桃始笑
第二回小説祭り参加作品
テーマ:桃
※参加作品一覧は後書きにあります。
というわけで、愛魅さんによる素敵企画に勢いのまま参加させていただき、勢いのまま書き綴った短編小説になります。色々拙いところがわんさか詰まっているかもしれませんが、最後まで読んでいただければ幸いです。何か感じ入るものがあれば、尚のこと幸いです。なくても幸いです。どうしたって幸せ。どうあがいても素敵。
舞台、登場人物が一名、自分の長編小説「Recall」よりリンクさせておりますが、そちらを読まなくても話が通じるようにはしてあるつもりです。もし興味があればそちらの方も読んでいただけると幸いです。幸い過ぎてどうにかなります。
それでは、短編小説、桃始笑をどうぞよろしくお願いします。
下げられた食器の中には何も残っていなかった。汁の一滴も、お米の一粒の残さないように食べられていた。食器を下げに来た看護士がその空っぽになった食器を見て笑顔になり、偉いわね、とベットに横になった少女に言う。その少女の名は、亜珠といった。
「何も偉くないです。早く、下げてください」
亜珠の冷たい物言いに、看護士の口元が少しだけ歪む。だけど、それは怒りによるものではないことを、亜珠にはわかっていた。そのことが、また更に亜珠の心に細波を生ませる。
「早く、出てって」
「ご、ごめんなさいね。それじゃ、何かあったらナースコールを押してね」
そそくさと慌てた様子で看護士が食器を下げて、病室を出て行った。ガラガラとローラーが回る音が閉められたドアの向こうから響いてくる。その音が聞こえなくなるのを待って、亜珠はようやく溜息を深々と吐いた。ベットから体を起こし、顔をしかめたまま伸びた前髪を掻き上げる。枕に押し付けていた後ろ髪が乱れていることに気づき、手櫛を入れる。それだけで、亜珠の髪の乱れは戻った。気だるげに息を吐き、亜珠は窓の外に広がる光景を見る。何度も、何度も見た光景だ。
亜珠はもう何度もこの病院の、この病室で日々を過ごしてきた。生まれつき体が弱く、年に数回発作を起こして病院に運び込まれる。だが、病院側も亜珠自身も慣れたものだった。激しい運動もできず、いくつもの学校行事を欠席してきた。たくさんの期待をしては、たくさん裏切られてきた。特に思い入れのない小学校を卒業し、クラスメイトの大半の顔を思い出せない中学校も卒業し、高校一年の後期になった今でも、校舎の間取りを良く把握できていない。クラスメイトは誰一人として、亜珠のことを憶えていないかもしれない。そのことを、もう亜珠は悲しいと思わなくなった。
亜珠は、病室から見る光景が代わり映えのないものだと知っている。春も、夏も、秋も、冬も。植物が生い茂り、時間によっては眩しい陽光が降り注ぐ綺麗な光景だとしても。それらを全て、何度も見ているのだ。飽きる程に何度も見た光景は、どれだけ美しくとも亜珠を楽しませることはない。その美しさに、感動を覚えられない。
どれだけ発作が苦しくとも、死ぬわけではない。ただ、たくさんの制限がかかる。できないことが増えていく。そのことを、亜珠の周りは悲しいと思っていた。可哀想だと、亜珠を想った。その想いが、何よりも亜珠の心を苛んだ。
ベットから身を乗り出し、棚の上に置かれた果物カゴに手を伸ばす。もう何度受け取ったかわからないお見舞いの品々の中から、金色の缶詰を手に取る。桃のイラストが描かれた缶詰を、亜珠は細い指先で開ける。甘い匂いが病室に広がった。
亜珠はそれを振り被り、壁へと投げつけた。
耳を劈く音が病室に響く。廊下にも、別の病室にも、待機してる看護士の耳にも届いただろう。誰かが廊下を駆ける音が聞こえる。病室のドアが開かれる前には、亜珠はすでにベットから降りて室内用のスリッパを履いていた。
「すみません、落としてしまいました」
俯いている亜珠には、看護士が浮かべている表情がわからない。見ようとも、見たいとも思わなかった。
「……そう。これからは気をつけてね。片付けておくから」
でも、その声色が、とても優しい音で紡がれているのが、目を伏せていてもわかって。
「……お願い、します」
それだけ言うと、亜珠は俯いたまま病室を出て行った。
明らかな故意の行いを、咎められることもなかった。
*
可哀想な子。
病院内での亜珠のことを説明しようとすれば、誰もが真っ先にその言葉を思い浮かべた。境遇が、現状が、亜珠という女の子にとって厳しく、理不尽なものだった。それは病院のスタッフはもちろんのこと、一週間も入院すればどの患者も知ることとなる、周知の事実となっていた。亜珠の容姿が儚げな美人であったことも、その印象を裏付ける大きな要因であっただろう。運動もロクにできず、日の光にも長く当たらないせいか、彼女の肌はとても白く、美しかった。真っ黒な髪が腰の高さまで伸び、その様も儚げな印象を強く裏付けた。切る理由がないから伸ばしているだけだというのに。
亜珠の境遇を知ってか、彼女が病院内を歩いていると、たくさんの人が声をかけてくる。看護士や病院のスタッフ、他の入院患者などが、彼女を見かけては声をかけ、笑顔を振りまいてくれる。例えそれらが親切心や優しさに基づいた行動であっても、亜珠には関係がなかった。煩わしくて、仕方がなかった。
冷たく無視することもあれば、ただ一言だけ言い放って去ることもある。だが、亜珠がどれだけ辛辣な態度をとっても、誰もそれを注意しようとはしなかった。皆一様に困ったように笑い、去って行く。四人程そういった相手とすれ違い、亜珠はまた深々と溜息を吐いた。誰もいないところに行こうと、亜珠の足は無意識に動き出す。
この病院には開けた中庭が存在する。木々や草花が育てられ、入院患者の憩いの場となっている。だが今の季節は入り込む風が冷たく、好んでその場所に向かう入院患者は少ない。亜珠がその中庭に着いた時には人の姿はなく、暖かな陽光と、それとは正反対に冷たい風が吹いているだけだった。陽光に目を細めながら、亜珠はぼーっと立ち続けていた。この場所は病院内で唯一、誰からも関わられることのない、落ち着くことのできるスペースだった。
「……いつまで、こんな生活してればいいのかな」
思わず呟いた言葉。入院などしたことない健康な人からすれば、亜珠の境遇は不幸だと言っても過言ではないだろう。だが、病院に入院してる他の患者からすれば、亜珠はまだ幸せだとも言えた。病院である以上、そこにはたくさんの、多種多様な病気を抱え入院している人もいる。亜珠よりも重病で、今も尚ベットから起き上がれずに苦しんでいる人はたくさんいるだろう。その苦しみの末に息絶えた人も、きっと、たくさんいる。
それを知っていながらも、私は、自分を不幸だと思っていいのだろうか。
「あっ……」
目を細めて見上げた陽光の中に、何かが亜珠の視界に影を落とす。その何かは音を立てて、中庭の植木の中へと落ちていった。その何かが落ちた先を少し驚いた心臓を宥めながら見ていると、突然上の方から威勢の良い、腹の底から出したかのような声が聞こえてきた。
「ごめーん! それ取ってー!」
驚き、再度亜珠が見上げると、屋上のフェンス傍に誰かが立っているのがわかった。フェンスの金網に手首まで突っ込み、そこからヒラヒラと手を振っている。それを見て、亜珠はまた視線を下げて、その何かが落ちてきた箇所を見る。植木は背が高く、亜珠が必死に背伸びしてようやく手が届くであろう位置に、その何かが引っかかっていた。あれは、紙束だろうか。上方をクリップで留めた、何十枚と束になっている。
「誰かいないのー!?」
中庭にいる亜珠の姿は見えていないのだろうか。声の主は未だ手を振り、声を張り上げている。周囲を見渡しても、当然ながら亜珠以外の人の姿は見えなかった。だからこそ、亜珠は好んでこの場所に来たのだから。
亜珠は溜息を吐き、植木の傍まで寄り、手を伸ばした。踵を上げ、指先を伸ばし、精一杯背伸びして紙束を手に掴む。掴み、手元に引き寄せる寸前、植木の枝に手が引っかかり、鋭い痛みが走った。だが皮を引っ掻いただけで、血が滲む様子もない。
一瞬だけ考え、亜珠も、声を張り上げることにした。
「と、取りましたー」
普段からあまり口数も少ない亜珠の声量は、とてもか細かった。小さ過ぎて、病院の中には聞こえなかっただろう。
「おっ、どうもー! ありがとうございまーす!」
だけど、屋上で手を振っていた誰かには聞こえた。風に乗ってか、たまたま屋上にいる人物の耳が良かったのか。とにかく、亜珠の小さくか細い声は聞こえた。
「あとついでなんですけどー! それ、持って来てくれませんかねー!」
厚かましいお願いだ、と亜珠は思った。こっちはこれを取るために、枝で手を引っ掻いたというのに。その上、屋上までの階段を昇らないといけないのか。
「おねがーい! なんか奢るからー!」
声から推測するに、きっと女の子だろう。年は亜珠と然程変わらないかもしれない。活発そうな印象を与える声に、悪びれた様子は少しも感じられない。毒気が抜かれたような気がして、亜珠はまた溜息を吐き、声を上げる。
「わかり、ましたー」
出し慣れない大声のせいか、詰まってしまった言葉もちゃんと先方には届いたようだ。お願いしまーす、と返事が聞こえ、亜珠はもう何度目かわからない溜息を吐いて、紙束を手にしたまま病院内へと戻った。
手に持った紙束を眺めながら、階段を歩いていく。見るぐらい構わないだろう。私は、これを無償で持って行くのだから。そう思いつつ足を動かし、着々と階を上がっていく。
「これ……台本?」
縦書きの文章に、通常の小説とは違う、どこか説明的な文体で登場人物の心境や動作が書かれている。見慣れた形ではない文章に、歩きながらも亜珠は人の物だということを忘れ文字を追っていく。屋上に着き、扉を開ける頃には、この文章が何の物語なのかわかっていた。
「長い巡礼の末に、ようやく聖女様の御堂に辿り着くことができました」
これは、ロミオとジュリエットだ。
「え?」
扉を開くと、冷たい風と共に、そのような芝居がかった台詞が亜珠の耳に飛び込んできた。
「この卑しい手が、そのふくよかな優しい御手に安らぐことをお許しください」
フェンスに寄りかかったまま、女の子が声を作り、まるで青年のような声色で台詞を続ける。
「ほんの少しでも触れさせていただければ、たちまち疲れた身も心も癒されるというものです」
亜珠と目を合わせた少女は一瞬、屋上に現われた亜珠の姿を見て目を見開くも、すぐに表情をキリッと改める。挑戦的な目つきだった。
「ほら、次の台詞」
「え、あ」
少女が亜珠の持つ紙束を指差す。その次の台詞が書かれている場面は、ちょうど亜珠が今まで目で追っていた文章だった。
「え、っと……巡礼様? それはご自分の手に向かってあんまりにも」
そこまでたどたどしくも口にしてから、ようやく亜珠は何かがおかしいことに気づいた。短く息を吐き、頭を振る。
「どうして私がこんなことしないといけないのよ」
台詞が書かれた文面から目を離し、未だフェンスに寄りかかったままの少女を睨みつける。何人もの人を黙らせてきた冷たく鋭い視線を真っ向から受け、少女は顔に笑顔を浮かべる。
「いやぁ、ありがとね。風が強くて飛んでっちゃってさ」
フェンスから手を離し、大げさな身振り手振りで感謝を表しながら亜珠に近付いてくる少女。その光景に不気味なものを感じて、亜珠は一歩下がり、屋上の扉を閉めようとする。
「待って待って! せっかく持ってきてくれたんだから、せめてあたしに渡してよ!」
初対面……のはずなのに、もの凄く馴れ馴れしい。亜珠がこれまで関わってきた人物の中でも、今までにないぐらいの人懐っこさで近づいてくる少女は、例え年が近い見た目をしていようと、いや、逆に近い見た目をしているからこそ不気味に思えた。染めているのが、元々なのか、栗色の髪が肩の辺りで風になびかれ揺れている。
「それにほら、持って来てくれたら何か奢るって約束だったでしょ?」
「……別に、何もいらない」
「そう言わずにさ。ほら、こっち来てよ。それに練習相手も欲しかったんだー」
「屋上は立ち入り禁止よ」
どの病院も、軽々と入院患者に屋上を開放はしていないだろう。転落防止用のフェンスや、そういった囲いが厳重でない限りは危険だからだ。
「え、マジで? うーん」
立ち入り禁止の場所に入り込んでいる。という罪の意識は彼女には全くないようだ。腕を組んで悩む様子からは少しも緊張感が見られない。
「じゃああんたの病室でお話しよう」
「……どうしてそうなるの」
今までの相手なら、冷たく言葉を吐き、睨みつけていれば自然と会話をやめてくれていた。それなのに、目の前の少女は少しも怯んだ様子もなく、ただニコニコと笑い続け、亜珠を誘う。いくら苛立たしげに睨み付けても、彼女は笑顔を崩さない。
「あたしさ、昨日ここに来たばっかりで、よくこの病院のことわかってないのよね。それに、あたしとあなた、年が近そうだし? いいじゃん。行こ行こ」
「いや、だから、ちょっと」
言い返そうにも言葉が出ない亜珠の背中を押して、少女は屋上を出る。
いつも冷たく相手を突き放していた亜珠にとって、その態度が通用しない相手は初めてだった。
*
「へぇ、ここがあなたの病室? うわ、たくさん物があるね。果物たくさんあるし、一つもらっていい? あ、窓からの景色キレー」
私の入院生活の中で、一番の危機だ。亜珠はそう考えていた。
「あまり、勝手に触らないで」
「あ、そっかごめんね。嫌だよね。自分のものをベタベタ触られたら」
「嫌だとかじゃなくて、常識でしょ」
そう冷たく言い放ち、亜珠は自身のベットに腰掛けた。冷たくあしらっておけば、その内この人も諦めて去って行くだろうと亜珠は考えていたが、少女は「そうだよねー」とサラリと口にして続けざま「あ、じゃあこの椅子借りるねー」と言いながら丸椅子を並べてベットの傍に座る。
「ん? 駄目だった?」
心情的には駄目、と言いたいところではあったが、ちゃんと借りると口にして使っている以上、それを拒む理由もない。
「駄目という前から勝手に借りないで」
「で。駄目なの?」
「……別に、良いわよ」
長らく誰も使っていなかったから、座面に埃が溜まっているかもしれない。が、それだけでこの少女が使用を断念するとは思えなかった。仕方なく許可を出すと、少女は笑顔の輝きを強くして、丸椅子ごとベットに、亜珠に近付く。
「ねっ、名前聞いてもいい?」
「駄目」
「えーいいじゃん。名前教えてよ菱川亜珠ちゃーん」
もし手に何かを持っていれば、全くの迷いもなくこの少女に投げつけていたかもしれない。大方、病室前の表札を見たのだろう。そもそも、別に隠す必要などなかった。ただ素直に教えるのが、なんだか癪だっただけだ。
「そんな睨まないでよ。それじゃあたしの名前も教えてあげるから」
「別に、興味ないから」
「それじゃあこれからこの病室内を壊して回るよー。その後あたしの個人情報を元に慰謝料を請求するような事態になっても知らないんだからねー」
「……あなた、ここに入院してるのでしょう? だったら、すぐにわかるわよ」
「むー、つまんない。もっと慌てふためいてもいいじゃん」
「……別に、壊されても構わないもの」
自暴自棄になって言っているのではない。ただ、本当に壊されても構わないと亜珠は思っていた。大事なものは何一つ、この病室内にはないからだ。金目の物も、思い出の品があるわけではない。
いくらでも代替可能な物で、この部屋は形成されている。だから壊されようが盗まれようが、亜珠自身は少しも困らなかった。両親や病院側は困るかもしれない。だからといって、それが亜珠にとっての理由にはなり得なかった。
「じゃあ、亜珠ちゃんを壊してもいいかな?」
少しも変わらない笑顔のまま、少女が亜珠の顔を見て口にする。その言葉も意味を理解する前に、亜珠の体に一瞬、緊張が走る。けれど、理解したら、その緊張は消えてしまった。
「……別に、それも構わないわ」
その言葉を口にするのに、少しだけ、迷ってしまったけれど。
「……うん、少しでも迷ったみたいだし。それならいっかな」
そう言って笑って、唐突に「あたしはね、楓っていうの」と言った。少女、楓は笑顔を少しも崩さないまま、亜珠の顔を覗き込む。見透かされている。そんな気がした。
「さっきも話したけど、あたし、昨日から入院してるの。あんたは?」
もういっそ黙っていようかと思ったが、おそらく楓は根負けをするようなタイプではないだろう。出会ってから数分しか経ってないけれど、亜珠にはそれがわかっていた。根負けするようなタイプなら、そもそもこの病室までやって来ていない。
「私は、一昨日から入院してる」
「へぇ。それならあたしたち、そんな変わらないんだね」
「でも、もう何度目かわからないから」
ちゃんと思い返せば、何度目の入院なのかわかるだろう。けれど、亜珠はそれをしなかった。する気力も湧かなかったし、意味もないと思った。亜珠にとっては数よりも、何度も入院を繰り返す事態が重要で、日々を無気力に過ごしてしまう原因なのだから。
「そっか。それならあんたはあたしの先輩だね」
踏み込みはせず、笑う。楓はそれだけのことしかしていなかった。
「初入院で新米のあたしに、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします」
深々と頭を下げる動作までして、演技染みた言葉を並べて、楓は笑う。おかしな口上を並べて満足したのか、自身あり気な笑顔にも見えた。
「……よろしくとか言われても、困るんだけど」
その笑顔から視線を逸らし、亜珠は窓の外の光景を見た。日差しは温かく、空は青い。冬の、見慣れた景色だ。何度も何度も見てきた光景だ。
だけど、今日は何故か、ちょっとだけ何かが違う気がした。
*
菱川亜珠と年の近い同性の子が入院をした。その情報は一日で病院内で広まったようだ。二日ではより深く浸透し、すれ違う老婦人が亜珠の肩に手を置いて、何故だか急に涙を流してしまうこともあった。亜珠でなくとも、急にそんなことされれば逃げ出すのも無理はない。
周囲の目が、今までにも増して温かくなっている。
それは、亜珠にとって過ごしにくい環境に他ならなかった。
「あ、おかえりー」
そして、こうも平然と亜珠の病室に入り、お見舞いの果物をムシャムシャと食べている楓の存在も、亜珠の平穏を脅かす一つの大きな要因となっている。
「……なんでいるのよ」
「だってこないだ、『どうせ私は食べないから、勝手に食べてくれても構わない』って言ってたじゃない」
「部屋に勝手に入っていいとは言ってないわよ」
「勝手に食べようと思ったら、勝手に部屋に入らなきゃいけないでしょ」
とんでもない論調に対してまだまだ言いたいことはたくさんあるのだが、言い合いとしたところで後に残るのは虚しさだけだ。そのことを、この二日間で痛い程理解できていた。
「うまいよねー、あんたのお見舞いの品々。あんたも食べなよ」
差し出された、まだ口を付けていないリンゴを無視して、亜珠はベットに座る。楓は丸椅子に腰掛けていて、さすがに当人不在のベットに腰掛ける程厚かましくはないようだ。
「言ったでしょ。食べ飽きてるって」
「ここのところ毎日食べてるけど、あたしは一向に飽きないなー」
そう言いながら、楓は皮が付いたままのリンゴに齧りついた。その豪快な様子を見て、亜珠は溜息を吐きながら楓に向けて手を差し出す。
「ん? 食べたくなっちゃった?」
「貸して」
楓の質問に答えず、亜珠は楓の手からリンゴを預かると、ベットの傍にある棚から果物ナイフと小さめのお皿を取り出し、自身の膝の上に置いた。そして、慣れた手つきでリンゴの皮を剥いていく。
「お、おー。亜珠うまーい」
「否応なくできるようになるのよ」
答えながらも、亜珠の手つきは少しも淀まない。何度も、何度も繰り返してきた所作だ。何度もお見舞いの品をもらい、たくさんの色とりどりな果物を、自分だけで処理してきた。皮を剥き、たくさんの果物を口に運んできた。
「週に一回は、必ずこうしてカゴ一杯の果物をもらうわ。その度にこうして、皮を剥いて、食べて。飽きるわよ。飽きるに、決まってるじゃない」
亜珠は果物ナイフを巧みに操り、次々とリンゴを切り分けていく。目を瞑ったままリンゴ一切れの皮に細工し、兎のようにすることすらできた。
そのできた兎を、お皿の上で二つに両断することすら、目を瞑ったままできてしまう。
「ねぇ、この二日間、楽しい?」
「え? いや、まぁ……楽しいよ。学校行かなくて済んでるし、遊んでばっかいられてるし」
「じゃあそれが毎日、ずっと続くとなったら、あなたはこれまでみたいに楽しめる?」
亜珠の表情に、感情というものを伺うことはできなかった。冷めて、ただ真顔で、嬉しいとか辛いとか、そういった感情の一切が、亜珠の表情に浮かびはしなかった。
「私は、無理だよ。無理だった。ずっと笑ってなんていられないし、あなたみたいに、楽しく過ごそうなんて考えをずっとしてもいられなかった」
亜珠だって、今の自分に成ろうとして成ったわけではなかった。入院することを悲しく思い、一晩中泣いて両親を困らせたことがあった。お見舞いに来てくれる友
人や家族に、健気に笑顔で振る舞うこともあった。相手の気遣いに対し、全力の気遣いで応じることがあった。
だが、それが一度、二度、三度。数えることすら億劫になってきた頃には、亜珠はもう、応じることはできなくなっていた。
笑顔を浮かべることに、ひどく疲れてしまっていた。
「疲れるのよ。何度も退院おめでとうって言われて。お大事にね、って送り出されて。それでまた戻ってきて、また、繰り返して」
笑顔で手を振られ、笑顔で手を振り返した。その笑顔が、手を振る力強さが、次第に弱まっていったことをよく憶えている。お大事に、という言葉はいつしか無理はしないでね、という心配に変わっていった。次の入院、という言葉が医者と両親との会話でよく使われる言葉になった。予想される周期によって、もう何ヶ月も前から参加することのできない学校行事がわかっていた。その日はきっと、私は出れないと諦める覚悟ができた。そんなことを繰り返し、慣れてしまった。そんな自分に、成れてしまった。
玄関先で手を振る看護士や医者は、もういない。でもそれは亜珠が望んだことだった。
「私に、期待なんてしないでよ」
ベットのシーツを掴む亜珠の手に、力が込められる。白く細い指先は、痛ましいほどに綺麗で。
この手は、たくさんのものに手を伸ばし、その分届かなかった。
「……なるほどね」
その手を、そっと覆うように掴む手のひらがあった。
「……触らないで」
触れた手の温もりに驚きながらも、手を包んだ楓の手を、亜珠は振り払おうと力を込める。
「今あたしの中ではね、あんたが底なしの弱虫なのか、天上知らずの優しい奴なのか、判断に困っててね」
「……は?」
振り払おうと込めた力は発揮されることなく、霧散する。楓は空いた手で自身の口元を多い、うーむと唸る。
「そういう環境でずっと過ごせば、こうなるのも無理はないのかなー。いやでも、だからといって……」
一人で悩み続ける楓の手を再度振り払おうとする。だが、それよりも強い力で、亜珠の手は握られた。
「何はともあれ。あんたはどうしたいのさ」
「え?」
「嫌なんでしょ? 期待されるの。それならどうするの? 期待しないでって、周りに言って回る? 期待しないでって書いた看板でも持ってうろつき回る?」
「そ、そんなことするわけない」
「じゃあどうするの?」
楓の目は、真っ直ぐ亜珠の目を見ていた。笑顔のまま、手を掴んだまま、逃がさないような視線をぶつける。その視線から、亜珠は目を逸らし、俯く。
「そうでもしないと、周りは気遣いをやめないよ? この病院は優しい人ばっかだもん。俯いて寂しそうにしてたら、皆声をかけるよ」
「寂しそうになんてしてない」
「じゃあ俯いてないで、顔上げてよ」
亜珠には、厳しい叱責のように感じられた。けれど恐る恐る顔を上げ、楓の表情を盗み見ても、彼女の表情に少しも怒りという感情は見えない。それどころか、笑っていた。
笑って、亜珠を見ていた。
「ねぇ、亜珠は、どうしたいの?」
名前を呼ばれたのは、これで二回目だった。この二日間、お互いに名前を呼ぶことはなかったから。あなたと、あんた。二人だけの会話の中、相手を指す言葉はそれだけで事足りていた。それでも、だからこそ、楓は亜珠の名を呼んだ。亜珠を見て、亜珠の名を呼んだ。
「入退院を繰り返す現状ってのは、そう簡単には変えられなくてもさ。自分と周りのことは、結構簡単に変わるよ。意志一つで、どうにでもさ」
「そんなこと、言われても」
「なんでもいいよ。煩わしいって思うなら、そう言いなよ。自分の現状に託けて、横柄になるのは駄目かもしれないけど」
楓は両手で、亜珠の手を掴む。笑顔は崩さない。少しも崩れない笑顔のまま、亜珠の手のひらをぎゅっと掴む。
「亜珠は、もう少し我侭でいいよ」
「……私は、充分我侭だ」
周囲の優しさを、慈しみを、煩わしいと思うなんて。それは、とても我侭だ。
「亜珠のそれは我侭なんて言わないよ。病院の中じゃなくても、学校でも、どこにでもそんな感情はあるよ。自分の中のそういう感情を、外に吐き出して、それからが我侭だよ」
ほら、と楓が促す。言葉で、手のひらで、視線で、笑顔で。
「……お見舞いの、桃がとっても好きだったの」
楓の手のひらの熱、感触に背中を押されるように、亜珠は口を開く。
「リンゴやぶどうよりも、ずっと好きで。けど小さい頃の私は、ナイフをうまく扱えないから、簡単に食べれるように桃缶を買って来てくれて。それが、すごい好きだった」
甘い香りと味がする、夢のような果物だった。初めて食べた時の、口の中一杯に広がった味が忘れられない。缶の蓋を開ける。たったそれだけの動作で、病室全体が華やいだ気がした。
「頑張ってる亜珠へのご褒美だって、買って来てくれる桃缶が、大好きだったの」
二日前。お見舞いの品にあった桃缶を叩きつけた壁を見る。病室の壁は凹み、見ればわかる傷を付けていた。
その傷が、それを映す視界が、歪んでいく。
「でも、ご褒美を、何度も、いくつももらうようになって……」
喉が震えて、うまく言葉を紡げなくなる。唇が震えて、言葉も震えて。
「何度ももらえるご褒美って、少しも、嬉しくなくてっ……」
頑張ったね、と笑顔で手渡される桃の缶詰が、大好きだった。笑顔で、良かったねと渡される金色の缶詰が、大好きだったのだ。頑張ってね、と。お大事にね、と。激励の意味で渡される桃の缶詰は、それだけで勇気になった。
それは決して、何度も何度も振舞われるものじゃない。
それは決して、何度も何度も受け取っていいものじゃない。
「優しくしてもらうたびに、治らないのが、元気にならないのが、責められてる気がしてっ……!」
冷たく振舞って、相手を遠ざけて、逃げて。
なんとか、ここまで生きてきた。
涙と嗚咽を漏らし続ける亜珠の手を引き、楓は自身の胸に亜珠を招いた。泣いている亜珠の顔を、胸に押し付けるように。
「それも、今度聞いてみようよ。責めてるのか、ってさ」
「……恐いよ」
「でも、そうしないと、亜珠はずっと笑えないよ」
手のひらで亜珠の頭を、そっと撫でる。何度も、何度も。それはまるで子どもをあやしているかのようだった。褒めているようだった。
「笑えるようにしないと、人生、もったいないからさ」
頑張っていたね、と。その頑張りを認めているようだった。
「あたしは亜珠じゃないから、亜珠の辛さとか、苦しさとか、そういうの全部理解はできないけど。だからそんなあたしが、亜珠に言えることって本当に無責任で、勝手に聞こえるかもしれないけど」
楓の声は亜珠がこれまで聞いていた彼女の声とは違い、ずっと、優しげな声色だった。諭すようでもなく、ただ、語るように。
「亜珠は、もっと甘えてもいいと思う。これ嫌あれ嫌って、もっとたくさん口に出して言っていいと思う。ずっと無言で、睨みつけるだけじゃ、わからないよ。言わなきゃ。声に出して、自分の言葉で想いを言わなきゃ。そうしないと、誰も亜珠の気持ちなんてわからないよ」
漏れ出る強い嗚咽のせいで、楓の言葉は途切れ途切れに聞こえていた。けれど、それが大切なことなのだと、亜珠にとって、一つの正解なのだということは、未だ泣き続ける亜珠にもわかっていた。
「ほら、言ってごらん。亜珠は、どうして欲しいの?」
「……頑張れって、言って欲しくない」
その言葉は嬉しい。けれど、それに応えようとしている自分が、その都度否定されているようにも感じて。
「言われなくても、頑張るから、頑張ってる、からっ……ただ、一緒にいて欲しい……っ」
頑張ってる自分に、頑張ってと声をかけるのではなく。無言でもいいから、一緒にいて、笑いかけて欲しい。
可哀想だと思われる自分が、何よりも悲しく思えていた。
「はいはい、了解」
おどけた口調で、楓が更に亜珠を抱き締める腕の力を強くする。息苦しいほど顔を楓の胸に押し付けられる。少し、汗の匂いがした。もしかしたら、楓も少し緊張しているのかもしれない。心臓の鼓動の音は、こんなにも大きく聞こえるものだっただろうか。
誰かに想いを伝えるとは、たとえどれだけ小さく、みみっちいものであろうと。どうしたって、緊張をするのだ。
「あたしなんかにそうやって素直に想いを口にできるんだから、他の人にもできるでしょ? だから」
楓が、少しだけ言葉に詰まった。そんな気がした。ほんの少しだけど、息を呑む音が亜珠の頭上から聞こえた。
その呑んだ言葉を、亜珠は、ちゃんとわかっていた。
「うん……っ」
だから、亜珠はそう返す。声に出して。頷くだけでは足りないし、顔を押さえつけられて、首を縦に振ることもできなかったから。
頑張る、なんて言葉は、口にしなくても楓にはちゃんと伝わっていた。
*
「あんた、演劇部に入りなさいよ」
楓が藪から棒にそんなこと言い出したのは、亜珠が退院する前日のことだった。
「急に、どうしたのよ」
病院の屋上には、いくつも真っ白なシーツが干されていて、それらが風に揺られ見慣れない光景が広がっていた。青い空と一緒に視界に収めると、まるで元気の良い雲のようだ。そう思っていた亜珠に、唐突に言われたのが先ほどの楓の言葉だった。
「だって、明日あんたは退院するでしょ?」
「そう、だけど。それと演劇部に入ることに何の関係があるのよ」
何度も繰り返した入退院の日々ではあるが、亜珠にとって、この退院は今までにない大きな意味を持っていた。先日、楓によって積もりに積もった心情を全て吐露した亜珠は、楓の支えもあるが精力的に周囲に関わっていくようにしていた。だが、格段に何かが変わったわけではない。何年も凝り固めてしまった人間像というのはそう簡単に変わるものではなく、亜珠はいつもの冷徹な仏頂面のまま、それでもできる限り友好的に交流を図った。
結果として、元々亜珠がそういった精神を懐くようにある前から、精力的に関わろうとした周囲の人が亜珠を否定するわけがない。かなり友好的な関係を病院中で広げることができていた。とはいっても、亜珠は照れやら焦りやらの感情が先走り、ロクに話もしないまま立ち去ってしまうことが多々あるのだが。どちらにせよ、良い傾向であることは変わりない。
亜珠は屋上で、楓の演劇の練習に付き合っていた。病室で練習してもよかったのだが、楓がかなり声を張り大声で練習したがるため、二人は隠れて屋上に来て練習をしていた。もちろん、屋上への立ち入りの許可など取っていない。
「あたしがまだ退院できそうにないからさ。あんたに代わりに演劇部で頑張ってみて欲しいのよね。ここ何日も練習に付き合ってもらったからわかるけど、あんた、中々演技力もあるし、声も……まぁちょっと声量が頼りないけど、綺麗な声してるし」
「私に演劇なんて無理に決まってるでしょう」
恥ずかしがりや、というだけではなく、これまで人前に出るようなことが一切なかった人生なのだ。ステージ上に一度も立ったことがないし、激しい運動も禁止されている。文科系の部活でありながら、体力が体育系の部活並みに必要な演劇部の部員としてやっていけるとは思えなかった。
「まぁ別に演劇部の全員が役者ってわけじゃないしさ。衣装とか小道具作る役もあるし、そっちだったらあんたでもできるでしょ?」
「……まぁ、それぐらいだったら、できるかもしれないけど」
亜珠は手先の器用さには多少の自信があった。病室のベットの上ではやれることは限られてるからこそ、そういった手作業を暇つぶし感覚でこなしてきた亜珠の技量は、他の高校生に比べてずば抜けて高い。
「んじゃ決定ね。あたしも退院したらすぐに復帰するつもりだし。二人で一緒に頑張ろうよ」
「……別に、いいけど」
顔を逸らし、風に掻き消えそうな声量で返事をする亜珠。未だに、素直な返事というのはできそうになかった。とはいえ、ただ素直になれないだけである亜珠のことを病院内で一番理解しているのは、紛れもなく楓だった。楓は亜珠のそんな心を見抜き、知らず知らず笑顔の度合いが増していく。その様子を、亜珠は面白くなさそうに見ていた。
「素直じゃないなー、亜珠ちゃんは」
「ちゃん付けはやめて。なんか、むず痒い」
「というか、あずってなんか可愛い響きだよねー。本人には全く合ってないと思うけど」
「あなたに言われたくないわよ、楓」
「え? どういうこと?」
「楓の花言葉に、『遠慮』というものがあるわ」
「……あたしも合ってないね、そりゃ」
頭を掻いて笑う楓には、確かに普段から遠慮というものが存在しなかった。亜珠と一緒に行動をしていることが多いのもあるが、今では病院内では亜珠と楓はツートップの有名人だった。
「そろそろ病室戻るわね」
「あとで部屋行ってもいい?」
「いいけど、退院の準備してるからあまり構えないわよ」
「普段から構ってなんてくれてないじゃん」
不満げに口を尖らせる楓。だが、当人も本気で不満を懐いているわけではない。ポーズなのだ。それがわかってるから、亜珠は何も言わずに屋上から立ち去ろうとする。扉を開け、病院の中に入る前に亜珠は振り返った。
楓は、空を見上げ、笑っていた。いつも通り、楽しげに、嬉しげに。口元を曲げ笑っていた。
今更ながら、亜珠はあることに気づいた。
私は、彼女が笑っていないところを、見たことがない、と。
*
数週間ぶりに開く教室の扉は、錯覚なのだろうけど、病室の扉よりもずっと重く感じた。
ガラリという音に、クラスの中にいた何人かの生徒が顔を上げ、こちらを見る。いつも見るクラスメイトだと思ってこちらを見た目が、少しだけ意表を突かれたかのように見開かれる。見慣れない顔が、顔を強張らせて教室に入ってきたのだから。
「……お、おはよう」
扉の近くにいた男子生徒が教室に入ってきた人物、亜珠に挨拶する。クラスメイト全員、亜珠のことは憶えていた。とはいえ、学校も休みがちで、入退院を繰り返す経緯を持つクラスメイトに、他の生徒もどう対応すればいいのか迷っているのは致し方ないことだ。真顔で鋭い視線のまま、亜珠は挨拶してくれた男子生徒に目を向ける。当人は緊張と焦りでいつも以上に顔が強張っているだけなのだが、周りがそれに気づいてはくれないし、そもそも気づく材料がない。
「おは、よう」
ロボットのような声色と発音で、どうにか挨拶を返すことができた。が、どうしたって違和感を覚えざる負えない挨拶に、クラスメイトは内心ざわめき出す。それに気づいてしまう聡い亜珠は更に恥ずかしさを増し、そして更に顔を強張らせてしまう。誰もが楽しく交流を図ろうとしているのに、誰もが緊張を強いられる、嫌なサイクルができあがっていた。
亜珠はそのまま何も言わず、自分の席に着こうとした。が、数週間前までは自分の座席だった場所に、他の女子生徒が座っている。そのことに困惑していると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「っ!?」
「あ、驚かせてごめんね。菱川さん、自分の席がわからないんじゃないかと思って」
振り向くと、肩を叩いたのは見慣れない顔の女子生徒だった。というよりも、このクラスの全員を見慣れていない亜珠にとって、誰も彼も初対面と言っても過言ではないが。
「憶えてるかな。あたし、水夏沙紀っていうんだけど。菱川さんの今の席はあたしの隣なんだ」
「……そう」
としか返せない自分に辟易しながらも、亜珠は彼女、沙紀が指差した席へと向かう。沙紀もそんな素っ気ない態度の亜珠に対し特に不満もないのか、ニコニコと笑いながら自身も席に着いた。
「これまでのノートとか見る? あまり字は綺麗じゃないけど、ちゃんとまとめてあるから見やすいと思うよ」
「……ありがとう」
素っ気なくはあるが、しっかりとお礼を返した亜珠に、沙紀はまた更に笑顔になる。亜珠はそれを見て、可愛い子だなと思った。楓と同じように笑顔が良く似合うが、楓よりもずっと常識のありそうな子に見えた。後頭部で結った黒い髪がひょこひょこと揺れ、多少子どもっぽい見た目ではあるが、それが当人の雰囲気に良く合っていた。
「困ったことがあったら何でも言ってね? あたしで良ければ力になるから」
亜珠は数瞬迷って、じゃあ、と声を上げる。
「一つ、聞きたいんだけど」
「うん、何かな?」
「……私、皆に嫌われてない?」
そう聞いた後の、教室全体を包んだ異様な沈黙を、亜珠はこの先もずっと忘れないだろう。亜珠と沙紀の会話に聞き耳を立てていたのか、誰も彼もが閉口していた。
「……………え? なんで?」
沙紀が長い沈黙を破り、そう聞き返す。沙紀としては困惑のまま疑問を発したつもりなのだが、人付き合いに慣れていたない亜珠にはそれが怒っているようにも見えて、焦って口を開く。そしてその様は、周りにとって亜珠が怒っているように見えている。勘違いが勘違いを生み出していた。
「私、入院してばかりで、皆とロクに話したことないし、それで、あの、嫌われてるんじゃないか、って、その……」
たどたどしい言葉遣いで、ようやく沙紀は目の前にいる亜珠という少女の本性を把握できた。周囲の人物の同じだったのかもしれない。弛緩した雰囲気に、逆に亜珠はまた戸惑い出す。
「そんなことないよ、菱川さん。えっと、亜珠さん、って呼んでもいい?」
真顔のまま頷く亜珠。その素っ気なさが、ただ単に緊張の表れだということに、クラスの皆が気づいていた。
「皆亜珠さんのこと嫌ってないし、そもそも嫌えるほど、亜珠さんのことを知らないんだ。だから、ゆっくりでいいから、亜珠さんのこと教えて欲しいな。きっと、今よりずっと好きになれると思うから」
亜珠の真顔がいくらか和らいだことに、沙紀はちゃんと気づいていた。
「……うん」
俯いて溜息を深々と吐く亜珠の、その溜息の種類が今までと違う、安堵の溜息であることには、さすがに気づけはしなかったけれど。
*
亜珠の両親が見ていたら、泣き出してしまうのではないか言えるほどの光景が広がっていた。
「演劇部の部室の場所を知りたい?」
聞き返した沙紀の言葉に、亜珠が頷く。久々の授業が終わり、放課後になった途端、亜珠は勇気を振り絞って沙紀にそうお願いしていた。
「演劇部に入りたいの?」
「入るわけじゃなくて。今日はその、見学だけでも」
まだ入部の決心ができたわけではないし、楓がいない状況で単身演劇部に入部できるほど亜珠の胆力はない。それでも、一度は見学して、その雰囲気だけでも掴んでおきたいと考えていた。そして、その部室までの案内を沙紀にお願いしたのだ。
「いいよ。今日はあたしが入ってる部活も休みだし、いくらでも案内してあげる」
「あ、ありがとう……」
か細い声で礼を言う亜珠の姿を見て、クラスの全員が気の抜けた笑顔を浮かべていた。亜珠の表情は変わらず無表情そのものだが、内心に込められた想いを知っていると、その無表情すら愛らしく思えていた。今日一日で亜珠のクラス内評価が鰻上りなのだが、亜珠はそれに気づくことはないだろう。気づいたところで、亜珠の立ち振る舞いが変わるわけでもない。
亜珠と沙紀は連れ立って教室を出て行く。幾人かのクラスメイトがその後姿を心配そうに見ていた。すでにクラスメイトにとって、物静かな立ち振る舞いをする亜珠の姿は小動物のそれのように見えていて、妙な保護欲が生まれていた。
「それで、どうして演劇部なの?」
「……変?」
違う違う、と沙紀が慌てた様子で両手のひらを振って、亜珠の言葉を否定する。感情表現の豊かな子だな、と亜珠は思った。
「変とかじゃなくて、意外、かな。あまり亜珠さんと演劇って結びつかなくて」
自分でもそう思う。という言外の気持ちを込めて、亜珠は頷いた。亜珠自身も、今までの自分の人生を振り返って、自分が演劇という華やかな分野に入り込もうとするなどとてもじゃないが思えなかった。
「勧めてくれた、人がいて」
たどたどしくも答えを返す亜珠に、沙紀は優しく微笑んだ。まだ亜珠にはその微笑みに対しての、適切な返しができなかった。俯き、うな垂れることしかできない。
もっとたくさん、言うべき言葉があった。それなのに、亜珠の喉からそれが言葉となって漏れることはない。言葉にできないなら、動作でもいい。けれど、それすらできなかった。
ああ、なるほど。確かにこれじゃあ、頑張ってと言われてもしょうがない。
「……ゆっくりでいいよ?」
俯いた亜珠の顔を覗き込むように、沙紀が顔を下げて亜珠を見る。ビクリと驚いた亜珠も、沙紀が浮かべる表情の柔和さに、落ち着きを取り戻せた。彼女の表情は少しも、亜珠を責めてなどいない。
「中々言葉にできない想いって、たくさんあるもんね。あたしも、言えないことばっかりだもん。緊張とか、相手にこんなこと言っていいのかとか。そうやって想いがこんがらがって、言えないことってたくさんあるよね。あたしも、今亜珠さんに言えないことたくさんあるよ。もちろん、悪いことは考えてないけど」
亜珠には、とてもじゃないがそうは思えなかった。軽快に笑う沙紀の姿に、そんな想いの背景など微塵も見えない。けれど、沙紀の言葉には、亜珠自身も思うところがたくさんあった。
「今日一日で何でも言い合えるほど仲良くなれるってのは、たぶんどんな人でも無理だからさ。気楽に頑張ろうよ、ね?」
「……でも、あなたはその、結構、色々言えてるように見える」
「まぁあたしは、部活の方で鍛えられてるというか、黙ったままでいるとどんな目に合うかわからないしね……」
一瞬にして冷めた目で遠くを見る沙紀に亜珠は戸惑う。が、すぐに沙紀は平常どおりの笑顔を浮かべて、気を取り直すかのように声を大きくしてこっちだよと亜珠を呼んだ。
「ここが演劇部の部室だけど、どうする? 一緒に付いて行こうか?」
「……ううん、一人で、頑張ってみる」
沙紀は優しく微笑み、また明日と言ってその場を去っていった。亜珠はそれに、言葉で返すことはできず、ただ頭を下げて見送る。同い年の女の子の別れにしては、多少堅くも見えるが、亜珠なりの精一杯の気持ちはちゃんと沙紀に届いていただろう。去り際の彼女は、ちゃんと笑顔だった。
「……見学。今日は、見学だけだもの」
亜珠は大きく息を吸って、大きく吐く。緊張のせいか心臓の鼓動は激しいが、気分は悪くない。体調の不調もない。手足の震えは、新しいことに挑戦する故の武者震いだ。
意を決し、扉をノックする。中から威勢の良いはーいという女生徒の声が聞こえ、亜珠の身と表情が強張る。が、逃げ出そうとは思わなかった。扉が開かれる。部屋の中は暗く、扉を開けた女生徒は外の明るさに少し目を細めたが、亜珠の姿を見てすぐにその目を見開いた。
「あらベッピンさん。どうしたの? 演劇部に何か用?」
立ち振る舞いからして、先輩だろう。彼女は学校指定のジャージに身を包み、運動をしていたのか顔がほんのり赤みがかっている。亜珠は緊張に身を震わせながら、何とか口を開く。
「あ、あの、けっ、見学を、希望して」
要件だけをたどたどしく口にする亜珠を、先輩は少しも不審そうな素振りで見ることなく微笑んだ。
「そう、それなら丁度いいわ。今から通し稽古するから、見学していきなさいな」
促され、亜珠は部室内に入る。部屋の中は薄暗く、いったい何人の部員がいるのか目視だけで判断はできない。きょろきょろと辺りを見ている亜珠の手を引き、先輩が椅子を勧める。亜珠は薄暗い中では、頭を下げるだけの礼では足りないことに気づき、慌ててありがとうございますと言った。
「それじゃ、だいたい二十分ぐらいの通し稽古だから。疲れたらいつでも言ってね」
部室内は教室の半分程度の広さしかなかった。が、小さいながらもきちんとした演壇が作られ、その上に二人の部員が上がる。二人にライトが当てられ、演劇を劇場で見たことのない亜珠にとって、その光景は今まで感じたことのない迫力があった。演壇に上がった部員は二人とも女性で、一人が片割れの部員に対し、手を差し出し、深く息を吸った。
「松明を僕に貸してくれ。この鬱屈した気持ちを、少しでも晴らしたいんだ」
その台詞に、聞き憶えがあった。亜珠は慌てて自分のカバンから紙束を取り出し、その最初の一文に目を通す。その一文と、今演壇に立つ部員が言った台詞。それは、全く同じものだった。
今演壇に繰り広げられている演目は、ロミオとジュリエットだ。ここ数日、ずっと亜珠はこの演目の練習に付き合っていた。ロミオを演じる楓に付き合い、ずっとジュリエットを演じていた。
なのに、何故ロミオは壇上に上がっているのだろう。ロミオ役の楓がいるはずなのに。
演壇に立つ部員の一人が、亜珠が持っている紙束を見る。それが自分たちと同じ台本だと気づいた部員は、演技を止めすぐに演壇から降り立った。
「ちょっとあなた、その台本どうしたの」
「え、え、っと」
詰問にも近い迫力に、亜珠はたじろぐ。急な展開に、亜珠を招き入れた先輩が慌てて近付いてきた。そして亜珠の持つ台本を見て、息を呑む。
「その台本、誰からもらったの」
「もらったわけではなくて、その、コピーさせてもらって」
「誰から!?」
先輩ですら声を荒げ、亜珠の肩を掴み聞いてくる。亜珠はたじろぎながらも、しっかりと声を出して質問に答えた。
「か、楓からです。私、同じ病院に入院していて」
「それ、どこの病院!?」
「……その前に、聞かせてください。どうして、楓のことをそんな聞いてくるんですか?」
亜珠の質問に、部員全体が一瞬息を呑む。亜珠の肩を掴む先輩の手も、少し力が増したようにも思えた。
「あなた、知らないの? 楓と、同じ病院に入院していて」
「……どういうことですか」
自分でも驚くほど、冷徹な声が出た。覇気のない、冷めた声。これまでずっと出し続けた、声。
「楓は……」
全ての言葉を聞き終わる前に、亜珠は、カバンを持って部室を飛び出した。
後ろから亜珠を呼び止める声が聞こえる。それも無視して、亜珠は走った。走るなんて、そんな運動は何年もしていない。運動会も体育祭も、全て休んできた。幼い頃にも駆けっこなんてした憶えは全くない。それでも、亜珠の足は動いた。自分の限界も知らず、走った。
校舎を出て校門を抜け、下校する生徒にぶつかりながらも、声を張り上げ謝りながらも、足を動かす速度は決して緩めない。心臓が悲鳴を上げてるようにも思えた。突然の運動は、亜珠の体を確実に傷つけている。元々体力もない上に、発作の危険性を高めているようなものだ。それでも、それでも。亜珠は、走り続けた。
「どういう、どういうことなの……っ」
走るとは、こんなにも苦しいものなのか。喉が焼けるように痛い。心臓が、肺が、横っ腹が苦しい。コンクリートとは、こんなにも硬く足に響くものなのか。知らなかった。そのようなことを、知る機会がなかった。走ることが、こんなにも苦しいとは知らなかったのだ。
けれど、今頭の中に浮かぶ、今知った事実は、知らなかったでは済まされない。
知る機会は、いくらでもあったのだから。
病院の自動ドアが開ききるより前に、体を滑り込ませる。だが、手に持っていたカバンが引っかかる。亜珠は迷わず、カバンを投げ捨てた。病院のロビーでは何事かと周囲の人間が亜珠を見る。その視線に晒されても、亜珠の足は少しも止まらなかった。
「あのっ!」
「あ、亜珠ちゃん?」
知り合いの看護士を見つけた亜珠は飛びつくように駆け寄り、その人の服を掴む。息が荒いまま、亜珠は声を張り上げた。
「楓の、楓の病室はどこですか!?」
走り続けた足は、今にも崩れ落ちそうなほど、震えていた。
*
重苦しい。亜珠はこの病棟に入った瞬間に感じた雰囲気は、そういった重圧を持っていた。空気が淀んでいるわけではない。窓から差し込む陽光もあり、廊下は暖かくすらあった。だけど、それでも。この場所にただ立ち続けることは、確実に何かを蝕んでいる。そんな気がしてならなかった。
長い間入院生活を送る亜珠も、立ち入ろうとはしなかった病棟。
名札をじっと見ていた亜珠は深々と息を吐く。そして顔を上げ、ある病室の扉をノックする。すると、中から聞き慣れた声での応答が返ってきた。深く、深く息を吸い、吐いて、亜珠は扉を開けた。
「……やっ、お見舞いご苦労」
この病室の主、楓はベットに横たわったまま、手だけを上げてそう言った。その姿を見て亜珠の心臓は一瞬、跳ねる。その動揺を顔に出さないまま、亜珠は病室に入り、扉を閉めた。病室は窓から射す陽光が反射し、明るい。楓の表情も、またそれに劣らず、明るい。
なぜ、明るいのだろう。あんなにも、明るく、振舞えるのだろう。
「どうだった? 久々の学校は」
「緊張はしたけど。まぁ、どうってことなかったわ」
「うわ、嘘くさ。どうせあんたのことだから、緊張してクラスメイトに変なこと言いまくったんじゃないの?」
見ていたかのように言い当てる楓に、亜珠は何も言わず、無言でベットの脇に丸椅子を寄せ、座る。丸椅子に埃は溜まっていなかった。
「ちゃんと、お見舞いは来てるみたいね」
「うん。両親や、お婆ちゃんとか。お爺ちゃんはもう死んじゃってるから来れないけど。もしかしたらそのうち会えるかもね」
「つまらないわよ、その冗談」
少しも笑えない冗談を、笑いながら口にしないで欲しい。
「……そうよね。考えてみれば、あなたもこの病院に入院してる、患者だったのよね」
病院に入院する。医療機関で寝泊りする。それだけで、決して軽度の症状ではないことは理解できたはずなのに。
あまりにも、あまりにも明るく振舞うものだから、その可能性に少しも思い至らなかった。
「気づかせないってのは、あたしの演技力の賜物よね」
「そう、ね。さすが、演劇部」
「で、どうだった? 演劇部の様子」
「立派だったと思う。あなたがいなくてもロミオの代役はしっかりとやれてた」
「……そっか。まぁ、そうだよね。待ってなんて、いられないよねぇ」
笑顔のまま溜息を吐き、楓が起き上がる。その一連の動作は、どう見ても元気そうで、未だに亜珠の中で事実を事実として受け止められない。
「……ねぇ、どうして、そんな元気なの?」
「元気だからだよ」
即答に、亜珠は何も言えなくなる。言葉に詰まる亜珠を見て、楓は更に笑顔を濃くして、楽しげに笑う。
「だって、本当に元気なんだもん。そりゃまぁ、前よりはずっと体も重く感じてるし、どことなくだるいなーと思う時もあるけど。だからって、自分が死ぬなんて思えないのよね」
笑顔を見るのが辛くて、俯いてしまう。握り締めた手が、地面に着いた足が、震えていることにようやく気づいた。
「それにね、死ぬって決まってるわけじゃないの。その可能性が高い、ってだけ。今は様子見の段階で、これからもっと大きな病院に移って、本格的な治療を始めるの。だから、悲観してたってしょうがないじゃない。楽しく愉快に過ごすしか、ないじゃない」
「……強いね、楓は」
これまでも、これからも病気に苦しめられて生きていく。
病気によりこれからが危ぶまれ、未来があるかわからない。
どちらがより辛いのか。その問答に、答えを出そうとは思っていないし、思えない。ただ、亜珠には、後者の方がずっと辛くて、苦しいものに思えた。
「そうやって、笑っていられるのだもの」
「……あたしが強いんじゃなくて、あんたが弱過ぎるだけでしょ」
そう言って、小馬鹿にしたように、笑う。人をおちょくるような表情ですら、楓は笑顔だ。
「ねぇ。今のあたしの笑顔も、演技だって思う?」
「……わからない。けど」
笑顔を見て、ただそれだけでその笑顔が本物か偽物か、そう判断がつけられるほど亜珠の人生経験は少ない。テレビも見なければ、触れてきた文化は小説の、想像の及ぶ世界のものばかりだ。
でも、それでも。『片方』だけなら、よく見てきた。
「私から見て、あなたの笑顔は演技には見えない」
「どうして?」
「私はこれまで、たくさんの笑顔を見てきた。たぶん、それらはきっと、大半が作り笑顔だったと思う」
病気で人生を歪められ、苦しんできた亜珠に向ける笑顔が、心の底から楽しいと思って浮かべる笑顔だろうか。きっと、違う。頑張って、意識的に表情を歪め、唇の両端を上げ、目を細めていた。
楓の笑顔は、どう見てもそういった笑顔には見えなかったのだ。ただ楽しくて。本当にただ楽しくて、嬉しそうに笑う。
「あなたの笑顔は、偽物に見えないの」
その笑顔が、偽物だと思いたくなかった。
「……まぁ。自分でも、この笑顔が演技なのかどうか、わからなくなってきちゃったけどね」
笑い、楓は起き上がった。布団を剥ぎ、ベットから勢い良く飛び降りる。そう。この動作だ。軽々しい楓の動作が、亜珠に勘違いをさせていた。
「何か食べる? いつもあんたの病室でばっか食べてるから、こっちの方の余っちゃってて」
いったい、何が楽しいのだろうか。笑顔で病室を歩いて、棚から果物のカゴを取り出して。いったい、何が楽しくてそんな笑顔でいられるのだろうか。
「ねぇ、桃と、桃缶、どっち食べる?」
「……桃缶」
「だと思った」
淡く、本当に桃色に色づいた桃と、金色に彩られた桃缶を手に、楓がベットに戻る。ああ、おかしいな。違和感を感じると思ったら、いつもと逆なのだ。亜珠と楓の座る位置が。たぶん、本来であればこれで正しいのに、違和感を感じてしまう。
「あんた、桃缶好きだもんね。甘いシロップ最後まで飲んじゃうところとか、子どもっぽくて可愛い」
亜珠は黙って缶詰を開けた。自分でもそう思っているから、反論のしようがない。その悔しさが顔に滲み出てなくても、何日も亜珠と一緒にいた楓には伝わったのだろうか。黙って缶詰を開ける亜珠を見て、楓がまた笑顔を零す。
亜珠は何も言えず、楓から手渡された小さいフォークで缶詰の中の果肉を刺し、口に運ぶ。甘い香りと味が口一杯に広がった。やっぱり、これはご褒美だ。何度も何度も食べていいものじゃない。
「あたしね、正直ホッとしてるんだ。ロミオの役降ろされたこと」
「……どうして、あんなに練習頑張ってたのに」
「自ら死を選ぶ二人の物語なんて、やりたくないわよ」
笑顔を少しも崩さず言うものだから、亜珠は最初、楓のその言葉の意味を理解できなかった。
二人は、最後は自ら死を選び幕を閉じる。勘違いと愛の深さによる、お互いにとって不幸な結末。それでも、最後にその結末を選んだのは、彼ら自身なのだ。
「ジュリエットも、バルコニーから飛び降りればよかったのよ。待ってないで、その足で飛び降りて、そのまま教会に駆け込めばよかったのよ。愛する人がいればいい、なんて口上を並べられるぐらいなんだからさ。そうしたら、離れ離れになることなんてなかった。すぐにでも結ばれたのよ」
あたしが言えた義理じゃないけどね。と、自嘲するように口にする。
「傍から見てる人が、頑張れっていうのは簡単よね。けど、実際そうなのよ。頑張るしかないのよ。だって、頑張らないで終わったら、後悔しか残らないんだから。だから、周りが頑張れって言うしかないし、応援のために笑顔を作らないといけない。あんただって、今どういう表情でいればわからないでしょ?」
楓と目を合わせる前に、亜珠は俯いた。俯くしか、できなかった。
「笑うのって、一番楽なんだよ。一番楽で、一番、残酷。だけど一番、正しいの」
手に持った桃を、楓は少しだけ力を込めて握り締める。果肉は柔らかく、楓の握力でも簡単に歪む。
「あたしたちなんて、これと変わらないんだよ。弱いから、袋をかけて守ってもらわないとうまく育たなくて、手間がかかって。そのくせ傷みやすい」
守る皮は薄く、簡単に剥けてしまう。放っておけばすぐに腐り、食べられなくなる。捨てるしかなくなる。
「でも、だからこそあたしは笑うわ。すぐ傷んでも、ちゃんと甘い香りを放つの。育ててくれた恩を、片っ端から返していくために、足掻くの。缶詰に入れられて保存されたって構わない。生きるの。生きて、甘い香りを放って、笑うの」
絶対に、笑顔は崩さない。それでも、亜珠を見る楓の目は、真剣そのもので。
あんたはどうするのかと、力強く問う。
「そうすることが、あたしですらできる」
未来が不確定な少女は、誰よりも生きていた。
それでもと、これからに向けて誰よりも強く手を伸ばしていた。
「……強いね」
「だから、あたしが強いんじゃなくてあんたが」
「ううん。強い、よ」
俯いた亜珠の目から、たくさんの雫が零れる。嗚咽が喉を鳴らし、肩が震える。
それでも、口元を歪めようとしていた。頬を吊り上げ、目を細めようとしていた。
笑おうと、していた。
「いつか。いつか、私もそこまで行くから」
今はうまく笑うことができなくても。いつか必ず、あなたの位置まで辿り着くと。あなたのように、気高く笑ってみせると。
「それまで、待っててよ、楓……」
「……なんだ。あんたも、そんな甘えた声出せるんじゃない」
泣きながらも懸命に笑顔を作ろうとする少女を、笑顔の少女が抱き締める。でも、その笑顔からも、零れる涙があった。頬を伝い落ちた涙は、亜珠の髪を濡らす。亜珠の涙も、また同様に頬を滑り、手に抱えた桃缶の中に垂れていく。
二人は泣き続けた。笑顔を作ろうとしながらも。笑顔のままでも。嗚咽を漏らして、泣き続けた。
どれだけの涙を蓄えようと、きっと、桃は甘く香る。
美しく淡い色をして、甘く香るのだろう。
*
病室の窓から見える光景は、冬から春にかけての変わり様が一番美しく見える。亜珠にとって、その光景を見るのはもう何度目かわからないほど、ありふれたものだった。それでも、毎年目にしていた。ありふれていても、外に広がる光景、色づいた花弁や萌える草木を見るしかなかったのだ。
でも、今の亜珠はその光景を見ていない。手元の、小さな針の先を見続ける。指先の動きに合わせ、針は布を貫き、糸を通し、縫い付けていく。その作業に、亜珠は夢中になっていた。
正式に演劇部へと入部した亜珠の仕事は、主に小道具や衣装作成だった。壇上に立って演じるには体力が足りないし、役者が不定期に入院されては練習に支障が出ることを見通しての配慮だった。もちろん、元より壇上に上がるつもりのなかった亜珠に不満があるわけがなく、針仕事ならば入院中であろうともいくらでもできた。
作り終えた小道具や衣装は部員が病室まで取りに来てくれる。そうした学校との交流もあってか、演劇部の部員以外のクラスメイトも足繁く通ってくれていた。学校内での最初の友達となった沙紀も何度もお見舞いに来ては、時折とはいえ、彼氏の惚気で何時間も付き合わされることは本気で勘弁してもらいと考えてはいるが、まぁ良好な関係である。
作業に一段落つけ、亜珠は大きく伸びをする。年度初めに行われる、新入生歓迎会で行われる演目の衣装の最終調整に、亜珠は今まで以上の心血を込めて作業をしていた。そのせいか、肩の凝りを強く感じて、息を吐きながら両肩を回す。
楓が療養と手術のためにこの病院を出て、そろそろ一ヶ月になる。学校のクラスメイトとの交流のために両親に買ってもらった携帯には、その術後の結果は届いていない。その逸る気持ちを、針仕事の作業にぶつけていたのだ。
窓の外を見る。名前も知らない小鳥が木々を渡り歩くように飛んでいた。風が吹き、その木々を揺らす。そこまで強い風ではなかった。音は聞こえない。
亜珠はベットを降りて、窓に近付く。
たったそれだけで、窓から見える景色は格段に広がった。
「……綺麗」
春、夏、秋、冬。見える景色は四季により、色とりどりに変わる。陽光は暖かく、辺りを照らしている。季節によっては、その光景は寂しく映る時もあるだろう。けれど、そこに寂しさを見出すのは、人の心なのだ。風景は風景であり、何も語らない。何かが語られたと錯覚し、そこに感情を付加するのは、人の心なのだから。
木々が見える。家が見える。人が見える。鳥が見える。雲が見える。空が見える。
亜珠にとって、それが、それだけが。どんなに雄大に聳える山々や輝かしい夜景、その他どんな絶景よりも、美しく見えた。
そう思えるようになった自分が、なんだか、とっても誇らしく思えた。
ベットの脇に置いていた携帯が、着信を告げる。画面を見ると、そこには一通のメールが届いていた。
その文面に、大切な友人の、今の身長体重や、スリーサイズなどが書かれていて。
「……私に次の演目の衣装作ってもらう気満々ね、あのバカ」
年の割には軽い体重や細い数値を見て、そこに少しだけ、切なさを感じてしまっても。
「何の演目をやるのか決まってもないのに、気が早過ぎるわよ」
その旨の文面を考える亜珠の表情は、紛れもなく。
桃は静かに、けれど華やかに笑い始めていた。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
書くのが楽しすぎて暴走に暴走を重ねた結果、なんだかとても爽やか……? うん、えー…………爽、やかな物語が書けたかなーとは思います。自分では。
理不尽に対して立ち向かう、「それでも」という意志の強さ。その行為や想いの素晴らしさや美しさを少しでも感じ取ってもらえれば感無量です。各々が持つ桃、それが今後どうなるかわからないにせよ、誰だって甘く華やかに笑っていてくれれば、と思います。
このような楽しい企画に参加させていただき、ありがとうございました。
第二回小説祭り参加作品一覧
作者:靉靆
作品:無限回生(http://ncode.syosetu.com/n9092bn/)
作者:まりの
作品:桃始笑(http://ncode.syosetu.com/n8059bm/)
作者:なめこ(かかし)
作品:桃林(http://ncode.syosetu.com/n5289bn/)
作者:唄種詩人
作品:もももいろいろ(http://ncode.syosetu.com/n8866bn/)
作者:朝霧 影乃
作品:桃じじい(http://ncode.syosetu.com/n8095bm/)
作者:稲葉凸
作品:桃源郷の景色(http://ncode.syosetu.com/n5585bn/)
作者:まきろん二世
作品:桃(http://ncode.syosetu.com/n7290bn/)
作者:霧々雷那
作品:An absent-minded(http://ncode.syosetu.com/n7424bn/ )
作者:二式
作品:桃太郎お兄ちゃんの残り香を全部吸いこんでいいのは私だけのハズだよねっ♪(http://ncode.syosetu.com/n1760bn/)
作者:射川弓紀
作品:異世界ではおつかいは危険なようです。(http://ncode.syosetu.com/n8733bn/)
作者:舂无 舂春
作品:アッエゥラーの桃(http://ncode.syosetu.com/n8840bn/)
作者:ダオ
作品:桃花の思い出(http://ncode.syosetu.com/n8854bn/)
作者:葉二
作品:サクラとモモ(http://ncode.syosetu.com/n8857bn/)
作者:小衣稀シイタ
作品:桃の缶詰(http://ncode.syosetu.com/n8898bn/)
作者:叢雨式部
作品:訪来遠家(http://ncode.syosetu.com/n8901bn/)
作者:三河 悟(さとるちゃんって呼んデネ)
作品:『天界戦士・ムーンライザー』(http://ncode.syosetu.com/n8948bn/)
作者:電式
作品:P.E.A.C.H.(http://ncode.syosetu.com/n8936bn/)
作者:あすぎめむい
作品:桃源郷を探す子どもたち(http://ncode.syosetu.com/n8977bn/)
作者:一葉楓
作品:世にも愉快な黄金桃 (http://ncode.syosetu.com/n8958bn/ )
作品:苦しくて、辛くて……優しい世界(http://ncode.syosetu.com/n8979bn/)
作者:白桃
作品:桃の反対(http://ncode.syosetu.com/n8999bn/)
作者:abakamu
作品:桃恋(http://ncode.syosetu.com/n9014bn/ )