第六話
遠野はその日、次号の台割りに頭を悩ませていた。ここ数ヶ月の売り上げは下降線だった。業界全体が下降線であることを考えに入れても、第五編集部の不振は拭い去れなかった。特にこれを際立たせたのが、第二編集部の伸びだった。女性をターゲットにしたマネー雑誌がうまく時流に乗ったのだった。売り上げは前年比の180%に達していた。紙面で連載していた、まったくお金に無頓着な女性が財テクに目覚める過程を描いたマンガのヒットも大きく起因していた。村井さんが言っていた第五編集部の子会社化というのは、もしかしたら不振事業の切り離しを意図したものなのかもしれない。遠野の思考が悪い方向へと向かっている最中、敷田に話しかけられた。
「遠野編集長、前にちょっと話したこと覚えてないかもしれないけど、やっぱり、ユナが佐伯まどかだったんです。さっき、そのユナから電話があって……」
敷田が言っていることを理解するのに少し時間が掛かった。アヤカ事件を解決に導いた重要な役割をしたのがユナだった。遠野はほとんどテレビを観ないが、敷田が以前、雑誌に載っている佐伯まどかを見せてくれたことは覚えていた。要するに佐伯まどかとして売れて、ユナとしての過去が邪魔になったから、バラすなということを事務所の人間と圧力をかけにきたわけだ。遠野はこれを利用しない手は無いと思いながら敷田の話を聴いていた。
社長室の一番奥の部屋で社長と二人きりで話しをする。この部屋の存在を最初に知ったのは安瀬ユミと寝ることを命じられた五年前だ。あの頃から俺は社長にいい様にされてきた。恰好の飼い犬だ。すべてはここから始まっていた。
「佐伯まどかという女優はご存知ですか?」
「さあ、知らんね。だいたい女優の名前なんか聞いても分からんよ。手に入らん女には興味はない」
豪快に笑う。この社長の女遊びは相当なもんだと三井が言ってたっけ。その辺りを攻めるのも手だなと遠野は思った。
「今一番勢いのある若手女優です。その佐伯まどかが以前アキバで取材した地下アイドルのユナだということがわかったんです」
「ほう……」
社長は興味を示しだした。
「その所属事務所がうちに接触してきて、話し合いをしたいと言ってきました。おそらく口外させないための圧力をかけにくるのでしょう」
「ふざけた話だ」
完全に乗ってきた。
「うちを舐めとるようだな。口止め料を要求してやれ。それも陳腐な額じゃなくてな」
「いくら位がいいですか?」
すっかり悪代官と越後屋の会話になっていた。
「いくらでもいい。三百万くらい取っておきゃいいだろ」
ここで遠野はセーフガードを敷く。
「しかし、それって犯罪になりませんか?」
「きれいごとを言っていたらこの世界ではやっていけないんだよ。そうだ。その口止め料だが、遠野お前が取っておけ」
「いりません」
社長は猫撫で声を出した。
「君にはいろいろつらい思いをさせたからな。慰謝料みたいなもんだ」
遠野はここぞとばかりに聞き返した。
「つらい思い?」
「おいおい、忘れているのか? 安瀬ユミの時だよ。君に枕をさせたことさ。もしかしていい思い出にでもなっているのか?」
遠野はこの社長に殺意を抱いた。あの時の精神的苦痛の対価にたかが三百万だって? 笑いたくなった。
「あれが原因で妻とは離婚しました」
遠野は無表情で言った。社長は少し動揺を見せた。
「遠野くん、君を編集長にしてやった。給料もだいぶ上がっただろう。次は社長にさせてあげるよ。不満があるなんて言わせない」
「社長?」
遠野は村井さんが言っていた子会社化の話を確かめるいい機会だと食いついた。
「子会社でも作るつもりですか?」
「ああ、いずれな。まだまだ先の話だ」
「まったくの別事業ですか? それとも……」
「そんなに社長になりたいのか? 具体的には何も決まっておらんよ。別事業か、それも悪くないな」
遠野はまだそのレベルの話だということを確認して安心した。遠野が下がろうとすると、
社長が遠野の耳元に近づき、抑えた声で言った。
「口止め料たんまり貰っておけよ。どっちにしろお前の金だ」
そしてまた豪快に笑った。
遠野は社長と一緒に奥の会議室から出てきて、中廊下を歩いた。その時、秘書がいる執務室が見えた。「失礼します」と声を掛けて去るふりをして、社長が普段いる部屋に入っていくのを見届けた後、秘書のいる執務室に駆け込んだ。二人の秘書はビックリしていたが、遠野が人差し指を口の前に持ってきたのを見て、了解したようだった。
「話を聞きたいんだ。今日仕事が終わった後、空いてる?」
一人は習い事があるので無理だったが、もう一人の女性が会ってくれることになった。
「仕事終わったら俺のケータイに連絡してくれ」
そう言ってケータイ番号を彼女の机のメモ用紙に書いた。遠野は絶対何かあると確信していた。
「お前本気なんだな」
三井に今日の社長との会話を聞かせた。
「うまくいった。それでなんだが……俺はまだ物足りない」
「まあ、そうかもしれないな」
「前に社長の女癖の話してくれたよな。そこを攻めてみようと思うんだ」
「秘書に聞けば十個や二十個ぐらい出てくるだろうね」
「俺もそう思って、今日仕事終わりに会う約束をしたんだ」
「さすが遠野! やること早い」三井が茶化す。「だけど、あまりいい方法じゃないな」
「なんだって?」
三井の反応に遠野が不安になる。
「話の内容がさ、男の遠野には話し難いと思うよ。極端な話レイプされた女性が男性の警察官に話をするか?」
遠野はもっともだと思った。
「じゃあ、どうすりゃいいんだ」
「まず、今日の約束はキャンセルして、村井さんに頼んでみたら」
「あの村井さん? なんか緊張する」
一人の秘書が言った。遠野はもしかしたら人選がよくなかったのかも……と思ったが、
「村井さんってかならずここに来ると労いの言葉掛けてくれるんだよね」ともう一人の秘書が言うのを聞いて、間違ってなかったと思った。
社長が部屋から出てきた。遠野が秘書の女の子と喋っていたのを見て透かさず言った。
「遠野くん、うちの女の子にちょっかい出すなよ」
うちの女の子――。社長のその言い方が彼女たちに対する接し方を物語っていた。
いつもの部屋に通される。遠野はまず、昨日の報告から始めた。
「佐伯まどかの事務所の人間に会ってきました。口止め料を三百万要求しましたが、その回答はまだいただけていません。しかし、二百万円までは出す気です」
社長は声を落として言った。
「その金は君の好きなようにしていい。だからと言ってはなんだが……くれぐれも会社の指示ではないこと……わかってるだろう?」
遠野はもっと大きな声で喋ってくれませんかと言いそうになった。
「わかりました」
短く返事をして入り口のドアに向かった。その背中に向かって社長が声を掛けた。
「口止め料の件だが、もう私に報告しなくていいぞ。わかったな」
蜥蜴の尻尾切りが始まった――。遠野は心の中で呟いた。
駅近くの個室があるバーで遠野は村井さんを待っていた。九時をまわってようやく鮮やかなブルーのノースリーブのシャツを着た村井さんがやってきた。遠野は高揚する気持ちを抑えた。
「ごめんなさい。帰り際にまた呼ばれちゃって。何も頼んでないの?」
「飲み物だけ。今日はノンアルコール」
「マジで。私飲んじゃダメ?」
「いいよ。飲み過ぎたら俺が止める」
村井さんは生ビールとつまみを適当に注文した。
乾杯もそこそこに、社長秘書から聞き出してくれた内容の報告を始めた。
「日野さんと倉知さん。日野さんはいろいろ話してくれたわ。とにかくやたらとボディタッチをするとか、食事に誘うとか……。一度食事に連れて行ってもらった時にいきなり抱きつかれて、身の危険を感じたって」
遠野は簡単に想像できた。
「日野さんって髪が長い子?」
「ううん、短い方の子」
遠野は三井から聞いていた社長好みの女の子は倉知さんだと理解した。
「倉知さんからは?」
「それがね……」村井さんは生ビールを美味しそうに飲み干し、ちょっと間を空けてから言った。
「倉知さんは何もないっていうの。こんなこと女の私が言うのもなんだけど、彼女胸は大きいし、顔はロリコン男が好きそうな幼い感じのかわいらしい顔をしていて、あの社長が彼女に何もしないって有り得ないと思うのよ」
「つまり倉知さんは嘘をついている。社長から口止めされている。何か弱みを握られているってことか?」
「ひょっとしたら犯罪ね」
遠野は思いつきで探ったことだったが、的を射たことを確信した。
「村井さんにも話してくれないとなると探るのは厄介だな」
「ひとつ方法があるわ」そう言って村井さんは店員にジョッキを差し出し、お代わりを頼んだ。「現行犯逮捕」
「どうやって?」
「それはこれから一緒に考えようよ」
酔ってきたな。遠野は村井さんの絡みつくような語尾を聞いて、自分はシラフで良かったと思った。彼女を冷静に見ていることが出来るからだ。
村井さんがジョッキを三杯空けたところで、二時間制ですのでと店員が断りを入れてきた。村井さんは一瞬ムッとしたが、そこは素直に従った。往来に出て歩き出す。八月の暑さは夜になっても衰えず、空気をねっとりとさせていた。
「ねえ、何でこんなこと私に頼んだの? 秘書が困ってたのを見かねたわけ?」
遠野は本当のことを言いそうになって思い止まった。
「まあ、そんなとこ」
「嘘、何か隠してるわね」村井さんは遠野に詰め寄った。
遠野は村井さんを抱き締めてしまいそうだった。たぶん酔っていたらそうしていたに違いない。遠野は彼女に指一本触れずに言った。
「村井さん、今後俺に何かあっても決して助けないでください」
「遠野……?」
村井さんの酔いが一気に醒めたようだった。
翌日、佐伯まどかの事務所から連絡があった。口止め料の三百万を指定の口座に振り込んだという連絡だった。社長はもう報告するなと言って、この件に関してノータッチの姿勢を決め込んでいた。こちらが指定した口座は遠野個人のものだった。遠野はそこから三百万を現金で引き出し、それを封筒に入れ社長室に向かった。
社長室には二人の秘書がいた。髪の長い方の秘書、倉知さんをチラッと見る。確かに男好きのする雰囲気を持った子だった。遠野は彼女ではなくもう片方の秘書、日野さんに声を掛けた。
「社長との用が終わった後、時間作れる? 休憩室に来てくれないかな」
「わかりました」
遠野は秘書との会話をすぐに切り上げ、社長室の奥にある会議室に入って、社長が来るのを待った。しばらく待たされた後、社長が部屋に入ってきて、いきなり言った。
「何の報告だ。例の件ならもういいと言っただろう」
明らかに機嫌が悪かったが、遠野は臆せずに封筒から三百万円を出し、社長に告げた。
「佐伯まどかの事務所から送られてきた口止め料の三百万です。いいと言われましても、やはり報告をしておかないと……」
社長は遠野が手にしている現金を見て驚いていた。本当に三百万円を取れるとは思っていなかったらしい。しかし再び不機嫌な顔つきになった。
「さっさと仕舞え。お前の金だ」
そう言って早くこの話題を切り上げようとした。遠野は猶も食いついた。
「なぜ、私にこのお金を?」
「今更何を言うんだ。安瀬ユミとの関係を強要したことで、お前が苦しんだことへの代償だ。まあ、この金額以上のことはすでにしてやってるがな」
遠野は三百万円を封筒にしまった。これで充分だった。
社長室を退出すると、後ろから秘書の日野さんが追ってきた。
「三十分くらいなら、時間取れます」
「ありがとう。先に休憩室に行っててくれるか?」
遠野は三百万円を仕舞うため、一旦自席に戻って、そこで村井さんに電話を入れた。一緒に休憩室に来てもらうためだ。しかし、村井さんはどうしても手が離せないということで、遠野は仕方なく一人で休憩室に向かった。
「時間取らせて悪いね」
そう言いながら日野さんの向かいに座ると、日野さんはちょっと緊張している様子を見せた。遠野はやはり女性が傍にいた方が良かったな――と思いながらも話を始めた。
「実は倉知さんのことなんだけど、彼女、君から見て何か隠しているような感じはない?」
「隠しているというのは?」
遠野は声のトーンを落として言った。
「社長からセクハラを受けている事実とか……」
日野さんは何か迷っているような感じだった。遠野が辛抱強く待っていると、「あの……」と蚊の鳴くような小さな声で話し始めた。
「実は、倉知さん来月で会社を辞めるんです」
遠野は驚いたが、次が早く聞きたくて「理由は?」と間髪いれずに言った。日野さんはまた言い難そうに下を向いてしまった。
「ごめん。俺じゃ話し難いかな?」
すると日野さんは顔を上げ、遠野の顔を真っ直ぐに見た。
「誰にも言わないと約束してもらえたら話します。私も彼女から口止めされているんです」
「わかった。誰にも言わない」
遠野はこの約束が守れないことを承知の上で言っていた。
「倉知さんは最初、実家の両親が具合が悪くなったから辞めるって言ってました。でも私見ちゃったんです。たまたまその日、午後半休をもらって早退したんですけど、忘れ物に気付いて戻ったら、社長が倉知さんの胸を触っているのを見てしまったんです。社長は誤魔化したけど、後で倉知さんに聞いたら、突然泣き出して、このことは誰にも言わないでって……」
遠野は怒りが込み上げてきた。
「二人が一緒にいる時は、そういったセクハラはないの?」
「いやらしい話とかはよくします。でもあからさまに触ったりは……」
遠野は勢いよく立ち上がった。
「戻ろう」
日野さんと一緒にエレベーターに乗り込み、七階の社長室を目指した。エレベータを降りると速攻で入り口の扉を開け、脇目も振らず秘書が常駐する執務室に入った。その時、目に飛び込んできた光景に遠野は唖然となった。
倉知さんの背後にぴったりと社長が立っていた。それはあまりに不自然だった。決定的だったのは彼女の白いブラウスの裾がスカートから外にはみ出ていたことだった。社長は急に遠野が入ってきたことを怒るよりも、体裁を取り繕うことに必死で、「何のようだ」と遠野の顔も見ずに言って、執務室から出て行こうとした。
「待ってください。彼女に何をしていたんですか?」
社長は顔を真っ赤にしていた。
「何を疑っている。彼女から何か聞いたのか?」
そう言って日野さんの方を見た。日野さんは今にも卒倒しそうな顔をしていた。
「彼女たちは何も話してくれません。だからこうして見に来ました」
「で、何かわかったのか」
遠野はここまでだと思った。
「いいえ」
社長はフンと鼻を鳴らして、執務室を出て行った。
倉知さんは泣いていた。日野さんが倉知さんに何をされたのかを尋ねても彼女は何も言わず、ただ泣くだけだった。遠野はあまり長くここにいるのはよくないと思い、倉知さんに自分の連絡先を書いて渡した。
「俺を信用してほしい。絶対君の助けになるから」
そう言い置いて執務室から出た。今までにない程の嫌悪感を社長に抱いた。




