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帰りの馬車の中は、行きとは違った息苦しさがあった。
当初ロティが思っていたものとはまたく違う内容で、こんな力の使い方をした事がなかった。しかしロティがやっているのは、“知りもしない誰か”の代弁に他ならないのだ。その人が、本当にそう思っていたかはロティにはわからない。それが突然、怖くなった。今まで言われるがまま、頼まれるが儘に力を使ってきた。ただ、本の内容を複製するのはまだ良かった。その正しさを誰かが証明しようとしてくれたからだ。しかし、その裏側にある“感情”を知ることを目的とするのは初めてだった。その正しさを証明することもできなければ、正しい言葉で伝える事もできない。
あの短い一文から読みとれたのは、ほんの少しだけの情報と、感じた恐怖だけだ。それが、あの手紙を書いた馬車引きの青年の全てだろうか。
「…」
ロティがちらりと顔をあげると、向かいに座るアンの横顔が見えた。行きと同じく、ずっと外を眺めているようで、ちらちらと光が映る。表情はまるで凍りついてしまったかのように、少しも動かなかった。シリルが人間の感情を模倣した“機械人形”なら、今のアンは店先に飾られ、美しい衣装を纏った“陶磁器人形”のようだ。いつもなら華やかに微笑んでくれるアンだったが、今日はほとんどその笑顔を見ていない。商人は笑顔が武器だと言っていた彼女は、何処に行ってしまったのだろうか。
突然、人形の顔がこちらを向いた。
「ロティ、今日は有難う。怖い想いをさせてしまってごめんなさい」
「い、いいえ。だいじょうぶです。私も取り乱してしまってごめんなさい…それにあんまりお役に立てなくって…」
どうして泣いてしまったのだろうかと、今でも思い出すと恥ずかしい。内密の話をされたといっても、ロティはただの庶民で、部外者なのだ。
「そんなことないわ。…役立たずなのは、私の方だわ…」
消え入りそうな声音でアンが消極的な事を言ったので、ロティは思わず顔をあげた。いつでも華やかで明るいアンらしくない。
アンは瞳を伏せ、顔を伏せ、深淵を見ているかのような気がした。
「私もロティのように、素直な良い子だったら、良かったのかもしれないわね」
「そ、そんな…!私はそんなこと、ないです。それに、アン様はお優しくて、とっても明るくて、充分素敵すぎます」
またもや彼女らしからぬ卑屈な言葉に、ロティは思わずそう言った。自分なんてただの庶民で、ただの街娘で、ただの貧乏で。自分の悪い所と同じくらい、アンの良い所をいくらでも思いつく事ができる。
「ふふ…有難うロティ。貴女のその可愛いところ、大好きよ」
アンはようやく顔をあげて笑ってくれたが、寂しげで力無い笑顔だった。
「私より…シリル様に恋するアン様の方が、よっぽど可愛いですよ…」
「…」
昨日、シリルの事を語っていたアンの顔。どんな時よりも輝いていて、とても羨ましいとロティは思った。女の子は恋をすると、こんなにもキラキラして見えるのかと、そう思った。それはアンが元々美人だからとか関係なく、身体の奥底から出る輝きと眩しさだ。
それなのに今は、その輝きは闇に塗り替えられている。
「いいえ…私はとても醜いわ。知らなかったわ。恋って人を、醜くさせるものなのね」
「どうして…」
どうしてそんな事を言うのだろうか。確かに、今はあの時のような輝きは無い。しかしアンが醜いだなんて、ロティは思わない。
「ねぇ、ロティ。シリル様は、アンヌ王女様ととても仲が良いみたいね」
「え?」
アンが突然そう言い、ロティは一瞬困惑した。
確かに、シリルはアンヌ王女とは姉弟のように育ち、一番仲が良いのだと言っていた。そして今回も、アンヌ王女の恋の行く末をとても心配している。確かに、とても仲は良いのだろう。ロティもノアの事は兄のように慕っているが、周りからはとても仲が良いのね、なんて良く言われる。
「シリル様は、アンヌ王女様の事が好きなんじゃないかって思ったの」
「えっ」
「シリル様の一番近くにいる女の子ですもの。きっと一番大事な女の子でもあるはずだと思うの」
「た、確かに…で、でも、私もノアの事はお兄ちゃんみたいだって思いますし、身近だから一番大事な男の人ですけど、恋愛感情…?そういうのは、無いですよ」
身内である祖父シャルルを除けば、消去法で一番大切なのはノアだ。
「確かに貴女達は兄妹のように仲良しね。でも…私は嫉妬してしまったかもしれないって、思っているの」
「嫉妬…アンヌ王女にですか…?」
アンは瞳を伏せて、僅かに頷いた。
「あんなにシリル様に大切にされている王女様…シリル様はもしかしてアンヌ王女様の事が好きだから、恋の妨害をしたいのかも、なんて事も考えてしまったわ」
そんなに心の狭い方ではないのにね、とアンは寂しげに言った。
正直ロティには、シリルという人物を量る事は出来なかった。あの作りもののような笑顔はとても美しかったが、感情はほとんど読みとれなかった。
「だからね、私はその逆。アンヌ王女様と馬車引きさんとの恋がうまくいけば良いのにって…心の奥でそう考えてしまったのかもしれないわ」
「かもしれないって…?」
自分の感情であるのに、推測のようにアンは言った。
アンは眉を歪めて、目を眇めた。
「…だから私は、“王女様にはまだ何も伝えないように”だなんて、シリル様の想いを蔑ろにするような事を言ってしまったのかもしれないわ。王女様の事を想って、なんて言っていたけれど、私は本当にそんな事を想っていたのかしら…」
「アン様…」
王女の気持ちを慮ったアンの言葉は、ロティも優しさだと受け止めた。シリルもそう言っていた。しかし、アン本人だけは、醜い心に偽善を被せたものではないかと疑っている。
「自分で自分の事がわからないだなんて、滑稽ね。私はどうしてしまったのかしら…」
アンが寂しげに微笑んでそう言った。
ひどく寂しげで頼りない笑顔だったが、ロティにはとても美しい表情に思えた。
「アン様は醜くなんかありません…。本当に醜い人は、自分が醜いかどうかも気にしないと思います。アン様はずっとずっと清廉です」
「…そう言ってくれて、嬉しいわ、ロティ。でも、今の言葉でわかった事があるわ」
アンは少しだけ顔をあげ、窓の外を見た。
「私は最初から醜かっただけで、今更それが気になりだしただけなのかもしれないわ。見栄っ張りになったのね。だけど、商人だもの。見栄ならいくらだって張るわ」
アンの言葉に少しだけ力強さが戻った。
「だけど、この見栄もまだまだね。…結局シリル様の前では、商人らしく冷静になんて、できなかったわ。きっとシリル様のためなら、意識せずとも贔屓してしまうと思うわ…そして、気がつかないうちにどんどんと汚くなっていくのかもしれないわね…」
瞳の裏側で光を感じるように、アンはゆっくりと目を閉じた。
シリルの気を引こうとする乙女心と、商売しようとする商人魂。それらは、本当にアンを醜くしていくのだろうか。アンがアンのままで、清廉なままで、ロティの好きな彼女のままでいる事は、本当にできないのだろうか。
ロティはうまい言葉が見つからず、ただ俯いた。アンの恋は成就して欲しいが、そのためにアンの性格が変わってしまうのは少し悲しいと思ってしまった。
※
帰宅したロティは、シャルルへの挨拶を済ませるとすぐに寝台に横になった。
重くて黒い鎖が、ロティの胸を押しつけながら縛っている…そんな感覚がした。ここ数日は色んな事がありすぎたとロティは思った。
絵本の不思議な女の子、禁書、アンの恋、王女の恋…。ロティが一番気にすべきなのは絵本の事であろうが、アンや王女の事も気になって集中できない。集中できた所で、どれもこれも、今のロティに解決する事はできない問題なのだが。
「にゃあ」
声が聞こえてよろよろと首を持ち上げると、目の前にロロがいた。
「心配してくれるの?」
「にゃあ」
ちりん、と鈴の音を鳴らしながら、ロロはさらにロティに近寄り、顔に小さな体を寄せた。
「ふふふ、有難う。ロロ」
ロティはそのままロロを大事に手で抱き、呼吸とぬくもりを感じた。それだけで少しだけ心の重みが取れたような気がするから不思議だ。
「あ」
ロロを撫でていると、突然ふっと思いついた。
「そういえば…」
ロティはロロを抱いたまま、むくりと上半身を起こした。
そういえば、まだあの絵本は“視て”いない。
「…」
穴抜けがあるとは言え、完全な形の絵本だったので失念していたが、あの本を能力を使って“視る”事で、何かわかるかもしれない。それはまだ試していなかったのだ。
「……」
しかし、やってみよう、という気がロティには起きなかった。それどころか、再び胸にぐるぐると鎖が巻きついていくのを感じた。
「………怖い」
先ほどの、手紙を読んだ時の恐怖をロティは思いだした。全身を駆け巡る“悪意”…それはロティが直接、誰かに危害を加えられたような…そんな感覚。それと似たような感覚を、再び味わうのは怖い。しかも相手は曰くつきの“禁書”なのだ。ただでさえ見る事を禁じられた本の、更に奥底を覗き見るなんて。死んでもおかしくないかもしれない。そうでなくても気が狂れるかもしれない。何せ禁書とは“そういう”本だと聞いている。
「…うう」
それは怖すぎるので、もう少し本の事がわかってから…。ロティはそうしようと心に決めた。せめてノアが帰ってくるまで。
「にゃぁ」
「ロロ…私って弱虫だね…」
猫に何を言っているのだろうと思ったが、ロロはロティに寄り添ってくれた。
「…やっぱりお爺さんに話した方が良いのかな…」
頼りになる、大好きな祖父。しかしだからこそ、ロティはこれ以上シャルルに迷惑はかけられなかった。
「もう、私は子供じゃないのだし…」
いい加減、祖父離れしないといけない。自分の事は自分の力で。しかし、そう思う程、祖父との距離は段々と離れていくような気がした。
己の意思の弱さと、無力さを嘆きながら、ロティは静かに目を閉じた。胸に圧し掛かる黒い靄は段々と重みを増しているように思えた。




