壱段
五年越しに踏んだプラットホームは、靴底を焼かんばかりに熱かった。
一歩踏み出す度にバリバリと鳴るのだから過言でもない。鉄板でもしけばステーキも焼けそうで、実際あれば試したかもしれない。なにせ人目を気にする必要がない。ホームの山側は木、木、木の杉林で、降りたところには何故か木、木、木と案山子が三本立っている。屋根もなければ改札もないし、案山子を無視すれば人影もない。谷の底にあるはずの川は緑に埋もれて見えない。突き抜けるような快晴で景色は良いが、その代償がこの日差しでは一つ雨乞いでもやりたくなる。
白髪の増えた車掌だけを乗せ、色あせた電車がガタゴトと陽炎の中に消えていった。
後に残るは蝉の声。ミンミンと尻上がりな調子で快活に鳴くのだから、落ち込んだ気分が一層落ち込んでしまうようだ。
足取りが重いのは、なにも靴底が張り付くからばかりでない。
父の生家があり、母の嫌っていた土地だ。
靴底がノッペラボウになる前にホームを降りて、傍らの東屋に向かうとどうやら先着がいた。物陰で見えなかったようだ。水色のワンピースを涼しげに着こなして、深くかぶった麦わら帽子から綺麗な金髪が幾筋か肩まで垂れている。何をするでもなく、隣に群生しているオシロイバナの蕾をじっと見つめていた。
誰かと待ち合わせだろうか。バスは通っていないし、上りの電車を待つには気が早すぎる。声を掛けられる雰囲気でもなく、ひとまず適当な木陰を探す。
眩暈を催す圧倒的な蝉の鳴き声をかき分け、虫に食われていないクスノキの根元に腰を下ろした。
直射日光を逃れて一息つくと、オシロイバナの女がこちらを見ていた。背格好から若いとは思っていたが、どうやら年下らしい。
見覚えがある気がして記憶を探っていると、女は立ちあがりこちらに向かってきた。昔の知り合いだとして五年も経っていれば、困ったことに名前どころか背景すら出てこない。そのうち視線が絡む。どうやら見たことない程に整った顔立ちをしている。女は緊張しているのか、右に左にと目が泳いでいた。心なしか頬が赤いのは暑さのせいか。両手の指を前で組み、踏み出す足に合わせて軽く跳ねさせながら、親指同士を器用にくるくると回している。
女は見下ろす距離まで来ると、一度深呼吸して、しっかりと目を合わせた。アノとかソノとか言いかけて、二三度パチパチと瞬きをして訝しげな表情になる。人違いでもしただろうか。あちらこちらとまた目が泳ぎ始めた。
「――こ、こんにちは」
蝉のガ鳴り声の中、その澄んだ声は心地良く感じた。派手に髪を染めている割に内気な印象なのを、意外と思うのは偏見だろうか。
「こんにちは。……えっと、」
知り合いなのか、彼女の人違いだったのか。距離感が分からなくて言葉に詰まった。女にはもう口を開く気配がない。
女は少し距離をとって同じ木陰の隅に座ると、うつむいて黙り込んた。綺麗な服が汚れてしまうが気にしないらしい。
会話の無いまま時間だけが過ぎていく。蝉の喧騒は沈黙の気まずさを紛らわしてくれても、うだるような暑さには全く逆効果だ。
そもそも姉が迎えにくるはずなのだが、携帯の電源を切っているらしく連絡もつかない。待たずに行ってしまうかと考えなくもないが、多少道順に不安がある。自販機も無いこんな田舎で迷子になったら洒落にならない。
「あの、隣、いいですか?」
いつの間にか女が横に立っていた。いきなりなんだと思えば、座っていた場所が日向になってしまったようだ。仰ぐほど立派なクスノキの影も、大部分が急斜面に掛かり、二人で座るには窮屈だ。今さらだが、東屋があるのに二人して地べたに座り込んでいるのはおかしくないか。
「それは構わないけど、」
と、言い終わるのを待たずに隣に詰めてくる。いくらなんでも不自然に近い。ノースリーブの細い肩が触れる。たまらず距離をとるが、腰をずらした分だけ女もにじり寄ってきた。一体何なんだ。麦わら帽子のつばが邪魔で仕方ないが、俯いて黙り込んだ女に気にする様子はない。自分の方で体ごと首を傾げて避ける。本当に知らない女なのかもう一度確認しようとしたら、汗粒の浮かんだ白い胸元が覗けてしまって慌てて顔を逸らした。帽子の下で小さな唇の端が小生意気に曲がったのは気のせいか。落ち着かなくて無意味に携帯をいじる。待ち合わせの時間から一時間は経っていた。姉はまだか。
女の腕が右腕に絡みついてきた。
控え目に膨らんだ胸の感触に心拍が跳ねあがった。あれほどうるさかった蝉の声が聞こえない。何なんだ、この女は。顔を隠すように傾けられた帽子のツバが首をくすぐる。段々とそら恐ろしくなってきた。あまりの馴れ馴れしさに、むしろ赤の他人だという確信が強まる。ともすればこの女は一体どんなつもりで初対面の男と肩を組んでいるのか。女の腕をほどこうとその小さな手を掴むと、あまりの冷たさにぎょっとした。
途端、目の前が真っ暗になった。
ラベンダーの香りが満ちて、唇に何かが優しく触れた。
視界が開け眩しさに目を眇めると、女は駅のホームへ駆け込んでいった。谷に響く電車の音が近づく。やがてそれも山間に消え、気の早いヒグラシが混じる蝉の喧騒に一人取り残された。
一体なんだったのか。
日向にぼぅと突っ立っているといきなり肩を叩かれて飛び退く。振り向くと件の姉が目を瞬かせていた。
「え、なんだよ」
こっちが聞きたい。
後々どろどろになっていきます。
ご感想頂けたら嬉しいです。