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命が危ないです。
そんな物騒な言葉を、しれっと言ってのけたノア。明朝に、件の修道院へ向かう事を約束して、ノアとは別れた。ひとりで勝手に行く事だけは止めて欲しいとロティが懇願すると、そうですね、と物分かり良くノアは答えた。
ロティは今まで、自らの身の危険ばかり考えていたが、思えば本の所有者は貸本屋であるノアなのだ。彼にも同様の危険があるかもしれないと、何故考えなかったのだろうか。
ひとりで怯えていた事を恥じて、ロティはため息を吐いた。
「おや、盛大なため息」
「お、おじいさん…」
穏やかな声が耳に届いて、ロティははっと顔をあげた。皿洗いを終えたシャルルが、手を拭きながら居間へと現れた所だった。そのままロティの目の前の席を座ると、にこりと微笑んだ。
「今日は随分とお疲れのようだけど、何かあったのかい?」
そういえば外も騒がしかったね、とシャルルは言った。ロティの心がざわりと泡立ったが、別に疾しい事は何も無いのだと、ロティは首を振る。
「あ、あの…実は、アン様に頼まれていた仕事の事で、ちょっと色々とありまして…」
「ああ、そういえば仕事を頼まれていたのだったね。どんな仕事だったんだい?」
「えと…内密の話、って言われたので…」
「ふむ…随分偉い人に頼まれたようだね」
何も言っていないのに、どうしてそこまでわかってしまうのだろうか。ロティは否定も肯定もできずに項垂れた。
「ロティちゃんを責めているわけじゃないよ。ノア君ともいっしょだったんだよね」
「はい。ノアは直接、その人から依頼を受けました」
「探偵のお仕事か」
「そうです」
依頼人の秘密は、他言してはならない。ノアはロティにそう言って聞かせてくれた事があった。
「そうか…。まあ、僕には想像する事しかできないけど、もしかして君が大変な事に巻き込まれてしまってるんじゃないかと、少々心配になってね」
「ご、ごめんなさい…」
シャルルの言葉に、ロティの心は激しく動揺した。腕の立つ騎士達やルイの傍にいたといっても、自分は随分と危険な現場に居合わせたはずなのだ。それなのに自らの危険も、シャルルの心配にも思考は及ばなかった。何故だか、あの場にいなくてはならないと思い、多少の恐怖はあったものの、逃げ出す気にはなれなかったのだ。しかしあの場で自分は、何一つ役に立っていない。全て、思い込みだ。
シャルルに黙って心配させた事、それなのに何の成果もあげていない事。恥ずかしさが胸に込み上げて、頭にじんじんと響いてくるような心地だ。
「それでお仕事は無事終わった?」
「はい…。それはノアが全て解決してくれました」
「ノア君が?それはすごいね」
「はい、ノアは凄いです。…あ、あの、怒らないですか…?」
ロティの疑問に、シャルルは、んーと唸って笑った。
「まあ、ノア君もついていたし、お嬢様が君をそこまで危険な事に巻き込むとは思えないし…それに、ロティちゃんにはたくさんの事を経験して欲しいですから」
目じりに皺を作り、優しくシャルルはほほ笑んだ。
その顔を見て、ロティ凍った心が、するすると溶けていくような気がした。
「おじいさん…」
「してしまった事を後悔、反省するのも、また経験。触れてみなければわからない事。君がそうして成長していく事を、僕は止めたりしないよ」
そうだ。ロティがこの一件に関わらなければ、禁書の事だってまだ何もわかっていなかったかもしれない。それだけでも、ロティは一歩進めているような気がして、ほっと気持ちが和らいだ。やはり、シャルルの言葉は凄いのだと、改めてロティは実感した。そんな風に自分を見守ってくれる祖父の事が、ロティは大好きなのだ。
そして、ロティの心を苛んでやまなかった“禁書”の絵本。まったく手がかりも掴めなかったそれが、まさかアンリエットの依頼と繋がっていくなんて、予想もしていなかった。しかしノアは、何処か解っていたような雰囲気だった。ロティにはわからない事ばかりだと言うのに。
そう考えて、ロティはふ、と目の前に座る人物に再び目を向けた。
目の前にいるのは、街で一番の識者と名高い、ロティの愛する養祖父シャルル。
やはり彼はロティの身を案じてくれていた。それは嬉しい事だったが、禁書の事を言うのは更に躊躇われた。シャルルは優しい言葉をロティにくれたが、それでもこれ以上心配させるのはさすがに心苦しい。
しかし、ロティと禁書の関わりを伏せながらなら、何か情報を聞き出す事はできるのではないだろうか。今ロティを襲う禁書の恐怖は、ほとんどがその得体の知れなさに依っている。少しでも、その実態がわかったなら。
「どうかしたの?」
シャルルは目を丸くしながら首を傾げた。突然黙り込んだロティを訝ったようだ。ロティは頭の中で整理して、慎重に言葉を選んだ。
「あ、あの…おじいさん。おじいさんは、禁書って知って…ますよね?」
「………禁書」
その瞬間、シャルルの目が変わった事がロティにははっきりとわかった。
それは知的な色を湛えた鋭利で静かな視線であったが、ロティの胸の奥を激しく揺さぶり、泡立たせた。
「は、はい…」
耐えきれなくなってロティは視線を机に落とす。シャルルが、いつものような穏やかな祖父では無い、まるで別人のように思えたのだ。
「もちろん知っているよ。国や教会で閲覧が禁止された本だね」
滅多にお目にかかれないけれど、とシャルルは言った。その声音はいつもの祖父と同じもので、ロティは少し安心して視線をあげた。
「き、禁書っていうのは………その、人を呪ったり、不幸にしたり…そ、そういう力があるって本当なんですか…?」
無難な言葉を選んだつもりでロティは言った。実際不思議な事を体験した事は言わずに、あくまで一般論で、世間で噂されている程度で。
「…ロティちゃん。禁書について、何かあったのかい?」
「あ、あの…」
シャルルの目が、今度は声までもが、まるで別人のように聞こえた。それはシャルルの穏やかさが乗せられた優しい声音であったが、ロティに向けられた台詞では無いように聞こえたのだ。此処にいるのは、祖父シャルルではない。ロティの知らない、シャルルだ。
「…禁書についてはね、少しだけ人より詳しいんだ」
「そ、そうなんですか?」
ロティの言う“禁書”の事をわかっているのか、肯定も否定もせずにシャルルはそう言った。もし、ロティが思っている“禁書”の事についてなら、これは驚く事だ。
あの不思議な本、現実に人に影響を与える本。それらについて、シャルルは知っているどころか、詳しいと言うのだから。ロティは何も知らない。シャルルが、それに詳しいという事も、何故詳しいのかという事も。
「あれはね、名前ほど危険なものではない…場合もある」
「場合も?」
「本自体が危険を孕むものも多いし、使い方を誤れば惨事を起こすものもある」
シャルルは静かにそう語った。
「だから、これ以上アレに興味を持ってはいけないよ」
突然立ち上がり、シャルルは真剣な瞳をロティに向けた。普段、ロティを叱る時よりも、数段訴えかけような…何処か寂しげにも見える瞳。
「な、何故…ですか。どうしておじいさんは…」
「………」
振り向いたシャルルの瞳は、とても哀しそうに揺れていた。
どうして、そんな瞳をするのだろう。まるで、ロティと距離を取るかのようだ。そこには、どうしても越えられない大きな壁が、他人という壁ができてしまったかのようで。そしてそれはロティに、彼が本当の祖父ではないのだという現実を、鮮烈に思い出させた。
「…どうしてですか…触れてみなければわからないって言ったのは、おじいさんなのに…」
「…そうかもしれないね…でも…」
シャルルはロティに背を向けたまま、言葉を紡いだ。
「ロティちゃん。君も僕に何か隠しているんじゃないかい」
「………」
ロティは何も言えなかった。彼に、なんと言えば良いのかわからなかった。
「おやすみ、ロティちゃん」
何も言わないロティの代わりに、シャルルはそれだけ言った。振り向いた彼の顔は、いつもの優しい祖父のものと変わり無かった。




