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12

空に浮かぶ月は、まだ不格好で不完全、不安定な丸みしかなかった。

この月が完全な形で満ちる時、それは彼にとって祝福の光となり得たかもしれない。

「…」

 女は、頭から被った長い布を、胸元まで引き寄せた。自らが何者であるかは、誰にも知られてはならない。長い髪を結び、素朴な花の刺繍がされた布で、頭から姿を覆った。

 約束の場所は、騎士城を離れた庶民街の裏路地の建物の陰。月の光が降りしきる馬車道から外れた、真っ暗な場所だった。

 来慣れないこの場所は、夜闇に覆われているせいで、更に不安な気持ちを増長させる。住み慣れた世界を飛び出し、足を踏み入れたこの場所。もう、戻れないのだと思うと、指先が僅かに震えた気がした。

「何があっても…」

 大丈夫だと、己に言い聞かせた。

「………姫」

 薄暗闇から届いた声に、僅かに肩を震わせる。現れたのは、背の高い男だった。暗闇に僅かな一本の蝋燭だけを灯し、立っていた。周りを確認するように、サッと目を走らせた後、女の姿を見てため息を吐く。男の目は安堵のためか優しげに眇められ、口からは笑みが零れた。

「良かった。来てくれないかと思いました」

「…覚悟を決めてまいりました」

「姫…」

 男の囁きは吐息に混じり、甘く耳に響く。男は女の手を恭しく取った。

「こちらに来てください、姫」

「…」

 男に引かれるままに女は歩く。何せこの暗闇の中で、唯一行く先を示す光は、彼の持つ拙い蝋燭の灯火しかないのだ。女はその光と、光に映し出される男の僅かな背中だけを目で追って足を動かす。右手は彼に引かれ、左手はお守りを僅かに握り。

「こちらです」

 男は隘路を縫うように走り、広い道へと出た。二人が出てきた路地を覆い隠すかのように、そこには馬車が止まっていた。それは男が、普段引いている二頭立ての馬車であった。

「どこへ?」

「誰にも邪魔をされない場所へ。さあ」

 男に手を引かれて、女は馬車に乗り込んだ。女が乗ったのを確認すると、男は即座に馬車を走らせる。狭い狭い檻の中。女はそんな事を思いながら、ひっそりと身を隠した。粗末な幌馬車でボロボロの布に覆われている。後ろは開いていて、女はそこから馬車が走った道を覗き見た。そこにはただ、暗闇があるだけで何も見えない。そこに本当に道があったのだろうか?

「…」

 女はそれからずっと、後ろを見続けていた。


 馬車が止まったのは、それからしばらく経ってからであった。

「降りてください、姫」

「…」

 言われるが儘、手を引かれるが儘に、女は馬車から下りた。先を見上げると、雑木林の中に煌々と明かりをともす、小屋があった。

「…ここは」

「こちらへ」

 女が何かを言う前に、男は女の手を引いた。しかし女は男の手を払った。

「どうしたのですか、姫」

「此処は、何処です?」

 女は厳しい口調でそう言った。

 男は突然、にやりと口を歪めた。

「…此処はね、しばらくの間のあなたの宿ですよ、世間知らずのお姫様」

「…どういう意味ですか?」

 男の目は光に照らされて、ぎらぎらと輝く。その目は、先ほどの優しさは一切含んでいない。

「なんでもありません。さあ、姫様。こちらへどうぞ…」

 男はやや強引に、その手を引いた。しかし、女は男を精いっぱいの力で突き飛ばした。

「あなた、盗賊…?」

「…少し計画に狂いがでてきたな…」

 男はイラついたように、眉間にしわを寄せた。口から出たのは乱暴な言葉。

「お前は大人しくしてれば、それで幸せになれたかもしれねぇのに、余計な勘ぐりしてんじゃねえよ」

「幸せですって…?王女を騙して籠絡する事が?」

「お前は…」

 男は眉を歪め、女が頭から被った布を乱暴に奪った。

「…!誰だ、お前は」

 男は女に掴みかかりそうな勢いで詰め寄ったが、女はさっと一歩身を引いた。しかし、背筋を伸ばし、怯む様子も無く、まっすぐと男を見ていた。

「私はただの商人です」

「商人?姫は…アンヌ王女はどうした!」

「さる方に依頼されて、私が王女の代わりに約束の場に来ましたの」

「騙したのか…!」

 目を剥き、怒りを露わにした男が一歩近づいたが、女は一歩も引かず、冷めた目を返した。

「騙した?勘違いしたのは貴方の方です。私が王女であるとは一言も言っていません。淑女の手を無理やり引くだなんて、卑しい傭兵がやりそうな事です」

「貴様…」

 男は怒りを抑えきれない様子で、唇をかみしめ、震える拳をきつく握りしめていた。女は蔑んだ目でその様子を見やり、さらに数歩引いた。

「貴様何処まで知っている…」

「何の事かしら。私は、貴方はまるで“盗賊の様”で、貴方の態度が“卑しい傭兵の様”だと、そう言っただけです。…その口ぶりからして、事実であるようですが」

 女は男との間合いを慎重に測りながら、それでも臆することなく透き通った声音で言った。男はぴくりと、口元を引き攣らせた。

「このッ…!」

 男の拳が発作的に、女に振りかぶるように動いた。

「それ以上、お嬢様に近づかないでください」

「…!」

 夜闇の中から突然声が響いた。静かなのに、耳を貫くような、冷たい声。

 陰の中から、誰かがゆっくりと二人に近づいてきた。

「誰だッ」

「お嬢様を迎えに参りました」

「お前…」

 男はいつの間にか手に持った短刀を、近づいてくる男へ向けた。

「何があった!」

 小屋の中から、唐突に人の気配が溢れだす。数人の屈強な男たちが、小屋から次々と出てきて、表情を強張らせた。各々手に銘々の武器を持ち、佇む男を睨みつけた。

「何者だ、お前たち…」

 男がそう言った瞬間、森の中にぽつり、ぽつり、と明かりが灯りだした。

「…なっ…」

 森の中の光はどんどんと溢れてゆき、光を背にした男の姿が黒い闇に塗られる程にまで明るくなった。その光の闇の中から、また誰かが姿を現した。

「貴方達の悪事は、全てお見通しですよ」

 現れた男は、場違いな程にこにこと穏やかに笑っていた。


「アン…?アンリエット!どうして君が…」

 唐突に声をあげて、シリルが光の中から飛び出した。途端に、馬車引きの男は、連れて来た女…アンの手を引いて、首に短刀を突き付けた。

「近寄るな!」

 男の言葉に、シリルの足がぴくりと止まり、苦々しそうに眉を歪めた。

「お前達は何者だ!」

 男と、小屋から出てきた他の男たちは、怒りに満ちた形相で睨んでいる。張りつめた空気が、辺り一面を覆った。

「まあまあ、みなさん落ち着いて」

 自然と足が凍りつくほどの緊張感なのに、ノアはのんびりとした口調でそう言った。聞いていると、本当に気を抜いてしまいそうだ。

「まずは質問に答えましょう。僕は…そう、ただの貸本屋です」

「は…?」

「そしてこの子は写本屋です」

 言いながらロティを指差してノアは笑った。突然紹介されて焦ったロティは、小さい声で「どうも」と返した。なんだろう、この状況。そもそもノアは普段、自らを“探偵”と称して憚らないくせに、どうして今は貸本屋なのだろう。この場に貸本屋がいるなんてあからさまにおかしい。

「ほ、本屋…本屋だと…!?お、俺達を殺しにきたのか…!」

 何故か馬車引きの男は、突然表情を引き攣らせて震える声でそう言った。アンに突き付けられた短剣はそのままだが、先が僅かに震えている。

「そんな物騒な本屋さんはいませんよ。それより貴方がたこそ、王女様に何をするつもりだったのですか?」

 言われて男は正気を取り戻したかのように、再びノアを睨みつけた。

「なら、僕が貴方の代わりに説明しましょう。貴方たちですよね?最近このあたりに現れる盗賊とは。そして…その正体は新興の盗賊ギルド。そうですよね?」

 ノアがにこりと微笑みかけたが、男は何も言わなかった。変わりに背後にいた屈強な男たちがざわめき始めた。

「どうやら正解のようですね。先ほどのアン様との会話もばっちり聞いていましたし…それに、僕が盗賊に襲われた時、見た顔もありますね。…ところで、目はもう慣れてきましたか?」

 ノアに言われるが儘に、男たちは辺りを見回し始めた。そしてハッと目を見開く。彼らは気づいたのだろう、明かりを掲げて周辺を取り囲む鋼の集団…騎士たちに。

「これは…」

「もちろん、貴方の後をつけたのですよ。バレないように距離を取りながら移動するのは、結構大変でしたよ。なので今、此処にいるのは先遣隊だけです。だけど、アン様がちゃんと目印をつけてくれました」

 アンは左手でひっそりと、色のついた石の入った袋を隠し持っていた。それを等間隔で撒いて、自らの行く先を示していたのだ。

「すぐに後衛もやってきますよ…貴方がたを一人残さず、捕えるために」

「…!」

 ノアがそう言うと、突然男たちは声をあげながら散って行った。控えていた騎士たちは、雑木林の闇へと消えて行った男たちを追いかけて行く。

「くそっ…逃げるな、お前ら!」

「そうそう、逃げても無駄です。どうせもうひとつくらい、塒があるのでしょうが、そこに逃げるつもりですか?それこそ一網打尽だというのに。すぐに後衛の騎士たちともども、森の検索を始めるでしょう」

「…」

 最後に残ったのは、アンを人質にとった馬車引きの男…姫の恋の相手だけ。この男が、とロティも改めて見た。恐ろしい程、憎しみのこもった形相に、屈強な身体。顔には少し傷があった。恐ろしいとは思っても、かっこいいとはロティには思えない。格好は街の人たちと何ら変わりなかったが、所作は荒々しい。

「貴方もいい加減、降伏しては如何ですか?」

「うるせぇ!」

 ひどく興奮しているようで、ノアの冷静な言葉とは逆に、喚くようにそう言った。

 捕えられたアンの様子を見ると、男の腕で首をつかまれて、とても苦しそうだ。それに突き付けられた刃物…自分の事ではないのに、ロティはひどく恐ろしくなって身震いをした。

「の、ノア…」

「…」

 不安に駆られてノアを見ると、いつの間にか口元の笑みが消えていて、まっすぐと真剣に、男に視線を向けている。どうすればアンを助ける事ができるだろうか。ロティも必死に頭を動かしたが、不安と恐怖が思考を塗りつぶし行く。

「その女性を離せ!」

 突然声が響いて、ロティははっとそちらを振り返った。悲痛そうに顔を歪めたシリルが、荒い息を吐いている。

「その人は…その人は僕の…」

「シリル…様…」

 アンが名前を呼ぶと、シリルの瞳が泣きそうに、揺れた。

「この女がそんなに大事か?」

 男は口元に笑みを浮かべながら、そう聞いた。シリルは唇を噛んだ後、静かに目を伏せた。

「お前の事は知ってるぜ、公爵家のシリルお坊ちゃま。アンヌ王女からもよく聞いた名だ…街の女共も挙ってお前の名前を出しやがる…こんな弱そうなお坊ちゃまの何処がいいんだか。腹が立つ話だなァ?俺らは身体張って守ってやるっつーのに、堅牢な街に守られてのうのうと暮らしてるお坊ちゃまの方が良いなんてな…」

「…」

 シリルは何も言わずに、静かに男を見ている。

「よう、お坊ちゃま。アンタが今、此処で地面に手をついて屈服するっていうんなら、この女は解放してやるよ」

「…!」

 アンが苦しそうに、僅かに呻く。シリルはその様子を見て、眉をぴくりと動かした。

「俺はもう諦めてんだ…どうせもう逃げきれねぇ。だけどよォ、ただで降伏するのは癪だろ?完全な敗北なんて認めねぇぜ。道連れにするならこの娘の命か、アンタだ」

「…し、シリル様…」

 ロティが思わず、か細い声で名前を読んだ。しかしシリルが振り返る事は無い。

 ノアが僅かに一歩退がり、それを合図とするかのように、シリルが前に進み出た。ゆっくりと男の前にシリルが歩み寄る。そのまましばらく、冷めた瞳で男を見ていた。その顔は、初めてシリルと出会った時のような機械人形の表情だった。

「…早くしろ」

 男が吐き捨てるように言った。

 シリルは表情を凍りつかせたまま、ゆっくりとかがんで、片膝をつく。

「シリル様っ…」

 ロティは、誰かに胸をぎゅっと掴まれているような息苦しさを感じて、身を縮こまらせ、両手を握りしめた。

「両手をつけ」

 男が言った。

「シリル様…」

 アンが息苦しそうに目を眇め、自らのために膝をついたシリルを瞳に映す。

 シリルが、ゆっくりと両手を地面につけた。


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