第七話
その電話をとったのは、大橋くんだった。急いで受話器を遠ざけるしぐさを見るまでもなく、相手の大声が受話器から漏れ聞こえた。
「お待ちください。今替わりますから、お待ちください」
そう断わってから困ったように遠野編集長を呼ぶ。
遠野が受話器を取ると、相手の声はさらに大きくなった。怒声とも言うべき声が離れた場所にいる萌の耳にもしっかり届いていた。
「私は何もしていませんよ。約束は守って……」
相手の怒声が遠野の言葉を遮る。萌は遠野の態度が非常に落ち着いているのを見逃さなかった。怖いくらいに冷静だった。相手の怒りはなかなか収まらないようだったが、遠野の張り合いのない態度に嫌気が差したのか、十分位経ったところで一方的に電話が切れた。
第五編集部にいる全員が遠野に注目したが、遠野は相変わらず落ち着いた態度で、近くにいた大橋くんを呼んで何か頼んだ。大橋くんは急いで編集部から出て行ってしまった。そのまま何事もなかったように仕事を再開する遠野を見て、皆も疑問を持ちながらも自分の仕事に戻った。
しばらくして、大橋くんが雑誌を抱えて戻ってきた。遠野にそれを差し出す。萌は我慢できなくなって遠野のデスクに駆け寄った。それは写真週刊誌だった。遠野が開いたページを覗く。見開きページに大きく書かれたセンセーショナルな言葉が萌の目に飛び込んできた。
「清純派女優“佐伯まどか”はアキバの萌え系地下アイドルだった!」
そこに掲載されていた写真に萌は驚愕した。萌が取材した時のライブの写真だったからだ。いや、このライブは何回もやっていたから、違う日のものかもしれない。衣装が同じだけで場所も違うのかもしれない。気付くと遠野のデスクには人だかりができていた。
「みんな仕事に戻れ。締め切り4日前だぞ」
ぞろぞろと皆が戻り始める中で、萌は遠野のデスクから動かなかった。
「さっきの電話、ユナの事務所の人ですか?」
「敷田には関係ないことだ。仕事に戻れ」
萌は食い下がった。
「関係なくなんかありません。この写真、私が取材した時のライブの写真です。それに……」
「敷田、頼むから……」
遠野が今日初めて動揺した態度を見せた。萌は黙り込んだ。こうなることは想定済みだったんだ。だとしたらあの時、三百万を要求したのは――。
萌は自分の席に戻っても、煮え切らない気持ちを抱えたままで、まったく仕事に集中できなかった。前の席の大橋くんが声を掛けた。
「敷田さん、何か知ってるの?」
萌はハッとした。
「ううん。前に関わってたから気になっただけ」
この事を萌が騒ぎ立てても仕方がない。何も知らないふりをするべきだ。目の前の原稿に目を落とし、萌はひたすら字を追った。
萌がいくら気に掛けないよう努力しても、事態は大きく、そして悪い方向へと向かった。ユナの事務所が遠野を恐喝罪で訴えたのだ。事実が明るみに出てしまい、事務所が三百万円を投げ出した意味がなくなったことで、被害者として自らを認識したのだろう。萌は確かに遠野がお金を要求した場に同席していたが、その後、本当に金銭の授受があったのかまでは知らない。もちろん、遠野はいっさい、萌にその後の話はしていない。しかし、現に事務所は、三百万を強請られたとして訴えているのだ。
遠野が恐喝罪で訴えられたことが皆に知れ渡るきっかけとなったのは、朝一番に第五編集部にやってきた村井さんの大声だった。
「遠野、これは本当のことなの? サワノプロダクションが口止め料としてあんたから三百万、強請られたって! 編集本部宛に来てたわ」
村井さんは一枚の紙を遠野のデスクに叩き付けた。
遠野はそれを手にとってざっと目を通した。
「恐喝罪で訴えるか……。この際、誰が漏らしたかはもうどうでもいいみたいだな」
「本当にそんなことをしたの? 遠野、なんで?」
村井さんは第五編集部の皆の注目を一身に浴びていることなど、まったく頭にないようで、遠野に向かって捲くし立てた。
「あんたが自分の利益のためにやるとは思えない。何か訳があるんでしょ? 何で私に黙ってたの? 何か言ってよ!」
いつもの落ち着き払った、自信に溢れている村井さんの姿はどこにも無かった。萌はこの二人のやり取りに目が釘付けだった。
「恐喝は本当だ。金額もその通り。恐喝罪で訴えられることは覚悟の上でやった。こうなるのが思ったより早かったけど」
村井さんは思いっきり遠野の頬に平手打ちを食らわした。
「こんなの助けるなったって、助けられないわ」
村井さんの声は上擦っていた。そのまま脇目も振らず、第五編集部から出て行った。
この一部始終を見ていたこの部屋にいる全員が目が点になっていた。遠野は眉間に皺を寄せ、叩かれた頬を押さえながら、片手でパソコンのキーを叩き始めた。そのまま何事もなかったかのように仕事を再開するつもりだ。萌は遠野の口が切れて血が出ているのに気が付いた。近くにあったティッシュボックスを掴んで、遠野の席まで行って差し出した。
「口から血が出てます。冷やしたほうがいいんじゃないですか?」
遠野はちらっと萌を見てだけで、突き放すように言った。
「いいから、放っておいてくれ」
萌はこんなにも悲しい姿の遠野を見たことがなかった。この人は平気で自分を傷つける。遠野の過去――萌の知らない遠野がどんどん大きくなって萌を混乱させていた。
この二日後、桐原書房が声明を出した。それは萌が秘かに期待していたことをあっけなく打ち消すものだった。会社命令に従って遠野が行ったことなのではないか――あの会合の後真っ先に考えたことがそれだった。しかし、会社はいっさい関わりが無いこと、すべて遠野個人がやったこと、をいち早く表明したのだ。
遠野がこれについてどう出るのか、萌は注目していた。しかし、社長室に怒鳴り込むこともなく、まったくの無反応だった。これはつまり肯定したことになる。ユナの事務所との会合の後、萌が詰め寄った時に、確かに「俺が勝手にやったこと」と言っていた。あの時の遠野編集長は――。
「敷田」
いきなり声を掛けられて、萌はビクッとした。すぐ傍に遠野が立っていた。
「ちょっと時間あるか?」
萌は声も出ず、ただ頷いた。遠野の後ろに付いて、小さい会議室に入る。
「そこ閉めて」
言われるままにドアを閉めた。遠野が話を始める前に、萌は恐喝事件のことを問い詰めた。
「本当に会社は関係ないんですか? 遠野さんがあんなことするなんて今でも信じられないんです」
「ここで社長に何か言ったって、何も変わらない。それは俺が一番よく知ってるんだ。戦うとしたら大舞台でやるしかない」
「それって……」
萌はなんとなく遠野が考えていることがわかりかけた。これ以上、言っても仕方ない気がした。
遠野は改めて萌を見た。普段会社の中ではほとんど目を合わさないくらい、忙しなく仕事をしている遠野が、今は真っ直ぐに萌を見つめた。
「敷田に頼みがある。たぶん俺は数日中に解雇されるだろう。ひとつやり残したことがあるんだ。本当は村井さんに頼むところなんだが、彼女カンカンだから……。社長秘書の倉知さんって子に近づいてほしい。出来れば仲良くなってほしい」
そして、その倉知さんが社長からとんでもないセクハラを受けている事実を聞かされた。萌は話を聞いていて、胸がムカムカしてどうしようもなかった。
「何でもっと早く対処しないんですか? 警察に言うべきじゃないんですか?」
「訂正。セクハラを受けているってのはまだ憶測の段階で、本人は否定しているんだ」
「そんな……。脅されて本当のことが言えないだけなんじゃないですか?」
「だからそれを敷田に確かめてもらいたいんじゃないか」
萌は沈黙した。最初の言葉の衝撃が今頃襲ってきた。
「遠野編集長がいなくなったら……私……この会社にいる自信がない」
萌の頬に一筋の涙が伝った。
「そんなこと言うなよ。お前を必死になって採用した俺はどうなるんだ」
萌は目を見開いて遠野を見た。
「なんで、私を採用したんですか?」
「今更何を言ってんだよ。好きだからに決まってるだろ!」
萌は宇宙人でも見るような目で遠野を見た。
「初耳です」
今度は遠野が眉を上げる。
「そうか……?」
二人の間になんとも言えない空気が流れた。萌は遠野から目を逸らして、心臓の音が高鳴っていくのを感じていた。
「順序がむちゃくちゃだな。いきなりキスしたりして……」
会議室のドアがノックされ、二人の会話は中断された。
「遠野編集長、篠塚本部長がお呼びです。至急、本部室に来るようにと……」
見城さんだった。
「わかった。今から行く」
遠野が立ち上った。見城さんは踵を返す瞬間、萌を睨みつけるように一瞥したような気がした。
遠野は本部長の篠塚に呼ばれて、6階の編集本部に足を運んだ。いよいよだと思った。社長が出てこないとは、どこまで汚いんだ。遠野は内心で憤慨していた。
「まあ、座って」篠塚が遠野を促す。
相変わらず、篠塚は社長の犬だった。これから告げることは社長の代理としての発言であると前置きをして話し出した。
「今回のことは残念で仕方ない。会社としては懲戒解雇とするべきところだが、遠野、君のこれまでの会社への貢献を考えて、自主退社を促すとのことだ」
「自主退社だって? どこまで俺を馬鹿にする気だ。解雇だと返り血を浴びるから嫌なんだろう。社長に今すぐ懲戒解雇にするように頼んでくるよ」
遠野のやけっぱちな態度に、篠塚は怒りを表した。
「社長の温情がわからんのか? 解雇となると再就職にも影響する。恐喝罪を起こしたのは君だろう。俺は本当にがっかりしたよ」
遠野はこの傀儡との不毛な会話を終わらせて、早く社長と直接話しがしたかった。
「どこへ行く? 社長なら今週ずっと懇親旅行だ。留守の間、私が責任を持ってあたるよう社長から指示されている。言いたいことは私から社長に伝える」
遠野は入り口で立ち止まり、篠塚を振り返った。
「結構です。あなたに伝えてもどうにもなりません。社長の帰りを待って、直接伝えます」
そのまま出て行こうとした遠野を篠塚は引き止め、驚くべきことを言った。
「お前が採用した子、敷田さんって言ったっけ? 彼女、辞めてもらうよ。来期から第五編集部を子会社化することが決まった。私がそこの社長を兼任する。まず、最初の仕事はスリム化だ。オタクの世界にビビって、ろくに仕事も出来ないんだろう? 人事課にそういう報告が来ている。最終決断は私が下せるからな」
頭を殴られたような衝撃だった。遠野は体が震えていた。この上司が味方になったことなど一度もなかった。
「俺をクビにするだけじゃ物足りないのか。彼女はいっさい関係ないし、仕事だって、きちんとやっているよ。誰が人事にそんなこと言ったのか知らないけど、彼女を巻き込むのはやめろ」
遠野は叫んでいた。
篠塚はそんな遠野を見て、半笑いになった。
「そんなにその女が好きなのか。編集長の醍醐味はそうやって自分の女に出来るところだ。もう寝たのか? 社長に従順であったからこその恩恵だってことに気づいてないわけじゃないだろう?」
遠野はこれ以上自分を押さえつけることが出来なくなっていた。気づくと篠塚に殴りかかっていた。隣の部屋にいた篠塚の部下の二人が気づいて止めに入った。遠野は二人の男によって壁に押さえつけられた。いつの間にか泣いていた。今までの鬱屈していたものが涙とともに溢れ出た。自分にこんな感情があったことに遠野は驚いた。
篠塚も遠野が殴ることは想定していなかったようで、殴られた頬を押さえながら驚いた顔をしていた。
「どういうことだよ」
遠野は人事部の三井に詰め寄った。
「俺が人事部を牛耳ってるわけじゃないんだぜ。だいたい俺は部長じゃないし、俺が好き勝手に出来るわけないじゃないか」
遠野は第五編集部の誰かが、敷田が仕事が出来ないという話を人事にして、さらにそれが本部長の篠塚に伝わった経緯を確かめようと三井を呼び出したのだ。
「社員の評価はお前が提出する人事考課表ともう一つ、社員本人が直接人事に提出する業務報告書があるのは知ってるよな。上司と反りが合わなくて損しているやつを救うためだ。そこに職場での不満とか意見とかを自由に書ける欄があるのも知ってるだろ? そこに書かれていた。誰が書いたかは言えない。最終的にはそれをまとめて本部長に提出するわけだが、俺がそれを故意に書き変えるとか、わざと報告しないとか、やって出来ないことはない。現にお前が敷田さんと云々っていう報告は上にはしなかった。だけど、何度も言うが、人事部には俺以外の人間がいる。それにね、俺がそういうことをするメリットもなければ、今回の場合お前に頼まれたってやらないよ」
遠野は三井の言葉に反論が出来なかった。三井は書いた人物を知っている。それに今回の件はゴシップ的な話ではなく仕事に関することだ。三井が言うことは尤もだった。
「そんなにしょげるなよ。篠塚を殴るなんてそうそう出来るもんじゃない。見直した。それとそこまで彼女のことが好きだとは思わなかったよ」
「俺が採用した責任があるんだよ」
遠野は決まり文句のごとく言って、もう一つの重要なことを思い出した。
「第五が子会社化するってお前聞いてたか?」
「それって社長のいつもの脅しじゃなくてか?」
以前から、社のイメージにそぐわないということで、第五編集部だけ別会社にするという話はよく出ていた。事情通の三井も知らないようだった。来期からというのはあまりに早すぎる。篠塚の脅しかもしれないと遠野は思った。
「なあ……」急に三井が真顔で言った。
「遠野、俺は悲しいんだ。ほんとはこんな結末」
遠野は三井の肩に手を置き、大きく息を吸った。
「俺はすっきりしているよ」
まず、萌は会社名簿で調べて、倉知さんにメールを送った。仕事が終わったら、外で会って話をしたいと正攻法のアプローチをした。返事はなかった。やはり、いきなり会ったこともない人間の誘いに乗ることはないか――。萌は直接秘書室まで訪ねていくことにした。社長に鉢合わせしたらどうしよう。萌はどきどきだったが、社長は不在だった。そして、当の倉知さんも会社を休んでいた。
「社長は今週慰安旅行で、その間暇になるから交互に休みを取ることにしたんです」
秘書の日野さんが応対した。なかなかかわいらしい子だったが、さばさばした印象を受けた。
「あの、私、遠野編集長の部下の敷田と言います。彼から倉知さんのことを聞きました。助けになりたいと思って……」
日野さんはちょっと不思議そうな顔をした。
「遠野編集長って恐喝罪で訴えられたんでしょう? 懲戒解雇になったって聞きましたけど」
まだなってないと思ったが、それも時間の問題だろう。日野さんからしたら、犯罪者の部下が犯罪者から何かを頼まれたということになって、それは不信に思うだろう。
「遠野編集長は嵌められたんです。彼は悪くないんです」
萌はつい、そんなことを口走っていた。
社長不在という絶好の機会だったので、萌は日野さんからいろいろと話を聞けた。倉知さんは日野さんがここで働き始めた二ヵ月後に採用になって、最初の印象はとても明るかったのに、いつからか、塞ぎ込むことが多くなったと言う。
「倉知さん、ほとんどプライベートのことを喋らないんです。社員のあの人がカッコイイとか、誰と誰が付き合ってるとか、そういう話には乗ってくるんだけど、自分のことはいっさい話さない。それと、今思えば……なんだけど、私が会社を休むのを非常に嫌がってた」
「それって、一人になると社長に何かされるってこと?」
日野さんはゆっくり頷き肩を落とした。
「遠野編集長に言われる前に、なんでもっと早く気付いてあげられなかったんだろう」
「次、日野さんが休むのは?」
「明日です。でも社長も不在だから」
萌は少しホッとした。明日倉知さんに会って、彼女の本心を聞き出すことができるだろうか。
仕事に戻ろうと、社長室から出たところでバッタリ村井さんと遭遇した。
不思議な気分だった。採用面接の時に面接する側とされる側として言葉を交わしただけの村井さんと今こうして向き合ってコーヒーを飲んでいる。萌は一度として彼女の存在が頭から離れたことはなかった。
「そう……敷田さんに頼んだんだ」
村井さんは遠くを見るような目つきで言った。
「遠野に頼まれていたのに、忙しさに感けてなかなか協力も出来ないでいて、その後あの事件でしょ? すっかり飛んじゃってたの。でも今日気付いて、とっても心配になっちゃってね」
萌は今日、日野さんから聞いた話を村井さんに残らず話した。
「私ってほんとに役立たずだったな。ぜんぜん聞き出せてなかった」
「それは二人揃ってたからですよ。たぶん倉知さんがいたら、日野さんだって何も喋りません」
村井さんはフッと笑った。
「敷田さん、あなたって私が思ってたとおりの人ね」
そして、萌が思いも寄らないことを言った。
「私の知らない遠野をもういろいろ知ってる」
「そんなこと……」萌はしどろもどろになってしまった。「まだ、会って半年だし、過去のことはいっさい話さないし、村井さんと遠野編集長の関係はずっと羨ましいと思ってたし……」
「遠野は私に自分の負の部分を決して見せようとしない。私に負の部分を見られることをとても嫌がってた。私はこういう性格だから、ズカズカと彼の中に土足で入って行っては彼を傷つけたかもしれない。こういう関係ってやっぱり無理があるのよ。特に男女の関係では成立しないと思う」
村井さんはスタバのコーヒーを両手で挟むようにして持ちながら、再び遠くに視線を向けた。
「なんであんなことをしたのか、今ならちょっとわかる」そして視線を萌の顔に戻した。「遠野ってほんと、やること極端でしょ? でもね、きっとあなたの存在が彼の自尊心を刺激したんだと思うわ」
村井さんは自信たっぷりに言ってから時計を見た。
「もう行かないとね。そうだ。社長のセクハラの件は一緒に協力してあたりましょ」
そう言ってにっこりと微笑んだ。
萌は遠野が彼女に惹かれる理由がなんとなくわかってしまったことに、ほんのりと胸の痛みを感じた。
会社に戻ると萌宛てに社内便が届いていた。かなり分厚いその封筒を開けると、中から文芸雑誌が出てきた。紙の色が黄ばんでいて、それが古いものであることがわかる。萌は表紙に書かれた文字を見て、背筋に冷たいものが走った。
安瀬ユミ――。遠野との不倫の日々を綴ったとされる私小説が掲載された雑誌だった。誰がこんなこと……。封筒の中身はそれだけで、差出人の名前もなかった。社内便には発信部署の印が押される決まりになっているがそれすらない。萌はこの行為が何を意味するのか考えて、全身の血の気が引いた。編集長のデスクを見る。遠野は打ち合わせで席を外していた。萌はその雑誌を机の引き出しにそっと仕舞った。それを持つ手が震えていた。
翌朝一番に萌のデスクの内線電話が鳴った。思わずドキッとする。
「敷田さん? 今日倉知さんのところに訪ねるでしょう? その件なんだけど……」
村井さんだった。昨日のことがあってから、いろんなことに警戒している自分に気付く。村井さんは今日ずっと打ち合わせが入っていて、時間を空けるのが難しいこと、二人で押し掛けるのは倉知さんにとってはプレッシャーだと思うので、萌一人で聴いてもらいたいというお願いの電話だった。萌は了承した。電話を切った後、村井さんに昨日送られてきた雑誌のことを話せばよかったと後悔した。
社長室に入ると、奥のほうから男性の声が聞こえてきた。萌は驚いて、倉知さんがいる秘書の部屋に駆け込んだ。倉知さんは昨日日野さんが座っていた隣の席に怯えた表情で座っていた。
「奥に誰かいるの?」
萌は彼女の返事を待つまでもなく、その声の主が誰だかわかった。遠野は今日も朝から自席を離れてどこかに姿を消していた。それは遠野の声に間違いなかった。そして――。
「社長が帰ってきたの?」
倉知さんは震える小さな声で答えた。
「予定より早く戻ってきたんです」
萌はこの状況を早く村井さんに伝えなければと思い、秘書のデスクの電話を断わりもなく取ったが、電話番号がわからない。
「倉知さん、申し訳ないんだけど、第一編集部の村井さんの番号調べてくれる?」
倉知さんは一瞬で萌に電話番号の書かれたファイルを差し出し、指で指し示した。
「ありがとう」
村井さんは不在だった。しまった。今日はずっと打ち合わせだって言っていた。萌は電話を切ると倉知さんに向かって言った。
「私知ってるの。あなたが社長にセクハラされていること。だからもう隠さないで。隠したらどんどんエスカレートするのよ。お願い。勇気を持って事実を語ってほしいの」
倉知さんは驚いた顔をして萌を見ていたが、突然大粒の涙を流し始めた。
その日、遠野は会社を休み、警察の事情聴取を受けていた。恐喝罪は刑事事件に当たるため、警察の取調べが入るのだ。遠野はすでに友人の弁護士に依頼をしていた。警察は強請ったとされる日の会合の様子を遠野から詳しく聞き出し、すでにユナの事務所の樋口から聞いている内容と齟齬がないかを確認しているようだった。遠野は嘘偽りなく語ったが、「会社からの命令ではなかったのか」という質問には口を閉ざした。まだそれを言うことは出来なかった。遠野は社長の帰りを待ちわびていた。
翌日、社長が一日早く戻り、真っ先に遠野を呼び出した時にはいよいよだと思った。
いつもの社長室の密会部屋に行く途中、秘書の倉知さんの姿があった。今日は彼女一人だと知って遠野は胸騒ぎがしたが、社長が遠野の前に現れると、すっかりそのことを忘れてしまった。
「篠塚を殴ったらしいな。随分と威勢のいいことをしてくれるじゃないか」
そうして少し間をおいてから、平静を取り繕う様子で言った。
「恐喝罪で訴えられたとは、ヘマしたな。私の知り合いに優秀な弁護士がいる。彼に頼めば、事を大きくすることなく、円満に解決できる。……しかしだな、会社としては」
遠野は社長の言葉を遮った。
「心配はいりません。弁護士なら私の友人にも優秀な人物がいます。社長のもう一つの心配も及びません。辞める覚悟は出来ていますから」
社長は訝った顔をした。
「何を企んでるんだ? 退職金か? それならある程度の額を考えているよ」
「いいえ。退職金はいりません。懲戒解雇にしてほしいんです」
この時の社長の顔をなんと表現したらいいのか。遠野は静かに興奮していた。
「俺に戦いでも挑む気でいるのか?」
「まさか。そんなつもりはありません」
遠野は肩が軽くなっていくのを感じた。
「解雇にしなかったらどうするんだ?」
社長の声は低く潰れていた。
「秘書へのセクハラをばらします」
社長が遠野の胸倉を掴んだ。手は怒りで震え、顔は歪んでいた。数秒後、思いっきり遠野を突き飛ばした。床に倒れ込んだ遠野に今度は罵声を浴びせた。
「出てけ! 即効解雇だ! 二度と俺の前にその面を晒すな!」
遠野はゆっくりと起き上がり、この忌まわしい部屋を後にした。
秘書の部屋をよろよろと横切ろうとした時、その部屋から敷田が出て来た。
「遠野編集長! 何かあったんですか? 社長の怒鳴り声が聞こえたからビックリして」
「解雇されたよ。とうとう」
遠野はそれを口にして、こんな簡単なことを随分と遠回りした自分を笑いたくなった。
「解雇ってそんな……」
敷田の顔は蒼白になっていた。
「倉知さん、今日は一人なんだね」
遠野は敷田の肩越しに秘書室を見た。
「それが……」敷田が意味深に遠野を促すので、二人で社長室を出た。
一人残された倉知さんが気になったが、怒り覚めやらぬ様子の社長が、すぐに気分を変えて、彼女に近づくとは思えなかった。
社長の目に触れないところですぐに話が出来る場所ということで、非常階段に出た。敷田は見るからにテンパっていた。彼女にいろんなことを背負わせすぎたと遠野は後悔した。
「倉知さん、レイプされたみたいなんです。はっきりとは言いません。そのことを話すことがもう、彼女にとっては耐え難い苦痛みたいで。ただ、社長から口止めをされていることは事実みたいです。それで……」
敷田はここで泣きそうな顔をした。
「公にしないでくれって、公にしたら……自殺するって、そう言って泣き崩れたんです」
遠野は自分を呪った。倉知さんの件は、社長をやり込めるための切り札として利用している自覚があったし、さらに部下の敷田まで巻き込み、彼女をも苦しめている。
敷田は呼吸を整え、さらに喋る。
「倉知さん、あと一月で辞めるのだから、それまで騒ぎ立てないでほしいって、そっとしておいてほしいって……、あれから酷いことはされてないからって大丈夫って泣きながら言うんですよ」
「敷田、もういい。話はわかった」
遠野は敷田の肩を抱いた。小さく震えていた。
「せめて彼女を一人きりにしないように気を配ろう」
これでいいのか、今の遠野には判断できなかった。しかし、このことが復讐への思いをさらに強くしたことは間違いなかった。
「そんなこと言ったって、もう遠野編集長はいないんでしょう? 遠野編集長がいなくなるなんて……信じられない」
遠野の胸に顔を埋めて泣き出した敷田をそのまま包み込むようにして抱き締めた。非常階段でしばらく抱き合っていると、遠野は最初から彼女とこんなふうに抱き合いたかったのだと気付いた。
「お願い、辞めないで」敷田が顔を押し付けながら言う。
「そりゃ無理だよ。解雇だからね」
泣き腫らした顔を上げて遠野を真っ直ぐに見た。
「自分でそう仕向けたくせに。私を引っ張ってきて、今度は残していなくなるなんてずるい!」
遠野は返事もせず、ただ敷田を強く抱き締めた。彼女を自分のものにしたい――。遠野は敷田の顔を上げさせ、彼女の唇に自分の唇を押し付けた。敷田がさらに強く抱き付いてくるのを感じた。お互いを求め合いながら、欲望の赴くままにキスをし、抱き合った。もう誰にも止められなかった。
どのくらいの時間そうしていたのか。何かをきっかけに、どちらからともなく体を離した。
「戻った方がいいですよね」敷田が呟いた。
「ああ……」
非常階段のドアを開ける。廊下の眩しい光が二人の目を刺激した。