13
「…ぐあっ!」
「ひゃあ!」
張りつめた緊迫感の中に、突然響いた大声に、ロティは驚いて悲鳴をあげて、両手で頭を覆った。首を縮こめたまま、それでも声のした方をロティは見た。
男の、短剣を持っていた方の手の甲には、いつの間にか輝く何かが刺さっていた。
「アン!」
シリルは跪いた体制から飛び出して、全身で突進して、男の両足に掴みかかった。
「ぐ…」
男は体制を崩し、そのまま仰向けに倒れた。土を打つ音がして、男の手から離れたアンも体制を崩し、半歩後ろに下がった後、尻もちをついた。
「アン…!」
シリルはすぐに起き上がると、アンの元へ駆け寄った。
「くそ…っ」
男が身動ぎし、起き上がろうと腕をつき、背中を浮かせた。
「ぐあっ」
しかし突然、黒い何かが男の上に落ちたと思うと、男の背はそのまま、また地面に着いた。
「いい加減にしてください」
男の腹の上に乗り、低い声でそう呟いたのは、使用人のルイであった。そういえば、いつの間にかいなくなっていた。よく見ると、男の首に何か銀色のものを突き付けている。
「…あ、あれって…」
「ナイフ」
言いながら、ノアはナイフとフォークを持つ真似をした。では、先ほど男の手に刺さったのも、銀色のナイフという事か。
「な、なんで食事用ナイフ?いや、ていうかルイさん?さっきのナイフはルイさんが…?」
「ルイ君はああ見えて、ものすごい戦闘能力を持った使用人兼用心棒なのですよ」
「はあ、い、意外です…」
いつも物静かで、ひっそりと、しかし確実に使用人としての仕事をしていたルイが、まさかこんなにも強いだなんて。ルイは手際よく男を縛りあげた。
「あんなに遠いし、暗いし的も小さいのに、よくアン様に当てずに狙えましたね」
ロティが感心しながらルイに声をかけた。
「この男の太い腕なら、何処に当たっても構わなかったですし、よく狙いましたので」
「ああ、それですけど。ルイ君、僕を壁にしましたよね?手元狂ったら僕に当たっていたような気がするのですけど」
肩のあたりをさすりながらノアが言うと、ルイは冷たい視線でノアを見た。
「丁度良い壁だったんで。失敗してもまったく心が痛まない」
「ルイ君の腕を僕は信用しています」
元気よくノアはそう答えた。本当に失敗しなくてよかったと、ロティは深いため息を吐いた。
「そういえばアン様…!」
アンは無事だろうかと、ロティが振り返ると、座り込んだアンをシリルが支えていた。
「アン…大丈夫かい?あんなに太くてムサい腕に捕えられて…可哀想に。怖かったろう?怪我は無いかい?」
「…」
今にも泣き出しそうな目で、興奮気味にアンを気遣う言葉を、矢継ぎ早に口にするシリル。アンはその様子をただ、見ていた。
「ど、とうしたんだい?はっ…まさか奴に何か…?何を…何をされたんだい!?」
シリルはアンの両手を握りしめ、危機迫った顔をアンに近づけた。アンは少し困惑するように眉を歪めて、上目づかいでシリルを見た。
「…あの、シリル様?」
「ああ、僕………」
と言ってから、シリルはゆっくりとアンの腕から手を離し、両手を地面につけた。
「………はい、僕です。シリルです。素敵な貴族、シリル・サン・ピエールです…」
シリルは自分が“素”である事に、今更気づいたようだった。アンの事もずっと呼び捨てだったし、今更取り繕う事は出来ないと悟ったようだ。
「シリル様」
「ああ!そうだ!どうして君が此処に?」
開き直ったように顔あげて、シリルは明るくそう言った。
「…ノアにこの話を聞きました。ですから、私がアンヌ王女の身代わりに、囮になると言ったのです」
「そんな…危険な事を…」
アンが首を横に振り、まっすぐとシリルを見つめた。
「誰がやろうと同じことです。丁度、王女様と体格も近かった事ですし、私にはルイもいましたから」
「…君をこんな事に巻き込んでしまって、すまない」
「いいえ。巻き込まれたなど。でも…」
アンの言葉の最後が消え、その瞳から、はらはらと涙がこぼれおちた。
「怖かったです。だから、シリル様が助けてくださり…本当に…」
「アン…」
アンの瞳からは次から次へと涙が零れているのに、彼女はとても美しい笑みを浮かべていた。
「…有難うアン。君は強いね」
シリルはアンの頭を優しく抱いて、髪を撫でた。
「僕も今思いだしたよ。怖かったって」
アンは指先で涙を払い、顔をあげた。
「アン、聞いて欲しい事があるんだ…」
シリルはまっすぐな瞳でアンを見つめた。今度は、本物の表情で。
「僕は…本当の僕は、見ての通りだ。さっきの男の言うとおり…ただの弱い男だ」
シリルは言いながら少し目を伏せた。
「だけど、君との関係を変えたいと思った。だから、だから僕はもう、君の前で見栄を張るのは、やめようと思う」
見栄張ったままでは、自分を、本当の自分を愛して貰う事はできない。
「こんな僕でよければ、もう一度、初めから関係をやり直してもらえないだろうか…?」
シリルの揺れる瞳に、アンの姿はどう映っているのだろうか。愛されたい事と、愛して欲しい自分の乖離。それをまっさらにしたいと、シリルは望んだ。
「…シリル様。私こそ、本当は強くなんてありません」
「アン…」
「シリル様の前で、シリル様の為で無ければ、こんなにも気を張ってなどいられなかったでしょう。本当は盗賊に対峙するだけの力など持ってはいないのです」
アンは目を伏せ、囁くように言葉を紡いだ。
「こんな私でも良ければ、新たな関係を始めさせてください」
「…ああ」
木漏れ日のように、柔らかな二人の笑顔。その笑顔こそが、二人の偽りの無い本当の想いなのだろう。きっとお互い抱いた印象は、最初から間違ってなんかいなかったのだと、ロティは思った。
本心で語り合えば、その関係は近くなるのだろうか。少なくとも、アンとシリルの二人は、以前よりも自然に見えた。その様子を見て、羨ましいと思った。しかし、何が羨ましいと思ったのか、ロティにはわからなかった。
「さて、貴方には色々と聞きたい事があるのです」
縄で縛られた男に、目線を合わせるようにノアは屈んだ。ロティも話が気になり、ノアの後ろに少し隠れるように立った。縛られているとはいえ、やはり少し怖い。でも話は気になる。
「何故、こんな事をしたのですか?普通に傭兵としてやっていけば良いものを。ただの欲というには、あまりに危険だし、性急すぎると思いますが」
確かに、傭兵として成り上がるにしても、お金を稼ぐにしても、他にも手段があったはずだ。王女を狙うだなんて大胆で危険すぎるし、盗賊討伐で計画に狂いが出ても、無理に事を急いていた。
男は項垂れて、地面に目を落とした。
「…早く、早くしないと呑みこまれる…。王女は“盗賊”に囚われて、俺ら“傭兵”がそれを救い出し、王家に認められるって手筈だった…」
「………そっちか」
ノアは盗賊の説明に、妙な返答をした。多分、自分の推理がちょっと外れた事を言っているのだろう。男は自嘲のような笑みをもらした。
「ふん…。俺は“盗賊”に殺される予定だった。そのまま遠くに逃げて…何も知らなきゃ王女だって傷つかずに済んだかもしれねえのにな」
「どうでしょうね」
盗賊の言葉に、ノアは冷たい口調でそう返した。
この男は、本当に黙っていれば王女が傷つかなかったのだと、思っているのだろうか。
「そ、そんなことないっ!です」
胸の中に唐突に怒りが溢れ、思わずロティは大声をあげた。
「ロティ…」
「そんなのはあなたの、勝手な都合のいい妄想ですっ。あなたはそんな軽い気持ちだったのかもしれないですけど、王女様はもっと真剣だったんです!誰にも話さずに、大切にしていた恋の記憶は、無くならないんですっ」
王女から直接話を聞いたわけでもないし、王女の事を知っているわけでもない。しかし、好きな男が、自分の想いを軽んじていたらと思うと、むかむかと湧きあがる怒りを治める事ができなかった。
「あなたはいずれ王女様を捨てるつもりだったかもしれないけど、ずっと信じてる王女様はその瞬間、必ず傷つくことになるんです。それを…」
「ロティ」
感情が溢れだして熱くなったロティの頭を、ノアが優しく叩いた。
「こんな男に、君も真剣になる必要はありませんよ。当然、女性の美しい想いを利用する輩には、それ相応の罰があります。今回だって、結局うまくいきませんでした。…いかせるはずが、無いでしょう?」
「ノア…」
ノアは口は笑っていたが、目は冷たく男を見ている。
男は目線を逸らせて、唇を噛みしめた。
ロティもノアの言葉で頭が冷めていくのを感じて、僅かに頷く。
「仕方なかった…早く、早くしないと…の、呪いに…呪いに蝕まれるから…」
男は振り絞るようにそう言って、項垂れた。肩や手先がガタガタと震えだし、顔は絶望したように青くなっている。
「呪い?本の呪い、ですか?」
ノアの言葉に、男が突然顔をあげた。
「や、やはり…お前は呪いの…?」
「僕はただの貸本屋ですが、呪いとは関係ありません。呪いとはどういう意味か、教えてください」
また“本”の話題だと、ロティは思った。ノアが自らを貸本屋だと名乗ったのは、“本”が関係しているからだろうか。
「…俺たちは…ある資産家の用心棒をしていたんだ…。…ある日、ある場所から本を盗んでこいって言われて、本ぐらいならって盗んできたんだ…」
男は地面を見ながら、思い出すように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「け、けど…それからすぐに旦那が謎の衰弱で倒れて…死んだんだ…て、手元には…盗んできた本があって…。職を失った俺らは日雇いの傭兵業を続けたが、何故か俺達にばかり厄介な獣や盗賊が襲いかかり、大けがをしたり、病気に罹ったり…。次第に仕事も無くなっていって…早く、早く立て直さないと、呪いに蝕まれちまうと思った」
「どうして本の呪いだと思ったのですか?」
言葉も身体も震える男の肩を、ノアが掴んだ。
「だ…だって…その本には…“禁書”と書かれていたから…」
その言葉を聞いて、ロティは全身を打たれたような衝撃を感じた。
禁書、呪い、絵本。
「その本は、どうしたのですか?」
ノアが更に男に問いかけた。男はしばらく黙っていたが、重々しく口を開いた。
「し、知らねえ…。旦那が死んだ時に、他の家財と一緒に処分されたって聞いたから…な、なのに…なのに俺達の呪いは解けない…くそっ…」
男は首を折り、打ち震えていた。
その内容より、ロティの頭の中には、ぐるぐると“禁書”という言葉が駆け巡っていた。
呪いの禁書。
死んだ資産家。
不幸な傭兵。
“禁書”にはそんな不吉な力が、やはりあるのだろうか。だったらロティ自身も、禁書の呪いに。
「その本って、もしかしてこれですか?」
いつの間にかノアが、一冊の本を手にしていた。
「そ、それはっ…!」
男は短い悲鳴をあげながら、跳ねるように身体を後退させた。
ノアが持っていたのは、あの、“王子様”の絵本だった。
「近づけるな!」
「ふむ…間違いないようですね」
男は身体中を震えあがらせながら、意味不明な言葉を吐き続けている。それほどの恐怖があったのだろう。男の怯えがそのまま移ったかのように、ロティの身体も震え始めた。暑くもないのに汗が頬を伝う。
「の、ノア…その本、本当に呪いの…?」
「そうですねぇ…」
肝心の“本”を持つノアは、いつものようにのんびりとした口調でそう言った。
「最後の質問に答えてください。この本は、何処から盗んできたのですか?」
「し、修道院…街の…外れの…森の奥の…」
男は荒い息を吐きながら、切れ切れに答える。
「では、その場所を詳しく教えてください。場合によっては、貴方がたの呪いを解く事もできるかもしれません」
「ほ、本当か!?」
男は、今度は飛びかかるような勢いでノアに詰め寄った。しかし、本を見てやはり後ずさった。
「の、ノア…もしかして、行くんですか?そこに」
「ええ。まさかこんな場面でこの本の事を知れるとは思いませんでした。それに…」
ノアは立ちあがり、腕をあげて、一度全身を伸ばした。
「多分、僕の命が危ないです」
ロティを振り返りそう言った顔は、いつものように穏やかだった。




