第八話
「敷田さん、これ、印刷所にファックスして。その後、デザイナーに進捗確認お願い」
徳本さんがテキパキと指示を出す。遠野編集長がいなくなった第五編集部を代わりに仕切ることになったのが徳本さんだった。すべての流れを把握していて、さらに客観性も持ち合わせている人物として、遠野編集長は彼女に自分の代わりを任せた。徳本さんは意外だったようだ。以前、彼女と話をした時、遠野編集長のことを信頼していないと言った。しかし、遠野編集長は彼女を信頼していたのだ。
徳本さんが仕切るとは言っても、編集長になったわけではない。第五編集部の編集長は篠塚本部長が兼ねることになった。名目上の編集長だ。
大橋くんは徳本さんの右腕として、素晴らしい働きをしていた。最初、遠野編集長は大橋くんに自分の代わりを任せるのではと萌は思っていたが、彼の危うい所も知っていたんだと思う。結果的にとてもいいコンビネーションが出来上がっていた。だからなのか、萌は胸が締め付けられるほどのむなしさを感じていた。
誰かがいなくなっても、会社はいつもどおりに動く――。
萌は忙しく働くことで、考え込む時間を自分に与えないようにしていたが、彼が座っていたデスク、ここは彼のチェックが入る所、彼にダメ出しをされたコラム……、すべてが彼に繋がってしまうこの仕事では、働けば働くほどつらくなるのは目に見えていた。
「敷田さん、大丈夫? 声に力がないし、顔色も悪いよ」
大橋くんが声を掛けてきた。さっきデザイナーに掛けた電話を聞いてそう思ったのだろう。いつもどおりにしているつもりだったが、やはり見ている人にはわかってしまう。
「そうかな? ちょっと疲れてるみたい。コーヒーでも買ってくる」
萌はそう言い残して、休憩室に向かった。エレベーターの扉が開き、乗り込もうとすると、中から出てきた篠塚本部長にぶつかってしまった。
「すみません」
萌はすぐに謝って、脇に避けた。
「敷田さん……。丁度いい。今から第五編集部に行くところなんだが、全員揃ってる?」
「今日は長井くんが休みですけど、他の皆はいると思います」
「それなら都合がいい。これから一人一人と大事な面談をするつもりだ。敷田さんも戻ってくるだろ?」
「はい……」
萌はいつからかこの人を前にすると言い知れぬ威圧感を感じるようになっていた。
休憩室でコーヒーを買うつもりだったが、自販機からするコーヒーの匂いを嗅いで、気分が悪くなった。そこから離れたテーブルに着き、そこでテーブルに突っ伏してしまった。このままテーブルと一体化して消えてなくなりたい、そんなことを思った。
どのくらいそうしていただろう。誰かが萌の肩を叩いた。ゆっくりと顔を上げる。目の前に村井さんがいた。
「やっぱり、敷田さん」
遠野編集長がいなくなって、村井さんの悲しみはどのくらいなのだろう。萌は彼女の表情がいつもとさほど変わっていないことに気付いた。
「思ったとおり。ほんとに遠野は酷いことするわ。愛する人にする仕打ちじゃないわ」
愛する人――。萌はこの言葉にまったく自信がなかった。否定しようとしたが咄嗟に返すことが出来なかった。
「そうだ。お礼を言っておかなきゃ。倉知さんから話を聞いてくれてありがとう。遠野から報告受けて、後は私が日野さんにお願いをしておいたわ。絶対倉知さんを一人っきりにしないようにって。それと、社長に直談判しに行ったの。秘書にセクハラをしたら、どんな些細なことでも、外部に報告しますって」
萌は驚きのあまり口が半開きになってしまった。こんなこと出来るのは、村井さんしかいない。
「社長はどんな反応だったんですか?」
「もちろん、顔を真っ赤にして否定したわ。君まで遠野に毒されたのか! とか言って」
村井さんは社長からも厚い信頼を受けているから、ちょっとやそっとのことではお咎めを食らうことはないのだろう。ますます遠野編集長が憐れになった。
「本当はね、納得はいってないの。もし彼女が本当にレイプされたのだとしたら、罪を暴くことで、被害者は再びつらい記憶がえぐり出されて、第三者にまで晒される。いわゆるセカンドレイプってやつね。だから、倉知さんが、泣きながら公にしないでくれって言った気持ちは痛いほどわかる。でも、でも、加害者はそういう気持ちをも利用していると思うと腸が煮えくり返るわ」
ここに社長がいたら、村井さんは飛び掛って殴り倒すのでは、という勢いだった。
「遠野さんから何か聞いてるんですか?」
萌はなんとなく、村井さんが萌の知らない何かを知っているような気がした。
「何も。別れの言葉すらなかったわ」
あっさりと答えた村井さんだったが、去り際、萌の肩に手を置き、やさしく言った。
「敷田さん。元気を出してとは言わないわ。だけど、何かあったら私を頼って。心強い味方になるって約束するから」
萌はこの一言で、以前何者かから送られてきた文芸誌のことを思い出した。
「あの……一つ相談があって……」
第五編集部に戻ると、大橋くんが真っ先に声を掛けた。
「今、本部長が個人面談をしてる。敷田さんが戻ってこないのを気にしてたよ」
そうだった。萌は急に落ち着かなくなった。隣の会議室から、岩崎くんが出てきて、萌の顔を見ると、すぐさま会議室に引き返し、また出てきた。
「敷田さん、次、本部長が待ってます」岩崎くんが萌を呼んだ。
萌は重い足取りで会議室に向かった。
「失礼します」ドアをノックしてそっと会議室に入る。
「待ってたよ」
篠塚の笑顔に萌は恐怖を覚えた。
「まあ、座って」
萌が恐る恐る篠塚の正面に座ると、「なるほどな」と一人で納得していた。
「まず、皆にも言ったことだが、来期から、この第五編集部は他から分離して、別会社となる。まだ名称は決まっていないが、この第五編集部の皆はその会社の社員となるわけだ。そうなると、つまりだ。君が最初の面接で希望していたように他の編集部に異動することは出来なくなる。ここの部の連中はこの仕事が好きで来たみたいだから、それでもいいようだが、君はそうなるとつらいんじゃないか?」
萌は話の内容にも衝撃を受けたが、篠塚が結局何を言いたいのかが分からなかった。それに遠野がいなくなってしまった今、ここで何が起ころうと、もうどうでもいいような気がしてきた。萌は返事をしなかった。返事が出来なかった。
「遠野がいなくなって、すっかり元気をなくしてしまったようだね」
篠塚が曖昧な笑みを湛えて言った。萌は篠塚が誰よりも苦手になっていた。社長のほうが分かりやすい分マシのような気がした。
「君と遠野は付き合っているのか?」
あまりの唐突な質問に、今度は故意に返事を返さなかった。
「ショックで喋れなくなったのか?」
篠塚は萌を値踏みするような目で見た。
「君は知らないようだね。まあ、私も恥ではあるから、社長には報告したが、部下には口止めしておいたからな」
萌はこの人の、核心を言わずに周りからじわじわと攻めるような話し方にイライラしてきた。早く終わりにしてほしい。もうなんだっていい。子会社化だってなんだってすればいい。とにかく萌はこの場から逃れたかった。
篠塚は意味も無くもったいぶってから、ようやく核心を話し出した。
「君の遠野は辞める前に俺を殴りやがった。子会社化するにあたって、人材のスリム化を行う必要があるんだよ。真っ先に君の名前を挙げさせてもらった。そしたら、怒りに震えながら俺を殴った。どんなに酷い目にあっても涙一つ見せなかった男が、泣いていたよ」
萌は体が震えた。今日初めて聞いたことだった。自分がクビになることにさほど驚きはなかった。最初からはっきり言ってほしかった。ただもう、遠野の思いに触れたことで、もどかしいほどの切なさを感じ、じっとしてはいられなかった。
「お話はわかりました。私が削減対象だってことも。もう下がってもよろしいですか?」
萌は一方的に話を打ち切った。篠塚はちょっと慌てた。
「待て待て。会社もそう独断的に決断は下せないんだよ。君が今以上に仕事に意欲を見せることで状況も変わる。そう言っておくよ」
篠塚が何を言いたいのか、言いたくないのか、萌は最後までイライラさせられた。きっと逃げ道を作っておきたいのだ、そう解釈した。
「次はどなたを呼べばいいですか?」
萌は新しい上司に対して完全に心を閉ざした。
「待てと言ってるだろう」篠塚が萌に近づいた。
反射的に萌は脇に退けた。しかし強引に篠塚が萌の腕を掴んだ。
「大声を出しますよ」
萌は篠塚を力の限り睨みつけた。篠塚は薄ら笑いを浮かべた。
「あの文芸誌読んでくれたか? 私なりに気を使ったんだよ。遠野と付き合っていく上であの部分はかならず問題の種になる。だからそうなる前に君が知っておいた方がいいと思ってね」
萌はこの衝撃的な告白に足元が震えた。篠塚の腕を振り払い、何も言わずに会議室を飛び出した。村井さんと今日仕事が終わってから、このことを話す約束をしていたが、もう何もかもが限界で、萌はその文芸誌を机の引き出しから出して、会社の外に飛び出した。
こんなもの捨ててやる――。萌は幹線道路を少し入ったところにある公園に入って行った。そこに設置してあるごみ箱にその雑誌を捨てようとすると、ふいに篠塚の言葉が蘇った。『あの部分はかならず問題の種になる』
萌はゆっくりとその文芸誌を開いた。安瀬ユミのページを探し出す。
<あの日の私たちを止められる者などこの世に存在しなかった>
そんな書き出しで始まる文章が目に留まった。萌は取りつかれたように読み始めた。
「何してるの!」
その雑誌を後ろから奪われた。振り向くと村井さんがいた。彼女は何も言わずに、公園の中でタバコを吸っている人に近づいてライターを借りると、その文芸誌を開き、火を点けた。見る見る燃え上がり、地面に投げ出されたそれは、あっという間に表紙が少し燃え残っただけの残骸となった。
「こんなもん読んでどうしたいの?」
村井さんは強い口調で萌を叱った。萌はようやく我に返って、村井さんの顔をきちんと見た。
「あの後、すぐにでも聞いてあげればよかったって気になって、あなたに電話を掛けたら、大橋くんが出て、凄い形相で会社を飛び出して行ったって聞いたから、追いかけて来たのよ。たぶんここにいるんじゃないかって」
萌はいつの間にか泣いていた。自分がさっきまで何をしていたのかわからなくなるほどに自分を見失っていたことに気づく。
「敷田さん……」村井さんがさっきとは打って変わって優しい声で萌に語りかけた。
「うちの旦那ね。私より十歳年上なんだけど、若い時は結構モテたみたいなの。彼の友人によるとその頃相当遊んでたみたいなことを言うんだけど、私は出会ってから現在までの彼が好きなんであって、その前のことを特別聞きたいとは思わないし、彼だって、そんな話を好き好んでしたりはしない。どの夫婦やカップルだってそうだと思う。お互いを全部知る必要なんてないし、愛する人のことを全部知っているつもりでいることほど傲慢なことはないわ」
そう言った後、萌をそっと抱きしめた。村井さんの体はとても暖かかった。
「戻りましょ」
会社に戻る道すがら、文芸誌を送りつけた犯人を告げると、村井さんは少なからず驚いて、それから溜息を吐いた。
「まったく、暇なのね」
「それと、来期から第五編集部は子会社になるそうです」
「やっぱり本当だったんだ」
村井さんはこれには驚かなかった。しかし何かを考えている様子だった。萌は自分が人員削減の対象だということを、この時なんとなく言うことができなかった。
第五編集部の皆は、この唐突で一方的な子会社化の通達に、思ったほどの動揺を見せなかった。一番憤っていたのは大橋くんで、「ひでえ……」とやたらと口走っていた。しかし見城さんが「この会社ってそういうとこなの。だから私も社員辞めたの。働かせるだけ働かせて、不満を言えば、辞めたいやつは辞めればいい、成り手は他にいっぱいいるからって、かならずそれよ」と言うと、大橋くんは「どんなに過酷だろうが、世間で出版社は花形だからな」と呟き、それ以後、愚痴を言わなくなった。
そもそも、この第五編集部は遠野が辞めた今、ほぼ全員が中途採用なのだ。新卒で入って会社に育てられた社員と比べたら、会社に対する思い入れはそれ程ない。それよりも、仕事内容に興味を持って入社した人がほとんどだから、極端な話、看板が掛け替わったくらいの認識かもしれない。待遇面での変化は特にないということだから、そんなものだろう。
萌は、篠塚が言うように、将来的に異動できることを励みに、この部署で仕事をしていたようなものだったから、遠野が去った今、この部署になんの未練もなかった。クビにされる前に自分から辞めてしまおう、そんなことを始終考えていた。その日も、与えられた仕事をロボットのようにこなし、徳本さんからお昼に誘われたが、食欲がないので断わって、休憩室でボーっとしながら豆乳を飲んでいた。すると急に後ろから声を掛けられた。
「敷田萌さん。ちょっと僕の話し相手になってもらえる?」
萌が振り向いたそこには、萌に採用の通知をもたらし、初日この会社で最初に会った人物がいた。
「人事部の三井です。女性をお誘いするのには慣れてなくてね」
そう言って、向かいではなく、右隣に座った。
「豆乳好きなの? とか言って話し出せばいいのかな?」
萌の頭の中が「………」になっていると、いきなり核心を突かれた。
「会社辞めないよね。今、あなたに辞められたら、僕は遠野に一生恨まれちゃうんだよね」
萌はなんて答えたらいいのか分からなかった。
「三井さん、遠野さんと一番仲のいい同期だって聞きました。今、彼がどうしているのか知ってるんですか?」
遠野が会社を辞めてから、萌には何の連絡もない。この人なら知っている気がした。
「君が僕の質問に答えてから、その質問に答えるよ」
萌は気持ちの整理がついていなかったが、ゆっくりと考えながら言葉に出してみた。
「甘えたことを言えば、辞めたいというのが本音です。でも、そうしたら、自分は遠野さんを裏切ることになります。せっかく採用してもらって、面倒見てくれたのに、この会社で遠野さんが全てだったなんて、たぶん彼はがっかりするでしょう。自分でもそれを認めるのは嫌なんです。仕事を続けようと思うのはその一心なんです。だけど、私の気持ちとは関係なく、第五編集部が分離して別会社になった時に、私、解雇されると思います」
三井は即座に言った。
「解雇はさせない。それは遠野との約束なんだ。今回のような大きな改変をトップダウンで簡単に決めて、突然やるなんてことを平気でする会社だけど、人事に関しては、労働基準法との絡みもあり、人事部を通さないわけにはいかないから、そう勝手なことは出来ないよ」
萌はその時、本当は解雇にしてほしいんだと気づいた。それは自分で責任を負うことがない、不可抗力だからだ。先日村井さんにこのことを話さなかったのは、言ってしまったら、解雇を阻止される気がしたから――。
「まさか、解雇にしてほしいなんて思ってないよね」
あまりのタイミングにこの人は人の心が読めるのかと吃驚した。
「できれば頑張って続けてほしい。だけど、どうしても辞めたくなったら、まず僕に一言言ってくれ。そう、君からの質問の答え。今、遠野が何をしているのか僕は知らない。期待を裏切って悪いけど」
そう言って、三井はさっさと行ってしまった。
一人になった萌は急に空腹を感じた。それは、きっと覚悟が出来た証拠だと思った。 “腹が減っては戦は出来ぬ”という言葉が思い浮かんだ。豆乳のパックをゴミ箱に棄てながら、萌は何を食べようか考えていた。