……どれが欲しいの?」
ノアは本棚をぐるりと見まわし、ひとつ隣の棚の前に立った。
「うん、これが良いですね」
ノアが目の前の本棚から半分だけ取りだしたのは、えんじ色の箱に入った上等そうな、大きな本だった。禁書の絵本の二倍はありそうな大きな本で、表題には“画集”とあった。
「また、高価なものに目をつけたね…。孤高の画家ヴィクトルのラフ画集。彼のラフ画をまとめて、箱に入れたものだ」
「こんな著名な画家の画集が、こんな所にあるとは思いませんでした」
「世に出回ってる作品は、彼の作品のほんの一部に過ぎない。他の作品やラフ画には反国家的思想が含まれてるとして発禁になったんだ」
「ヴィクトルが生きていた時代や国は、貧困や飢餓、貧富の差が激しかったようですからね。まあ、今ではそんな彼の絵も評価されていると聞きます。どうやら直筆の解説なんかも書かれているようですし」
会話を続ける二人を、ロティははらはらと見守っていた。本当に大丈夫なのだろうか。
「駄目ですか?」
「…まあ、禁書に代わるものも無いよ。本も、読んで見てもらった方が幸福なんだし。それと交換。構わないよ」
言いながら、イヴが再び手を差し出した。ノアも、良かった、と笑いながら、一度画集を棚に戻し、禁書の絵本を取りだした。
「ちょっと待って」
イヴがそう言って、手のひらを返してノアを制止した。
「やっぱり確認は必要だよね。シモン」
イヴが名前を呼ぶと、背後から突然、背の高い人が現れた。先ほどもイヴの後ろに従っていた修道士だ。相変わらず神出鬼没すぎる。
「何なんですか…」
「確認したい事がある。先に言っておくと、このシモンには禁書を見分ける力がある。たくさんの本の中から、一目で力のある書物を見抜く。そこで問う、あいつが持っているのは、禁書か否か?」
イヴはノアを指差してそう言った。ノアは、信用ないなあ、と笑いながら、禁書の絵本を顔のあたりで振って見せた。シモンの目は布に覆われていてわからなかったが、顔はノアの方を向いていた。まさかとは思うが、緊張でロティは思わず息を止めていた。
「……禁書です」
「結構。はい、取引成立」
シモンの答えに、イヴはすぐさま笑顔になって、再びにノアに手のひらを向けた。ノアも苦笑いしながら、禁書の絵本を手渡した。
これで、王子様の謎も、ノアの呪いの事も、わからなくなってしまうのだろうか。
「じゃあ、この本は僕のものという事でよろしいですね?」
「はいはい、あげるあげる」
「取引成立、有難うございます」
もらった画集を手に、ノアはにこりと笑っていたが、ロティはまだもやもやとしていた。本当にこれで良いのだろうか?
「あの、やっぱり…」
ロティが切り出そうと一歩踏み出すと、それをノアが手で制止した。
「大丈夫ですよ、ロティ。王子様の絵本は此処にあります」
言いながら、ノアは大きな箱の中から、半分くらいの大きさの本を取りだした。それは間違いなく、禁書の絵本だった。
「え…?」
「え?」
ロティの声と、イヴの声が重なった。
「この絵本は正式に僕に譲渡されました。つまり僕が所有者です。所有者なら、呪われませんよね」
先ほどノアが、書棚から本を入れたり出したりしていたのは、これを仕込んでいたのか。しかしなんとも、ちゃちな仕掛けというか。ロティは半ば呆れていた。
「君、画集が欲しいって言ったじゃないか!」
ノアはあからさまに怒りながら、声を荒げて言った。
「言ってません。この本が欲しいって言っただけです」
「屁理屈だろ」
「でも、禁書の取引として間違っていませんよね?言葉は、絶対です」
「………ムカつく」
イヴは上目づかいでノアをにらみあげた。深淵を映した薄暗い瞳が恐ろしくて、ロティは思わずノアの背に隠れた。
「それにシモン…お前もボクに嘘を吐いたのか」
「……自分も嘘は吐いてないです。師はあいつが持っているのは禁書かと聞いた。あの本が禁書か、とは聞いてない」
「お前も屁理屈か」
シモンは特に悪びれた様子も無く、当然だという風だ。仲間割れだろうか。
「自分はそもそも“彼ら側”ですよ。知っていて使ってるんでしょう」
「ボクの所有物のくせに」
「自分の所有物くらい、うまく扱ってください。すぐ調子に乗るからそんな事になるのです」
どうやら、この二人の修道士の仲はとても悪いらしい。仲間とは思えない険悪な雰囲気が溢れている。ふん、と鼻を鳴らしながらイヴはノアのを方に向き直った。
「お前、もうひとつ禁書を持っているだろう。どれだ、シモン」
「…あの帽子です」
言いながらシモンは、ノアの頭の辺りを指差した。思わずロティもそちらを見る。頭の上に乗っているのは、彼の探偵の証たる、茶色のキャスケット。
「え…?それが、禁書…?」
「あはは、バレちゃいましたか」
ノアが禁書に詳しかったのは、彼がずっと持っていた帽子こそが、禁書だったから。まさか、そういう事なのか。
「ど、どうして…?」
「黙っていてすみません、ロティ。でも、貸本屋や写本屋…そんな商売をしていて、禁書の事を知らない方が本当は不思議なのですよ?」
「え…?」
確かに、どちらもたくさんの本を取り扱う。その内容も、何処から流れてくるのかわからないものも多い。今回たまたま手に取った、禁書の絵本のように。
「だ、だって私が扱う本は、全ておじいさんが…」
「成程。シャルがやりそうな事だよ。ロティ、君は何か異能の力を持っているようだが、それはたぶん禁書に触れて身に着いたものだ。禁書には書き写す、といった行為だけで発動するものもある。君がこれ以上、迂闊に禁書に触るのを避けたかったんだろう」
言いながらイヴはにやり、と笑った。お爺さんが、本当に?ロティは急に不安になる。それはロティを危険から守るためか、真実から遠ざけるためか。
「まあ、そんな事はどうでも良いよ。ノア、君はボクを怒らせた。だから、生かして帰すわけにはいかないよ」
「道連れですね…」
シモンは低い声で、そう言い添えた。道連れ、とはどういう意味だろうか。
そういえば、此処では他に修道士を見かけていない。そして先ほど、シモンが“自分はノア達側の人間だ”と言っていた。その意味は…。
「もしかして…シモンさんも…?」
此処から生きては出られない、そういう人間だと言う事だろうか。ロティの言葉に、シモンは薄く笑ったような気がした。
「だってね、ボク許せないんだ。ボクのモノを盗もうっていう根性が。ボクの蔵書に手を出す奴は、絶対に許せない。禁書の事を知りすぎた君達も、処分するには丁度良い」
にっこりと、イヴは可愛げに笑った。あまりにも不釣り合いな、歪んだ笑みだ。
「うーん、そろそろ万策尽きてきましたね…」
ノアが乾いた笑い声で言う。しかしロティの心は、ひどく落ち着いていた。
「…嘘です、そんなの」
「え?」
イヴの表情が、怪訝なものに変わる。
「イヴさんは、そんな人じゃないと思います。だって、ここの蔵書の本達を、本当に愛してるから。見捨てられた本達を、ただ、放っておけないだけ…」
ロティが鍵の禁書に触れた時に、感じとった想い。それは確かに、イヴの声で聞こえたのだ。
人々に背を向けられ、隠された可哀想な本達…。
勝手な見栄のために、捨てられた哀れな本達…。
彩られた歴史の中の、隠された真実の言葉達…。
大丈夫、ボクがずっと此処に置いてあげる。君達が伝えられなかった言葉は、此処に隠しておくから。そして時が来れば…。
そう言いながら、大事に書庫に鍵をかけていくイヴ。そうやって此処の禁書達は、大事に彼に守られてきたのだ。
「イヴさんは、此処の本を守りたいだけなんでしょう…?私たちは、本を悪用なんかしません、絶対に…」
ロティはまっすぐと、イヴの目を見てそう言った。イヴはしばらく表情が読めないまま、ロティを見ていた。
「…キミの力は本当に厄介なモノのようだね」
イヴは目を伏せ、静かにそう言った。
「彼女は忘れられた言葉や、失った言葉を見つけ出すのが上手なのですよ」
ノアがそう言うと、そう、と短く言ってイヴが顔をあげた。
「だったら証明してよ」
「え?」
「禁書をうまく扱うっていう証明。君が失った言葉を見つけるのが得意だというなら、ボクに示してみてよ。…その絵本の、失われた王子の行方と、その願いを」
「願い…」
本の事は、まだ何もわかっていない。しかし、ロティの能力を使えば、あるいはわかるのかもしれない。ノアを見上げれば、穏やかな笑みと目があった。
「大丈夫ですよ、ロティ。僕も手伝います。先ほども見事禁書を“読んで”みせたじゃないですか。だからきっと、大丈夫ですよ」
「ノア…」
先ほど、鍵を読んだ時のように。ロティはノアから禁書を受け取った。そして、深呼吸をしてから、ゆっくりと目を閉じた。
それは今まで感じた事のない、夢への扉だった。いつもならば、文字が頭の中で踊り、言葉が耳に届いていたが、今、ロティは目を開けていた。いや、目は閉じている。しかし、目の前には色彩のある景色が広がり、葉の匂いが確かにするのだ。
ロティの目の前には、森が広がっていた。自分が森に立っているのだろうか。それでも、確かに自分はまだ、修道院の中にいるとわかっている。目の前の景色だけが、森なのだ。
「どこにいくの?」
女の子の声が聞こえて振り向くと、貸本屋で出会ったあの女の子が立っていた。地面を見ながら、何処か寂しそうに一人で話している。頭の中で貢をめくると、景色は街並みへと変化した。まるで自分が絵本の中に入ったようで、ロティはわくわくするのを止められなかった。
「だいじょうぶかなぁ」
女の子はやはり、何処か寂しそうに一人で話している。きっと、話し相手の“王子様”がいないからだ。ずっとずっと、一人で話し続ける少女を見ていて、ロティはとても寂しくなった。




