16
イヴはそこで一旦、深く息を吸い込んだ。
ロティは、イヴから視線を離せないでいた。正確には、イヴの顔はもう見えていなかった。音だけがロティの耳へと吸い込まれていく。視界は色だけが並んでいるようだ。
「もうわかっていると思うけど、それがキミの両親だよ、ロティ」
「おとうさん…おかあさん…」
ロティの両親が病で亡くなった事は知っていた。しかし、彼らがどんな想いで一緒になり、どんな苦労をしてきたのかはわからなかった。どんな経緯で、シャルルが祖父となったのかも…。
「シャルは知らなかったそうだよ。夫婦に新しい家族が加わっていた事をね」
「…」
「本当は禁書庫は、シャルが管理するはずだったんだ」
「お、おじいさんが…?」
「まあ、ボク程じゃなかったけど、シャルは本に詳しかったし、本が好きだったからね。それに禁書の管理なんて、教会でも本当に信頼されている者にしかできない事だったんだ。シャルは自分にしかできない使命だと、ここに残された本達を守るのが自分の使命なのだと言っていたよ」
此処が、とイヴは言った。この場所が、シャルルが守りたかった場所、守りたかった本達。なのに、どうして。
「どうして…」
「どうして司祭を辞めたのかって?それはボクも知らないよ。ボクが聞きたいぐらいさ」
もし、自分のせいで司祭を辞めたのだったら、辞めざるを得ない理由があったのだとしたら。ロティの頭の中に、ぐるぐると昨夜のシャルルの顔と言葉が浮かんでは消えて、心を抑えつけていく。沈みそうになる思考をなんとか持ち上げて、ロティは息を吐いた。
「ロティ、大丈夫ですか」
ふっと、頬に温かい感触を感じてロティは顔を持ち上げた。ノアが真剣そうに目を眇め、ロティを見つめていた。
「…は、はい…ノア」
ノアがロティの頬を両手で挟んで、まっすぐと視線を向けていた。いつもの優しい蒼い目が、心をゆっくりと落ち着かせてくれる。ひとりではない、傍には彼がいる。
押し潰されそうな心も、なんとか掬いあげてくれたのだ。
「シャルの事はこんなもんだよ。あとは自分で聞くんだね」
「はい…」
ロティはそこでようやく目的を思い出した。今知るべきなのは、禁書の事なのだ。
なんとか気持ちを持ち直して、ロティはノアに向かって頷いた。
「では、次です。この絵本は、“禁書”で間違いないのですね?」
ノアがすかさず本を取り出して、そう聞いた。
「書いてある通りだけど」
「彼女…ロティはこの本の“異常”の一端に触れました」
ノアがそう言うと、イヴが突然ロティの方を向いた。
「どういうの?」
「え、と…」
ロティが体験した不思議な話。女の子と、王子様の絵本の話。信じてもらえるかどうかわからなかったが、此処は修道院で、相手は修道士。神に仕える人として、正直に話した方が良いと、ロティは話した。
「ふぅん、なるほど」
「次の質問です」
イヴはノアの質問に明確な答えを示さなかったが、ノアは気にした様子もなく次へと移った。この二人のやり取りに、ロティはついていけていない。ノアは何かを、知っているのだろうか。
「この本は盗まれたものだと聞きました。そして盗みを企てた者は死亡し、関わった人々も不幸に見舞われていると聞きます。僕はたまたま、その盗人からこの本を譲り受けました」
ノアは以前、この本は死んだ資産家から売られた家財のひとつだと言っていた。その資産家が、傭兵達の雇い主だったのか。
「それは運が悪かったね」
イヴは唐突に、声をあげて笑った。
「その本はね、ボクが術を上書きしたんだ。正統な持ち主から奪われた場合、死をはじめとする様々な不幸に見舞われるようにってね」
尚も楽しそうに笑いながらそう言ったイヴ。姿が子供だからか、無邪気に笑っているせいか。話の内容に対して、歪なその態度にロティは寒気を感じた。
「…あなたは、禁書作家、なのですか」
「そうだよ」
ノアの問いに、イヴは笑顔で答える。禁書作家とは何なのか、ロティにはわからない。ただ、目の前のこの人は、悪人とはいえ、人を呪い殺したのだという事はわかった。
「では、次の質問です」
ノアの態度は変わらない。ロティはすでに、恐ろしさに飲み込まれそうになっているのに。
「この呪いの影響は僕にもありますか?」
「あるね。キミは盗人と取引をしたんだろう?盗人の中身が入れ替わっただけなんだから。…まあ、本を返せばその分だけ減刑はあるかもしれないけどね。ボクは呪いの中身には、拘っていないんだ」
ノアが言っていた、自らの命の危機。実際に呪い殺された資産家。危ないのはロティではなく、ノア。ロティは思わずノアの袖をつかんだ。
「の、ノアは知らなかっただけなのに…!」
「運が悪かったね。キミって貸本屋なんだろう?だったら、誰かに売る事も無かったろうし、その本が異常だって気付かなかったら、もうすぐ死んでいただろうね」
「そ、そんな…呪いは解けないんですか?」
「解けないよ。ボクの本…禁書をこの修道院から持ちだした罪は、重いよ」
イヴの目がぎらりと輝いて、ロティを見た。その目に呪い殺されそうな気がして、ロティはびくりと肩を震わせた。
「なるほど、わかりました。じゃあ、本は僕が頂きますね」
突然ノアが穏やかな笑顔でそう言った。
「は?どういう意味?」
「だって、盗んだから呪われるわけでしょう?正統な持ち主であれば、大丈夫って事ですよね?」
そんな問題なのだろうか。屁理屈なような気がしたが、イヴの顔を見ると、いつの間にか不機嫌そうに歪んでいた。
「どうかな。第一そうだとしても、その本はあげないよ」
「僕だって命がかかっているのです」
「駄目だ。“禁書”を持ちだす事は、ボクが許さない」
言いながら、イヴががたりと音を立てて立ちあがった瞬間だった。
「!」
突然、闇が視界を覆った。辺りは黒、一面の真っ暗。ロティは焦りと恐怖で立ちあがった。すると、今まで座っていたはずの椅子も、目の前にあった机の感触も、いつの間にかなくなっていた。
「え?こ、これは…?何…?」
手を伸ばしも、何の感触も感じない。ただ、黒いものがそこにあるだけで、ついには自分が立っているのかもわからなくなった。
「そこでしばらく、頭を冷やすと良いよ。冷やさない限り、一生出られないと思ってよ。…まあ、たとえ出れないとしても、キミの命は残り少ないだろうけどね」
遠くの方で、イヴの声が響いた。あまりの突然の状況に、ロティは恐怖に飲み込まれそうになった。
此処が何処かも、何時出られるのかもわからない、深い、深い闇。時間がたっても、何も見えない。黒しか見えない。
ロティは怖くなってうずくまった。
どうしてこんな事に?
ノアの命は助けられないの?
もう一生此処から出られなかったら?
おじいさんと再会できなかったら?
「お、おじいさん…」
シャルルは、あのイヴという修道士と仲が良かった。死の呪いをかけ、ロティを絶望に落とした彼の。
「…おじいさん、助けて」
しかし、シャルルはどうして、司祭をやめたのだろうか。
もしかして、自分のせいなのでは…。
ロティははっと胸を打たれた。
シャルルがロティを引き取り、育ててくれるようになったのは、十余年程前の事だった。それ以前の彼の事は何も知らなかった。
ロティの両親の事も、ほとんど何も知らなかった。身寄りも、後ろ盾も無くした両親に手を差し伸べたのが、シャルルなのだ。しかし両親はロティが小さい頃に、病で亡くなってしまった。
ロティの胸は押しつぶされそうに、苦しくなった。駆け落ちした両親にやさしく手を差し伸べ、ロティを育てて、愛をくれた祖父。どうして結婚していないのかと思っていた。それは、結婚せずに神に忠信を捧げ、一生を送るためだったのではないだろうか。そしてロティは、その彼の人生を変えてしまったのではないだろうか。
「おじいさん、ごめんなさい…おじいさん…」
ロティの頬を、水滴が伝う。シャルルに会って、謝らなければ。だけど、どんな顔をして会えば良いのだろう。
辺りを暗闇に閉ざされ、ロティの心の中もどんどんと闇に浸食されていく。
これ以上の迷惑はかけたくないのに、心配かけたくないのに。自分のせいで人生を台無しにさせてしまったのではないかという不安は、本当はずっと在った。だから、早く一人前になって、私は大丈夫だよ、と言いたい。それなのに、今の自分は、やはり祖父に縋っている。それでは駄目だ。しかし、そう思うたびに、どんどんと自分の本心と、祖父との距離が離れていくような気がした。
考えれば、考えるほど苦しい。このまま闇とひとつになった方が、いっそ。
「…!」
ロティの耳に、微かな音が届いた気がした。
「す、鈴…?」
鈴の音。ちりりん、と軽やかな音が、鳴った気がした。立っているのかもわからなかったが、ふらつく足をなんとか前へ動かし、音が鳴った気がした方へと向かった。こんな場所で、死ぬわけにはいかない。シャルルの本心を聞くまでは。
「だ、だれか…」
縋るような思いで、ロティは声をあけだ。
「ロティ?そこにいるのですか?」
その声は、よく聞き慣れたノアのもの。ロティは必死で手を伸ばした。
「ノア…!ノア!わ、私…」
「ロティ、大丈夫です。落ち着いてください」
両肩に、暖かい感触を感じた。次いで、背中にも感触が伝わり、生きているモノの鼓動と、息使いを感じ、身体から力が抜けていくのを感じた。
「ノア…!」
「ロティ、よく頑張りましたね。落ち着いて聞いてください」
ノアの声は、ロティの耳のすぐ近くで聞こえた。僅かな息使いと、その熱も伝わってくる。優しい声と、暖かな感触。ノアの息使いを感じて、ロティは心の底から安心し、今まで心を縛りつけていたものから解放された気がした。
ノアの手が、ロティの腕を握った。
「わかりますか、ロティ。此処に鍵穴があります」
ノアがロティの腕を動かすと、ロティは指先に冷たいものが当たったのを感じた。言われてみれば、確かに鍵穴のような、空洞がある気がする。
「良いですか、ロティ。これから君に、禁書の事を教えます」
「え?禁書のこと…?」
振り向こうとしたが、やはり何も見えない。ノアは近くにいるのだろうが、感触しかわからない。そんな中で、突然何を言い出すのだろう。
「まあ、聞いてください」
「は、はい…」
「ロティ、君は魔法というものを信じていますか?」
「え?」
魔法といえば、やはり人ならざる力の事だろうか。不思議な絵本、呪い…此処最近、よく出る言葉を思い出して、ロティは少し混乱した。禁書とは、やはりそういう類のものなのか。
「たとえば、本に出てくる魔女なんかが、色んな怪しいキノコだったり、植物をぐつぐつ大鍋で煮て作る魔法の秘薬。たとえば、地面に書かれた細かな魔方陣から現れる、架空の動物」
「は、はあ…?」
「禁書というのはね、“そういう”ものですよ」
「え?」
ノアの言いたい事がわからず、ロティの混乱はさらに深まる。そういう、とは、どういう意味だろう。
「怪しいキノコや植物の代わりに、不思議な紙やインクを使い、魔方陣の代わりに文字や物語を書くのです。…そうして、およそ人にはできない不思議な力を齎すものが、“禁書”と呼ばれる本なのです」
「じゃ、じゃあ…禁書は、魔法を使うための本だっていうんですか…?」
魔法だなんて、本の世界にしか出てこないもの。俄かには信じられない。
「魔法、という表現は些か大袈裟なのかもしれません。しかし、それは人の技術を超えた、異能の力だと言っていいでしょう。信じられませんか?」
「で、でもそんな本が本当に…?」
「ロティだって既にその力を知っているはずです。王子様の絵本の不思議な出来事も、そしてロティ、君の不思議な能力だって、その一端かもしれません」
ロティがずっと持っていた、他の人には無い力。それは、確かに魔術的な力だった。それが“禁書”の力ではないかとノアは言うのか。しかし“不思議な力”の存在を、ロティに肯定させるのには、充分な言葉だった。
「私の力はわかりません…でも…不思議な力は、本当にあるのかもって…。で、でも…そんな本が本当にあったなら…」
「ええ。悪用されて混乱を招く可能性があります。だからこその“禁書”なのです。人が、迂闊に手を出してはならない力です」
「…!」
人が手にしてはならない、禁じられた力。禁じられた本。
「それが…禁書…」
「理解できましたか?」
「はい…」
ノアの言葉に、ロティは短い返事で答えた。呪いも、絵本も、ロティの力も。その力に、触れてきたのだ。
「さて、此処でひとつ、わかった事があります。それは、目の前で起こる不思議な出来事の、そもそもの原因は“本”にあるという事です」
「え…?」
「今、この部屋が不自然な程の暗闇に閉ざされたのも、恐らく禁書の力でしょう。そして目の前の扉が、閉まっているのも」
ノアの言葉に続いて、がちゃがちゃとノブを回すような音が聞こえた。
「おそらく、この鍵も禁書の力です。あの、イヴという修道士…彼は胸に鍵束を下げていましたよね?」
「はい、そうですね…」
黒い衣装に、あのキラキラ光る鍵達は印象的だった。
「ここの扉を開ける時、彼は鍵を使いませんでした。出る時も鍵のかかった音はしません。つまり…此処の扉は、鍵を持っていればそれだけで開いたり、閉まったりすると仮定します。そういう術です。しかし、これだと鍵を無くしたり、持たなかった場合、扉は永遠に閉ざされる事になります。つまり、他にも鍵を開ける方法があるのではないかと、僕は推理しました」
「ほ、本当ですか…?」
「ただの仮定です。しかし禁書は万能の力ではない。法則が存在するのです」
その法則を、ノアは推理したのか。
「でも、それはすぐに解決すると思いますよ」
「どうしてですか?」
「それはロティ、幸運な事に、君が“書物を読む”力を持っているからです」
「…!」
そうだ、目の前のこの鍵は、“禁書”という“書物”なのだ。だとすれば、ロティが何かを“読みとる”事ができるかもしれないのだ。ノアの意図をようやく理解し、ロティは大きく頷いた。
「わ、わかりました。私、やってみます…!」
ノアが示してくれた、扉の鍵。辺りは元々暗闇だったが、ロティはいつものように目を閉じた。
指先から、何かが駆けあがるような感覚。まるで、本の貢をめくっているような気がした。言葉が溢れ、文字が頭の中に浮かびがる。
「…カリソン・デクス…」
頭の中に駆け巡ったさまざまな言葉の中から、強く残った一言を、ロティは呟いた。
その瞬間、闇に覆われていた空間に、白いヒビが入った。




