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第九話

 いつの間に、夏は過ぎたのだろう。あの纏わり付くような暑さは遠い昔のように思える。

日中の日差しはまだまだ強いが、風は冷たく心地よい九月中旬の水曜日、遠野は新宿に向かっていた。平日の昼間、スーツも着ずに、京王線に乗っていると、なんとも言えない気分になった。車内は昼過ぎということもあって空いていたが、同じ車両にいる同世代の男で、スーツを着ていないのは遠野だけだった。新宿に着いて、西新宿の高層ビル周辺を歩いていると、さらに違和感は著しくなり、違う星に降り立ってしまった宇宙人の心境だった。

 待ち合わせのホテルのロビーはビジネスマンでごった返していた。あちらこちらで名刺交換が行われている。遠野は体が深く沈む一人掛けのソファーに腰掛け、ドロップアウトしてしまった自分をようやく認識していた。遠野の年齢で一度組織から脱落してしまうと、修正がなかなか難しいというのは今も昔も大して変わっていない。遠野はその点については、覚悟の上であったが、今こうして現実となってみると、空恐ろしい気分になった。

 遠野がソファーに座って十分位経った頃、正面玄関から大男がこちらに向って歩いてくるのが見えた。身長は百九十センチ近く、体重も百キロはあるのではないかというガタイの良さ。鍛え抜かれた筋肉隆々の上半身にこれまたピチピチのTシャツを合わせ、二の腕の太さを強調している。さらに短髪にサングラスという風貌は、プロレスラーか殺し屋か、いずれにしてもこの空間に相応しくないこの男が一直線に進むと、皆が自然と道を空けた。

 このプロレスラー然とした男は、ロビーの遠野が座っているソファーの近くまでやってきたが、立ち止まって辺りを見回し始めた。

「平賀、ここ」

 遠野が手を挙げた。

「そんなところで沈んでちゃわからないだろ」

平賀と呼ばれたその大男は遠野の前に来て、手を差し出した。

「久し振り」遠野がその大きな手を握り返す。

 ロビーにいた客の視線がこちらに集まっていた。

「早く座ってくれ。落ち着かない」

 遠野の前の二人掛けのソファーにその大きな体を沈めると、サングラスを外した。すると、意外にも、人懐っこそうな眼が現れる。

「恐喝して懲戒解雇とは、想像以上だったよ」

 平賀がニッと笑いながら言う。

「お前は無駄な筋肉付けて、人々を怖がらせるのは相変わらずだな」

 遠野も応酬する。

「無駄じゃないぜ。この間、全日本の誰かと間違われてサインした」

「したのかよ。弁護士にその筋肉は必要ないと思うけど」

 この平賀が弁護士(それも優秀な)だとは、たぶん百人中百人が思わないだろう。

大学時代の同級生である彼とは、文学部と法学部ということで接点はなかったが、同じアパートの隣同士だった。当時、平賀はその体を生かして、ラグビーに打ち込んでいたが、二年になってすぐ、大けがをしてすっぱり辞めてしまった。遠野は二年になると授業はほとんど出なくなり、バイト先の女の子と仲良くなって夜遊びしたり、ディスコに行って、他の女の子をナンパしたりと好き放題やっていた。しかしそれにも飽きてくると今度は、アパートに籠り、本や漫画、ゲームでひたすら時間を潰したりした。まさにそんな時期、部屋で不貞腐れていた平賀と何とは無しに関わるようになり、その後急速に仲良くなったのだ。

「ICレコーダーは持ってきたか?」

 遠野はICレコーダーをカバンから取り出し、平賀にヘッドフォンを付けて渡した。それは、ここ数カ月の密室での社長とのやり取りを録音したものだった。再生ボタンを押す。平賀が聴いている間、遠野は黙って目を閉じていた。平賀は聴いている間、一度も質問をしなかった。だいたいの経緯は電話で伝えていたが、とにかく頭のいい男で、頭の筋肉も充分に鍛えられているようなやつであったから、一度聴いただけで、ほぼ状況も社長の性格も把握した。

 平賀は一時間ほどの内容を聴き終るとようやく感想と質問を口にした。

「こりゃ、凄いな。こういう社長、今でもいるんだな。ところで解雇を言い渡す部分がないな」

 遠野はやっぱりそこか――と説明する。

「社長にしたら、自分が命令してやらせたことで、そいつが訴えられて、それを平気で解雇にするほど、鬼にはなれない……というより馬鹿ではないよ。だから、自主退社を勧めてきた。有り得ないだろ? この期に及んで、円満にって……、俺にしたらそっちのほうが腹が立ったから、社長にセクハラ問題を突きつけて、脅してやったら、あっさり、解雇を言い渡したよ。記録はその部分は省いた」

「セクハラ問題? そりゃ、まだ聞いてないぞ」

 遠野は搔い摘んで話したが、秘書の倉知さんが公にしないでほしいと懇願していることに話が及ぶと、平賀は非常に渋い顔をした。

「俺が一番苦手な案件だな。お前はどうなんだ? セクハラの罪は追及しなくてもいいと思っているのか?」

「セクハラと言っても、レイプの可能性があるわけだからな。他にも被害者がいるかもしれないし、これからも繰り返すかもしれない。俺としては、公の場で罰するべきだと思うが、しかし……」

 遠野は遠慮がちに言った。

「被害者の女性を表に出さずに、罪を追及することはできないのかな?」

「証拠もなく逮捕するってことか?」

 遠野は黙ってしまった。すると平賀が、少し考え込んでから、大学時代に戻ったかのような、悪戯っぽい目をして言った。

「汚い相手には汚い手を使うってのは、有りだと思うか?」

 遠野は返事をする代わりに、フッと笑った。


 十月に入ってすぐに、遠野は、恐喝は会社に命令されてやったこととして、桐原書房を提訴し、不当解雇とそれに伴う精神的苦痛に対しての慰謝料請求をした。ユナの事務所に対しては、三百万円をそのまま返金したことで、あっさり、起訴を取り下げられた。事務所的にも裁判を続けることはマイナスと判断したのだろう。

 桐原社長は即刻、弁護士を立てて争う構えを見せ、そのまま法廷へと持ち込まれた。しかし、最初の口頭弁論に備えて、遠野が証拠として提出した会話の記録に怖気づいた。全ては遠野に嵌められたこと、会話も無理やり言わされたものだとして、証拠として怪しいものであると主張し、次回期日、その証拠に対する釈明を行うことになった。

 その釈明は、遠野の心を揺るがした。まず、遠野が事前にレコーダーを用意していること自体が計画的で、相手を陥れる意図が最初からあったというもの。原告は以前から会社に恨みを抱いていて、その恨みを晴らすために、わざと恐喝事件を起こし、懲戒解雇されるように仕組む。恐喝事件に関しては、あたかもそれが会社の指示であるかのように証拠をでっち上げる。そして最後は被害者として会社から多額の慰謝料を巻き上げる。すべては原告が作ったシナリオであり、我々は嵌められたものである、という陳述を行った。

 これを受けて、いよいよ証拠調べとなり、当事者尋問が行われることになったが、最初の桐原社長への主尋問は、先の被告側の陳述をより強固にする内容で、原告側の反対尋問が行われるまでは、状況はかなり不利になっていた。

 平賀の桐原社長に対する尋問はこんな形で始まった。

「事前にあなたにはレコーダーの記録を聴いてもらっていますが、そこに録音されている声はあなたのものですか?」

「はい。私のものです」

「では、無理やり言わされたとおっしゃってますが、一社員が社長にどうやって無理やり言わせることができるのですか?」

「言わせるというよりは仕向けるといった感じです」

「具体的にどのように仕向けられたのかおっしゃって下さい」

 桐原社長はここで少ししどろもどろになった。

「……プロダクションが口止めを要求してきたことに対して、わざと憤らせようとして、あれこれ挑発するような発言をした……ということです」

「このレコーダーには会議室に入ってくるところから出ていくところまで記録されています。特に挑発するような発言は見当たりませんが。それにあなた自身が『きれいごとを言っていたらこの世界ではやっていけないんだよ』と言ってますね。これも原告から仕向けられた発言なんですか?」

 あの饒舌な社長が言葉を返せなかった。平賀がさらに発言しようと口を開くと、社長は遮るように言葉を発した。

「人の会話を勝手に録音するなどプライバシーの侵害ではないのかね」

 裁判長が「聞かれたことに対して発言してください」と注意する。

「あなたは口止め料として、三百万円を取ってくるよう、遠野さんに命令し、その金は以前あなたが遠野さんを苦しめた慰謝料として受け取るようにとも言っています。これは事実ですか?」

 平賀が社長を追い込む。社長は苦し紛れの発言をした。

「あの発言は全て冗談だったんだ。それを遠野くんは本気にし、本当に金を取ってきた。私はびっくりしてしまって、すぐに金を返してくるように言った。そこは録音されていないがね。だから、私としても今回の件は非常に迷惑だったんだ」

 平賀は目を丸くして肩を上げるリアクションをおおげさにやる。彼がやるとまさに欧米人そのものだった。

「冗談!? ですか? 人を騙したり、脅したりしても、あれは冗談だったで済めば、世の中楽ですね。それと、遠野さんが、三百万を手にして報告に来た時、金を返してこい、なんて一言も言ってません。この部分は記録が残っています。あなたは『さっさと仕舞え。お前への慰謝料だ』と言ってます。さらに言えば、遠野さんは中間報告にも来ています。

『口止め料を三百万要求しましたが、その回答はまだいただけていません。しかし、二百万円までは出す気です』とあなたに報告しています。あなたがそもそも冗談で言ったのであれば、ここで止めるでしょう? あなたはこの後なんて言ったか覚えてますか? こう言ったんです。『その金は君の好きなようにしていい。だからと言ってはなんだが……くれぐれも会社の指示ではないこと……わかってるだろう?』」

 場内がざわめいた。桐原社長の顔は真っ赤になっていた。被告側の弁護士が空かさず口を挟む。

「異議あり! そもそもその録音テープの真偽の程が定かではない。そんなものを証拠として論じても無意味だ」

 裁判長が発言する。

「証拠として提出された録音記録については、さらなる検証が必要ですが、今は原告側の質問時間です。平賀弁護士、続けて下さい」

「この発言がすべてです。口止め料の要求は会社の指示であることを、あなたは遠野さんに口止めしてるんです。これについて反論はありますか?」

 桐原社長は案の定、こう答えた。

「その発言については覚えておりません」

 平賀が溜息を吐いたのが、遠野の耳に届いた。

「あなたは冒頭、自分の声だと言いました。なんならここで、皆さんの前でその会話を聞かせましょうか?」

 現時点でそれはできないため、裁判長から止めが入ったが、以降、桐原社長は「覚えていない」を連発した。

 法廷の外に出てから、遠野は平賀に声を掛けた。

「これで、随分と楽になったな」

「いや……」と平賀が言う。「次はお前の尋問じゃないか。気をつけろ」

 休憩を挟んで午後から原告本人尋問が始まる。それを受けて、平賀が遠野にいくつかのアドバイスをした。


 場内には二十名程の聴衆がいる。遠野は尋問席に立ち、お決まりの宣誓をし、裁判長に促されて座った。多くの人間がそうであるように、遠野にとっても初めての経験だった。割と緊張はなかった。

まずは、平賀が遠野に対してする主尋問から始まった。これについては事前に準備をしている。

「まず、お聞きします。なぜ、ICレコーダーで会話を録音するなどの行為を行ったのですか?」

「今まで桐原社長からは、無理難題を押し付けられ、苦労しました。言ったことをすぐに変えるということも多々あったので、会議室での二人きりの会話は、証人がいないので録音して記録しておこうと思ったのです」

「それについて、あなたは桐原社長に断りを入れましたか?」

「いいえ」

「なぜ、断りを入れなかったのですか?」

「たぶん、そんなことを言ったら、激怒すると思い、言えませんでした」

「普段から、桐原社長はあなたに対して、威圧的な態度を取っているのですか?」

 ここで被告側の弁護士が異議を唱えたが、裁判長に制止された。

「どちらかと言うとそうです。特に、社長室付きの会議室に呼ばれる時は、かなり警戒していました」

「録音記録に『慰謝料として取っておけ』というセリフがありますが、あなたは以前、慰謝料をもらうほどの苦痛を会社から受けているのですか?」

 遠野は深呼吸を一つしてから答える。

「入社して八年目に、ある女性作家の担当になりました。その女性作家は私に好意を持っていましたが、私はあくまでも仕事の関係と割り切って、彼女と接していました。しかし、彼女は私と関係を持ちたがり、当時非常に売れっ子だった彼女は、会社に対しても圧力をかけてきました。そこで、社長命令が下り、彼女と関係を持つことを強要されたのです。これが原因で私は妻と離婚をしました。そのことに関しての慰謝料ということです」

 衝撃的な告白に場内がざわめいた。平賀はそんなことはお構いなしに淡々と尋問を続けた。

「あなたはそのことをずっと根に持っていましたか?」

「忘れようと思っても、忘れられるものではありません。常に心のどこかで恨んでいました」

「それは復讐という形で今回の恐喝事件を仕組んだということにはなりませんか?」

 まるで反対尋問を受けているかのような質問に、被告席にいる弁護士も驚いていた。

「そんな気持ちもなくはありませんでした。佐伯まどかの事務所が接触してきた時、社長だったら口止め料を要求するのではないかと思ったことも事実です。そして、実際に自分が想像していたとおりに事が運んで、だんだんと引けなくなっていました。犯罪とわかっていながらも、社長の言いなりになることで、自分を正当化していました。仕組んだというよりも、社長の暴走を止めることなく受け入れ、実行したことが、ある意味復讐のようなものかもしれません」

「なるほど。自虐的な復讐ですね。尋問は以上です」

 平賀が下がって、今度は被告側の弁護士が立った。吉川というその弁護士は、平賀と対照的で、メガネを掛けた小柄な男で、弁護士というよりは、税務署のおじさんという風貌だったが、やり手であることは彼の自信たっぷりの目つきでわかった。

「あなたの会社を辞める前の役職をお答え下さい」

 遠野は一瞬緊張した。

「第五編集部の編集長です」

「あなたの年齢で編集長というのは大抜擢ではないのですか?」

「そのようです」

「なぜ、編集長になれたのか、自分ではどう思っていますか?」

「実力と言いたいところですが、たぶん、桐原社長は先程お話した女性作家との件に対しての見返りとして、私を編集長にしたのだと思います」

「よくわかっておられますね」

 ここでこの弁護士が何かの雑誌をかざした。遠野はそれを見た途端、背筋に冷たいものが走り、目の前の光景が歪んだ。それは、安瀬ユミが書いた、遠野との関係を暴露した私小説が掲載された文芸誌だった。

「この雑誌の中には、あなたが関係を持った女性作家が書いた私小説が全文載っています。非常に面白く読ませていただきました。まあ、所詮小説ですから、すべて事実を書いているとは思いませんが、この著者は最後のあとがきで、かなりの部分が事実であると書いています。それで、私の感想はですね。あなたが嫌々ながらに彼女と関係を持ったとは思えないのです。むしろ、あなたは喜びすら感じている。たとえば、この一文……」

「やめろ!」

 遠野は思わず叫んでいた。平賀は異議を唱えようとしたが寸分遠野より遅かったことを悔やんだ。

「裁判長、異議あり! 本件に何ら関係ないことを持ち出しています。記録からの削除を求めます」

 裁判長は平賀の異議を認めず、吉川弁護士にこの件がどう関係があるのか簡潔に説明することを求めた。

「原告と女性作家との関係は強要されたものではないと考えます。しかし、原告はそれをも巧みに利用し、編集長という地位も手に入れた。非常に計算高い男だと言うことです。今回の件も先ほどの供述にあったように、恐喝事件を仕掛け、慰謝料を手にし、それにも満足しないと、今度は懲戒解雇を求める。この男は自分から解雇を求めたのです。そうすれば損害賠償請求ができるからです」

 平賀が口を挟む。

「勝手な想像でものを言ってます」

 裁判長が遠野に質問をした。

「被告代理人の言っていることは事実ですか?」

 遠野は平賀の顔を見た。目が合った。

「まったく事実と反します。女性作家との関係は先程も言ったように強要されたものです。その小説にしても、作家はいくらでも自分の思うように表現できます。それは彼女の作品であって、私の気持ちなどわかりようがありません。それから……解雇を私から求めたなど、あり得ません」

 桐原社長は席から立ち上がり、大声で言った。

「貴様、嘘をつくな! 解雇にしてくれと俺に言っただろう」

 遠野はまったく取り合わず、この原告本人尋問を終えた。


「敷田さん、このコラム今回で最終回なんだけど……」

 徳本さんが、萌に申し訳なさそうに言った。

「徳本さん、もっと自信持って、バンバンやっちゃって下さい。編集長なんだから」

「編集長じゃないよ」ポツリと言う。

「実質編集長ですよ。篠塚本部長はなーんも知らないもの」

「そうじゃなくて……。編集長って言われるのは抵抗あるの。それに敷田さんだって、今でも編集長って言ったら……思い出すでしょ?」

 萌は胸が痛みだした。自分では割り切っていても、周囲は放っておいてはくれない。

「もう、思い出さない」

 十月になって、遠野が桐原社長を相手取って、裁判を起こしたことは、社員で知らぬ者はいない。「やっぱり、そうきたか」と皆思っていたようで、この裁判の行方を面白がっていた。萌は、あの恐喝事件が会社側の命令だったと遠野が主張したことに、心底ほっとした。一度だって、そこを疑ったことはなかったが、彼の自虐的な態度が心配だったのだ。

 遠野が会社を去ってから、萌は一度も彼に会っていないどころか、まったく連絡も取れない状況に不安と悲しみを覚えていた。しかし最近ではそれが憤りに変っていた。社内で村井さんに遭遇すると、彼女は私を気遣って話し掛けてくれるが、萌は、もしかしたら村井さんには連絡を取っているのかもしれないと疑って、彼女に対して、探りをいれるような真似までした。限界が来ていた。

 その日、最終回のコラムの原稿依頼を済ませた後、社長室に向かった。倉知さんが今日で最後になるため、会っておこうと思ったのだ。

 事前に電話を入れたら、日野さんが出て、今日は裁判の準備のため、社長は不在と聞かされた。遠野さんは辞めた後も、倉知さんから社長を遠ざけてくれていると思うと、なんだか可笑しくなった。

 秘書の執務室に入ると意外にも笑い声が溢れていた。倉知さんが日野さんとお喋りをして笑っていたのだ。入ってきた萌を見て、倉知さんの表情が一瞬硬くなった。萌はこの雰囲気を壊さないように、聞こえてきた会話に乗った。

「私もここ切られて、カッパみたいな髪型にされたことあるよ」

 日野さんは笑ったが、倉知さんの笑顔はすでに萎んでいた。

「今日で最後だね。お疲れ様!」

 萌は用意していた小さなプレゼントを倉知さんに渡した。彼女は始め、それを受取ることに躊躇していたが、萌が「ただのクッキーだよ」と言うと、小さな声で「ありがとうございます」と言った。完全に萌に対してバリアを張っている。彼女はまったく悪くないのに、隠すことに必死になるなんて――。

「倉知さん。今、遠野さんが社長と真っ向から戦ってます。あなたとは事情が違うのかもしれないけど、負の連鎖は断ち切らないと、いつまで経っても自分は変われないって、彼はようやく気付いたんだと思います。倉知さんにそういうことを求めるわけじゃない。だけど、このことを心の片隅にでも入れておいてほしいんです」

 萌はこれだけ言って、部屋から出ていこうとした。後ろから日野さんが声を掛けた。

「敷田さん、いろいろありがとう」

振り向くと、日野さんの横で倉知さんは今にも泣きそうな顔をしていた。


 遠野さんに会いたい――。それはまるで禁断症状が始まったかのような強烈な欲求だった。一人取り残されている自分が憐れに思えてきて、自然と涙が出てきた。非常階段で抱き合い、キスをしたことが、すっぽりと切り取られ、萌の現在と結びついていないのだ。遠野から携帯番号とメールアドレスをもらっていたが、自分からは連絡ができなくて、一ヶ月が経ってしまった。そしてこのあいだ、ようやく自分から連絡をしてみたが、携帯は留守電、メールも返事がなかった。その後も、何度も連絡を試みたが、繋がることはなかった。遠野の近況は、会社側から伝わってきた情報と、新聞の小さな記事だけだった。

 こんなのってない。萌は裁判を傍聴しに行くことを決めた。そう決めた途端、なんで最初からそうしなかったのか悔やまれた。すぐに管轄の東京地裁に電話を入れて、遠野の裁判の日程を聞いた。すると、来月の半ばに第二回の証人尋問があるということがわかった。呆然とした。来月まで待たなければならない――。今の萌にとって一ヶ月という長さは気が遠くなるほど長い時間だった。

 会社には相変わらず休まずに行っていたが、担当していたコラムも終了し、萌の新しい上司である篠塚とは、ほとんど心を通わせないという状態を続け、次第に自分が会社にいる意味がわからなくなっていた。何より、一番辛かったのは、遠野のことを口にする場面がなくなっていることだった。裁判が長くなるにつれ、関心もなくなっていくようで、元々会社の事情に一番疎い第五編集部の人たちは、他人にあまり興味がないおたく気質も手伝って、元上司の話をする人はほとんどいなかった。唯一例外だったのが、見城さんだった。彼女は遠野が辞めてから、再び萌に近づくようになった。遠野が社長を訴えたことが皆に知れ渡った時、見城さんは真っ先に萌を捕まえて「どういうこと?」と質問した。萌が何も知らないと答えても、ずっと疑っていたようだったが、だんだん本当だということがわかってくると、今度は哀れな子羊でも見るような感じで、次第に遠野の話をしなくなった。

 だから今は誰も遠野の話をしない。萌はカレンダーを見ながら、ただその日を待つだけだった。


 冬はもうそこまで来ているかのような、冷たい雨の降る月曜日、萌は東京地裁に向かった。傍聴券なしで見ることが出来ると聞いていたが、開廷時間の二時間前に東京地裁に着いてしまった。周囲は警察庁やら外務省やらのお堅い建物ばかりで、時間を潰せるような場所はない。仕方なく、中に入って待っていることにした。入口でいきなり荷物チェックをさせられ、天井の高いロビーに足を踏み入れる。とりあえず制服を着た案内の人に、遠野の裁判がどこで行われるのかを聞いた。すると、すぐ隣を指さして、開廷表で探すように言われる。開廷表は無造作に置かれていて、その周りに人だかりが出来ていた。萌はどこから探したらいいのかわからず、立ち尽くしていると、先ほどの案内の人が一緒に探してくれた。結局時間ぎりぎりまでロビーで待ち、開廷十分前に三階にある301号法廷に向かった。しかし、エレベーターを乗り間違え、ノンストップで八階まで行ってしまい、もう一度一階に降りて乗り直したり、三階に着いてもあまりに広いため、逆方向に行ってしまったりして、結局辿り着いた時には既に裁判が始まっていた。傍聴席の入口の扉をゆっくり開ける。萌は異様なまでに緊張していた。この中に遠野さんがいる。こんな形で再会することになるとは……。

 扉の向こうの光景の中に遠野さんがいた。見たことのある服を着て、少し髪が伸びている以外は変わりがなかった。

そして……、この光景の中にはさらに知った顔が二人いた。被告になっている桐原社長と萌の現在の上司、篠塚本部長だった。萌は今日が第二回の証人尋問ということまではわかっていたが、証人が誰なのかを知らなかった。桐原社長が指名した証人とは、篠塚本部長だったのだ。萌はこの上司とは必要最低限のことしか話をしないので、証人に呼ばれていることなど知る由もなかった。

裁判長と互いの弁護士の間で幾つかやり取りをした後、篠塚本部長の証人尋問が始まった。中央の証人席に篠塚本部長が進み出た時、チラッとこちらの傍聴席を見た。そこで萌と目が合った。篠塚本部長はすぐさま遠野の方を見て、顎を傍聴席側にくいっと突き出した。次の瞬間、遠野が萌を見た。その時の顔は久し振りの再会を喜ぶなんてものではなく、とにかく驚愕している表情であった。

篠塚本部長が虚偽の証言はしないと宣誓をし、被告側の弁護士の主尋問が始まった。名前、役職などを語った後、いきなり遠野の暴行についての質問になった。

「あなたは遠野さんに殴られたということですが、その時の状況をお聞かせ下さい」

「その日、桐原社長が出張で不在でしたので、代わりに私が彼に処分を伝える役目をしました」

「処分とはどんなものですか?」

「社長の温情で、懲戒解雇にはしない。しかし、自主的な退職を促すというというものです」

「それに対し、遠野さんは何と答えましたか?」

「ふざけるな! と汚く吐き捨てました。懲戒解雇にするように社長に直接頼むと言って出て行こうとしたので、社長の不在を伝えると思い留まりました」

「遠野さんは懲戒解雇を望んだわけですね」

「そうです。懲戒解雇を望むなんて、その時は馬鹿だなと思い、今後のことを考えて自主退社にしたほうがいいと諭したくらいです」

「その後どうしました?」

「来期に遠野くんが統括している第五編集部が別会社になることを伝えました」

「それで殴られた?」

「いいえ。その際、組織編成時の常ですが、人員整理を行うことを話したのです。その対象者としてある女性の名前を挙げたのですが、その女性というのが彼のガールフレンドだったんですね。それで私は殴られたのです」

 萌は体が震えた。自分のことだとわかった。思わず遠野を見る。俯き加減で目を瞑っていた。その眉間にはわずかに皺が寄っていた。

「ガールフレンド、社内にガールフレンドがいるわけですか……」

「そもそもその女性は、遠野くんが面接して好みだった女性なんです。編集長になると、自分の好きな人材を入れることが出来ますから、まあ……なんて言うか、私物化ですね。よく社内では噂になってましたよ。会社の飲み会で抱き合っていたとかね」

 萌は凍りついていた。遠野が萌を見た時の表情の意味がようやくわかった。

「同じ部署にそんな女性がいたら、他の社員は迷惑でしょうね」

「そうです。そんなわけで、彼女を人員整理の対象としたのです」

 あまりに衝撃的な発言の数々に、萌はここから出て行きたい気持ちに駆られた。しかし、意に反して体は動かなかった。

 ここで遠野側の弁護士が急に立ち上がって発言した。座っていたのでわからなかったが、かなりの大男だった。

「争点となっている解雇についてのやり取りはわかりますが、後半のガールフレンド云々は本件にまったく関係ないと思われます」

 裁判長が割って入る。

「弁護人、この件がどう繋がるのかの説明を簡潔に」

「つまり、ここで申し上げたいことは、彼、遠野さんは被害者ぶっていますが、決してそうではないということです。証人が言われましたように、自分の好みの女性を部下にし、私物化している。彼は慰謝料を請求するどころか、相当の恩恵を会社から与っているのです」

 萌は泣きたくなっていた。遠野の表情を確認する勇気もなかった。

 ここで十分間の休憩が入り、反対尋問が始まる。休憩の間、傍聴席にいた、たぶん法科の学生らしい三人組が「この裁判おもしれ~」とか「原告の人、まずいんじゃない?」などと小声で話していた。

 休憩があけると、平賀と名乗った遠野の弁護士が立ち上がって、篠塚本部長への反対尋問を始めた。とにかくガタイのいいこの弁護士は声も非常に通る。

「あなたと遠野さんは五年前、書籍部、現在の第一編集部で、あなたが編集長で遠野さんが直属の部下だった。これは間違いありませんか?」

「間違いありません」

「当時、遠野さんが担当していた作家Aさんが、遠野さんに好意を持ち、関係を求めて圧力を掛けてきた時、あなたは上司としてどういう態度を取りましたか?」

 篠塚は桐原社長がいる手前、迂闊なことは言えない。

「特別な指示も何もしていません」

「ということは、ここにいる桐原社長が勝手にやったことで、あなたはまったく与り知らないということですか?」

 篠塚は渋々といった調子でぽつりぽつりと話し出した。その時、被告側にいた桐原社長と代理人の弁護士は揃って「まずい!」という顔をした。

「この件は本件にまったく関係ありません。削除を求めます」

 被告側の弁護士が割り込んで発言した。しかし裁判長は異議を認めず、平賀弁護士に続けるように言った。

「もう一度質問します。あなたはその時何をしましたか?」

 桐原社長は篠塚が発言するのを固唾を飲んで見ていた。

「社長が遠野くんに担当の女性作家と寝るように指示を出した時、私もその場にいました。上司としては、作家さんの意向になるべく沿うようにと指示をしたと思います」

「ありがとうございます。質問は以上です」

 呆気なく、反対尋問は終わった。桐原社長は苦虫を噛み潰したような表情で、篠塚が席に戻るのを見ていた。

 

「選りに選って、何でこの裁判を見に来たんだ」

 裁判が閉廷して、萌は遠野と平賀弁護士と一緒に東京駅近くの喫茶店にいた。

「よくそんなこと言える。いっさい連絡もくれないで、私がどんな思いで今日の裁判を見に来たかわかる?」

 萌は強い口調で遠野を責めた。今日の再会が、まさかこんな言い合いになるとは思ってもいなかった。

今まで黙って聞いていた平賀弁護士が口を挟んだ。

「遠野、敷田さんの言うとおりだよ。辛いのは彼女の方だ」そう言うと、今度は萌の方を向いて諭すように言った。

「しかし、あなたに連絡しないように指示したのは私なんです」

 萌は驚いて、このマッチョな体つきの弁護士をまじまじと見た。

「裁判が終わるまでは、あなたに接触しない方がいいと判断したんです。この裁判の争点は三つあります。遠野が過去、会社に利用されて深い傷を負ったこと。不起訴にはなったが、恐喝事件は社長の指示であったこと。そして、その罪を被り、懲戒解雇になったこと。この内の恐喝事件で、あなたは遠野と一緒に現場にいた。それだけでも充分突かれる要素がある上に、会社側はあなたと遠野ができていることにしたいんです。そうすれば、遠野の行動が利己的で計画性を持っていたように見えるからです」

「………」

「被告側の吉川という弁護士は勝つためには手段を選ばない男だ。尻尾を掴むためには尾行だってやり兼ねない。今だって、どこかで見てるかもしれないよ」

 神様はなんて意地悪なんだろう――。いつまで耐えればいいのか、耐えた先に希望があるのかすら、もうわからなくなっていた。

 その時、遠野が萌の顔をじっと見つめながら言った。

「敷田、待っててくれないか? あともうちょっと……、かならず迎えに行くから」

 萌は頷いた。頷くのが精いっぱいだった。

 平賀弁護士が微笑んだ。

「邪魔者は消えるか」



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