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第五話

 萌が入社して、半年が経った。仕事もだいぶ慣れたが、入社してすぐに起こったあの地下アイドル監禁事件は、未だに萌の心の中に衝撃として残っていた。

 ある日何気なくテレビを観ていると、知った顔が映ったような気がした。ドラマだった。気になって見続けていると、主演女優の友人役があのユナに似ていた。エンディングのクレジットを確認する。ユナではなく『佐伯まどか』となっていた。しかし声は間違いなくユナだった。なぜすぐに確信を持てなかったのかというと、目元が変わっていたのだ。少し腫れぼったい目をしていたユナだったが、ドラマで見たユナはすっきりとした目元になっていた。

 その後、しばらくそのことも忘れていたが、このドラマが大ヒットして、ヒロインの友人役の佐伯まどかは一躍スターダムに躍り出た。

「遠野編集長、この佐伯まどかってぜったいユナだと思いません?」

 彼女が載っている雑誌を見せながら遠野に尋ねる。このところ、遠野はやたらとブログばかり見ていた。今も誰かのブログを見ながら、急に笑い出す。ちょっと気持ち悪い。

「こんなに垢抜けてたっけ? もっと顔なんかぽっちゃりしてたような気がしたけど」

 これだから男はすぐに騙される。女なんて化粧であっという間に変わるってことわかってない。萌は遠野に聞いても無駄だったと思い、そのままその雑誌を机にしまい、また忘れてしまった。その数日後だった。ユナから電話がかかってきた。

「萌さん、お久しぶりです」

「ユナ、元気? あの彩香役ユナでしょ? 大活躍だね」

「そのことでちょっと話したいことがあるんです」

 急に沈んだ声になった。

「明後日、青山で会ってくれませんか? 事務所の人間も同席しますけど。その際、萌さんの上司の方、編集長でしたっけ? 一緒に来てほしいんです」

 萌は何か事情があることを察知して、連絡先を聞き、編集長と相談してなるべく早く返事をすることを約束して電話を切った。

 すぐに遠野に報告する。いつもはこうした萌の報告は、目は原稿を追ったまま、あるいはパソコン画面を見たままで聞くのだが、途中から全てを放棄して、萌の話を全身で聞いていた。そして特に何も言わず、18時以降なら行けると萌に返事をして、そのまま部屋を出て行ってしまった。


 約束の日の夕方、遠野と萌は青山に向かっていた。出版社に勤めてから、日々の業務に追われる毎日で、季節感にも疎くなっていた。すっかり夏本番を迎えているというのに、冷房の入ったオフィスに籠もる日々は、一年を平易にしてしまう。こうして外に出ると夏を感じていないことがもったいなくなる。表参道のケヤキ並木は枝いっぱいに葉を蓄えて、日の傾きとともに、大きく長い影を作っていた。歩道を歩く若者たちは肌を出したお洒落な恰好をしている。会社から出てきた二人は見るからに暑そうなスーツ姿でかなり浮いていた。

 遠野は普段からそれほど喋る方ではなかったが、今日は一段と口数が少なかった。

萌は、遠野に対していつしか恋心を抱くのをやめていた。それは、遠野と村井さんの関係が萌が思っていた以上のものだということを知り、諦めるしかなかったからだ。いや、少なくとも表面上は一人の部下として彼を慕うだけ――それを自分に課していた。

 待ち合わせのカフェは非常に分かりにくいところにあった。今や人気女優の仲間入りを果たしたユナだから、あまり騒がれない場所を探したのだろう。店に入って、ユナをすぐに見つけたが、ユナの隣に座っていた事務所の男性に目が奪われてしまった。スキンヘッドに髭を蓄えていて、見るからにあっち系の強面だった。挨拶もそこそこに二人の向かいに遠野と並んで座った。その強面の男は樋口といって、ユナのマネージャーではなく、事務所の幹部であった。まず、樋口が口を開いた。

「さっそくですが、彼女をユナと呼ぶのは止めていただきたい。もう彼女はユナではなく、佐伯まどかなんです。今度CMも流れますよ。うちの事務所の所属タレントの中で彼女は今一押しなんです」

 向かいに座っているユナは、確かに萌が知っているユナではなかった。アヤカの事件で犯人の自宅に向かう車中、怯えて萌に寄り添っていたユナとは別人だった。堂々としているが、決して心の内を見せないような、女優然とした雰囲気を携えていた。

「それを言いたくて、今日私たちを呼んだわけではないでしょう? 簡潔に話をしていただけませんか」

 萌は驚いてしまった。遠野編集長は仕事に関しては厳しくて、外部の人間に対してもこういう物言いをすることがあったが、初対面の、しかもこんな強面相手に……。萌は内心びくついてしまった。

「あなたは気が短いようだね。失礼――」

そう言ってタバコを吸いだした。横を見たら、遠野編集長は断りも無くすでにタバコを吸っていた。

「こういうことです。以前、まどかを地下アイドルとして取材したようだが、そういった事実すべてを極秘にしていただきたい。まどかは今大切な時期で、アキバでアイドルをやっていたことが公になっては非常に困るんですよ。幸い、マスコミの取材を受けたのは、お宅だけだったので、こうしてお願いをしているわけです」

「確かに非常に困りますよね。CMに出演されるんでしょう? スポンサーは気にするでしょうね。商品イメージにも影響しますから」

 完全に遠野は煽っていた。萌は隣で生きた心地がしなかった。樋口が気分を害したのは明らかだった。

「あんた、何が言いたいんだ」

 遠野を見据えて発した声はドスが利いていた。

「私も一応はマスコミ業界の端くれにいますから、口約束がなんの効力もないことくらいわかっているつもりです。まさか、ただでお願いをしに来たわけじゃないですよね」

「貴様、強請る気か?」

 萌はあまりの驚きに心臓が飛び出そうになった。遠野編集長はいったい何を考えているのか――。

「強請るなんて人聞きの悪い。口止め料ですよ。あなたもこの業界長いんでしょう? 今更何を言ってるんですか」

 遠野は悪びれる様子もなく、吸い終わったタバコを灰皿に押し付けると、またすぐに次のタバコを出して火をつけた。相手の返事をひたすら待つ姿勢だった。

 樋口は観念したのか、「失礼」と言い残して席を立った。ケータイを取り出して店の外に出た。残された三人は沈黙の中にいた。ユナは遠野が、自分が記憶していた人物像とあまりに違っていたことに戸惑っている様子だった。それは萌も同じだった。いつもの萌だったらここで「どうしたんですか? 遠野さんらしくない。犯罪じゃないですか?」と引止めにかかるのに、遠野があまりにも冷静だったのでそれが出来なかった。萌は遠野から覚悟を決めた人間がもつ諦観のようなものを感じ取っていた。

 樋口が戻ってきた。なんと笑みを携えていた。

「遠野さん、確かにあなたの言うとおりです。私も気が利かなかったようで。社長と相談しましてね、これでいかがですか?」

 そう言って、手を出しチョキを作った。

「わからないな。二十万? 二百万? 二千万?」

 樋口の笑いは引きつっていた。

「会社と会社の取引ですよ。あなたにそれを求めてもよろしいんでしょうね。そうであれば、真ん中でしょう」

 遠野は自信満々に言った。

「もちろん、うちも会社の信用を賭けてお約束しますよ。しかし、それであればこのくらいは欲しいですね」

 そう言って三本の指を立てた。

 樋口は遠野を睨みつけていた。しかし、口から出てきた言葉は、意外にも友好的なものだった。

「一度持ち帰らせてください。私の一存では決められませんから。後ほどあなた宛に連絡を入れましょう」

 それでこの会合はお開きとなった。最初から最後まで遠野のペースだった。

店を出ると、萌は我慢し切れなくなり、遠野に詰め寄った。

「あれじゃ、強請りじゃないですか? どうしたんですか? 遠野編集長らしくない」

「君は俺の何を知ってるっていうんだ。大丈夫、敷田に罪が及ぶことはない。腹減ったな、夕飯食べて帰るか」

 そう言って、近くのレストランに萌を連れて行った。平日ということもあって、比較的空いていた。魚介のサラダとパスタを二人分注文した。

 萌は先程のやり取りがまだ心臓に悪く働いていて、食欲が湧かなかった。

「あんな口止め料とって、社長の命令なんですか?」

「いいや、俺が勝手にやったこと」

 萌は遠野がとても怖くなった。

「うちにいくら口止めを要求したって、ユナは実際アキバで活動していたわけだから、それこそCUTEリップのファンがマスコミにリークしたら終わりじゃないですか」

「一般人がリークしてもそんなに痛手にはならないんだよ。情報源としての質が低いから。うちのようなマスメディアにばらされるのが一番怖いんだ」

 萌はもっと核心を聞きたかった。

「こんなことして、どういうつもりなんですか? 下手したら警察に捕まるんじゃないですか?」

「それが一番手っ取り早いかもな……」

 萌はもう何も言えなかった。黙ってサラダを口に運んだ。まったく味がわからなかった。息苦しくなって、少しずつ自分の気持ちを吐露し始めた。

「遠野編集長のこと好きだったけど、今は部下として慕うだけにしようと心に決めました。でも、もう、慕うことも出来ません。信頼できない……」

「信頼できない……か。それはいい。これからは俺に反発することが敷田のためになる。俺を慕うな。俺に反目しろ」

「何を言ってるのかわからない」

 涙が溢れてきて、目の前に座っている遠野が霞んで見えた。萌の心のどこかにあった漠然としたものが、はっきりと形になってきた。

「もしかして、会社を辞めるんですか? それでこんな手荒い真似してるんですか?」

 萌は遠野の返事を聞くまでもなく、それが遠野の本意だと確信した。

「簡単には辞めないさ」そう言ってパスタを食べ始めた。「もっと楽しい話をしないか」

 萌はとてもそんな気分ではなかったが、遠野に軽口をたたいた。

「遠野編集長のせいで気分最悪なんです。私を楽しくさせてください」

「わかった。食べ終わったら表参道を散歩しよう」

 食事を終え、外に出る。昼間の暑さを忘れる程に夜は涼しかった。通りは会社帰りの人たちも混じり、賑やかだった。

 遠野と並んで歩いていると萌は小宮とよくこの道を歩いたことを思い出した。そう言えば、元夫と歩いた記憶もあったのに、何も残っていない。

「よくデートで来ませんでした? ここ」

「春香と来たよ」

 萌はそれが奥さんであることにすぐ気づいた。

「いいな、奥さんのことそうやって思い出すんだから。私はあまり思い出したくない」

 遠野が萌を見る。

「手をつなごうか」

 萌はまじまじと遠野を見返した。

「なんでそういう意地悪するんですか?」

「意地悪?」

「遠野編集長が村井さんを好きなのは知ってます。だから私は諦めたんです。それなのに、なんでそういうこと言うんですか」

 遠野は一瞬唖然としていたが、何も言わなかった。それがこれ以上ないくらいの肯定の意味であることが、萌には痛いほどわかった。

「村井さんじゃなかったら諦めなかったかも……」

 萌は小さい声で言う。すると同じくらい小さい声で遠野が呟いた。

「ごめん……」

 通りでは笑い声が響く。たった今、つらい記憶で上塗りされたこの通りを、次はどんな形で思い出すのだろうと萌は他人事のように思った。


 恋を諦めるには自分を偽るしかない。

 萌は会社にいる時間がだんだんつらくなっていた。今までは朝起きるのがつらい時でも、会社に行けば遠野編集長に会える、その思いだけで足が会社に向いた。しかし、今は遠野を思い続ける自分が憐れで、彼のことを考えると会社に行くのが嫌になった。彼の顔を見れば、拒否された自分と向き合ってしまう。

それを避ける唯一の方法を萌は知っていた。

「遠野編集長って、ちょっと怖くないですか?」

 トイレで見城さんと遭遇した時、萌のほうから彼女に話しかけた。見城さんは目が点になっていた。続けて萌が言う。

「なんて言うか……破滅型って言うのか、だんだん信じられなくなってきちゃって……」

 すぐさま、見城さんは乗ってきた。

「敷田さん、遠野さんに何かされたの? 遠野さんのこと悪く言う敷田さん始めて見た」

 見城さんがご機嫌なのが、萌にはすぐにわかった。

「別に何もされてないけど、編集長として何考えてるのかわからない」

 萌が発言すればするほど、見城さんは萌に対して心を開いた。

「ねえ、今日飲みに行かない? 久しぶりに。お互いの不満思いっきりぶちまけようよ」

萌は悪くないと思ったが、仕事が終わりそうもなかった。そのことを言うと見城さんはとても残念がった。萌はもう一度会社に戻ることを条件に一時間位なら……と見城さんと飲みに出かけた。ビールは一杯でやめておくことを萌は心に誓った。

「久しぶりだね」そう言って乾杯した。

 見城さんは萌の話を聴きたがった。萌は見城さんに村井さんのことを尋ねたかった。

「村井さんってどんな人なんですか?」

 萌がこの質問をすると、待ってましたとばかりに勝手な解釈を入れて話し始めた。

「遠野さんに村井さんのことが好きだからって振られたんでしょ? 大丈夫、敷田さんだけじゃないから。あの人ちょっとビョーキだよね。だって、村井さん結婚もして子供までいるんだよ。それで不倫してるのかと思えば、ただの独りよがりな恋なわけ。こんなのにどう対処すりゃいいってのよね~」

 萌は少し驚いた。

「付き合ってるわけじゃないんですか?」

「絶対それはない。村井さんがそんなことするわけないもの。遠野さんの一方的な片思い」

 萌の頭の中は混乱していた。付き合っていると思っていたから、萌はこうして諦めたのだ。確かに萌は村井さんの気持ちをまったく知らない。

「ねえ、敷田さん」急に声を落として言った。「遠野さんと寝たの?」

 萌はその質問にしなくてもいい動揺をしてしまった。

「まさか、そんな……」小刻みに首を振る。

 結局手をつなぐこともなかった。

「だったら、よかったかもね。あの人すぐ女と寝るから」

 見城さんは小バカにするような笑い方をした。完全に遠野編集長を嫌う態度だった。

「ああ、そうだ。村井さんね。彼女は尊敬する。結婚して子供を育てて、それで編集長まで登り詰めたんだから。それも遠野さんと違って正当なやり方で」

 萌はだんだん、気分が悪くなってきた。

「村井さんってできた人だから、落ち込んでいる人をほっとけないのよ。それでたぶん遠野さんはあの事件があった時に彼女に優しくされたんじゃない? それで益々病気に拍車がかかるっていう……どうしたの?」

「ごめん、気分が悪くなって。会社に戻るね」

 遠野編集長がどんな極悪人でも、女とすぐに寝るタイプだろうとも、萌は彼を嫌いになることはできなかった。


会社に戻ると、まだ、数人の社員が残って仕事をしていた。その中に遠野編集長もいた。

萌は遠野を見た。すると目が合ってしまった。急いで視線を外したが、次の瞬間、涙腺が緩むのを感じた。思っているだけなら誰にも迷惑をかけない。そのことを自分に言い聞かせた。

萌はとにかく目の前の仕事を片付けようと、必死になって取り掛かった。次第に遠野編集長の存在も忘れるくらいに集中していた。気づくと十一時半を過ぎていた。他の社員は帰っていた。

「まだ終わらないのか?」

 遠野編集長が声を掛けた。今日初めてだった。

「終わりません」

「見城とどこか行ってるからだ」

 萌はそのことを知っていることに驚いた。

「徳本がおしえてくれたよ」

 徳本さんは意外と周りを見ているんだ。萌は彼女のことを誤解していた。

「先に帰ってください。終電までには帰りますから」

「それは無理。女性の部下一人残して、上司が帰れるわけないだろ。明日に回せないのか?」

「このメールだけは今日の内に出さないと……」

「じゃ、それ書いたら終わりだ」

 そう言って遠野は自席に戻り、萌がメールを書き終わるのを待った。

「今日は村井さん来ないんですね」

 萌はメールを送信して区切りをつけると、意地悪くそんなことを口にしていた。

「今日は来る用がないからね」

 萌はそんなどうでもいい答えを聞きたくなかった。

「村井さんとは寝たんですか?」

 そう言った後の遠野の反応は、萌を心底怯えさせた。

「調子に乗るなよ。見城に何を吹き込まれたか知らないが、半年この会社にいたくらいで、わかったような口を効くな」

 それは決定的だった。萌は遠野の心の隙間にすら入れないことを知った。

「ごめんなさい」

 それだけ言うのが精一杯だった。萌は急いでバッグを持って、編集部を出て行こうとした。遠野が後ろから、萌の腕を掴んだ。

「待て!」一呼吸置いてから遠野はゆっくり言った。「ごめん、言い過ぎた」

 そして萌の腕をひっぱり、振り向かせようとした。萌は涙目になっていた。

それを見られまいと頑なに背を向けていたが、遠野が強引に肩を持って萌を振り向かせた。その瞬間、萌の目からは大粒の涙が零れ落ちた。

「どうしたらいいのか自分でもわからない」

 涙が次から次へと萌の頬を伝った。遠野は一旦肩から離した手を萌の背中に回して引き寄せた。萌は遠野に抱き締められた。そしてそのままキスをされた。萌は何が起きているのか、これが現実なのか、妄想の続きなのかわからなくなっていた。自分は何をされているのか――。

 遠野は萌の唇に長いキスを終えると、萌と正面から向き合った。再びキスをしようとする。萌はその瞬間、頭がクリアになった。

「なんでこんなことするんですか」

 驚きで一旦止まった涙が再び溢れ出てきた。「勝手すぎる……」

 萌は編集部を飛び出した。最後に見た遠野の顔は夢から覚めた直後のような呆然とした顔をしていた。

 あれから家までどうやって帰ったのか覚えていない。遠野にキスをされた。あれは夢ではない。実際に起こったことだ。しかしその事実はただ存在するだけで、まったく整理が出来なかった。以前の自分だったら、舞い上がることなのだろうが、残ったのは遠野に対する不信感だった。私は弄ばれたのだ。頭の中に見城さんの言葉が過ぎった。

「だったら、よかったかもね。あの人すぐ女と寝るから」

 三百万をユナの事務所に要求する遠野――。萌は遠野に対して抱いていた感情がまったく別のものに変わっていくことに怖くなった。


会社からほど近い、大通りに面したビルの裏側にあるレストランで、萌は徳本さんと向かい合ってランチを食べていた。大きい窓から緑が生い茂る中庭を見渡せる、都会のオアシスとも言える抜群の雰囲気の店だ。日に日に暑さが強まるこの時期、ここ何日かは日中、蜃気楼が見えるほどだった。普段は冷房が寒いくらいに効いている部屋で仕事をしているからなのか、こうしてランチを食べに外に出て、むっとする外気に触れると、子供の頃、この暑さの中で一日中遊んでいたことが不思議に思えてくる。オーダーをして待っている間、萌はただ外の景色を眺めていた。

向かいの徳本さんが口を開いた。

「ここ、私のお気に入りなの。ちょっと値段は張るけど、編集部のあのごちゃごちゃした中に長時間いると、こういうところでリセットしないと持たなくなるから」

 徳本さんのその言葉は意外だった。あの空間に彼女は違和感を感じていないと勝手に思っていた。

「今日は急に誘ったりしてごめんなさい。迷惑だった?」

「まさか。敷田さんが誘ってくれるとは思わなかったからちょっとビックリしたけど」

 この会社に入って三ヶ月経つが、こうして徳本さんとランチをするのも初めてなら、仕事以外のことを話すのも初めてかもしれない。私が見城さんたちと一緒にランチに行かなくなってから久しいが、だからと言って私と徳本さんが一緒に連れ立ってランチに行くということはなく、ずっと別々に取っていた。実のことを言うと、今日徳本さんを誘ったのは、遠野編集長の誘いを断るためだったのだ。

 昨日、萌は遠野にキスをされた。遠野はそのことを申し訳なく思ったのか、メールで謝ってきた。萌は返事もしなかった。すると今度はお昼を奢るから一緒にどうかと誘ってきた。萌は返事もせず、遠野にわざと聞こえるように徳本さんをお昼に誘ったのだった。徳本さんを都合良く利用したわけだが、今こうして徳本さんと向き合っていると、なんでもっと早くから徳本さんをランチに誘っていなかったのかと後悔した。

 徳本さんは運ばれてきたパスタランチを黙って食べている。萌はこの沈黙に何の意味があるのか、それとも何の意味もなく、徳本さんは食べる時にはいつも無言なのかもしれないと考え、萌もあえて無理に話題を探して喋ろうとはしなかった。

十分くらい無言で食べることに専念していると、徳本さんが急に萌に話しかけた。

「私、敷田さんのこと誤解してたかもしれない。編集長のお気に入りで採用されて、所詮オタクの世界とは無縁の人だと思ってたから、仕事に関しても嫌で仕方がないのを我慢してやっていると思ってた」

 萌は徳本さんの告白に幾分ショックを受けた。やっぱり徳本さんにもそう思われていたんだ――。

「確かに嫌で仕方がなかった時期はあったけど、今は与えられた仕事の中で、自分なりに面白味を見つけてやっているつもりです。徳本さんのように特集ページをまるまる任されて、さらに反響が多いページを作ることは、私にはまだとても出来ないけど……」

「敷田さん、気に触ったらごめんなさい。オタクの気持ちがわからない人にこの仕事は出来ないって、実は今でも思ってるの。編集長は違った目線を持った人間を入れることで、いい方向に行くって言ってるけど、あれはあなたを入れるための口実だと思ってる。オタクを理解できない人が誌面を作るのは、たとえば編集長のような全体を統括する人間ならいいけど、実際に取材して記事を書いてっていう実の部分を作るのはオタク気質がない人は無理だと思う。補助的な仕事をやっていくのなら別だけど」

 萌は徳本さんにはっきり言われて呆然となった。見城さんや高橋さんには何を言われてもそれほど動じなかった萌だが、徳本さんの言葉は胸に伸し掛かるものがあった。

「そんなふうに見ていたんですね」

萌は悲しくなった。一人前の仕事をしていたとは自分でも思っていなかったけれど、最初から期待されていなかったなんて……。

「徳本さんは遠野編集長も信頼してないんですか?」

 徳本さんは萌を珍しいものでも見るような目で見た。

「私、今までの人生で信頼できる上司とか先生とかに出会ったことがないから、信頼とか言われると驚いちゃう。遠野編集長は仕事はできると思うけど、なんとなく第五編集部の人間をどこかで見下してるような気がするのよね。それはオタクと呼ばれる人たちを見る目線にも表れている気がする」

 最初に謝られたが、萌は本当に気に触ってきた。私のことをよく思っていないのはいいとして、遠野編集長に対してもそんな見方をしていたなんて……。萌はなぜか、昨日今日のことは忘れて遠野を庇う気持ちになっていた。

「遠野編集長は自分もオタクだって言ってました。この部署を大きくするために彼なりに一生懸命やってます。見下すなんて、そんな勝手なこと言わないでください」

「敷田さんのような、美人で明るくて、男の人にちやほやされることが当たり前になっている人には多分わからない。それは遠野編集長も同じ。女性が見向きもしない、誰からも相手にされないような人間のことなんて想像もつかないと思う。陽のあたる場所にいることが当然になっている人間は、日陰にも人がいるってことを忘れている」

 萌は自分が担当しているコラムへの批判を思い出した。

『社会に抑圧され不満を持っている人間がオタクになると断定しているようなものではないか』

 その批判を受けての第二回目のコラムは『オタクパワーで何ができるか』に決定したのだが、初回の批判をこれで解消させる意味合いが強かった。オタクが本気になると凄いパワーを生み出すという、いくつかの事例を紹介して、オタクの素晴らしさを説いた内容になった。つまりオタクの中でスポットライトを浴びている人たちの紹介だ。

 本質を避けている。いや、本質が解っていないから目に見えていることだけを取り上げているのかもしれない。萌は徳本さんが言いたいことをもっとはっきりと知りたかった。

「徳本さんが日陰にいるとは思えないです。私なんかよりよっぽど輝いている」

「輝いているかどうかはわからないけど、唯一自分が日陰から出られる場所として自分で選んだのがこのオタク編集部だから当然と言えば当然。でもここ限定の話。仕事以外では私は見向きもされない。遠野編集長は私を一度だって女として見ないし、私にそういう感情があること自体気づいてないと思う。私は現実の世界で恋愛をしたことがないから、物語の中で擬似恋愛をする。オタクの源ってそういうところから始まるの。現実の世界で刺激的な経験ができる敷田さんが私はとても羨ましい」

 萌は咄嗟に昨日の遠野編集長からキスされたことが脳裏に蘇った。あれは現実に起きたことだ。このことを徳本さんが知ったらどう思うだろう。そして徳本さんという人物像を勝手に作り上げていたことに気づいた。恋愛なんて興味がないのだと思っていた。徳本さんだって普通の女性だ。萌は見えているものが全てだと思い込んでいた。

「こんな人間がいるなんて敷田さんのような人は想像もつかないでしょう? 長井くんだって岩崎くんだって、恋愛がしたいと思ってる。だけど現実世界じゃ、気持ち悪いとか言われて、まったく相手にされない。だから彼らは漫画とかアニメのような虚構の世界で欲求を満たすの。こういうのを軽蔑する人間は自分が恵まれているってことに気づいてない」

 徳本さんはさらに喋る。もう止まらない勢いだ。

「遠野編集長は現実世界でモテるから、オタク文化なんて色物として見てるだけ。だからこの部署がどうなろうと、あまり自分には関係ないとどこかで思ってる気がする。敷田さんだって、出来たらこの部署がなくなって、他の部署と統合されることを望んでるでしょ?」

 萌は否定できなかった。そのとおりだったからだ。

「私、人事に提出する業務報告書に、あなたがこの部署に似つかわしくないって書いたことがあるの。今思えばちょっと嫉妬が入ってたかも。だんだん仕事にも馴染んでいくあなたを見てると私にとっての聖域までも奪われそうで……」

 萌は驚いた。そんなことを徳本さんがしていたとは露知らず。しかし萌は不思議と怒りは湧かなかった。その代わり、徳本さんに面と向かって言っていた。

「徳本さん、友達になってもらえますか? こんなに率直に話してくれる人、そういないから」

 徳本さんはきょとんとした。萌は最後の一口を頬張り、長くなってしまったランチ時間を気にするように時計を見た。


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